2010.07.12
参議院の制度と《制度》
参議院は強いのか、弱いのか。すでにこのシノドス・ジャーナルでも吉田徹氏が指摘した通り(6月24日)、公的な制度を問題にするかぎり、日本の参議院が英独仏などと比較してもきわめて強力な権限をもっていることは間違いない。
衆議院のカーボンコピーというリアリティ
衆議院が明確に優越するのは首相指名と予算・条約の審議くらいであり、法案については再可決の厳しい条件を満たさなくてはならない。
さらには両院がまったく対等な権限をもつ国会同意人事があり、これを活用すれば、衆議院に基盤をおく政権の運営を相当程度妨害できることは、「ねじれ国会」期に民主党自身が示してきたことである。
しかし、にもかかわらず、専門家も含めて多くの人が、「参議院は衆議院のカーボンコピーにすぎない」というような表現にリアリティを感じてきたのも事実だろう。いったいこれは、どういうことなのか。
実際に統治を担当する政府の観点から考えてみよう。
強い参議院の逆説
彼らは、何らかの政策目的の実現をめざして、議会に予算案や法案を提出するだろう。議院内閣制では一般的に、議会の多数を背景に政府が成立するから、政府は自らの提案が議会で勝利することを期待できる。
だがここに、独自性も権限も強い第二院(日本の場合は参議院)があったらどうだろうか。
政権を支える第一院(衆議院)では政府提案が認められるとしても、第二院ではどうなるかわからない。統治の実現を政府が自らの任務ととらえるなら、そのために必要となる予算や法律の成立を、政府は可能なかぎり確実にしようとするはずだ。
権限と独自性の強い第二院は、その意味において、まさに政府にとっての悪夢にほかならない。統治をまっとうするために政府は、第二院の独自性を制約して、その行動を予見可能にするための手段を考えだそうとするだろう。
独自の会派(緑風会のように)や独自の機能(「良識の府」「最高の府」)といった、参議院の特色を活かそうとする提案が、つねに掛け声倒れに終わってきた背景には、このような事情がある。
参議院の権限が強いからこそ、統治の実現可能性を確保するために、その手は縛られなくてはならないのだ。皮肉なことに、参議院の強さ自体が、その弱さを招いたということになる。
制度と《制度》のあいだに横たわる距離
憲法や法律によって公的につくられる制度と、それを前提として人びとがかたちづくる行動のパターンとしての《制度》のあいだには、一定の距離がある。
もちろん法治国家においては、制度が人びとの《制度》のあり方を決める、重要な要素になっていることは間違いない。しかし制度が意図するものが現実とかけ離れていたり、制度を運用する当事者たちにとって受け入れがたいものであるならば、そのギャップを解決するために独自の《制度》が生み出されることになるだろう――売春の禁止という法と、現実の需要の距離が、特殊浴場における自由恋愛という《制度》によって埋められてしまうように。
いわゆる「国対政治」という《制度》も、一方では統治のために政府が議会審議をある程度統制する必要を抱えながら、憲法や国会法のような制度においてそれが認められていないという現実に対処するために、生み出されたものであった。
それは、議会内の会派と議会外の政党を密接に結びつけ、党議拘束によって議員たちの手を縛ることによって、本来は選挙区や支持団体の事情といった独自性を抱えた議員たちを抑えこむ《制度》だったのである。
そして同時にそれは、政党内の(政務調査会を中心とする)議論と、その結果に対する党議拘束に参議院議員たちも巻き込んでいくことにより、強すぎる参議院を縛りつけ、政党へと従属させていく手段でもあった。
「政治主導」の皮肉な結末
いずれにせよ、われわれが意識すべきなのは、まず、公的な制度だけが《制度》をかたちづくっているのではないということ、そして制度を変えるだけでは適切な《制度》の変化に結びつかないかもしれない、ということだろう。
民主党政権、なかでも小沢一郎前幹事長が、「政治主導」実現のために、政府へと政策決定を一元化しようとしたとき、彼は議員たちと参議院の手をどのようにして縛るつもりだったのだろうか。
いままで議員たちが「ホンネ」を吐き出してきた政務調査会を廃止することによって、彼らが党の外でバラバラに発言し、その統制に政府が苦しめられるようになるとは思わなかったのだろうか。
政府の権限を(相対的に)強めたことが、その統治能力の弱体化を引き起こしたとするならば、それもまた皮肉な結末だということになるのだろう。
推薦図書
議会というのは政治が現に展開する場であると同時に、それ自体が憲法や法律、議院規則や慣習といったルールによって運営される国家機関である。もちろんその政治学的な動態を分析するのも重要なのだが、それとは違う「政治を統制する法」という観点からみることも有意義だろう。本書はそのような視角からの分析に先鞭をつけたもので、とくに議事運営の手続的規制を中心とした国際的な比較が充実している。一見小さな・技術的なルールが、政治全体のプロセスに影響を与えていくことが解き明かされるというような点から、法律学のひとつの興趣が味わえるという意味でもおすすめの一冊。
考えてみれば衆議院自体が(政府与党側にとっては)党内の政務調査会の「カーボンコピー」なのだから、参議院だけを批判するのも的外れ、というものであったかもしれない。
プロフィール
大屋雄裕
1974年生まれ。慶應義塾大学法学部教授。法哲学。著書に『法解釈の言語哲学』(勁草書房)、『自由とは何か』(ちくま新書)、『自由か、さもなくば幸福か』(筑摩選書)、『裁判の原点』(河出ブックス)、共著に『法哲学と法哲学の対話』(有斐閣)など。