2022.12.20
第二次安倍政権はなぜ「独裁」と呼ばれたのか――戦後日本の恩顧主義の変容
はじめに【注1】
2022年7月8日、参議院議員選挙の遊説中に安倍晋三元首相が凶弾に斃れた。現代日本政治を揺るがす大事件であった。安倍が担った政権は、憲政史上最長の在職期間を誇ったことからも明らかなように、安定的であった一方、2012年から始まった第二次政権は森友・加計問題などが表出したように、その強権的かつ縁故主義・恩顧主義的な統治手法が一部で「独裁」と呼ばれた。
折しも、昨今の国際社会では民主主義の後退と権威主義の台頭が叫ばれている。これに対し、日本の政治体制の権威主義化(独裁化)を指摘する声もなくはない【注2】。実際、3500人を超える専門家らが民主主義に関する多様なデータを収集・分析する多様な民主主義研究所(V-dem Institute)の自由民主主義の指標(市民の自由、法の支配、権力分立の度合いなどからなる)は第二次安倍政権以降低下した【注3】。
民主主義や権威主義といった統治ルールの総体を分析する政治体制論においては、政治体制の類型論争と、政治体制ごとに実際の政治がどのように異なるか研究が進められてきた。しかし、近年では競争的権威主義のように、民主主義の制度的装いをしながらも権威主義的な統治をする体制の存在や【注4】、民主主義においても大衆対エリートを煽って強権的な統治を行うポピュリズムの台頭が注目されるように、民主主義と権威主義という政治体制間の境目は曖昧になりつつある。第二次安倍政権が「独裁」と呼ばれたのもこの点に関係しているのかもしれない。
制度的な政治体制論に基づけば、日本はいまだ民主主義に分類されることは言うまでもない。さらに言えば、55年体制以降、政党システムも一部の期間を除いて自民党の一党優位制が構築されてきたことから、際立った長期政権という特徴があるにせよ、第二次安倍政権と他の自民党政権に大きな違いはないはずである。とすれば、第二次安倍政権に寄せられた「独裁」という批判は、妥当といえるのだろうか【注5】。
本小論では、これらの疑問に答え、民主主義と権威主義の二元論を超えて日本政治の変化を捉え、第二次安倍政権の特徴をつかむため、政治的恩顧主義(クライエンテリズム)の概念に注目する。恩顧主義とは、パトロン(庇護者)とクライアント(随従者)との間における垂直的な互酬関係に基づく人間関係やその現象を指す。恩顧主義はどのような政治体制においても存在し【注6】、政治におけるあらゆる決定に影響する。なぜなら、恩顧主義は民主主義であっても権威主義であっても政策決定者の権力維持に関係するからだ。程度の差こそあれ、政策決定者は恩顧主義に配慮した意思決定をせざるを得ないからである。その意味で、戦後一貫して民主主義が採られてきた日本における恩顧主義の変化を読み解くことは、外形上は民主主義(もしくは独裁)という用語で片付けられてしまう日本政治の統治のメカニズムの動態を分析するうえで適していよう。以下では、日本政治における恩顧主義の変化を捉えるために、戦後日本政治を振り返り、第二次安倍政権に至るまでの恩顧主義の変容を考察する。
1.政治と恩顧主義
恩顧主義を構成するパトロン=クライアント関係は、垂直的な関係性にあるアクター間において、上位者(パトロン)が下位者(クライアント)に政治的見返りを期待して便宜供与を図り、下位者がそれに応えてパトロンを支持し、行動をするという互酬的関係をいう【注7】。イメージとしては伝統的な組織で見られる親分=子分関係や、鎌倉時代の御恩と奉公に近い。恩顧主義は、いわば個人間の「義理人情」に基づく関係性を指し、世界各地に普遍的に見られる【注8】。政治に関していえば、民主主義の「質」に関わる要素の一つであり【注9】、特に市民共同体が発達していない地域において表われやすい【注10】。市場経済が未発達な地域において政治的恩顧主義が一種の社会保障としての役割を担うからである【注11】。
恩顧主義はパトロン=クライアント関係を規定するゲームのルールである政治制度に影響を受ける。制度の変更はパトロンとクライアント両者が関係を維持するための戦略を変えさせるからである。
このような恩顧主義を政治分析に用いる際には、国内における恩顧主義が厳密には何層にも重なっていることに留意が必要である。例えば、首相を頂点のパトロンとする場合、その後、官僚組織や政党へとそのパトロン=クライアント関係は枝分かれしていく。そして官僚組織の場合はその組織内で、政党では党内で派閥などを通じたネットワークが形成される。政党の場合、派閥の長から末端の議員個人間で幾重ものパトロン=クライアント関係が構成され、地域においては、選出議員がパトロン(あるいはブローカー)となり、選挙区における地方議員や利益団体などをクライアントとして存在することとなる。これらの何重にも連なる恩顧主義的ネットワークを完全に実証的に調査することは困難であるが、マクロにこれらの構造を捉えるために、本稿では政治システム内部における恩顧主義と、政治システムと社会共同体との間における恩顧主義を区別する。前者の政治システム内部における恩顧主義とは、首相と閣僚、与党議員、官僚などを含む政治エリートを対象としたものであり、特に首相の周辺において意思決定を担うものを権力中枢、その他を政治社会と区別する。後者の政治システムと社会共同体との間における恩顧主義とは、与党議員などのパトロンもしくはブローカーと地域住民や利益団体を結び付けるものである。
最も強固な恩顧主義ネットワークのイメージは、政治指導者から一元的なパトロン=クライアント・ネットワークが社会共同体の末端まで全面的に広がっているタイプである【注12】。このようなタイプを採る国では政治指導者の意思決定に対する制約が小さくなるが、全くのフリーハンドということはなく、実際には自身の権力基盤となる「取り巻き」の意向を考慮しながら政治を行っていくこととなる。前近代社会や特定の権威主義にはこれと似た様態が存在していたものの、今日においては民主主義をはじめとする他の様式の制度と共存していることが多い。しかも、政治指導者が政治システム内部のみで恩顧主義的関係を形成していることもありうるし、社会共同体においてはそのネットワークが枝分かれしていたりする場合も少なくない。これらのパトロン=クライアント・ネットワークの形状の違いは、政策決定者の権力基盤を構成するがゆえに、首相の統治手法や政治体制の危機における脆弱性に影響を与える。
2.日本政治における恩顧主義の変容
(1)55年体制――分散的恩顧主義の成立
55年体制下において、自民党の一強体制を支えてきたものの一要素として重要なのが恩顧主義であった。当時、一つの選挙区から概ね3~5人が当選する中選挙区制を採っていた日本では、議会内での単独過半数を獲得するためには同一政党内から同一選挙区に複数の候補者を擁立しなければならず、その帰結として与党たる自民党内部での競争が存在した。そのため、自民党内では派閥が存在し、派閥が候補者を独自に支援することで党内権力闘争が繰り広げられてきた。派閥は、自民党内における恩顧主義であり、「派閥領袖―派閥国会議員―都道府県議会議員―市町村議会議員」というように系列的な重層的恩顧主義のネットワークが存在した【注13】。
中選挙区制は派閥の勢力にも影響し、派閥は党内幹部や閣僚ポストを巡って対立し、党内から選出される自民党総裁たる首相はその意思決定において各派閥からの影響を受けざるを得なかった。このことは、個々の自民党議員がトップの党総裁からの影響を大きく受けずに政治活動を行えることを意味していた。それゆえに、当選した議員は省庁との連携を独自に高め、族議員化することによって政策決定にも影響力を行使できた。また、選挙においては政策競争よりも党内における競争が優先され、同じ所属政党であるがゆえに政策的な差異が小さい自民党の候補者が地元有権者や支持団体向けのサービスを競い合う結果、サービスのための政治資金需要の増大や特定の政治家と地域や業界の癒着が生み出された【注14】。
また自民党と省庁は密着し、それらと業界団体との間には「鉄の三角形」と言われる利益共同体が存在した。「自民党―官庁、自民党―業界団体、官庁―業界団体」のそれぞれに恩顧主義的な絆が存在していた。地域では自民党の議員と後援会・有権者の間で、地元への利益誘導を核心として、やはり恩顧主義的ネットワークが存在していた。また官庁も、業界団体との間に恩顧主義的な関係を形成し、行政指導などの形で法によらない影響力を行使した。
55年体制下の日本は高度経済成長とプラザ合意後のバブル経済の発生を受け、オイルショックなどの経済危機はありながらも国内総生産で見れば安定的な経済成長を享受してきた。それゆえに、度々汚職が批判されながらも自民党の長期政権が維持されてきた。このような55年体制下における自民党の傾向は、首相は強力なパトロンではなくとも、その下にいる派閥の領袖が強力なパトロンとして複数君臨し、各派閥が社会共同体にまで連なる独自のパトロン=クライアント・ネットワークを構築しているといえた。いわば権力中枢の恩顧主義は弱くとも政治社会内においては緊密な恩顧主義が築かれる一方、社会共同体においても様々なセクションにおいて、分散的にして強力な恩顧主義が存在していた。これを以下では「分散的(政治的)恩顧主義」と呼びたい【注15】。
他方、国際関係もこのような内政における恩顧主義の安定を下支えしていた。特に、戦後の日米関係は、日米安全保障条約を基軸とした「日米安保体制」と呼ばれるような、アメリカに安全保障を依存し、日本は経済に注力するという政策によって確立された。
しかし、政治学者の待鳥聡史によればこのような内政と外交の様態は自民党と官僚から長期的に国家をどうするかというヴィジョンを生み出す能力を失わせ、短期的な利益配分政治に注力させた【注16】。
さらに、徐々に恩顧主義にはほころびが見え始めた。高度経済成長下においてはパトロン=クライアント・ネットワークを維持するための資源が豊富に存在したが、1970年代における石油ショックに端を発する経済成長の終焉は、恩顧主義のための資源の縮小を意味していたからだ【注17】。また、上述の通り、中選挙区制は少数政党の議席の奪い合いを促すとともに、同じ政党同士で競い合うために政策論争が展開されにくく、同時に汚職が蔓延しやすい制度であった。
1989年にリクルート事件で竹下登内閣が総辞職に追い込まれ、不況下において、政界のドンと呼ばれた金丸信が東京佐川急便事件で1993年に逮捕された。これらの政治スキャンダルは、政治改革が急務であるという認識を広めた。また、議院内閣制を採る日本では政党が主たる役割を担うはずであるのに、恩顧主義を人事や意思決定の重要な要素とする自民党と、政権獲得の意思を失った社会党その他の野党が、応答能力に欠ける政治を行ってきたという認識がなされていた【注18】。
このような恩顧主義的政治への批判は、政界に激動をもたらした。政治改革を求める小沢・羽田グループは、1993年に宮澤喜一内閣に対する内閣不信任案に賛成して自民党を脱党し、自民党は衆議院議員総選挙で敗れ、55年体制が終結した。新たに誕生した細川護熙連立政権は衆議院議員選挙に小選挙区比例代表並立制を導入した。
(2)政治行政制度改革と恩顧主義打破への動き
当時の政治改革の中心的課題は小選挙区制導入であり、これによって中選挙区制に由来して形成された恩顧主義的政治体制が打破されるとされていた。小選挙区制に基づく政治モデルは英米のような二大政党制であり、選挙制度の改革が政治体制の変革につながると目されていたのである。しかし、後に小選挙区制を推進した政治学者の佐々木毅が「思いが至らなかった」と語るように【注19】、首相の解散権等の恩顧主義を維持・肥大化させる権限には手が加えられなかった。
たしかに、小選挙区制は一選挙区で一人の当選者しか出ないため、政策論争が期待され、実際に小選挙区導入後は2003年に入ってマニュフェストなどの具体的な政策に関する争点が選挙のたびに提示されるようになった。しかし、比例代表制を並立させたために少数政党間には遠心力が働き、理論的に期待されたような二大政党制が成立することは難しかった。1999年には党首討論も導入され、政策論争が促進されたことは事実であるが、結果として実現可能性が低い政策が唱えられるようになったりした【注20】。
このような小選挙区制導入に関する議論は、細川政権以前からなされていた。この背景には、政策論争の促進や政治腐敗の抑制といった理由に加えて、「強い政治」と言われたような、政治のリーダーシップの強化への期待も含まれていた。「根回し」に象徴されるような集団主義的政治や、業界団体の利害に影響される恩顧主義的政治が、政治や社会の停滞を生むと考えられたからだ。
小選挙区制になれば、一つの政党から一人しか同一選挙区内には候補者が擁立されないことが予測される。加えて、政党助成金制度が導入されれば、大政党に所属しなければ当選が難しくなるため、候補者選定の公認権や政治資金の配分権限を持つ政党執行部のリーダーシップが高まることが期待された【注21】。また、これにともない派閥も弱体化し、首相の権限も高まると考えられた。
事実、1996年から始まる橋本龍太郎内閣は行政改革を掲げて、肥大化する官僚機構を問題視し、小さく強力な政府の構築に着手した。中央省庁の統合、内閣機能の強化、行政機構のスリム化が柱である。機関委任事務の廃止などの地方分権改革や、行政手続法(1993年)による恩顧主義的な行政指導の規制のように、恩顧主義の性格を改めて、権力の分け前にあずかることに政治活動の焦点が注がれる状況から、中長期的なヴィジョンに基づいて政策形成を進めることを目指す制度改革が含まれていた。
政治的リーダーシップ強化への動きは後の内閣にも引き継がれ、1998年の中央省庁等改革基本法をはじめとし、2000年代に入ると、2001年の内閣府の設置を含む省庁再編や首相補佐官の増員など、選挙制度以外においても首相のリーダーシップを高めるような政策が採られた。これによって首相は自身が重視する政策に対して省庁横断的に強い権限を発揮することが可能となった。
他方で、1993年の非自民政権(細川政権)の誕生は地方分権改革を推進することとなった。この動きは自民党が長期政権で維持してきた中央=地方における恩顧主義を解体して地方自治の進展を目指すものであった。このような地方分権改革は、後にみられるように原発や米軍基地の駐留を巡って地方が中央に対して挑戦する可能性を創出することにつながった。しかし、地方自治体の行財政面における自律性の拡大は一部の地方自治体の無能力問題を白日の下にさらすことともなった。また、行財政のみに焦点が当てられた改革は政治とのミスマッチを引き起こした。例えば、都道府県や政令指定都市以外の地方議会では単一の大選挙区で選挙が実施されるため、候補者は全体の数パーセントの得票で当選できることになる。このため、自治体全体の利益よりも特定の地域や支持団体の利益を追求する傾向がある。このような制度構造を変えないままの財政の自律性は、議会がまとまって首長に対抗できずに、首長の独断的な政策選択にいたることや、逆に議員による特定利益の追求で過剰な利益配分と、結果としての放漫財政を導く可能性を生んだ【注22】。
首相のリーダーシップの強化は、もともとは「鉄の三角形」と言われた「族議員―官庁―業界団体」の恩顧主義的な利益共同体を打破するためのものだった。ところが1996年(橋本内閣)から再び政権を獲得した自民党は、従来の派閥政治を再び持ち込んだことによって国民からの反発を招いた。そのため、「自民党をぶっ壊す」と掲げた小泉純一郎政権(2001年~2006年)が恩顧主義的な政治体制を打破することを期待されて人気を博したのである【注23】。この政権は、郵政民営化等、市場の効率化のために、国家の最小化や規制緩和・民営化、福祉の縮小を主張し、恩顧主義的政治の打破を唱えた。
しかし、一連の強力な政治への制度改革は、後に、首相による新たな恩顧主義の構築を可能とすることにもつながった。つまりこの時期の政治改革は、逆説的ながら、指導者に一元的な恩顧主義を進める権限を与える下地も作ってしまったのであり、いわば今日における集権的な恩顧主義の制度的伏線ともなったのだ。
その後、第1次安倍政権(2006年~2007年)、福田康夫政権(2007~2008年)と麻生太郎政権(2008年~2009年)が成立したが、当時の自民党はリーマン・ショックに伴う景気後退などの外的な問題のみならず、閣僚の度重なるスキャンダルなどの内的な問題を抱えており、2009年には民主党が政権を獲得することとなる。
(3)民主党政権における恩顧主義打破への試み
民主党政権は、55年体制から構築されてきた自民党による官僚主導型の政治を政治主導型に転換させることを掲げた。このような試みは内政に繁茂する恩顧主義の打破を目指すものだった。
例えば、大きく注目された「事業仕分け」は自民党政権において構築されてきた政治と省庁・業界団体の間の恩顧主義に依拠する無用ないし非効率な組織を整理することを目的としていたし、中央集権的な仕組みを地方に移そうとする「地域主権」への改革は鳩山由紀夫政権の「一丁目一番地」とされた。しかし、これらの政策は、当初は国民の支持を集めたものの、既存の恩顧主義的な政治構造の壁に阻まれた。加えて民主党の党内外における統治能力の不足や、度重なる閣僚の辞任などによって期待されたほどの効果を上げることができなかった。
民主党政権は「政治主導」を主張し、そのために国家戦略局設置や事務次官会議廃止、政務三役・大臣補佐官の設置といった改革を行った。これは自民党政権時代から続いてきた首相のリーダーシップの強化と一致するところも多かった。この点では、民主党政権下での内政における恩顧主義打破策はそれ以前の政権が進めてきた小選挙区制の導入と行政改革の延長線上にあったといえる【注24】。
しかし、その民主党も、労働組合との関係や、小沢一郎などの政治資金問題が問題となり、自民党とは別系列の恩顧主義的関係を批判された。
民主党政権は政治的恩顧主義を改革しようと企てたが、その改革は挫折したと言わざるを得ない。鳩山政権の後を襲った菅直人政権と野田佳彦政権は、鳩山政権と比して現実主義的路線を志向し、現存する恩顧主義に配慮するとともに、野田政権下における「社会保障と税の一体改革」(消費税増税など)に関する三党合意(2012年)に見られるように、自民党・公明党との間の政策距離も小さくなった。そして2012年12月の総選挙で民主党は大敗を喫して第二次安倍政権が成立した。
3.第二次安倍政権における集権的恩顧主義の成立
第二次安倍政権は、引き続き官邸主導のリーダーシップ強化に努めた。例えば、2014年には内閣人事局の設置により、官僚を政治が統制することが容易になる仕組みを作った。また、同年に国家安全保障局を創設し、外交・安全保障政策に対しては首相の直属とする方向が明確になった【注25】。
国政選挙で勝利を重ねるとともに、これまでの政権が実施してきた首相のリーダーシップを強化する政治改革の結果、55年体制下に構築されてきた「分散的なパトロン=クライアント・ネットワーク」は、首相を中心とする「集権的なパトロン=クライアント・ネットワーク」に変化していった。官邸の力が強まってその周辺に恩顧主義が高まる反面で、派閥の力が弱まり、派閥領袖を中心とする恩顧主義は弱体化したのである。これにより、55年体制下の「分散的恩顧主義」とは異なる「集権的恩顧主義」が成立した。森友学園や加計学園、桜を見る会などの問題において、度々政治の私物化や、官僚の忖度が指摘されたのは、この表れであるともいえる。
また、しばしば指摘される第二次安倍政権のナショナリスト的な傾向は、「中抜き政治」と評されるように、政権交代に伴う業界・労働組合などの中間団体の弱体化と、小選挙区制の導入による政策面での差別化の一環でもあった【注26】。第二次安倍政権がイデオロギーに訴えかけることによって支持を得ようとする傾向はこれまでの自民党と比して強かったが、これは、従来、社会共同体にまで伸びていたパトロン=クライアント・ネットワークが弱体化した結果、ナショナリズムという国民横断的な感情に訴える戦略に基づくものでもあった。この状況は、現代日本がポピュリズムの発生しやすい土壌にもなっていることを意味する【注27】。以上の経緯が、55年体制下における分散的恩顧主義とは異なって、ナショナリスティックな理念を掲げた集権的恩顧主義の誕生、一部から「独裁」と呼ばれる政治の成立を後押ししたのであった。
以上から、日本政治における恩顧主義は同じ自民党の一強体制であっても55年体制と現在では性質が異なり、その変化は小選挙区制の導入や首相のリーダーシップ強化の過程の中で進んできた。恩顧主義を打破しようという政治改革論は、細川連立政権・民主党政権と二度にわたって政権移行をもたらしたものの、結果的には恩顧主義の解体や消滅という目的を達成できず、政治的リーダーシップの強化によって、かえって権力中枢における恩顧主義が高まり、集権的恩顧主義という別形態の恩顧主義を生み出した。政治改革論における選挙制度改革は、恩顧主義をなくすためには機能せず、政治的リーダーシップの強化は、別の恩顧主義を生み出すことに寄与してしまったのだった。第二次安倍政権が従来の政権と違って強権を持っている(ように見えた)のはこのためである。
おわりに
ここまで見てきた通り、日本政治における恩顧主義の変化は一連の制度改革によって生じてきた。そしてそれは、恩顧主義を打破しようとする力学によって非自民党政権も含めて展開されてきた。
その結果、第二次安倍政権と55年体制時の自民党政権には違いが見られる。どちらも政党システム上は自民党の一党優位制であるが、55年体制時は中選挙区制に基づく自民党内における派閥政治が存在するがゆえに、党内恩顧主義のネットワークが分散的で多様化していた。それゆえに、首相のリーダーシップは小さく、抑制的な権力構造が築かれていた。
しかし、第二次安倍政権では、党内外の人事権を握って党内恩顧主義のネットワークが官邸から垂直的に一元化された。派閥政治や首相の権限の小ささを解消するための一連の政治改革は、第二次安倍政権において部分的な完成を迎えたのだった。ただし、この恩顧主義は市民社会を包摂できていないがゆえに、アイデンティティなどに訴えかけることによって有権者をつなぎ留めなければならないのが55年体制との大きな違いである。つまり、日本の恩顧主義は、55年体制から今に至るまで存続しつつも、現在は集権的恩顧主義へと変化しているのである。
イギリスの歴史家ジョン・アクトン卿が「権力は腐敗する傾向にある。絶対的権力は絶対に腐敗する」と述べたように、権力の集権化が恩顧主義の高揚を招くのは構造的な問題でもある。とすれば、「独裁」とも称された第二次安倍政権のような統治手法は、自民党内の力学を差し引いても制度的に生じやすくなっているといえる。すなわち、この後、仮に自民党以外が政権と担ったとしても、現行の政治制度では集権的な恩顧主義が生じやすいのである。そしてそれは、クライアントの「忖度」につながりやすい。アメリカの歴史家ティモシー・スナイダーは、「忖度」が権威主義化を招くと主張する【注28】。この点を考慮すれば、過去と比べて日本は権威主義が生じやすくなっているといえるのだ。
【注1】本稿は、大澤傑、小林正弥(2021)「動態的な恩顧主義的政治体制論――戦後日本における内外二重恩顧主義政治体制の変容」『公共研究』第17巻、第1号、181-243頁をもとに、小林正弥の了解の下で加筆・修正したものである。
【注2】小林正弥(2016)「今なおファシズムの世紀なのか?――日本における政治循環と新権威主義」『公共研究』第12巻、第1号、264-304頁。
【注3】この指標では1に近づくほど自由民主主義の度合いが高いこととなるが、日本の指標は2021年時点で0.74である。この数値は最も高かった2010年と2011年の0.77と比べて低いが、おおよそ70~80年代の日本とは同程度である。なお、一貫して日本よりも評価が高かった米国はトランプ政権誕生後、日本よりも低くなっている(2021年で若干回復して0.73)。Michael Coppedge, et al. (2021) “V-Dem [Country–Year/Country–Date] Dataset v11.1,” Varieties of Democracy Project, https://doi.org/10.23696/vdemds21,(2022年9月10日最終アクセス)
【注4】Steven Levitsky and Lucan Way (2010) Competitive Authoritarianism: Hybrid Regimes after the Cold War, New York: Cambridge University Press.
【注5】第二次安倍政権の流れをくむ菅政権も「独裁」と評されることがあった。以下に続く本稿の分析はその要因についても示唆している。
【注6】Allen Hicken (2011) “Clientelism,” The Annual Review of Political Science, p.297.
【注7】James Scott (1972) “Patron-Client Politics and Political Change in Southeast Asia,” The American Political Science Review, Vol. 66, No. 1, pp.91-113; Susan Stokes (2009) “Political Clientelism,” in Carles Boix, Susan Stokes and Robert Goodin, eds., The Oxford Handbook of Comparative Politics, Oxford: The Oxford University Press.
【注8】小林正弥 (2000)『政治的恩顧主義論――日本政治研究序説』東京大学出版会、59頁。
【注9】河田潤一編(2008)『汚職・腐敗・クライアンテリズムの政治学』ミネルヴァ書房、ⅵ頁。
【注10】ロバート・パットナム (2001)『哲学する民主主義――伝統と改革の市民的構造』河田潤一訳、NTT出版。
【注11】ゆえにクライアンテリズムは「二重契約」と呼ばれている。George Foster (1961) “The Dyadic Contract: A Model for the Social Structure of a Mexican Peasant Village,” American Anthropologist, Vol. 63, pp.745-763.
【注12】このような政治体制は個人支配に分類される。詳細は、大澤傑(2020)『独裁が揺らぐとき――個人支配体制の比較政治』ミネルヴァ書房。
【注13】派閥については、西川知一、河田潤一編(1996)『政党派閥――比較政治学的研究』ミネルヴァ書房。
【注14】待鳥聡史(2020)『政治改革再考――変貌を遂げた国家の軌跡』新潮社、54-55頁。
【注15】なお、サウジアラビアでは、国王によって権力中枢に配置された王族が各省庁や自治体において他の王族からの監視をほとんど受けることなく統治を行っている。その結果、王族間で垂直的な恩顧主義が形成され、各ネットワークの水平的なつながりが予防され、体制が維持されるという。これをハートグは「分節化された恩顧主義(segmented clientelism)」と呼ぶ。Steffen Hertog(2010) Prince, Broker, and Bureaucrats: Oil and State in Saudi Arabia, Ithaca: Cornell University Press.
【注16】待鳥、前掲書、83頁。
【注17】小林正弥(2010)「日本政治の公共学」山脇直司、押村高編『アクセス公共学』日本経済評論社、11頁。
【注18】待鳥、前掲書、103頁。
【注19】朝日新聞「解散権の肥大化、見通せず 小選挙区推進した学者の悔恨」2017年9月26日。
【注20】待鳥、前掲書、121-122頁。
【注21】同上、57頁。
【注22】同上、255-258頁。
【注23】小林(2010)、13頁。
【注24】鳩山政権は党内リーダーシップをも強化するために党内の事前審査を担う政策調査会を廃止し、議員立法や質問主意書の提出も原則禁止したため、与党議員は政策形成過程から締め出され、党内からの反発を高めた。
【注25】待鳥、前掲書、154頁。
【注26】ヒジノケン・ビクター・レオナード(2020)「日本型ポピュリズム――フワッとした民意、突風と熱狂」船橋洋一、ジョン・アイケンベリー編『自由主義の危機――国際秩序と日本』東洋経済新報社、232頁。
【注27】水島治郎編(2020)『ポピュリズムという挑戦――岐路に立つ現代デモクラシー』岩波書店。
【注28】ティモシー・スナイダー(2017)『暴政――20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン』池田年穂訳、慶応義塾大学出版会。
プロフィール
大澤傑
愛知学院大学文学部英語英米文化学科講師。政治体制論、体制変動論、安全保障論。1987年愛知県生まれ。防衛大学校総合安全保障研究科後期課程卒業、博士(安全保障学)。防衛大学校総合安全保障研究科特別研究員、駿河台大学法学部助教を経て現職。主な業績として『独裁が揺らぐとき―個人支配体制の比較政治』(ミネルヴァ書房、2020年)、「ニカラグアにおける個人化への過程―内政・国際関係/短期・長期的要因分析」『国際政治』第207号、33-48頁(有斐閣、2022年)など。