2011.01.31

国の基幹産業として育成される「再生医療」

1月31日付の朝日新聞に、「安易に幹細胞治療」という見出しの記事が掲載された。幹細胞といえば、再生医療の一角を担うとされる重要なキーワードである。文部科学省の予算案にはかねてより実施されている「再生医療の実現化プロジェクト」への予算がつけられているし、厚生労働省の「元気な日本復活特別枠」(健康長寿社会実現のためのライフ・イノベーションプロジェクトの推進)には、再生医療技術の実用化に向けた研究への予算も盛り込まれた。

さらに、文部科学省、厚生労働省、経済産業省の3省が基礎研究、臨床研究、周辺技術等開発、知財戦略等について連携を行い、基礎研究と応用研究の間に横たわる「死の谷」(基礎と応用の所轄官庁が違うために生じる予算の不足や法律の障壁)を埋め、再生医療の早期の実用化を図る「再生医療実用化ハイウェイ事業」が実施されることとなっている。国をあげて「再生医療」を日本の基幹産業として育成していこうということであろう。

ヒトiPS細胞の成功以来、日本国内では再生医療に対する認知は急速に高まっており、長い低迷期にある日本にとってひとつの希望であることは間違いない。また、政府は2010年12月に海外から病気の治療や健康診断を目的に来日する外国人への対応として、最長6ヶ月の滞在を認める「医療滞在査証(ビザ)」を新設すると発表しており、将来的には「再生医療」も「医療ツーリズム」の目的として加わっていくことも考えられる。

韓国のバイオベンチャー企業が日本で幹細胞移植

朝日新聞の記事に先がけて、イギリスの科学雑誌ネイチャー2010年11月25日号(http://www.nature.com/news/2010/101123/full/468485a.html)に、韓国のバイオベンチャー企業が日本で幹細胞移植を行っているという記事が掲載された。幹細胞には身体を構成するすべての細胞へと分化しうるES細胞やiPS細胞のような幹細胞とは別に、身体の中にあって、生涯にわたってその組織を維持し、個体の生命を維持していくための幹細胞も存在する。骨髄の中には血液の源となる造血幹細胞があり、脂肪の中にも幹細胞が存在している。こうした幹細胞は体性幹細胞と呼ばれ、iPS細胞などとともに再生医療のための重要な研究対象となっている。

記事によれば、韓国のバイオベンチャー企業は糖尿病患者などから脂肪組織由来の幹細胞を単離し、その上で患者と細胞を中国や日本などにある提携クリニックへ送り込み、患者への移植を行っているという。さらに記事によれば、この日本と中国のクリニックで施術をうけた韓国人患者が死亡する事態が生じているという。韓国では新聞などでも大きく報道され、また国会でも取り上げられるなど、大きな問題となっている。

韓国国内では、患者自身から取り出した細胞であっても、薬事法で認可を受けなければ、それを調製し投与する行為は行うことはできないとされている。一方、朝日新聞の記事にもあるように、日本の医療現場においては、「医師の裁量権」を根拠に、「ヒト幹細胞を用いる臨床研究に関する指針」(ヒト幹指針)の遵守や薬事法に基づく治験等の申請といった、安全性の確保等のための正規の手続きを経ず、幹細胞の輸注、投与、移植等の所謂、再生・細胞医療と称する行為が行われている実態がある。

横行するグレーゾーンの医療行為

ためしにインターネットの検索エンジンで「幹細胞」を検索すると、学術的な記事や新聞メディアの記事にまじって、美容クリニックなどによる豊胸術やアンチエイジング施術などの宣伝を見出すことができる。

だが、日本国内でヒト幹指針にもとづいて行われている臨床研究はまだ二十数例にとどまっているし、臨床研究は科学的根拠や安全性の確保、患者保護の観点からある程度の設備や人員が必要であり、どこでもできるといった代物ではない。つまり、こうしたクリニックが行う「幹細胞治療」と称するものが正規の手続きを踏んでいるとは考えにくく、細胞の移植法や安全性などについて開示情報がきわめて不十分で、正当な医療行為といえるのかどうか、グレーといわざるをえない。

ネイチャーの記事では、タイの研究グループが、腎臓病の幹細胞治療後に死亡した患者1人に「奇妙な病巣」をみつけた論文(Nature 2010年6月24日号)を参照したり、生後18 か月のルーマニア人男児が、脳に幹細胞を注入された後に死亡したことなども紹介して、自国内で未認可・未承認の細胞移植などを受けることの危険性について警鐘を鳴らしている。

こうした行為はすでに数年前から報道されており、2005年にはアメリカのニュースサイト・ワイアードビジョンはロシアにおける野放しの幹細胞治療を紹介しており、脂肪由来の体性幹細胞はおろか、ES細胞と称するものを注入されるような施術も行われているという(http://www.wired.com/medtech/health/news/2005/03/66904)。

「臍帯血から得た幹細胞バンクが勧める医療機関は詐欺まがい」

2010年2月、米科学振興協会(American Association for the Advancement of Science、AAAS)の年次大会で、幹細胞研究の第一人者として知られる米カリフォルニア州スタンフォード大学アービン・ワイスマン教授が、「臍帯血から得た幹細胞バンクが勧める医療機関は詐欺まがい」という主旨の発言を行っている。ワイスマン教授は、前掲のようにタイやロシアなど規制が緩い国では効果が実証されていない、そして安全性への配慮の乏しい幹細胞移植が横行していることを踏まえ、適切なルールのもとでの再生医療研究の進展を訴えたものだ。

たしかに、臍帯血から得られた幹細胞は白血病治療のための移植ソースとはなりうるが、臍帯血由来の造血幹細胞が脳や心臓、血液や骨格筋をつくれるわけではない。また、韓国のベンチャーが行っているように脂肪由来の幹細胞をそのまま点滴するという行為が、現在の糖尿病治療を上回る治療効果があるのか、その根拠となる科学的知見は多いとはいえない。

もちろん、さまざまな団体は現状に手をこまねいているわけではない。幹細胞研究に係る国際組織である国際幹細胞学会(ISSCR)では、幹細胞を用いる臨床研究に携わる研究者向けに「幹細胞の臨床応用に関するガイドライン」を定め、幹細胞研究者が科学的根拠や安全性の乏しい「幹細胞治療」を安易に行わないようガイドラインを設定している。

さらに、幹細胞治療に関心をもつ患者に対しては「幹細胞治療について患者ハンドブック」を作成し、自分が受けようとしている治療法が公的機関から承認されているものなのか、もしくは臨床研究や治験の承認等を受けているのか、そして科学的な根拠をもつのか、といったことを確認するよう推奨している。

高度で先進的な医療を受けるための機会が失われる

筆者は決して先進的な医療行為に否定的なのではなく、むしろ幹細胞を用いたさまざまな医療が一般の患者に大きな利益をもたらすことを期待しているし、現在の日本では再生医療研究へ厳しい規制が課せられていることには憂慮している。

たとえば、日本のバイオベンチャー企業であるセルシード社は、「角膜再生上皮シート」を用いた治験を日本ではなくフランスで行ったという。また、再生医療関連製品として日本ではじめて保険適用をうけた「ジェイス」(重篤なやけどなどに対して移植される自己細胞由来の培養皮膚)は、実際の患者を治療する場合には保険適用分だけでは十分な量が移植できず、混合診療(保健診療と自由診療の併用)を禁ずる日本の制度下では、企業の厚意によって無料で製品が提供されているという現状もある。再生医療を取り巻く日本の環境の厳しさを物語っていよう。

過剰な規制は医療の進歩にとって、そして疾患の治療を待ちわびる患者にとって、幸せなこととはいい難い。科学的なエビデンスがあったとしても、先端性がゆえに「医師の裁量権」の範疇で治療を行わざるをえない場合もままあり、その行為を完全に否定することはできない。

だが、ヒト幹細胞を用いた医療は、社会から大きな期待を担う一方で、安全性など、これから解決されねばならない課題も残されている。これは基礎から臨床に携わる研究者コミュニティ、そして法律や倫理にかかわる専門家も交え、問題点を一つひとつ丹念に解決していく必要があり、「医師の裁量権」を根拠に臨床応用を行うのは、早計といわざるをえない。

日本がもつ先進的な医療技術を評価された上での医療ツーリズムであれば歓迎すべきことであるが、前述のような日本の慣習を悪用し、脱法的行為のための温床として簒奪されてしまえば、結果として法制度を厳しくせざるをえなくなり、日本国民が高度で先進的な医療を受けるための機会を喪失してしまう。そのことは避けなければならない。

日本再生医療学会の声明

日本の幹細胞研究者が多く所属する日本再生医療学会も、科学的根拠や安全性の配慮など、患者保護のルールに基づかないまま幹細胞を患者に投与する行為に対してはきわめて強い憂慮をいだいており、近く何らかの対応を行うことになるだろう。

また、厚生労働省などの行政当局もこうした行為には重大な関心をもっているといい、再生医療学会などと連携し、新たなルールづくりを進めていくと考えられる。もちろんそれは重要かつ意味のあることであるが、法的な規制をただ強化するというのではなく、研究者自身が既存の各種法令や通知、告示、ガイドライン等を遵守し、研究モラルにもとづいた自覚的な行動をしていくことを徹底させ、健全に再生医療研究が推進される環境整備を行うべきである。

同時に研究者コミュニティはマスメディアやネット媒体などを通じ、国民へさまざまな判断材料の提示を行って理解の増進につとめ、国民のコンセンサスを得ながら日本の再生医療研究を発展させることを期さなければならない。

日本はiPS細胞を世に送り出した国として、再生医療研究やその周辺の法運用について、世界からの注目が依然として高い。医師や研究者、行政当局、そしてマスメディアは連帯し、自国民を「幹細胞ビジネス」には乗せられないように守る責任を範として示さなければならない。日本が世界の中で果たすべき役割は、決して小さくないのである。

プロフィール

八代嘉美幹細胞生物学 / 科学技術社会論

1976 年生まれ。京都大学iPS細胞研究所上廣倫理研究部門特定准教授。東京女子医科大学医科学研究所、慶應義塾大学医学部を経て現職。東京大学大学院医学系研究科博士課程修了、博士(医学)。専門は幹細胞生物学、科学技術社会論。再生医療研究の経験とSFなどの文学研究を題材に、「文化としての生命科学」の確立をを試みている。著書に『iPS細胞 世紀の技術が医療を変える』、『再生医療のしくみ』(共著)等。

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