2020.05.22

地方分権時代における国民保護

川島佑介 行政学

政治 #安全保障をみるプリズム

国民保護法とは

テロや戦争に直面してしまった際に、少しでも被害を抑えることを目的とした法律が存在する。2004年に成立した国民保護法である。2017年に北朝鮮からのミサイル発射が相次いだ際に流行語となったJ-アラートも、この法律を運用面から支えている。

国民保護法は、住民を安全な場所へ導く避難、負傷者や避難者のケアにあたる救援、事態の鎮静化を目指す対処という大きな三本柱から成っている。全体的には、下図のような構造となっている(内閣官房 国民保護ポータルサイトより)。国の指示を受けて都道府県が動き、さらに都道府県のもとで市区町村が実働を担う形となっており、その関係性は、「国→都道府県→市区町村」という上下関係の矢印で表現されている。集権的な法制度が整えられていると言えよう。

守るべき対象の住民と向き合うのは市区町村の行政組織である。テロや戦争というと、国家間の関係や国レベルの対応がイメージされてしまうが、実際に住民の生命や財産を守る働きを期待されているのは市区町村である。この期待は、国民保護法が成立する5年前(1999年)に成立した地方分権一括法によって一層高められている。日本の国民保護は、実は、地方分権化の動きのなかでの運用が想定されているのである。

国民保護は、有事に向けて国が主導するものという印象があり、また法制度としても国が指示を行うという形で集権的になっている。しかし運用実態としては市区町村レベルで主体的に取り組まなければならないという形で分権的になっている。法制度と運用実態にねじれが存在する。これが看過できない問題点をもたらしているのが、小論の主題である。

小論での検討を通じて、安全保障の論議で後ろに追いやられてきた感のある、有事に際して日本国内で被害の出る現場でどのような対処が行われるのか、という面からも光をあてることを企図している。

出典:http://www.kokuminhogo.go.jp/gaiyou/shikumi/index.html

国の仕事としての国民保護

そもそも、自然災害や大事故は行政の努力によって防ぐことはできないため、災害対策基本法は、そこに立地している市区町村に対応する責任を負わせている。他方で、テロや戦争は、国家レベルの外交の失敗や、政治・経済状況の悪化によって引き起こされ、特定の地域が被害を受けたとしても、その責任を当該市区町村に負わせることは適切とは言えない。そこで、国民保護法は、国に責任を負わせている。

したがって、自然災害対策が自治事務になっているのに対して、国民保護は法定受託事務となっている。自治事務とは、地方自治体が任意で行う事務のほか、地方自治体自らがやることと法令によって定められているものである。例として、都市計画の策定や、国民健康保険の給付、公共施設の管理が含まれる。法定受託事務とは、本来は国が果たすべきであるが、地方自治体に委ねられており、かつ国においてその適正な処理を確保されている事務である。国政選挙の実施や生活保護の実施が具体例として挙げられる。

自然災害が発生した際、災害対策本部は市区町村の判断で設置される。それに対して、あくまでも国に責任のある国民保護においては、国民保護対策本部の設置は国の指示による。具体的な措置である、避難・救援・対処も国から指示が下りてくる形である。ちなみに対策にかかる費用も国が負担する。こうした点に表れているように、国民保護法では、国民保護は国の仕事として位置付けられており、国の指示に基づいて、都道府県を通じて市区町村が動く形になっている。

市区町村の仕事としての国民保護

とはいえ、特にテロの場合では、現場に位置する市区町村がいち早く情報を入手しているだろう。また戦争でも、現場に近く、現場をよく知る市区町村ができることは決して小さくないはずである。

そのため、実際の運用にあたっては、市区町村にも裁量を持たせている。すなわち、市民への啓発、行政組織の編制のあり方、市区町村国民保護計画や避難パターンの策定、国民保護訓練、有事の際の緊急措置という多くの具体的分野にわたって、各市区町村はそれぞれの地域の実情に即して、創意工夫をこらしていくことが求められている。概して言うならば、「国民保護を発動するか否か」と「何を目的とするか」は国が決めるが、「どうやってやるか」と「どの程度やるか」については市区町村に一定の裁量が与えられている。

分権的であれば、市区町村間の多様性が高くなってくるはずである。分権性による多様化は、自然災害対策をイメージしてもらうとわかりやすい。沿岸部であれば津波や高潮に備えて浸水対策を考えるだろうし、火山周辺であれば噴火対策を推し進める。危険物を取り扱う工場があれば、大事故対応も考えるだろう。このように市区町村は自らの立地や施設の状況を踏まえて、それぞれに適した対策を講じていく。国民保護においても、実際、その具体的な業務の市区町村間の多様性は高い。

第一に、市区町村国民保護計画の多様性である。地方自治体によって、公開のされ方やページ数などは大きく異なる。中には、相当オリジナリティのある国民保護計画を策定しているところもある。

第二に、有事の際の避難計画である、避難実施要領のパターンの作成状況である。2019年3月1日時点では、1741ある市区町村のうち、2パターン以上作成済みは782団体(45%)、1パターン作成済みは199団体(11%)、作成中は82団体(5%)、未作成は678団体(39%)となっている。814の市区のうち539団体(66%)が作成済み、744の町のうち371団体(50%)が作成済み、183の村のうち71団体(39%)が作成済みとなっており、大きい市区町村の方が策定が進んでいる傾向にあるが、都道府県別に見ると、地方や都市化度で特定の傾向はみられない。

第三に、国民保護訓練の実施回数である。2018年度末時点で、福井県と徳島県は12回、富山県と愛媛県は9回と多くの訓練を実施している一方で、宮城県、群馬県、石川県、和歌山県、島根県、広島県、高知県は2回にとどまっている。

第四に、初動体制の名称である。爆発などにより大きな被害が発生してしまった場合、それが事故なのかテロ・戦争なのか、当初は判然としない。法的に言い換えれば、事故であれば災害対策基本法の枠組みで動くべきであり、テロなどであれば国民保護法の枠組みで動くべきだが、当初は分からない。そこで、とりあえず初動体制が立ち上げられることになる。国が作成した国民保護のモデル計画では、「緊急事態連絡室(仮称)」という名称を与えられているが、実際には都市化度の高い都道府県ほど、また国民保護の訓練に熱心な都道府県ほど、そこにおける市区町村の初動体制の名称は多様性を高めていく傾向にある。すなわち、危機管理対策本部や市警戒本部などという名称が用いられることになる。

第五に、有事の際の情報収集・情報管理に使われるシステムの利用状況である。かつては、電話とFAX、ホワイトボードで情報を収集していたが、専用システムを導入している市区町村も登場している。その利活用状況や、採用しているシステムにも高い多様性が確認できる。

法制度は集権的であるにもかかわらず、運用局面においては、市区町村に一定の裁量が与えられており、したがって市区町村間の多様性も大きくなっているのが、現在の国民保護の状況である。

制度と実態のねじれがもたらす国民保護の空洞化

法制度上の集権性と実態上の分権性が混在しているのだから、国と市区町村が行政資源と知恵と努力を持ち寄って十全な国民保護を提供できるはずと期待したくなる。しかし、そのような肯定的な評価を下すことは難しい。

そもそも国民保護は、多くの人にとって馴染みのある政策ではない。致命的なことに、人気もない。平時においては、いつ発生するのかも分からないテロや戦争に行政資源を割くことに抵抗感もある。有事においては、不手際が叩かれることはあっても、対応が賞賛されることは、あまり期待できない。政治的にセンシティブな政策でもある。したがって、国も市区町村も本音ではあまり責任を持ちたくない政策領域であると考えられる。

実際、国は、各種ガイドラインを策定し、都道府県や市区町村に国民保護の充実化を働きかけると同時に、それらの取組み状況を継続的にモニタリングしているが、現状には満足していないという思いが見て取れる。市区町村の側でも、自らにどこまで責任があるのか、あるいはどこまで創意工夫が許されるのかについて、理解が進み、合意が形成されているとはいいがたい。

広がる困惑のなかで、影を落としているのは行政資源の縮小である。行政職員の人員が厳しく制限されている現状において、小さい市町村では、国民保護と防災が「危機管理系部局」としてまとめられ、2~3人の職員しか割り当てられていない。彼らの勤務時間の多くは、自然災害対策に割かれてしまい、国民保護については手が回らないという状況である。

国民保護は、各市区町村においてそれぞれの状況に適した具体的取組みがなされることを想定しているものの、想定通りの内実を伴わず、空洞化してしまっていると判断せざるをえない。

分権性がもたらす問題点①:連携可能性の低下

とはいえ、法制度においても分権性を徹底すれば良いのかというと、そうとも言い切れない。確かに、各地方自治体がそれぞれの状況に即して運用するというアイディアは理にかなっているように見える。しかし、逆に分権的な国民保護がもたらす問題も考えられる。現状でもすでにいくつかの問題が指摘されうる。そこで、分権的な実態がもたらしている問題点を整理し、今後の検討材料を提示したい。

問題点の一つ目は、分権化が進むと地方自治体間の連携可能性が低下することである。すでに見た通り、各市区町村が策定している国民保護計画の間には高い多様性が認められる。しかし、テロや戦争が発生してしまった場合、それぞれの市区町村のみで対応が完結することはありえない。地方自治体間の連携が必須となってくる。しかし、国民保護計画が多様であると、連携可能性が低下してしまう。言葉一つをとっても、その定義に揺らぎが生じていると理解が阻害されるし、住民と市民など違う言葉が用いられていると、例えばコンピュータ検索もできなくなってしまう。

情報収集・情報管理システムの多様性も、あまり歓迎できることではない。地方自治体間のシステムの壁が、大量のデータの処理というシステムの強みを潰してしまうからである。予算規模が大きい市区や、静岡県や兵庫県などのいわゆる「災害対策先進県」では、独自システムの導入が進んでおり、テロや戦争が起こってしまった場合でも、活用されることが想定されている。しかし、独自システムを活用すると、自治体の境界を越えた連携が難しくなることから、その効果には限界もある。

総合的に言って、先進性と連携可能性の間にはトレードオフの関係が指摘される。各地方自治体で先進的な取組みを行うと、それが「独自規格」となってしまい、他の地方自治体との連携可能性が低下してしまうのである。

分権性がもたらす問題点②:小規模市町村の「置き去り」

これも先述したように、小さい市町村が直面している行政資源の厳しさは非常に深刻である。東日本大震災以降、防災基本計画の度重なる改訂に合わせて各防災計画を改定する作業に追われ、国民保護計画の改訂もままならないという声をよく聞く。避難実施要領のパターン作成をはじめとして、情報収集・情報管理システムの導入や業務継続計画(BCP)の作成など、市区町村に裁量の余地があるものについては、小さい市町村であるほど、作成・導入が進んでいない傾向が確認できる。例えば、避難実施要領のパターン作成については、先述の通りであるし、業務継続計画については、消防庁による全国一斉調査にて、この傾向は明らかになっている(令和元年度については:https://www.fdma.go.jp/pressrelease/houdou/items/011226bcphoudou.pdf)。

したがって、筆者が全市区町村に対して情報収集・情報管理システムに関するアンケート調査をした際には、自然災害対策・国民保護も含めた「危機管理については、国が責任をもってリードしてほしい」という意見も多く寄せられた。

分権性がもたらす問題点③:原理的な問題

「地方分権」は魅力的な言葉として我々に刷り込まれているし、国もまた、近年、公助の限界と自助や共助の重要性を説いており、地方分権のなかでの危機管理を是認しているように見える。しかし、住んでいる市区町村によって差が生じるという状況は、本当に望ましいのだろうか。そもそも国民の生命と財産の保護は国の責務ではないのだろうか。地方自治体の足並みが乱れた場合、統制をかけることも必要なのではないか。これらは国民の命を守ることを目標とする国民保護、あるいは危機管理において、原理的な問いを突きつけている。

この小論は、新型コロナウィルスへの対応で日本全体が深い混乱に陥っている最中に執筆された。今回の危機でも、地方自治体や首長によって、姿勢や取組みに相違が生じていることに戸惑いが広がっているし、「都道府県、市区町村の足並みがそろっていない」という批判的評価も投げかけられている。しかし、地方分権の精神に鑑みれば、それはそのはずである。むしろ、そうであるようにするのが地方分権の狙いであったとすらいえるのではないか。

おわりに

この小論では、国民保護という一般的にはまだまだなじみの薄い政策領域における制度と運用実態を見てきた。集権的な制度と分権的な運用実態のねじれは、「実施主体の不透明さによる空洞化」を招いている。また分権的な運用実態は、連携の問題や、小規模自治体の「置き去り」、国家責任の問い直しという看過できない問題を投げかけている。

国民保護について、国・都道府県・市区町村という政府構造のあり方を総合的に考えていく必要がある。90年代以降、次々に発生した北朝鮮による不審船(工作船)事件やミサイル実験、核実験は、国民に深い懸念を与えた。また、その他の周辺国との間での緊張も高まり、「厳しい安全保障環境」との認識のもとで、2015年には平和安全法制も成立した。これにより、安全保障の基盤整備が大きく変化した。しかし、仮にミサイルが直接日本のどこかに落とされたり、テロが発生したりするとき、その対処の最前線には市区町村がある。

市区町村の国民保護が不十分であれば、どんなに国が指示を出しても、国民の命を守るための動きは困難なものとなる。実際に国民保護の運用状況を見ると、その実態は小論で見てきた通り、心もとない状況である。安全保障を検討するとき、こうしたミクロな運用レベルまでみていく行政学的視点も不可欠だろう。その際には、聞こえのいい「地方分権」は決して万能薬ではないことに留意すべきである。

参考文献

なお、本稿の議論については、以下の論文で学術的に議論しています。関心をもたれた方は、ぜひご覧ください。

・伊藤潤・川島佑介[2014]「自治体間連携からみる地域防災計画」、『名古屋大学法政論集』259号。

・伊藤潤・川島佑介[2017]「CIMSによる防災情報共有の現状と課題」、『季刊行政管理研究』157号。

・川島佑介[2020]「国民保護行政のなかの分権性と融合性」、武田康裕編著『日本の危機管理体制の課題―国民保護と防災をめぐる葛藤―』芙蓉書房。

・川島佑介・伊藤潤[2020 (6月刊行)]「市区町村における危機情報管理システムの研究」、『季刊行政管理研究』170号。

プロフィール

川島佑介行政学

茨城大学人文社会科学部准教授。名古屋大学法学部卒業。名古屋大学大学院法学研究科博士前期課程修了。同後期課程修了(博士(法学))。主な業績:『都市再開発から世界都市建設へ:ロンドン・ドックランズ再開発史研究』吉田書店、2017年/「米国における危機管理の一元化への歩み」『防衛学研究』56号、2017年、57-74頁など。

 

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