2020.04.21
コロナウイルス禍が照らし出す国民国家の弱さ
はじめに
コロナウイルスが世界を席巻するなかで、この災禍が国家や社会のあり方にどのような影響を与えているのかについて、色々な意見が出されている。多くの論者は、このコロナ禍によってグローバリズムの理念が大きく後退し、かわりに国民国家が再浮上したと指摘している(たとえば、Gideon Rachman, “Nationalism is a side effect of coronavirus”, Financial Times電子版、3月23日付け;ギデオン・ラックマン「大流行の危ない副作用」、『日本経済新聞』3月30日付け)。たしかにヨーロッパでは、コロナ対策におけるEUの役割はよく見えず、個々の国家が前面に出ている。それ以外の地域でも、国家が対策の中心にいることは間違いない。
だが、私は、国民国家の再浮上と留保なしにいうことにはためらいがある。まず、より適切な用語はないのだろうか。イスラエルの一論者は、コロナ禍というグローバルな危機のもとで、それぞれの「国民の主権」(national sovereignty)概念がかえって強まったと書いている(Yuli Tamir, “How the coronavirus pandemic resurrected the nation-state”, Haaretz電子版、3月27日付け)。だとすれば、国民国家の再浮上は、主権国家の再浮上としても論じることができよう。
たしかに、国民国家も主権国家も現代国家の一側面に過ぎないから、どちらに着目するかは論者の関心による。だが、国民国家の側に関心を寄せるとしても、なお私のためらいは消えない。というのは、そもそも今日の世界にあって、国民国家はその再浮上について語りうるほどに堅固な存在であるのかどうか、疑問だからである。むしろコロナ禍のなかで、各地の国民国家はその脆弱さを露わにしたのではないだろうか。
以下、本稿では、コロナウイルス禍が照らし出した、今日の国民国家の弱さについて考えてみたい。まずは、国民国家とはいかなる国家であり、どのようにして形成されてきたのかについて、振り返ってみよう。
国民国家とはいかなる国家か
国民国家が現実に成立するのは、18世紀末のフランス革命によってである。それ以前の身分制秩序においては、住民は同じ国に住んでいても、様々な身分に分かれていた。どの身分に所属するかは出生によって決まり(異なる身分に移動する道も開かれていたが)、それぞれの身分は独自の義務や権利をもっていた。これに対して国民国家では、住民はみな同じ義務と権利をもつ、対等な市民となった。こうした市民の総体が、国民(ネイション)を構成するのである。
国民国家では能力があれば、あるいは努力を重ねれば、どのような出自のものにも社会的上昇を果たす可能性が開けていた。そのため国民国家は、住民一人ひとりの能力を引き出すのに適していた。また、各人の国家への帰属意識も強まったから、団結力も増した。このような利点があったために、国民国家は19世紀中に西欧において、またその外でも、次第に広まっていった。身分制は必ずしも廃止されたわけではなかったが、住民各人の義務と権利が、次第に均一なものに近づいていったのである。
はじめのうち、「市民」となれるものは一定の資産をもつ男性に限られていたが、徐々に資産制限は緩和された。他方、女性や少数民族、それに植民地の現地人が、法的に対等な市民として認められるためには、第一次世界大戦(1914-1918)後、あるいは第二次世界大戦(1939-1945)後を待たねばならなかった。
国民国家は19世紀中に西欧でまず広まり、ついで日本など他地域にも波及した。西欧諸国が先導的な役割を果たしたのは、資力や教養などに裏打ちされた社会的発言力をもち、それゆえ身分制にも批判的であった階層が、他地域に比べて厚く存在していたからである。都市の有産層にくわえて、企業心や公徳心に富んだ地主や富農もここに含まれる。西欧諸国において彼らは、フランス革命に先行する時期からクラブや協会のような結社に集い、地域社会で目立った役割を果たしていた。行政側の官吏と対立するとは限らず、血縁や姻戚、社交を通じて結びついていることが珍しくなかった。
それでもこの有産層・教養層は、行政機構に対して自立的であり、批評的・批判的に接した。彼らは18世紀から19世紀の西欧諸国において、行政機構に対して自立的な「公共圏」また「市民社会」と呼ばれる領域を成立させた。こうした領域が、「国民国家」の核となった。他方で行政機構もまた、とくに19世紀後半以降、初等教育の確立、公的サービスの提供、徴兵制の整備、諸儀礼の挙行などを通じて、国民国家の形を整えていった。西欧諸国、またアメリカ合衆国では、自立的な「市民社会」と行政機構とが両輪となって、国民国家を成り立たせていった。
ソ連と日本
20世紀初頭までに西欧諸国が国民国家化し、動員力を高め、世界秩序の中心としての地位をいっそう固めていったのに対して、それ以外の地域は劣勢に立たされた。植民地になりたくなければ、西欧の国民国家モデルを多かれ少なかれ取り入れることが必須となった。日本、また、私の研究対象であるロシア帝国・ソ連は、劣勢の側にいた。一般的にいって、この劣勢側の国々は、自立的な「市民社会」を西欧諸国のような規模や密度ではもっておらず、それゆえ国民国家づくりにおいては行政機構が主導的な役割を果たすこととなった。これらの国々では、緩慢に歩を進めていれば西欧諸国ないしアメリカ合衆国の犠牲となりかねなかったから、行政的手法により重点をおいて、急ピッチで国民国家の形成を進めなければならなかった。
ロシア帝国では、皇帝の権力が強大で、身分制が堅固に残り、生活水準や文化が大きく異なる多数の民族が暮らしていたので、国民国家づくりは試行錯誤の段階までしか進まなかった。有産層・教養層からなる「公共圏」に類するものは脆弱で、自立的であるよりは、行政機構によって活動の場をつくられていた(たとえば学術団体や地方自治体など)。1917年の革命をへて成立した共産党政権は、脆弱なロシアの「公共圏」を滅ぼし、かわりに労働者や農民から新しい「ソヴィエト市民」をつくることになった。このとき共産党政権は、それと自覚せぬままに国民国家づくりの課題を帝政政府から引き継いでいたのである。もとより政権から自立的な市民、また「市民社会」の存在は、想定も許容もされておらず、ソ連版国民国家の形成は上から、行政的手法によって主導された。
共産党政権はまた、主要な諸民族のために共和国や自治共和国を創出し、それぞれの言葉や文化の振興を行なった。しかし、全ての住民はソヴィエト市民として対等であった。
日本では、18世紀ヨーロッパの「公共圏」に直接に相当するものを徳川時代に見出すことは難しいだろう。しかし、各藩の藩校では多様な人材が育成され、藩を超えた全国的な知的ネットワークを築いていた。彼らは「公共圏」「市民社会」の原基となりうる集団であった。徳川時代の日本が諸藩からなる一種の連邦制をとっていたことで、各地にそうした原基が遍在することとなった(三谷博『維新史再考――公議・王政から集権・脱身分化へ』NHK出版、2017年)。
欧米列強の脅威に晒された明治維新前後の日本では、国民国家づくりはロシア帝国・ソ連以上に強く、かつ明確に、焦眉の課題であると認識された。それゆえ、明治政府は行政機構主導で、上からの国民国家づくりを強力に推進した。他方、旧士族や都市知識人などからなる自由民権運動は、「公共圏」「市民社会」の出発点となったといってよかろう。ただし、旧士族のうちにはこの運動を官界復帰の梃子とするものがいたこともたしかである(松沢裕作『自由民権運動――<デモクラシー>の夢と挫折』岩波新書、2016年)。
総じて、明治期日本の政府・行政機構と「市民社会」とは、欧米列強のプレッシャーのもと、近代化また富国強兵が焦眉の課題であるという認識を共有していた。このことは、必ずしも「市民社会」の批判性を低減させたとはいえないだろうが、行政機構の主導性を促すように作用したと思われる。
その後も、日本の国民国家づくりにおいては、行政機構の役割は減らなかった。昭和前期にかけては、社会工学的な発想を身に着けた官僚たちが、内務省をはじめとする諸官庁において、牧民官のごとく振舞った。第二次世界大戦後も、自由民主党政権と行政機構とはタンデムとなって経済成長を推し進め、経済的繁栄とナショナル・アイデンティティとを結びつけることに成功した。これに対して、第二次世界大戦後の「市民社会」――民主化された体制のもとでは、行政機構に身をおく人も含め、全住民がその構成員となったということもできる――の側は、戦前に比してはるかに自立性を増し、政府や行政機構に対してもよりいっそう批判的であった。
ただし、「市民社会」のオピニオンリーダーであった大学教員やマスメディア関係者の間では、階級を基準に考えるマルクス主義の影響が強かった。その結果、国民の境界線をどこに引くかなど、国民国家の実質をどう満たしていくかをめぐる議論は低調となったように見える。同様に、彼らの間で反戦・平和主義が盛んであったことは、国民国家をどう防衛するかというテーマでの議論を難しくした。
国民国家づくりにおいて行政機構が主導的な役割を果たすという、ソ連や日本において見られた傾向は、西欧諸国やアメリカ合衆国を除けば、世界各地で広く見られた現象であったといえる。むしろ、自立的な「市民社会」と行政機構とが二本柱となった西欧諸国やアメリカは、先進地域であるがゆえの例外であった。
グローバリズムと新自由主義の影響
1980年代以降、国民国家のあり方は大きく変容し始めた。グローバリズム、および、それと密接に結びついた新自由主義が、国民国家の相貌を変えていったのである。変化がより顕著に現れたのは、西欧諸国およびアメリカ合衆国であった。それまでもこれらの国々には多くの移民や外国人労働者が到来していたが、その規模はさらに拡大した。のみならず、移住先の多数派の規範を受け入れることを、必ずしも前提としない集団も増加した。たとえば政教分離を規範とする国において、信仰と社会生活が密接に結びついた人々が、自分たちの価値体系を変えないままに行動するといった事例が広く見られるようになった。
これに対して西欧諸国やアメリカ合衆国の「市民社会」を主導する知的・社会的なエリートは、マルチカルチュラリズム(多文化主義)をもって対応し(1970年代から、植民地支配への反省もあり、市民の構成における多様性を尊重しようとする動向が生まれていた)、国民国家の規範が多元化することに融和的な姿勢を示した。このことは、それぞれの国民国家の内部で、共生社会への道を開く可能性をもつとともに、文化間の衝突を抱え込む可能性ももたらした。
他方、1980年代を境にして、西欧諸国やアメリカ合衆国では、それまでの1世代にわたって有力であった社会民主主義ないし福祉国家的傾向から、新自由主義への転換が起こった。行政機構の簡素化が目指されたが、それは必ずしも国民国家における「市民社会」の役割の増大をもたらすとは限らなかった(別次元の問題として、EUは行政機構の肥大化が常に問題となっている)。むしろ、公立の学校・図書館・劇場・博物館・美術館など、「市民社会」にとってのインフラが切り崩された。
さらに、新自由主義のもとで規制緩和が進むと、少なからぬ労働者の雇用条件が悪化し、社会格差が拡大した。新自由主義はこうした状況を現出させただけではなく、それを肯定するイデオロギーでもあったため、国民国家の内部で格差の断裂線が深まっていった。
ソ連の崩壊自体は、軍拡競争のプレッシャーを発端としていたから、グローバリズムや新自由主義によって直接に引き起こされたわけではない。もとより、ソ連の崩壊は、これらの趨勢やイデオロギーに勢いを与えた。また、ロシアをはじめとする旧ソ連継承諸国でも、長期的・短期的に流入する外国人の数は著しく増えた。かつ、これらの国々では外国への移住者や出稼ぎに出るものが増加した。
しかし、旧ソ連諸国、とくにロシアは、政府も社会も全体としてより保守的であり、移民の受け入れとそれによる国民国家の構成の変化を積極的に是認するイデオロギー、すなわち多文化主義を掲げることはなかった。それゆえ、西欧諸国やアメリカ合衆国と比べたとき、ロシアでは国民国家の理想像は均質性を保ち続けた(もとより民族的には多民族国家であるのだが、諸民族がロシア市民としての規範を共有するという意味での均質性である)。
他方で、ロシアをはじめとする旧ソ連諸国では、ソ連崩壊前後からの新自由主義の影響は、西欧諸国やアメリカ合衆国以上に激しかった。行政機構は混乱のなかで機能を低下させ、公的セクターの民営化がなしくずしに進み、「市民社会」の土壌となるべきインフラは著しく切り詰められた。国民内部での経済格差も深刻なものとなった。その後、21世紀を迎える頃から揺り戻しが強まり、行政機構の役割がふたたび拡大した。脆弱な「市民社会」は、行政機構の庇護ないし監督下におかれるにいたった。
日本では、外国人労働者の増加を前にして、多文化主義が掲げられなかった点は、ロシアと似ていた。他方、新自由主義が「市民社会」のインフラを切り崩し、社会格差を深刻化させた点は、日本が西欧・アメリカ、旧ソ連と共有する現象である。日本でも西欧諸国・アメリカでも、「市民社会」のインフラが切り崩され、国民の多くが経済的に疲弊したことの裏面として、行政機構は結局のところ、社会生活の要所においてかえって存在感を発揮している場合もある。
日本ではこのことはとくに、新自由主義に適合した緊縮財政路線をとる財務省に当てはまる。もとより、「市民社会」のインフラの縮小を、官僚や政治家の責任にのみ帰すことはできない。規制緩和や民営化を支持することで、私たちみなが、そうした趨勢を後押ししていたのであった。
コロナウイルス禍と国民国家の現在
2020年のコロナウイルス禍は、各国の国民国家がこのような状況にあるなかで起こった。地域のいかんを問わず、それは新自由主義のもとで疲弊し、断裂線の走った国民国家なのである。
西欧諸国(あるいはヨーロッパ諸国)とアメリカ合衆国では、「市民社会」は医療関係者の努力に端的に見られるように、総力でコロナ禍に対峙している。しかし、新自由主義によって「市民社会」がやせ細ったものとなっていたことは、イタリアの医療事情の逼迫に集約的に現れている。くわえて、多文化主義の称揚というこれまでの「市民社会」のあり方が、コロナ禍のなかでどうなるかもはっきりしない。外出制限のもと、移民や出稼ぎ労働者は言語や習慣の障壁もあって、孤立した困難な生活を強いられていることが多い。たしかに、外国語話者を支援する動きも見られる。だが、移民集団が、国民国家の多数派住民による生活習慣上の規範(衛生面を含む)に従わない場合、どう遇されることになるのか、展望は不透明である。
旧ソ連諸国、とくにロシアでは、行政機構がコロナ禍に全面的に対応している。もとより脆弱な「市民社会」の側も、医療関係者をはじめとして献身的な対応を行なっている。しかし、新自由主義下で増加した移民は、ここでも問題を提起している。これはとくにウクライナについていえることで、焦点となっているのは国内にいる移民以上に、国外にいる出稼ぎ労働者である。出稼ぎ先で失業した彼らは故国を目指して戻ってくるが、感染リスクも含めて、彼らを同胞として受け入れる余地は広くはないのである。
日本でも、「市民社会」を構成する人々――それは全住民であり、必ずしも国籍にこだわる必要はない――は、コロナ禍に献身的に対峙している。とりわけ医療関係者の努力には頭が下がる。総じて、自制的に行動することで私たち一人ひとりが、「市民社会」によるコロナ禍への対応を支えているのである。
しかし、新自由主義が日本の国民国家、また「市民社会」に与えた打撃もまた、コロナ禍への対応のなかで照らし出されている。何よりもまず、医療インフラがこれまで切り詰められてきたことが浮き彫りにされた。社会格差もまた、あぶり出されている。たとえばテレワークが可能な職種と、現場でものをつくったり、直したり、配送したりしなければならない職種とでは、晒されているリスクが大きく異なる。学校閉鎖のもとで、子どもを誰かに預けることができる人と、誰かの子どもを預からねばならない人との差もまた、看過してはいけない。
これらの諸国における事例は、多かれ少なかれ他の地域にも当てはまるといってよいであろう。今日の世界において、コロナウイルス禍に対峙している国民国家は、様々な点で亀裂や不均衡を抱え込んでいる。それは、国民国家の形成過程に由来する場合もあれば(旧ソ連諸国における「市民社会」の弱さと行政機構の強さ)、グローバリズムに由来する場合もあれば(西ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国における文化衝突)、新自由主義に由来する場合もある(日本を含む各地域における社会格差や社会的インフラのやせ細り)。コロナウイルス禍に晒されることで、これらの不均衡や断裂は程度を増し、諸国民国家はそれだけ脆弱さを増しているのである。
このような状況のもと、各国のコロナウイルスへの対応においては、地域を問わず行政機構の役割がより前面に出るということになるだろう。そもそも、出入国の管理、人員や物資の動員と配置、住民の移動の制限は、国家主権の発動として、行政機構が強力な権限をもって行なうことであろう。本稿冒頭で、国民国家よりも主権国家の方が適切な言葉ではないのかと疑問を呈したゆえんである。これに対して、「市民社会」の側はいっそう疲弊し、行政機構への依存を強めていくのだろうか。
そうではなく、国民国家の再浮上は、国境を越えた協力や、ローカルな場でのインフラの建て直しと連動させて、全体としての「公共圏」の再活性化として追求されるべきなのだと指摘する声もある。とりわけ都市・地域のようなローカルなレベルでの、つまり、コロナ禍への対応の現場の活性化こそが大事だと主張されている(Jan Zielonka, “Has the Coronavirus brought back the nation-state?”, Social Europe電子版, 3月26日付け)。
この点に関連して想起されるのは、コロナに感染したイギリスのボリス・ジョンソン首相が、自己隔離中に発したビデオ・メッセージのなかで、「コロナウイルス危機がすでに論証したひとつのことは、私の考えでは、社会なるものはたしかに存在するということです」と述べたことである。医療関係者の献身を念頭においたこの発言は、保守党の先人であり新自由主義の先導者であった、マーガレット・サッチャー首相が1987年に述べた言葉「社会などというものは存在しません」を受けたものである(”There is such a thing as society, says Boris Johnson from bunker”, The Guardian電子版、3月29日付け)。ジョンソンのこうした認識を共有して、私たち一人ひとりがコロナ禍に対峙するなかで、「市民社会」の再構築に臨むことが大事なのであろう。
しかし、国民国家の形成であれ、新自由主義のもとでのその変容であれ、いずれも十年単位、あるいは百年単位の、長期にわたる出来事であった。そうであれば、私たちが取り組むであろう「市民社会」の再構築も、また、それを通じた国民国家のあらたな変容も、数十年単位の長いスパンで考えるべきことなのかもしれない。
プロフィール
池田嘉郎
東京大学大学院人文社会系研究科西洋史学准教授。専門はロシア近現代史。新潟国際情報大学、