2014.10.09

ヒトと動物の「ヤバい関係」と「やさしい関係」――自然保護とは何か

SYNAPSE Lab.

科学 #自然保護#synapse#SYNAPSE Project

SYNODOSとSYNAPSEのコラボ連載第2回です。

前回は、サイエンスコミュニケーションにおける対話のカタチ、その歴史的経緯と今後の展望について考察しました。

今回は、SYNAPSE Classroomというイベントのレポートです。SYNAPSE Classroomでは、講師の科学者に、大学で行っているような「普通」の授業をしてもらいます(こういう場に科学者が出てくる際の負担を減らす意味もあります)。そして、一般のお客さんのほかに、様々な分野で活躍する方々を「ゲスト生徒」として迎えます。それぞれの領域の見地から率先して先生へ「質問」を投げかけてもらうことで、学術と多様な領域の共通項や差異、そこから生まれる新しいモノの見方の面白さを浮き彫りにするスタイルのイベントです。

さて今回ご紹介するSYNAPSE Classroom(第3回目)は、題して「人と動物の付き合い方」。『動物を守りたい君へ』(岩波ジュニア新書)の著者、高槻成紀先生を講師にお迎えして、2014年1月25日に原宿 IKI-BA にて開催されました。シカをはじめとする野生動物の研究を進められる高槻先生は、この本を通して、人間と動物、そして里山などの自然との向き合い方を伝えています。消費社会の中で大量生産され消費される動物たちの「命」、都市化によって失われてきた自然の生態、これらを見つめるとき、ただ自然保護を訴えるだけでは十分でないと先生は訴えます。先生の著書を読んだゲスト生徒とのやり取りを交えたイベントレポートから、当日飛び交った様々な視点をお伝えします。

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自己紹介−様々な視点の集まり−

住田 本日の司会・進行を務めますSYNAPSEの住田朋久です。今回は高槻成紀先生のご著書を中心として、過去二回テーマにしてきた、食やペットだけでなく、動物との関係についても議論したいと思います。

今回の『動物を守りたい君へ』(岩波ジュニア新書)にも、ご専門の保全生態学からテーマを広げる形で、ペットや食の話題を盛り込まれています。

まずはゲストの方々をご紹介させていただきます。今回は生徒役として4人の方に参加してもらっています。

アサイ はじめまして、アサイヒデヨです。今日は北海道からやってまいりました。普段、生き物の調査の仕事をしているので、人間の生活と動物とのかかわりあいという観点からお話させていただきます。また、仕事とは別に、個人ブログ「紺色のひと」で、絶滅危惧種の扱いや獣害、獣と人間の軋轢などについても触れております。ブロガーとしての立場からもお話できればと思っています。

宮澤 宮澤かずみです。普段はマーケティング・リサーチの会社で食卓を調査する仕事をしています。休日は、友人三人で組んだ「満腹法人:芸術栄養学」という管理栄養士の料理ユニットで、食育のイベントをやったり、料理教室などの活動をしています。いま、動物が「肉」に代わる瞬間について興味を持っているので、今日はその点について考えていきたいと思います。

服部 普段はファッションやアートに関する編集をやっています服部円です。ilove.cat というネコに関するウェブマガジンで高槻先生の研究室もある麻布大学に取材させていただいたり、ネコとひととの関係を取材したりしていくなかで、福島の警戒区域のネコを保護している三春シェルターについても取材する機会がありました。先生の本にも被災動物のことが触れられていたので興味深く読ませていただきました。

大西 テレビマンユニオンというテレビ番組制作会社で、『世界ふしぎ発見!』やドキュメンタリーなど色々な番組を作っています、大西隼と申します。最近は「ニッポンのジレンマ」という、若い学者や起業家の方が集まって社会問題などについて討論する場組のディレクターをやっています。もともとは菅野くん(SYNAPSE メンバー)と同じラボの先輩で、研究者になろうとしていたんですが、社会にとって大きな影響を与えるはずの研究活動の意味や価値が、なかなか理解されていないことにジレンマを感じていました。中学生のころは獣医に憧れていたので、高槻先生の本を読んで、「ヒトもまた動物でもある」という観点をみんなが持てればいいのに、と改めて感じました。

執筆への思い――時代への違和感

住田 最初に高槻先生から、今回取り上げる『動物を守りたい君へ』(岩波ジュニア新書)をご執筆されたいきさつについてお聞かせいただけますでしょうか。

高槻 私はもうすぐ大学での職を終えます。研究者は英語で学術雑誌に論文を書くのが仕事です。でも、それだけではよくない、子どものときから好きだった、生き物の素晴らしさを若い世代に伝えたいという気持ちがここ数年、だんだん強くなってきました。

私には孫がいます。この子たちが育つ時代は、自分が子供の頃と比べて、生き物との関係がずいぶん変わっている。それも良くない方向に向かってしまっているのではないか。そのような懸念があって、そういうことについて考えるきっかけになるような本を書きたいという思いから、野生動物と植物のことについて文章を書き溜めていました。

住田 動物だけでなく、植物についても書かれたのは先生の研究キャリアが関係しているのでしょうか?

高槻 はい。私はもともと植物生態学者として研究生活をスタートしたので、植物について、とくに里山など野生動物と切り離せない生態の一部として書きました。

かなり文章が溜まった段階で、本書の編集担当の岩波書店の朝倉玲子さんに相談をしました。もともと書きたいことはたくさんあったのですが、朝倉さんとやり取りをする中で、一般の読者が「動物」としてイメージしやすい犬や猫についても取り上げることになりました。

とはいえ、私は、ペットなどについては知ったかぶりして書く立場にありません。おこがましい気持ちもありました。ただ、これまでずっと見てきた動物や自然に対して、「凄いなあ」というリスペクトする気持ちがあるんですね。それは逆に言えば、動物や植物に対して人間がおごっているのではないかという思いにもなります。そういう人間のおごりが、ペットとの付き合い方にも随所にあるし、家畜を食べるということにもつながってくる。そういう視点からなら自分にも書くことができると、テーマを広げて執筆したんです

住田 なるほど。個々のトピックを関連づけて大きな枠組みとして執筆された訳ですね。

高槻 そうですね。ただ、準備していた原稿の分量が多めだったので、どこを削るかということになりました。人間と動物の関係を考える上でインパクトが大きい話題である動物の絶滅について、類型的に「こういうタイプの動物は絶滅しやすい」というような、言ってみれば「勉強になるようなこと」を書いていました。これはジュニア新書に相応しいだろうと自信があったんです。ところが、そこは朝倉さんにばっさり切られてしまいました(笑)。一方で、ちょっと私の主観的な思いが強いので、編集で削られるだろうなと思っていた震災のところは残った(笑)。

最終的な出来がどうだったのかは刊行してまだ時間が浅いですし、これから歴史の評価を受けるかな、と思います。

高槻先生の友人・浅野文彦 氏による表紙。「今の子供には白黒の線画の方が印象が強いんじゃないかと思って、写真やリアルな絵よりもあっさりとしたスケッチ風でお願いしたんです」と高槻先生。
高槻先生の友人・浅野文彦 氏による表紙。「今の子供には白黒の線画の方が印象が強いんじゃないかと思って、写真やリアルな絵よりもあっさりとしたスケッチ風でお願いしたんです」と高槻先生。

植物から動物へ、「つながり」への眼差し

住田 ありがとうございます。先生の現在のご専門は動物生態学で、シカをはじめとする野生動物の研究にとりくまれていますが、研究者としてのスタートを切ったのは植物生態学の分野だったというお話がありました。先生が研究者を志した経緯、そして研究を始めてから今まで、どんな変化を経て来られたのか、お聞かせいただけますか。

高槻 私が生まれた1949年は、戦後の、まだ日本が貧しい時代でした。その頃は、科学技術というか、発明・発見ものの本が薦められるような時代で、理科は大好きだったんですね。鳥取の田舎で、昆虫採集したり魚をとったりして遊びながら育ちました。ただ、中学になると、昆虫採集に熱中していた仲間たちが女の子やスポーツに興味を持ち始めて、脱落していく(笑)。高校になると虫取りを続けているのは学校で僕だけ、というような状況でした。

それでも日本のどこかにこういったことが好きなひとが他にもいるはずだ、という確信はあったんです。僕からすれば生き物のことは何も知らないで教科書の説明をしている学校の先生ではなく、研究者になりたい。今も覚えていますが、高校2年の夏休み、夕日を見ながら「俺は生物学者になるんだ」と決めたんです(笑)。

私の家庭は貧しかったので国立大学を志望しました。今のように情報がパッと得られるわけではなかったので、生物学をやっている10くらいの国立大学の事務に、返信用の封筒を入れて手紙を送り、どういう研究をしている先生がいるかを問い合わせました。それで生態学というものがあることを知ったんです。当時は九州大学、京都大学、東北大学が生態学をやっていると分かり、最終的には東北大学に決めました。私が受験したのは学生紛争の影響で東京大学の入学試験がなかった年で、その受験者が流れてくる、と緊張しました。入学後も、学生紛争のために授業があまりなかったので、野山を歩いて自然から直接勉強していました。

東北大学で研究室を決める時、当初は動物生態学を志望しました。けれど、希望する研究室が学生をとらないということになって、相談に行ったのが、植物生態学の飯泉茂先生のところです。飯泉先生は草地学といって草原の研究をやっておられました。

草原というのは家畜との関連があります。日本の草地は、放っておけば森林になるところを、常に伐採することで遷移を止め、草原にして牛を飼うわけです。これは面白いと思って、植物生態学を選んだのですが、後に動物を研究するためにも、大学卒業まで植物を研究した経験が非常に役立ちました。

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「シカを殺すべし」自然を保護するとは何か?

住田 単に大きな動物だけを見ているのではなく植物との繋がりを見ていくという姿勢が、その後の高槻先生の研究に繋がっていくんですね。先ほどお名前が出た飯泉茂先生は、日本自然保護協会に参加されていましたが、高槻先生は、自然保護というものをどう捉え、どう関わられていったのでしょうか。

高槻 私の最初の著作は『北に生きるシカたちシカ、ササそして雪をめぐる生態学』(復刻版が現在刊行/丸善出版)という本で、三十代の頃の10年間にわたる岩手県でのシカの研究をまとめた専門書に近いものでした。その中で私は、「シカを殺すべし」と書いたんです。なぜそうなのかについては、データと論理をもって書いたのですけれど、当時かなり批判を受けました。

自然保護協会はもともと、戦後、尾瀬の湿原の保護というところから始まったものでした。当時は、脆弱な自然を守る、原生的な自然を守る、「保護」という立場が主流だったんです。しかし、「保護」とはただ人間が介入しなければ良いのでしょうか?

飯泉先生は宮城県の自然保護委員をしておられました。宮城県の栗駒山には、天然記念物となったシャクナゲの群落があります。周りの高木をただ保護するだけでは、低木であるシャクナゲを覆ってしまって元気がなくなってしまう。シャクナゲというのは一定の攪乱を受ける中で、林の遷移が進まないという条件で生きている植物なんですね。ですから、手を加えないと守れない。飯泉先生は、植物はダイナミックに変動しているものであり、どの状態を守るかによって管理の仕方が全く変わるということを当時から訴えていました。先生は、苦笑いしながら「わかっていないやつが多いんだ」と仰っていました。あの時代に、こういうことをわかっている人はあまりいなかったんです。

現在は、「保護」ではなく「保全」という言葉に変わり、少なすぎるものは増やすけれど、多すぎるものは減らし、本来あるバランスを保つという考え方になりました。あるいは、生き物単体ではなく、環境全体をどんな状態に持っていくべきかを考える。そのための研究と活動が必要だという考え方に変わったんです。こういった考え方についても植物の研究が役に立ちましたね。

「やさしさ」とは何か?

住田 なるほど。それではいよいよ生徒役の方に登場をいただいて、本の感想や質問などを先生にぶつけていただきたいと思います。今回の生徒役の中では一番ご専門が近いかなと思います、アサイさんからいかがでしょうか。

アサイ 最初にこの本を拝読した時、「この本を手にしてくれた君はきっとやさしい心の持ち主なのだと思います」という序文を読んで、これは良い本だと思いました(笑)。

生き物関係の仕事をしていて、多少なりとも一般の人よりは多く持ち得た知識を、ちょっとだけ興味のある人やあまり興味のない人にどう伝えればいいのか、ということを常に考えて個人のブログを書いています。どんな語り口がいいのかと最近考えていたんですが、まさに、この序章をお手本にすればよかったと思いました。

序章では、交通事故にあったタヌキを知った女子中学生と、タヌキの交通事故を減らすにはどうすればいいかと考える会話から始まり、野生動物との関わり方について話題がふくらんでいきます。印象深かったのは、「対策にはお金がかかりますが、自動車によって便利な生活をすることができるようになったのですから、その豊かさの一部を野生動物のため使うことは十分にできるはずです」という一文。モータリゼーションで豊かになった中で、タヌキ/生き物との関係にも目を向けること、これが人間としての責任の取り方なんだ、そう考えればいいんだと。

高槻 私は「やさしい」という言葉がしばしば誤って使われているところがあると思っているんです。たとえば私は大学では厳しいと言われているんだけれど、ぜんぜん厳しくなくて、やさしいんですよ(笑)。世間一般では、いい加減な子供を放っておくのがやさしいと言われたりするんですが、これは大いなる間違いです。

うちの学生でも、動物とじゃれあって遊ぶことが動物への「やさしさ」だと感じているフシがあるわけです。けがをしたら治してあげるとか、殺すことは良くないとか。しかし、本当の「やさしさ」とは何かを考えてみてほしい。たとえば道路を建設するときに、本当にこれが社会や動物にとっていい計画なのか、ともう一度検討してみること。現実としてモータリゼーション社会が存在しているのであれば、動物に一方的に迷惑をかけることをどこかで配慮するとか、そういう大きな視野を持つことが本来の「やさしさ」なのではないでしょうか。本の最初に「君はやさしい心の持ち主なんでしょう」と書いたのは、本当に「やさしい」とはどういうことなのかを中学生くらいの子供たちに問いかけたかったからなんです。

アサイ よくわかります。この本で取り上げられている、アライグマのような外来種のペットや、アメリカのイエローストーン国立公園での、人間によって一度撲滅させられてしまったオオカミを再導入したプロジェクトにおいては、動物との関わり方を考える際、どうしても「責任」という言葉が付きまとってくるという点があると思います。「人間が責任をとるべきだ」という言い方をするけれど、気持ちとしての「やさしさ」から何かしてあげる、というものではなくて、あるべき姿に向かって何らかのアクションをするということが重要で、そこでどうするのが「やさしさ」なのか、「責任」の取り方なのか、ということについてもこの本を通じて考えさせられました。

高槻 そうですね。何が「やさしさ」かについて都市生活者は思い違いをしている。べたべたするのがやさしさではない。そういう感じですね。

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「自然」から疎外された現代人?

宮澤 この本の中にも出てきた長野県信濃町のアファンの森で行われた自然保護の体験に参加したことがあります。高槻先生とも研究に関連して親交があると伺った、作家のC・W・ニコルさんが、山を買って、里山の保全を考える活動をしているんです。

そのとき、20人弱くらいの参加者で、アテンドの方の案内で夜に懐中電灯を持たず、白い服を着て森の中を歩くナイト・ウォークという体験をしました。闇のなか、音から川や風の流れが分かったりします。そして、森の中で黙って止まるんです。今、ここで凶暴な動物が来たらやられるな、といった怖さや、普段感じないような自分の中にある野生を感じました。

そして、食べられるかもしれないという恐怖の経験から、現代の人間が食物連鎖から切り離された存在となっていることに、強く違和感を覚えたんです。

高槻 森の中で日常生活では感じていない恐怖を感じた、そして人間が食の連鎖から切り離されているように感じる。自然の中の人間の位置を考えると、都市生活者は変になっているんじゃないか、ということですね。

でも実は人間は、食物連鎖の中からは外れてはいないんですよ。外れているような感覚を持たされているだけで。動物や植物を食べて繋がっていることは、昔からまったく変わっていないし、これから変わるということもあり得ないわけです。ただ、現代では、狩りや採集をして、それを処理して、調理をして、食器に盛り付けて、そして食べるという昔から食のシステムの、その端っこしか今は見えなくなっているんですね。

子供の頃からスーパーで切り身の肉を買ってくることに慣れていたら、食事のときに、動物の体を食べているという感覚を持つことができないでしょう。人間は野生の姿に戻ることはできないけれど、失ってはいけないベースラインはあったはずです。

宮澤 私は、現代の人々が調理することもできなくなっているという点にも問題を感じて料理教室をやっているんです。築地に行って、知らない旬の魚を買ってきて、さばき方を調べながら調理をする。お皿に乗ったきれいなソースのかかったおいしい魚ではなく、切り身にする前の魚の構造がどうなっているのかを知ることが重要だと思うんです。暗闇の森を歩くような強烈な原始的な経験がすぐにできなくとも、料理などを通じてひとつひとつ戻っていくことができると思うんですね。

高槻 そういう体験を通して魚の種類の違いを知ることもできますね。私は動物の体を開いて、その共通性に驚きます。魚と哺乳類は、分類学でいうと相当離れているんだけれど、構造は基本的に同じです。哺乳類であろうがカエルであろうが鳥だろうが、胃袋があって腸があって肺があって……、という共通性にこそ驚くところがあります。

以前、宮城県の金華山という島でシカの研究をしていたとき、対岸の牡鹿半島に泊まって調査したことがあります。夜、泊まったところの漁師さんと話していたら、シカが島から半島の方へと泳いでいくことがあると教えてくれたんです。どうするんですか? と聞いたら「捕まえて食うんだ」と。解剖できるんですか、と聞いたら「魚と同じだよ」と言うんです(笑)。見た目は違うけれど、基本は同じなんですよ。

それから毎年夏にはモンゴルに調査に行くんですが、モンゴルでは家畜の中で人が暮らしているから、モンゴルの子供というのは、牛でも馬でも羊でも子供はお母さんのおっぱいを飲むということは同じだということが分かるし、交尾も見ることになります。家畜を見ながら、生き物の原理のようなものを体得し、人間も違いはないんだということを知る。ああいう日常の中で得られている、偏見も傲慢さもない感覚というのを都市で暮らしている人間は完全に失っていると思います。

11.7.16シカクジラの背+

印象や価値観はどこからくるのか?

菅野 ここまでお話を伺ってちょっと思ったので、突然ですが割り込んでいいですか。

住田 どうぞどうぞ(笑)。

菅野 例えば、動物の肉が切り身になっているように、世の中で色んなプロセスが見えなくなっていてやばいだろうというお話ですが、そりゃやばいだろ、と思います。その一方で、私も科学者ですけど、科学というのはそのやばさの最たるもので、先人たちの蓄積の上に成り立っていて、これまでに分っていることを前提として、先に進んでいる。つまり、現代の科学者で教科書に載っているような知識や技術の原理の全てを自分の目で確認して先に進んできた人はいないんですね。ブラックボックス化されてから、先に進んでいるわけです。

我々がこうやって話していることも、様々な技術が発達して、知識を本やネットで得られるようになって、昔のことを振り返ることが出来るようになっているからこそ、「昔はこうで、それを失った現代人がやばい」と思えるわけです。

住田 現在を相対的な視点からみることで、 「ヤバい」と感じる、 というわけですね。

菅野 はい。最近知った『銀の匙』という漫画・アニメがあります。主人公が、北海道の都市部にある受験進学校から、なぜか農業高校に進学するというお話です。同級生にとっては、生き物を殺して食べて、それが当たり前という世界。命をいただいている、という感覚はもちろんあるんですけど、それが当たり前という世界なんです。それにビビっちゃう、あるいはいちいち違和感を持つ主人公という(やばい)存在によって、他の登場人物や読者が本当の命の大切さについて考えさせられる、という構造になっています。現代人は、その主人公みたいな状態で、昔を振り返るからこそ、その大切さが味わえ、意識できているのじゃないかと思います。自覚的に。

今と昔というのは、時を越えた立場の違いですが、現代における様々な立場の違いを越えて世界の在り方を考えていこうというのが、このSYNAPSEというプロジェクトの趣旨であって、それは「切り取る」というメディア的な行為でもあります。今、ただ中にいるとわからないことを、客観視する、あるいは違う立場から見て、理解するという行為です。次のお二人はメディア関係の方なので、どのように切り取られるのか、楽しみです。

住田 では、まず服部さん、いかがですか?

服部 今回のイベントのお話があったとき、講師は、シカの研究をされる中で、増え過ぎたシカを殺して減らした方が良いと仰っている方だと住田さんから聞いて、なるほどと思ったんです。

ちょうどその頃、ある写真家の方とやりとりをしていて、彼が北海道でシカの猟師さんたちを何年も追いかけているシリーズにまつわる話を聞いたんです。彼のことを報道カメラマンだと思った地元の猟師さんは怒って撮影を止めたそうです。しかし、「これは芸術です」と答えると、彼らは「撮っていいよ」と承諾してくれたというんです。つまり、報道の中では「狩り」そのものが動物を殺すというネガティブな印象で描かれることが多いことを彼らは知っているんです。なぜそういうネガティブな視点、心理が出てきてしまうんでしょうか。

先ほど食の話が出ましたが、以前『いのちの食べ方』という映画を見てベジタリアンになった、という人がいました。牛の屠殺現場なんかもたくさん出てくる映画で、もちろんショッキングだったんですが、むしろ私は屠殺の現場に行って見てみたい、と思ったんです。お肉も食べたい、と。「いのち」の現場に携わっている人をネガティブな心理で捉えられるようなことが無いようにしたいと思ったんです。このような人間の心理をどう捉えられるのか先生にお聞きしたいです。

高槻 間違ったやさしさが優先して、動物を殺すのが一切悪いという声が大きい。これは、正面から死を見ないようにさせられている結果ですね。多勢に無勢な状況下で、ハンターは悪者にされるから、報道には出すな、出るな、ということになってしまうわけです。

服部さんが屠場を見たいと思ったことについてですが、現実に何がなされているのかを知った上で肉を食べるべきで、屠場を見たい、というのは健全な心の持ちようだと思いますよ。

モンゴルでは、昨日まで飼っていた羊を殺して食べるわけですよ。彼らは動物のことをすごく愛しているんですね。名前をつけて、体調も気づかっていて、弱っているものにはケアをする。でも殺すんです。彼らの言葉の中に、「昨日までの羊は今日の肉」というのがあって、殺した後には肉になる。羊は草を食べる、草は地面から栄養をもらっている、地面が自分を生かしているという実感を持って毎日を過ごしている。でも私たちは、自分を生かしているのがお金だという実感になってしまっている。

先ほど菅野さんが言われたような、科学の発達、経済の発達、システムの発達、情報伝達の発達については、それらがあって現在があるわけですけど、プロセスを知らないといけない。だからこそ歴史を学ばなくてはいけないと思うんです。本来人間が持っているもの、今自分たちがそこから随分離れていることを、子供たちにできるかぎりいい形で学ばせる配慮を大人はしないといけないし、自分自身の勉強としても、自分に教えることが必要だろうと思います。

服部 私は幼いころから猫を飼っていたのですが、その猫はデパートから買ってきたもので、今実家にいる猫もペットショップから買った猫なんです。うちの親は保護団体から猫を引き取るということを全く知らなかった。

最近実家で昔のネコが亡くなって新たに飼うことになりました。その頃にはilove.catで福島のシェルターで取材をしたり、そこで引き取ったネコと暮らしていたこともあり、実家には、保護活動や福島に誰にも飼われずにいるネコがたくさんいること、そして次の猫はそうしたところから引き取ったらどうかと提案したんです。しかし、そういう考えは無いと、理解してもらえず、結局実家ではペットショップから買ったネコを飼っています。

なんで理解してもらえないんだろうと思った時に思い出したのが、中学生ぐらいの頃、古着が好きで買って帰ったら、汚いと言われた体験です。古着をファッションで着ているんだということは理解しているんだけど、やっぱり新しくて綺麗なものがいいという価値観を持った世代の人たちなのかなあと。古着と猫はもちろん一緒ではないですが、その辺りの価値観は変えられないなあ、と。どうやったら、そう思い込んでいる人たちに少し考えが変えられるように伝えられるだろうか。どういう風に言えばいいんでしょうか。

高槻 この本で書いたのは、売れ残った動物が処分されるという無用の殺生を生み出す、商品としてペットを売るというシステムもまた、本来の人と動物の在り方とは違っているんじゃないかということでした。私は、 ペットは専門ではないので、もともとそういう印象を持っていたというより、書きながらそういう考えに至ったんです。

世界的に、犬は本来経るべき親と過ごす成長過程を考慮して、生後8週間過ぎないと売れないことになっています。しかし日本では6週間で売っていた。法律の改正が試みられたのですが、業者からものすごい抵抗があった。要するに6週間だと売れるけど、8週間だとかわいくないから売れなくなると。で、7週間に決まったということらしいです。命を「かわいい」という商品価値に置き換えて、犬の心の発達を無視する――ここにも人間側のおごりがある。かわいいおもちゃを買う、バッグを買うのと同じ感覚で、命を買うということは良くないのではないかという直観が、私にはあります。

服部さんの話の、古着と猫のアナロジーはちょっと違うかなあと思いますが、福島であの事故が起きたとき、人の生活や健康が最優先だったことが間違っていたとは思いませんが、それによって家畜やペットが路頭に迷うことがあったということを本の中で言いたかった。つまり、安楽死ができなかった、と。そもそも、その土地に人が住めなくなったということの意味を総括していないですよね。そして、人がいなくなるときにペットをどうすべきかということについて社会が何も考えてこなかった。

そういう中であの事故の犠牲者としてのネコを引き取ってあげれば、そのネコにとってもいいし、ネコを飼いたいという人の気持ちも満たされるのに、ペットショップで買ってしまう。この場合は、せっかくペットを飼うなら、大きくなってしまったものではなくて幼いうちから飼いたい、ということかもしれませんが、一般的な保護活動をしているところからもらうなら、子猫もいるし、一概にそういう話ではなくなる。こうなると、そもそも、人がペットを飼うとはどういうことか、という大きな問題になってくるので、私には答えられないですね。

行き着く先は本当にヤバいのか?

大西 「このままではヤバい」という方向の話になりつつあると思うのですが、あえてここで、「本当にヤバいのか」と問うてみることもできるかなあと思うんです。ほとんどの人が、高度に資本主義が発達した今の世界で生きざるを得ない中で、今日論じられたような、動物であることを自覚せぬまま、自然から切り離された存在としての人間、という方向が行くところまで行くとどうなるのか、よく想像するんです。このまま行くと、「本当にヤバいのか?」と質問されたらどうお答えになりますか。

高槻 サルとしての人間の本質的なところから離れざるを得ないということは、そうだと思います。

人間が食べるものは変わらず動植物であるし、狩猟をするとき10人ぐらいの単位で動いていたのが、新しいメディアによって1億人と繋がったとしても、それは感覚として実感は持てない。それは人間がそういう進化をしてきた動物だからなわけです。いろんな意味で挑戦していると言えますよね。例えば、残せないはずの音が、録音してまた聞けるなんてことをしていいのか? そういう問いかけは重要なことだと思いますが、現代人はそういう問いかけをすることに、「いいも悪いもない、できるんだからする」ということになる。録音、録画ができることは便利なことだが、考えようによっては大切なものを失ったことでもある。昔は芸能をみることは一期一会であった。それをみて感動をして「一生これを忘れないぞ」と思っていた感覚と、「録画しといて後で見ればいいや」という感覚は大いに違う。便利さによって失うものはまちがいなくあるはずです。

私の考えは、甘いロマンチシズムかもしれないが、技術発達が本来のヒトの進化に照らして適切であるかどうかを注意しながら考えていきたいという感じですね。

大西 僕はテレビというメディアの仕事をしているので、この番組を百万人が見たらどうだろう、一億人が見たらどうなんだろうなどと、作りながらよく考えることもあるんですが、ヤバさというものが共有され得ない必然性というのがあると思っていて。

都市という環境においては、人間が自然から切り離されて生きてもいいじゃん、と思っても生きていける。今は、都市の時代とも言われていて、都市の人口はますます増えている。そういった人たちは自然の一部であるということを感じなくてもずっと生きていけるようになるかもしれない。僕にとってそれはちょっと恐怖でもあります。でも、そこに暮らしていく人にとっては、栄養は全部切り身で送られてきてもそれはそれでいいんじゃん、となるかもしれない。そういう世の中の流れもあるなあと思うんです。

高槻 色んなことがヴァーチャルになることによって、より便利になるということはたくさんあると思います。でも、動植物を食べるという本質は変わりません。そこの乖離がどこまで大きくなっても許されるか、ということが不安だということですね。

大西 技術の進歩によって文明が破滅したり、ヤバい方向へ向かわせるという話は過去にも色々あり、その中でもイースター島という、あんな巨像を作ることができたような文明がなぜ滅びたのか、という例がよく取り上げられると思います。

一方で、結局、近々の利便性や効率を優先して物事を進めてしまった結果として、良くないことになってしまうことが多々あると思うんです。ご著書に出てきたイエローストーンでのオオカミの件もそうですよね。こういうことを考えると行くところまで行かないとヒトは気づけず、変えられないのではないか、という小さな諦めのようなものも僕にはあります。

高槻 イースター島の文明崩壊については、ジャレド・ダイアモンドが環境被害や当時の社会情勢などを総合し、非常に優れた論考をしています。現代人はそういう歴史を知って学ぶことができるのだと書いています。行きつくとこまでしか行かないとどうしようもないか、というと私は楽観的なんです。しかし、だからこそ、冷静に多くの情報を分析して未来を見据えるような努力をしないといけないだろうと思います。

そんな風に人間自体については楽観的なところがあるんですが、現代、特に21世紀になってからの便利さが、本来の人間の持っていた感覚では測れないようなところまで来ていて、これからの子供たちは生まれた時からそういう世界しか知らないということの恐ろしさに大人は注意したほうがいいのではないか、ということです。

大西 僕も、先ほどは悲観的だと言いましたが、一方で、もしかしたら先生のおっしゃるヤバさに人々が気づき始めているのではないかとも思うんです。

例えば、卑近な例かもしれませんが、先日ある有名なファッション雑誌の編集長から、ほんとに服が売れなくなった、ハイブランドの服への若い人たちの興味が薄れたという話を聞きました。

どういう方向に若い人たちの興味が移行しているかというと、「ライフスタイル」がファッションになりつつあるらしいんですね。そして、消費の動向なんかをみていくと、そのライフスタイルの中心にあるのは食である、と。材料だったり、産地だったり、作り方だったり、こだわったものを、こだわったやり方でちゃんと食べるということへの興味がものすごい勢いで増えてきている。震災以降、日本では、そういうことに関連する本の売り上げがぐっと上がっている。しかも、この流れは日本だけでなく、世界中の先進国でそうだと。みんな若い人はスマホやタブレットをバンバン使いながらも、肌感覚では何か別に感じているものがあって、変化が起こりつつあるのかなあ、と。

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再び、やさしさについて――つながりへの想像力

大西 今日、アサイさんからの、やさしさとは何か、という問いかけを聞きながら僕が思ったのは、やさしさというのは「つながりへの想像力」みたいなものなのではないかということでした。この本の中でも、「つながり」あるいは「リンク」という言葉が幾度も繰り返し出てきます。この本は、動物と人間の関係、あるいは動物と植物の関係といったことを主題にしつつ、もっと大きい問題提起になっているように僕には思われて。それが想像力というもの、部分だけを見るのではなくて全体を見る、細切れのものではなく長い連鎖を捉える感性といったものなのかなあと。

小学生や中学生がこの本を読んだ時に、動物や植物とのことを考え、知るという経験が、そこから敷衍されて、自分自身の、隣にいる人や社会との関わりを想像していく芽にもなっていくのではないかと思ったんです。みんながみんな動物を守りたい、というような思いを持たなくてもいいかもしれないけれど、そういった感性は社会として共有できた方がいいと思う。

高槻 そこまで高めてもらえれば、著者として身に余ることですが、僕はそこまでは考えてなくて、人と生き物、生き物同士が繋がっていっているという範囲で書いたつもりです。ですから、さらに一般化したものを読者に期待して書いてはいないです。これは、担当編集者の朝倉さんいかがでしょう? 本を作っている時にそこまで考えていないですよね?

朝倉 そうですね。そこまで明確には考えていなかったですが、全体の流れを考えていく中で、ペットの話からだんだん地球の話になって、その中で少し、人間同士がいがみ合っていることの馬鹿らしさという話に触れ、最後はちょっとSF的な視点があるところまで到達しているので、そこまで広げて読み解いていただけたのかな、と。その流れが活きてきたのかなあ、と感じました。

先生の文章は美しくて、童話のような物語性があると思っています。それを活かした本作りにしたんですね。今お話がこれだけ広がったのも、理系、文系と分ける必要はないとは思うんですが、人間も動物のひとつとして見る理系的な突き放した客観性と、美しさや情緒性を感じていくような文系的な視点とが、一体になったとき、そういう今日のお話が広がったようなところまで到達できるのかなあ、と思いました。

高槻 朝倉さんに最初渡した原稿には、「最後に地球を上から見てみよう」というあの部分はありませんでした。最終的に、全体をまとめる際に書いたんです。あれを書いている時はすごく気持ち良くて、宇宙飛行士のような気分になった。もし自分がそんな風に眺められたとしたら、私は「地球の上でお前たち勝手なことをしすぎているぞ」と言うと思うんですね。このまま暴走してはいかん、つまらないことでいがみ合っている場合ではないだろうという気持ちがある。その人間の中でのいがみ合いをつまらないものとしてやめようという気持ちを、さらに動物との間にまで広げることはできないだろうか、と書いたんです。あの部分は、普段地面の上の動物について書いている時より、上の方に上がったような感じがあって気持ちよかった。

塚田 SYNAPSEメンバーの塚田です。先ほどの大西さんの話にもありましたが、行き着くところまでいっているこの現代の動きとして、たとえば、生産者の顔が見たいとファーマーズ・マーケットがもう何年も人気になっていたり、オーガニックという言葉が日常的に使われるようになったりと、都市生活の反動的な欲望のようなものが現れてきています。

その一方で、ファーマーズ・マーケットの野菜は高いですよね。最近、ニューヨークやロサンゼルスに行って、ここ近年顕著な健康志向やオーガニックブームを肌身で感じました。しかし、アメリカ全体を考えてみれば、都市以外の地域は依然大量生産型食品やファースト・フードが主流のままですよね。お金にも時間にも余裕がある都市型の人たちは次第に意識を高めているけれども、そこまで考える余裕のない人たちは、安ければいい、すぐ食べられればいいという感覚から抜け出せない。そうした二極化の流れは、日本においても既に始まっていると思います。

高槻 憂うべきことだと思います。過去にも、近代化し、便利な生活になる中で抜け落ちる恐ろしいものがあるという直感を持った人は、たとえば芸術家などに多くいたと思います。ここにきて、反動としてのオーガニックというのは確かにあり、僕はここに希望を持ちたいと思います。人間が闇雲にある方向へ向かってしまうときに、「あれ、ちょっとこれまずいな」と思う人が一部でもいると思いたい。ファースト・フードを食べることは仕方がないけれど、恐ろしさに気付いている人は伝える努力をしないといけない。僕にとっては本を書くモチベーションはここにあって、「考えてみてください」と投げかけているんです。

塚田 個人的な話ですが、私の同居人が今、すごく犬が飼いたいと言っているんです。でも私は、今回先生の本を読んで、ペットショップというシステムがいかに残酷であるかを痛感したわけです。そうすると、ペットショップの前を通るとき、ついかわいくて見ちゃうんですが、もしこの子が売れなかったから殺されてしまうかもしれない、なら私が買うべきかどうか、という複雑な気持ちが交錯します。

さらに、私はフォアグラが大好きなのですが、フォアグラの生産方法がいかに残酷かと知った時、私たちはどうしたらいいのか。つまり、すでに資本主義のシステムの中で商品となっている命があり、それが目の前にある時代において、それらを受け入れるべきかどうかという選択を迫られていると思います。人間本位な命の生産の実情を知った上で、私たちの「かわいい」「食べたい」という欲望とどう付き合っていけばいいのでしょうか。

高槻 私は割とはっきりしているんですよ。私は全然グルメじゃないんです、白いご飯とアジの開きが最高においしいと思っているから(笑)。グルメの話は別としても、結局こういう問題はひとりひとりが、自分の考えを持ち、それを持ったらそれを貫く。そういうことが、グラスルーツ的な不買運動になってゆくと思うんですよ。現実に、毛皮のマフラーは今着用しなくなったわけですよね。あれは、機能として代替できるものがあれば、不必要に動物を殺すべきではないという不買キャンペーンが実現したわけですよね。

「これは買う、これは買わない」という基準をそれぞれが持つこと。そういう人がひとりずつ増え、日本の中で買う人がいなくなればその産業はつぶれ、それが社会を変えてゆく。私がこの本の中で言いたかった、「生き物が繋がっていることを大事にしよう」とか、「人間が傲慢になりすぎない方がいい」ということを子供が本当に理解してくれれば、何かをする時に考えてくれる—そういうことが大きい力になってくれたらいいな、という感じですね。

この本への反響の中に「子供向けの本なのになかなか考えさせる」というのがありました。私はすごくそれに腹が立ったんです(笑)。子供向けに書くという形をとっているけど、大人も知るべき内容を含めているつもりなんです。子供向けの本は簡単だと思っているようだけれど、大人にも伝えなければならない内容を、子供に分かるように書くというのがどれほど大変なことか。編集の朝倉さんとも、言葉の選び方や文章の並べ方をかなり考えました。大人向けだったら、もっと専門的な言葉、難しい言葉を使ってより正確に伝えることができますが、それができない分、子供向けのほうがよほどたいへんなのです。そのことがわからない人に腹を立てたわけです。

子どもが親と一緒に、この本に出てくるような話をしてくれたらいいなと思います。そうすれば大人も考えてくれるでしょうから。中学や高校の先生が、割にジュニア新書を読むということも聞きました。子供向け、というスタイルをとっているけど、伝えたいのは、子供だけじゃないんです。

住田 ありがとうございます。まだまだ議論は尽きないですが、時間が来てしまいました。今日は、色々な立場、職業の方がいらっしゃると思いますが、せっかくオトナの皆さんがお集り下さっているので、この後の懇親会ではお酒なども頂きながら、参加者の皆さんとの議論を続けられればと思います。今日話題になった「つながりへの想像力」や「やさしさ」を現代社会における個々人の選択にどのように活かしていくか、それをもって次世代に何を残していけるか、考えていければと思います。高槻先生、皆さん、今日はありがとうございました。

編集:福島淳、飯島和樹(SYNAPSE Lab.)

■イベント告知

大学・地域連携シンポジウム「つながるSYNAPSE −世界制作のための (x, y, z)」

〈開催概要〉

日時:2014年10月18日(土)16:30~20:00(OPEN 16:00/交流会 19:30~)
会場:青山学院大学 アスタジオ B1Fホール(渋谷区神宮前5-47-11)
参加費:無料(事前申し込み不要)
主催:SYNAPSE Lab
共催:青山学院大学社学連携センター(SACRE)
問合せ:info@synapse-academicgroove.com

詳細は http://synapse-academicgroove.com/2014/10/02/xyz/

IMA CONCEPT STORE 連続トーク企画
「写真とサイエンス-視野を拡張するビジュアル表現-」

【日程・内容・ゲスト】
■第1回:10月13日(月・祝)18:00~20:00
宇宙編「宇宙のランドスケープ」
ゲスト:福士比奈子( 国立天文台 /4D2U)、 小阪淳 (アーティスト)

■第2回:10月23日(木)20:00~22:00
細胞編「ミクロのワンダーランド」
ゲスト:田尾賢太郎(脳科学者)、 高木正勝 (音楽家/映像作家)

■第3回:10月29日(水)20:00~22:00
超次元編「11次元空間は可視化できるか?」
ゲスト: 橋本幸士 (物理学者)、 山口崇司 (映像作家/d.v.d)、 鳴川肇 (建築家)

■第4回:11月6日(木)20:00~22:00
SR(代替現実)編「現実と虚構が交わるイメージ」
ゲスト: 藤井直敬 (脳科学者)、 湯浅政明 (アニメ―ション監督)、 森本晃司 (アニメーション監督)

詳細は http://imaonline.jp/ud/event/54117ee6b31ac94368000001

プロフィール

高槻成紀野生動物保全生態学

麻布大学獣医学部教授。各地でニホンジカをはじめとする野生動物の研究にとりくむ。海外でも、モンゴルを中心に、スリランカ、マレーシアなどで保全生態学の研究を手がける。ウェブサイト:http://blog.goo.ne.jp/takahome12

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