2014.11.18

「もうひとつの沖縄戦後史」最終回――洞窟の生と死

岸政彦 社会学

社会 #沖縄タイムス#もうひとつの沖縄戦後史

電子マガジン「αシノドス」にて10回にわたり連載していた「もうひとつの沖縄戦後史」が、最終回を迎えた。貧困、スラム、売春、犯罪……。1960年前後の「沖縄タイムス」の記事から、戦後沖縄の知られざる側面を鋭く切り取る。α-Synodos vol.160より最終回を転載。

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これまで、1960年前後の『沖縄タイムス』の記事を大量に引用・再構成し、リゾートや伝統文化や基地問題だけではない沖縄、貧困と暴力の沖縄、犯罪と売春の沖縄、スラムと経済成長の沖縄について描いてきた。この連載も今回でいちおうの最終回である。初回からここまでの話をざっとふりかえってみよう。

まず第1回めでは、同棲相手の女性を殺してその乳房を切り取ったという凄惨な事件を取り上げ、その背景にある戦後の沖縄社会の特質を描いた。

もうひとつの沖縄戦後史──「オッパイ殺人事件」と経済成長

この回では、たったひとつの事件の記事を取り上げたが、連載2回め以降では、それぞれのテーマに関する記事を大量に引用し、ただそれを並べるというスタイルで書いてきた。

第2回めは、那覇を中心に急激に拡大するスラムと、都市の不衛生の記事を引用した。スラムだけではなく沖縄のいたるところで大量の害虫が発生し、ゴミがあふれ、腐敗し、ドブ川は汚染され、学校の教室や映画館のシートからはノミやダニが発見された。飲食店は不潔で、ゴミ捨て場からは悪臭がただよい、ゴミを焼却する黒煙が周辺の住宅地を悩ましていた。そんななか、当時の西銘順治那覇市長(復帰後の沖縄県知事)がスラム対策にのり出し、現地を視察する。その直後、そのスラムで大火事が発生する。

第3回と第4回では、沖縄の子どもたちの「受難と抵抗」について語った。グロテスクな「胎児焼却場事件」の記事からはじまり、貧困と急激な都市化のなかでおきざりにされた子どもたちを描いた。放置された子どもたちは、あるときは盛り場の「ガム売り」になり、売春し、そして墓地や洞窟に自分たちだけの基地をつくって、窃盗や強盗や「桃色遊戯」をしながらたくましく生活していた。

戦後のベビーブームで爆発的に増えた若年層の犯罪や逸脱に対処するために、1960年になってようやく本格的な少年院が建設されたのだが、完成直後に暴動が発生し、40名以上の少年たちがいちどに脱走し、沖縄中に散らばって逃走してしまう。そしてそのうちのひとりは、強奪した車ごと崖下に転落して重体になる。まるで映画のようなこの脱走劇の顛末は、当時のタイムスでも詳しく報道されている。

第5回では、「ユタ」とイルカ漁を題材に、沖縄の近代化について考えた。戦後の「生活改善運動」のなかで、現在では伝統文化の一部としてよく紹介されているユタ(民間の巫女)は、前近代的な悪弊として批判の的になり、その廃絶すら叫ばれていた。一方で、現在はあまりおおっぴらに語られることのなくなった名護のイルカ漁の祝祭的な様子が大々的に新聞で報じられ、「湾内の海水はみるみるうちに鮮血に染まり」などと表現されていた。

第6回と7回のテーマは「沖縄の共同体」である。沖縄は地縁血縁のつながりの濃い、共同体的社会であるとよくいわれる。しかし、人のつながりの濃いところでは、また憎悪や怒りも増幅する。貧しい家族の母親が自らの9歳の娘をまな板に乗せ首を切り落とした事件の記事から始まり、日常的なつながりのなかで暴発する暴力を描いた。最後に、リンチ殺人をおこした村の青年会を「かばう」区長の談話を引用し、法よりも強い共同体の「論理」について議論した。

8回めは「売春と人身売買」、9回めは「売春街と『都市の生態系』」である。貧困と都市化によって、沖縄では兵相手だけでなく、地元社会に根付いたものとして売春がひろがっていた。戦後の沖縄では各地に盛り場と一体化した「売春街」が形成されていったのである。そしてそのいくつかはいまでも、「ディープな沖縄」として残っている。こうした「ディープなもの」が、どのような「生態系」のなかから発生したのかについて考えた。

さて、この最終回では、当時の沖縄社会を考えるうえでもっとも重要な「貧困」についての記事を列挙しよう。いつも通り、今回もまたかなりの長文になる。

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これまで何度も繰り返し書いているが、戦後の沖縄は空前の好景気で、いくらでも仕事があり、那覇の街は活気にわいていて、人びとは戦前には考えられなかったような消費生活を享受していた。

しかしまた同時に、そこには巨大な貧困があり、排除された人びとが、路上や海岸の洞窟、山中の小屋、そしてスラム街に吹き寄せられ、集まっていた。米民政府の統制のもとで、琉球政府による社会保障の整備も遅れていた。

当時の沖縄では(日本もそれほどかわりなかっただろうが)、社会保障の制度化はまったく進んでおらず、基本的には生活上の困難は、市民が自力でなんとかするほかなかった。公的なセーフティネットの不在は、おそらく人びとの直接の横のつながりを強めると同時に、市民のあいだに「自治の感覚」を育てることになっただろう。

沖縄人の規範として、社会学者の谷富夫は「家族主義」「相互主義(共同体主義)」「自力主義」をあげている。要するにそれは、自分で何とかしないといけない状況であり、お上には頼れない社会ということである。頼るべきものは、家族や地域の共同体か、あるいは完全な自力しかなかった。

悲惨な沖縄戦によっていちど社会全体が解体し、そのあと長年にわたる米軍支配のなかで、沖縄の生活は一方では捨て置かれ、また同時に、行政権力の監視から逃れていた。私たちの目にいま「沖縄的なもの」としてうつるさまざまな慣習や文化や規範、特に「共同体主義」と「自治の感覚」は、この時代に形成されたものなのかもしれない。

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沖縄の社会保障の貧しさは、以下の「精神病者」に関する新聞記事から窺い知ることができる。その記事の内容もだが、まずはその「文体」に注目すべきである。ここではあえて差別的な表現も含めて引用するが、精神障害に対するその偏見に満ちた表現は、そのまま当時の沖縄社会における「弱者」の扱われ方を表しているのである。

野放しの精神病者/増える病者の危害

非監置が何と八百人/精神衛生法案の調整急ぐ

社会局公衆衛生課では、このほど精神衛生法案をまとめたが、今月中に局内調整をおえ、さらに[米]民政府との調整をはかって、開会中の議会に立法勧告することになっている。沖縄では年々精神障害者がふえ、その業者から受ける危害も多くなっているといわれるが、その予防措置に対する法律がないため野放し状態になっている。精神衛生法の立法化は住民の要望であり、果たして議会を通過するかどうか注目される。

本土では[昭和]二十五年五月精神衛生法が制定され、この法律によって精神障害者に対する適正な医療保護がほどこされるとともに国民の精神的健康の保持と向上が図られている。ところが沖縄においては旧法である精神病者監置法が施行されているだけで、基本的な人権尊重の立場から何らの予防措置もなく無法状態となっている。このため精神病者はふえる一方で、治療可能の患者も悪化する傾向にあり、その精神病者から受ける危害が多くなっているようだ。現にさる一月上旬、那覇市安謝区で精神障害者が出刃包丁で傷を負わせたという殺人未遂事件や、中部で婦女子を襲い、暴れて手がつけられず、警察が保護留置したケースもあり、次第に目立っている。……沖縄には唯一の施設として[琉球]政府立金武精神病院があるが、そこでは治療可能の患者に限られており、悪化したものや治療見込みのない者は収容されておらず、これら精神病者のほとんどが野放しにされているというのが現状である。この不幸な精神障害者の保護対策のためにもまた沖縄全住民の精神的健康の保持と向上のためにも早急に精神衛生法を立法化してもらいたいとの声が強い。

[1959.2.13]

気違い天国?の沖縄/凶悪犯罪ふえる/カロニア号のお客もびっくり

沖縄は気違い天国? これはさる三日あさ那覇港に立ち寄った世界一周豪華客船カロニア号=三四、一八三トン=の一部乗客の目に映った沖縄の印象。とくに那覇の目抜き通り“国際通り”にたむろする精神異常者にはいやな思いをしたという。精神異常者の野放しはこれまでたびたびとりあげられながら改善されず現在にいたったもの。さいきんは異常者による凶悪事件もひんぴん、外来者に不潔感を与えるだけでなく治安をおびやかす存在になりつつあるようだ。

警察に出入りする精神異常者は近年ふえる一方。那覇署では、この三月間に三十五人保護した。一月に十二人の割。保護理由は、家族の願い出、無銭飲食かっぱらい、乱暴とさまざま、なかでも通行人や商売人に物を乞い断られると乱暴するという悪質な行為がふえる傾向。これなど精神異常者なるが故に刑事責任を免れたものでまともな人であれば刑法犯に問われるところ。警察ざたになった凶悪事件も多い。主なものを拾ってみると…

▽五七年二月四日、那覇市小禄A(三二)が、長男(六才)を近所の墓地に連れだしバンドで絞殺した。妻ににげられた失意と腹いせの犯行。▽五八年一月二日、三和村字真壁T(三二)が、近所の○○○○さん、○○○○さん方の住宅二むねに火をつけ、区民を騒がした。▽同八月二十一日、今帰仁村崎山Yは自宅に放火。瓦ぶき木造平家住宅=十三・二平方メートルを家財道具とも焼き、百ドルの損害。夫婦げんかの腹立ちが動機。▽同十一月二十二日、今帰仁村字天底I(五〇)が隣家の主婦(五二)を捕猪用のやりで刺し殺した。日ごろから仲が悪いのを思いつめ犯行に及んだもの。

ことしに入ってからは、二月下旬宜野湾村大山M(三一)が、小学校一年生の長男の頭をおので割り重傷をおわした。ちょっとした口論からおのをふりかざして妻をおいまわし仲に入った長男にまで乱暴したもの。

通行中いきなりいきなりなぐられたとか、店先を荒されたという事件にならぬ事件の訴えは後を絶たない。そればかりか精神異常者同士でところかまわずふざけるなど、風紀を乱すおそれもあるようだ。

こういう精神異常者の警察での保護は、酔払いなみに二十四時間、釈放すると他人に危害を加えるおそれのある場合は、判事の令状に基いてひきつづき五日間。その後は市町村長に引渡す仕組み。実際には、一日やっかいになって釈放。またまいもどる精神異常者に警察陣は泣かされ通し。いまのままだと惨事をくり返すおそれが多分にあるとみている。

[1959.4.7]

一読してわかるように、この記事からはまず、戦後の沖縄で、精神障害者に対する社会的ケアの手段がほとんど何もない状態だったことが明らかになる。そしてさらに、より重要なことは、貧困や社会的ストレスから暴発する暴力事件の多くが、「精神病」によるものであると解釈されていたことである。二つめの記事で列挙されている事例は、どれも、現在の目からみると精神障害とはまったく関連がないようにもみえる。

少年犯罪についての回などでも述べたが、当時の沖縄社会では、急激な経済成長と都市化がもたらすさまざまな社会問題が、「少年」や「精神病者」などの「他者」へと帰属させられていた。そうした「他者」的存在は、沖縄の社会から排除されていたのである。

隣り近所で助け合い/不遇な貧困者を見まもる

十九日ひる那覇署は、那覇市一区○班無職○○○○さん(四二)を生活無能力者として那覇市役所に連絡、生活扶助を申し入れた。同署の調べによると、○○さんは戦前熊本県から沖縄に転籍、この戦争で家族を失った一人暮らし、二年前失職していらい希望ガ丘の仮小屋に定住、市内の各パチンコ店をかけめぐってこぼれた玉をひろい集めて金にかえ、一日五円から十円のどん底暮らし、こういうみじめな生活がたたり身体は弱る一方、パチンコ店での玉拾いにもたえられずこのところのまずくわずで寝たっきり、近所の人が気づいたときは死をまつばかりの状態だったといわれ警察に訴出たもの。市の方で面倒をみるまでは付近の人がかわりばんこに世話するという。

[1958.8.20]

救済ことわって死ぬ/あばらや家暮しの○○さん

他人の世話になってまで生きる必要はない。ときっぱり市役所の生活扶助を拒み、死んだ孤独の老人がいる。さる五月三十日よる九時すぎ、栄養失調で死んだ那覇市六区○組○○○○さん(六三)がそれ。

那覇署の調べによると、○○さんは五五年のころから両足の自由がきなかくなり家で寝たっきり。その家も広さは三・三平方メートル足らず、軒は傾き屋根から月がさしこむというテント張りのあばら家。面倒を見る人もなく、近所の子どもたちに買物を頼み、食べ物はすべてナマのままといったひどい暮し。昨年からことしにかけ何回となく受持巡査から本署へ救護要請の申報[ママ]がだされた。ところが昨年末、那覇署からの連絡で実情調査にきた市役所吏員に○○さんはきっぱり救済を断ったという。「若いころに貯めた金がまだ幾分残っている。たとえ金は使いはたしても他人のやっかいになってまで生きのびようとは思わない」といって断った。その○○さんがさる三十日ぽっくり死んだ。死因は栄養失調による衰弱死。のまずくわずの生活がたたったものとみられている。救済をうけるのを○○さんがいやがってもこのままでは命にかかわる、と受持巡査から本署への何度目かの報告で市役所が救護にのりだした直後のことだったという。

[1959.6.5]

はじめの記事中にある「希望ヶ丘」は、現在の桜坂や壺屋、牧志に隣接する、静かな高台の公園である。いつも観光客で賑わう那覇の街のなかにある、この野良猫の楽園のような公園には、誰も知らない物語があったのだ。戦前に熊本から沖縄に移住したというのは、当時としては非常に稀なケースだっただろう。彼がどのような人生を送って希望ヶ丘のバラックに至り、そしてそのあごどのような人生を送ったかを知るすべはまったくない。

もちろん、琉球政府もただこのような状態を放置していたわけではなく、徐々にだが生活保護などの制度がつくられていったこともまた事実である。

暗い人生よさよなら/更生ものがたり二題

成功した生業・医療扶助

暗い日々を送っていた身体障害者が生活保護によって希望を見出し明るい人生へ再出発することになった。これはコザ福祉事務所石川市駐在が取扱った“更生ものがたり”二題である。

(その一)石川市三区○班○○○○さん(四三)は、十五才のとき製糖機に左手首をはさまれて不具の身になってしまった。事情があって長男(一五)、長女(一二)それに母の△△さん(七八)をつれて夫と別れているが、不幸にも△△さんは右目を失眼した。現金収入は全くなくなり、○○さんは、日雇いに出て毎日の生活を維持しつづけたが、長くは続かず、生活は、極度の困苦にさいなまされた。ニッチもサッチもいかなくなった○○さんは、五四年二月生活扶助をコザ福祉事務所からうけた。五七年六月に入ってからこんどは生業扶助費をもらい、生後二ヵ月の仔豚を飼い、生活の建て直しに励んだ長男の手助けをかり、また飼料は隣近所の残パンをもらいうけて育てあげた仔豚は、昨年十一月二百斤までに肥り、八千円で石川屠場に出し、更生の道を立派に切り開いてみた。今、二度目の仔豚を買い入れているが、○○さんは、豚を売り上げたとき早速“自分達はもう生活の目途がついたのでこれ迄の生活扶助は停止して下さい”と自ら断って来ている。コザ福祉事務所□□社会福祉主事は「最初義手によって更生させ様としたが使い慣れず、とうていだめだった。それで生業扶助で試みたところ○○さんの独力で生きようという真剣さが実って今度は見事に生活の見通しがついてやりがいがあったとよろこんでいる」と語っている。

(その二)○○○○さん(四六)=石川市山城区○班=は、幼少のころから目が悪かったが、五〇年二月ごろ完全失明状態にまでなって、自分自身再起不能とあきらめていた。この事情を知った△△主事は医療扶助の手続きをとってやり早速市内の専門医に診せに行かせた。視力は、まだ生きているとの診断で手術治療を施したところ、日に日に快方にむかい、1ヵ月後には、両眼とも完全にもとの健康な眼になって、これまで人手をかりて用足しに行っていたのが一人で何不自由なくトットとやることができるようになり、小踊りしてよろこんだ。その後○○さんは、山城、伊波部落で出来たお茶を市内に運び出し、帰りはうどんかんづめ、米など日曜食品を持ち帰ってこれを部落民に売るといった行商で生計をたてている。昨年春には、結婚してこれまでの無味乾燥な独身生活ともサヨウナラした。

○○さんは「治らないと思っていた眼が、立派に治って何不自由なく働けます」とよろこんでいる。

[1958.1.30]

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当時の沖縄の貧困層が、いったいどれくらい貧しかったのか。行政による総合的な実態調査もほとんど存在せず、その全貌を知ることは非常に難しい。

ただ、以下に引用するように、きわめて簡単に家族が崩壊し、子どもや老人たちが捨てられている状況をみると、たとえ域内総生産が年率10%もの割合で成長していたとしても、やはり沖縄社会のそこここに、深刻な貧しさが残っていたことは確かなようだ。

四姉妹へ保護の手/“ご飯さえあればいいの”

那覇署は那覇市三区○組○○○子ちゃん(一〇)ら四人姉弟を保護、児童相談所に引渡した。この四人姉弟は両親に見捨てられここ二月あまりその日その日の食事にもことかくというどん底暮し。上の二人は学校へもいけず下の二人は栄養失調気味、どうにかしてくれと近所の人から那覇署に連絡があったもの。警察にひきとられた幼い姉弟は、“ご飯があるんだったらお父ちゃん、お母ちゃんはいらない”といっていた。

[1958.11.25]

いまもあるオバ捨山/山羊小屋に住む母

“哀れな生れ…”と目頭おさえる

美里村松本区○班○○○○さんは今年九十六歳、六人の子供から、四人死んで残ったのは五男の△△(六二)と六女A子さん。△△の先妻は十九年もまえに二人のこどもをのこして病死、その後すぐ現在のS子さん(四六)を迎えた。S子さんとの間に四人のこどもができた。

ところが△△は大の酒飲み、他人の土地約千坪を借り、キビ、イモ、野菜を植えているが、朝から晩まで酒びたりで、人を雇って耕作させ、たまにしか畑仕事をしない状態。金は酒代に注ぎ込み、借金は雪だるま式にふえていった。S子さんの話では五百ドルはあるとのこと。酔うと、こどもたちやS子さんを殴ったりのし放題、S子さんは何回となく警察に保護を願出たという。またS子さんは別れようと実家の金武村に帰ると、△△が来て大暴れ、家財道具をこわすようである。二日も金武から帰ったS子さんを殴ったりしたのでコザ署に訴え出た。調べてみると△△の実母○○さんは昨年の九月ごろから、一枚のござを敷いてその上に寝起きしていた。足も悪く歩けない。そばには二頭の山羊がおり入口はウンとかがんではいれる位。戸ビラもなくて、冷たい風が吹き込み、○○さんは二枚の着物を身につけて、寒さをしのいできた。○○さんは「長男が生きておれば、こんなあわれはしないのに…」と、目頭をおさえた。

コザ署では△△を尊属遺棄の疑いで捕えた○○捜査課長、○○係長らが現場にとんで調べたが、食事(イモ)は与えていることなどから遺棄になるかどうか迷っていたが、○○さんを本家に入れることを△△に訓戒するものとみられる。

[1959.2.5]

すてられた三人の子…石川/お母ちゃん早く帰って

祖母がくず鉄拾って飢えしのぐ

児童福祉週間にそむき「三人の幼い子供を残して家出した母親」がいる。年老いた祖母が六日あさ石川社会福祉事務所に「この子らの母親を捜してください」と、泣きこんできた。

石川市五区○班○○○○さん(六九)がその人で、娘の△△△△さん(三二)が二か月前、中学校二年の長男○○君(一四)小学校五年生長女○○ちゃん(一二)、小校二年○○ちゃん(八才)の三人の子供を祖母のカミさんにあずけたまま家をとびだしまだ帰ってこない。このままではかわいい孫を育てることができないと、福祉司に実情を訴えている。○○さんは、福祉司のすすめで警察にも捜さく願いをだした。○○さんはこれまで精神病者の息子□□さん(二九)と生活扶助をうけているが、さらに三人の孫たちをあずけられてどうしようかと路頭に迷っている。□□さんは六年前北谷の軍作業で働いていたとき車から落ち頭を打って精神異常をきたし、さいきんでは狂暴性[ママ]をおび○○さんを殴るなど暴行している。このまま同居していたのでは、いつ子供たちを殴るかわからないというのでひそかに八区○班に孫をつれて隠れたが、息子が見つけておいかけてきた。母親さえ見つかれば早く引渡して子供たちも安心させたいと涙をこぼして語る○○さんは、五月五日の子供の日には三人の子供たちに遠足のおべんとうをつくってやるお金もなく、一日中スクラップや空かんをひろって二十五セントにかえ、カマボコや赤いご飯をたいておべんとうをつくった。

隣人の◎◎◎◎さん(四九)は、「子供たちが遠足というのでおいしいおべんとうをつくってあげようと○○さんが、老身にむちうって一日中スクラップ拾いをしているのを見ると気の毒でならない。息子がときたま暴れだすといつも逃げてきている」と語っている。

○○さんの話

はじめはすぐ帰ると思っていたが、二か月たってもまだ帰ってこないので恥をしのんで福祉事務所に訴えた。子供の日にはおかあさんがいてくれば…と○○[小2の孫]は母のことばかり話しています。新聞を見て早く帰ってきてくれればいいのに…

[1959.5.7]

※注 小2(8才)の孫の名前はアメリカ風のもの

父ちゃん早く帰って/二人の子置きざり

三か月も帰らぬ/“働きに”と出たまま

「お父ちゃんは山原に行って働いてくるから…」と子どもたちに言い残したまま三か月もたつというのに父親は帰ってこない。家主のコザ市山里区○班Bさん(二四)から、さる十日ごろ間借人コザ市山里区○班Aさん(三四)の捜索願いがコザ署に出されているが、いまだに消息はわからない。置きざりにされた長男Cちゃん(一三)小学四年と次男Dちゃん(九才)の二人は“お父さん早く家に帰ってきてちょうだい”と父親をさがし求めている。

Aさんの親子三人が、コザ市山里区○班Bさんの家に間借りしたのはさる四月下旬、Aさんは隣近所ともあまり口をきかなかったので、どこから引っこしてきたかわからないという。自動車の修理工をしていたということだが、さる八月ごろ家主になんのことづけもなしに子どもたちだけを置きざりにしたまま家をとびだしてしまった。しばらくしてCちゃん兄弟が「家のお父ちゃんはまだ帰ってこない…」と家主のBさんに泣きついてきて、はじめてAさんがいなくなっていることがわかった。Cちゃん兄弟は、隣近所の人たちがいろいろと世話をみる一方、あちこちと心あたりをさがしてみたが、Aさんの行く先はつかめず、Cちゃんらのおじさんにあたるというコザ市室川区○班Eさん(四六)に問い合わせてみたが、立ち寄ってない、心配した家主のBさんとEさんは、さっそく警察に捜索願いを出した。

Cちゃんらは、おじさんのEさんのところに引きとってもらうことにしたが、Eさんは八人家族で、それに家がせまいためあとしばらくCちゃんの間借り先で寝泊まりしてもらい食事や身のまわりはEさんがみることにした。現在Cちゃんら兄弟は、山里区の間借り先で二人で寝泊まりをして父親の帰るのを待っている。

Eさんの話

Cちゃんらの母親は、次男のDちゃんが生後六か月ごろAと離婚してその後の消息はわからない。Aが家をとびだしたということは子どもたちから聞いてはじめて知った。山原に行って働いてくるといっていたようだが、山原には親せきもなく心あたりはない。Aはふだんまじめな方で、あまり酒ものまなかった。四、五年前南大東から帰り那覇やコザで修理工をして働いていた。こんなことはいままでになかった。早く帰ってきてほしい。

[1961.11.22]

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戦後の沖縄社会には、行政権力の監視を逃れる「隙間」がそこらじゅうに存在していたが、少年や精神病者、あるいは貧者などの「他者」たちは、さらにそこからも排除され、山中、空き地、草原、洞窟、路上、そしてスラムの片隅などに居場所を見出していた(第4回め「子どもたちの叛乱」参照)。

ある人びとは洞窟に捨てられ、また自ら死を選んで洞窟にこもり、そして行き場を失って洞窟へと流れ着いた。次に引用する記事の、最初のふたつにある「波之上旭ガ丘」「波上北側崖下」は、現在の「波之上ビーチ」のことである。

那覇の西北の街外れに、「波之上ビーチ」という小さな、ほんとうに小さな海水浴場がある。国際通りからすぐに行けるビーチとして、観光客だけでなく、地元の若者でも賑わっている。ただ、このビーチの目の前には巨大な自動車道路が2本も通っていて、眺めは最悪だ。

だが、やはり那覇の身近なビーチとして、シーズンオフでも、そこを散歩する観光客や、ビーチバレーをする地元の高校生で、いつも賑やかである。

第2回めで、60年ごろのこの波之上ビーチがいかに汚く不衛生な場所だったという記事を取り上げた。もういちど引用しよう。

海面に浮かぶ汚物はタバコの箱、ビールビン、ぼう切れ、紙くず、竹切れなどで、チリ捨て場のようです。中には、ネコ、犬、ネズミなどの死骸も浮いていることもあるそうです。このような汚物は一度沖に流してもまた波によって海岸にうち上げられるのでやっかいです。また海水浴場で一番危険なものはビンのカケラ、空カンなどです。これによってケガをする人もいると、子どもたちは話していました。

名護高校H君の話/海はいいとしてもプールはひどいですよ、掃除をしているといっても中の水はにごってノリが浮いているのですからね、ちょっとプールでは泳ぐ気になれませんよ。汚物が多いのは右に泊港、左に那覇港があるためではないでしょうか。

(1960.7.14)

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現在の、眺めは悪いがおだやかで美しい波之上とは思えない風景である。

この波之上ビーチには、石灰質の岩でできた高台があって、その崖の上に、琉球八社のひとつに数えられる「波上宮」(なみのうえぐう)という小さな神社がある。沖縄では神社は珍しいが、いくつかある神社のなかではここはもっとも格式が高い。

そのあたりは、ビーチから急にそびえたつ岩山の崖がたくさんある。石灰岩のそうした岩山には、しばしば鍾乳洞のような洞穴ができていることがある。沖縄戦のときに住民が多数批難し、米軍と日本軍による虐殺や集団自決が起きたのも、多くはこのガマのなかだった。

戦地となった糸満や読谷、あるいは記事中に出てくる波之上に限らず、沖縄の海辺にはこうした洞窟が多数存在した。それらは戦時には住民たちの避難所となり、戦後には、社会から排除された人びとの避難所、あるいは「最期の場所」になっていたのである。

洞窟に忍びよる死の影/波之上/旭が丘で二人目の悲劇

二日未明五時ごろ、那覇市波之上旭ガ丘の洞窟住いをしている住所不定無職○○○○さん(二九)が病死した。

付近の話によると、○○さんは、三月程前から洞窟住い、その間肺結核を患って寝たっきり、紙屑拾いの収入で生計をたてている同居人、△△△△さん(五一)の世話になっていたもの。

これまで何度となく市役所や警察へ救護するよう連絡したが取合ってもらえずこの悲劇となった、と同居人の△△さんはなげく、こういうケースは前にもあった。□□□□さん(五六)といい、市役所が腰をあげ赤十字病院に入院手続きをとったときはすでに手遅れ、浮浪の精神異常者に見まもられて息を引き取ったという。行路病人の悲劇はこれで二度目とあって付近の人々は、社会問題として逆境にあえぐ薄幸な人々の救護強化を望んでいる。

同居人△△△△さんの話

これまで何度となく警察や市役所に連絡したが取合ってくれない、三週間程前やっと社会課の方がみえ赤十字病院で診断の結果、肺結核と分ったが収容施設がないとの理由で洞窟にもどってきた。何べんとなく無駄足を踏み苦労が報いられた、と思うとこの始末だ。なんとかならぬものか。

西武門[にしんじょう]交番の話

訴えのある度に本署を通じて市役所へ連絡している、決して見殺しにはしていない、とかく行路病人というのは市町村役所の主管だ、警察は実情を通報するのが職分、○○さんの場合も何度となく文書で報告した。

那覇市社会課長◎◎◎◎さんの話

○○さんのことは警察からの連絡で知った。早速係をおくり、三週間前診断もした。ところが収容施設がないため具志川村にいた妹に身柄を引渡した。話によるとその後二人とも勤め先を追い出され、真和志市三原にいる叔父の元に移ったと聞いていたがどうしてまた洞窟に戻ったのか分らない、○○君の場合は身寄りもいるのだから家族が面倒を見るべきだ、社会課で取扱う行路病人にも該当しない。だが私としてはできるだけの手はうった。

[1957.12.1]

救われたおばあさん/死の直前から

福祉事務所や市職員の世話で

那覇福祉事務所と那覇市役所の親身の世話で死線を脱して更生の道を見出した一老母の明るい話がある。

名護町宮城区○班○号○○○○さん(六〇)は生きる望みも失いまた持病の頭痛も高じてさる八月ごろ波上北側崖下の壕内二十五米奥で断食して死を待っていた。その月の二十六日にそれを知った那覇署から那覇市役所に連絡があり早速救急車で赤十字病院に入院させた。そのときは強度の栄養失調で骨と皮ばかり、言語障害を起しすでに死の直前だった。それから二ヵ月余の手厚い看護と那覇市役所と福祉事務所のあたたかい心づかいにすっかり元気をとり戻した○○さんは昭和八年ごろ離婚して若狭町の嫁ぎ先からでて不幸な人生がはじまった。戦後名護から那覇に来て転々とし、落着きのない生活をしていた。そうしているうちに生きる気力も失い人手をわずらわさないよう壕で死ぬことを決意したという。

入院するときに丸坊主にされた髪もいまはすこしのび顔色もよくなり、二ヵ月前のおばあさんとはどうしても思えないと係の市役所社会課の△△△△氏は語っている。市役所が繰返し支弁した費用はざっと百六十ドル。

○○さんは身寄りもいないので福祉事務所と相談して近く更生園[ママ。本来は「厚生園」]に送る準備を進めている。

○○さんの話 ひどい頭痛に六年前から悩まされていますが、こんな苦しい思いをするよりは一層[ママ]死んだ方がよいと壕の中で断食しました。だされたときはどうしていらないことをしてくれたかと腹立たしく思いましたが、元気になったいまでは生きてほんとによかったと市役所や福祉事務所の人びとに感謝しています。まだ少々頭は重いですが、更生園に行って静かに生活したいと考えています。

[1958.11.12]

岩穴の中で野宿生活/よるべのない○○じいさん

各家庭では今年もよいお盆を迎えようと、おそなえ物などに大わらわである。ところがここに、あたたかい家庭にも恵まれず、日々の食べ物にもありつけない放浪の生活を送っている孤独な老人がいる。那覇市楚辺俗称フチサー森の岩穴に住んでいる○○○○(七一)がその人。○○さんは那覇市西新町の生まれで、戦前ハシケの仕事をして人並みの生活をしていたという。六人兄弟(女二人)の四男であるが、二十一歳のころ両親を失い、兄弟も一人のこらず死んでしまった。妻は二年ほど前、病気でなくなり、ひとり娘もとついでしまった。それいらい一人ぼっちの生活がはじまった。戦後はライカム [琉球米軍司令部 (Ryukyu Command headquarters) ] でカーペンター(大工)をしたり、那覇市衛生課に働いていたが年をとるにつれて働けなくなった。最近まで石川市の妻の実家でほそぼそと暮していたが、さる三月謝刈に住んでいる娘をたずねて家をとび出した。ところが娘の家もすでに子供三人ができて精いっぱいの生活、○○さんの世話には手が回らない。○○さんは「私が世話になると負担が重くなる」とすぐ娘の家を飛び出た。それからが放浪のはじまりである。六月に現在住んでいる岩穴を見つけ、自分で板切れを集め床をしき雨もりの中で暮らすようになった。それまでは足にまかせてさすがいの野宿生活をしていた。今は鉄クズを集めてスクラップ屋に売ったり、貝を取って市場で売ったりして生活のカテにしている。そのかせぎは多いときで一日二、三十セント程度。

暴風雨とか体の調子の思わしくないときは、ミソを半斤位買ってきて水にうすめ、食べている。ひどいときはミソとなま水で十八日間を過ごしたそうだ。○○さんは、素直な人柄で隣り近所からのうけもよい。朝早く水をもらいに行くときは、にぎりめしをいただいたり、お茶にさそわれてよもやま話にふけるときもある。茶のみ話ではきまって昔の思い出を語っている。ただ寂しいのは三人の孫を見られないということで、謝刈までの往復二十六セントのバス賃がなくがまんしているという。

○○さんの話

私は年ではありますが、まだまだなんとかやって行けると思います。たよりになる身うちがなくて、仕方なく野宿生活をしている。娘も生活に追われているのでやっかいになりたくない。つらいこともあるが一人暮らしも楽しいものです。夜はローソク代がなくて暗いのが悩みです。

[1960.9.3]

○○さんに愛の手ぞくぞく/感謝の涙ぽろぽろ

婦人や少年、外人からも

よるべなく、岩穴の中で野宿生活をつづけている孤独な老人(既報)に同情が集まり、ぞくぞく贈り物が本社に届けられている。

三日あさ本紙朝刊で、那覇市楚辺通称フチサー森の岩穴に住んでいる○○○○さんに贈ってほしいと、一婦人から現金三ドルが届けられた。この婦人は名前を聞かれても「名のるほどのことは…」と、つげずに出ていった。本社では早速○○じいさんをたずね金を手渡したが、じいさんは「見知らぬ方からそのような大金をいただくとは…」涙を流して感激していた。またひるには自分のこづかいをためた金で買ったと、ローソク一袋と五十セントを届けた一少女、ソーメン、ソーセージ、ローソクを届けた無名の婦人、衣類と金二ドルを届けた楚辺二中前の△△△△さんなど、方々から同情が寄せられている。本社ではきょう四日あさ、これらの贈り物を○○さんに届ける。

なお三日ひる二時ごろ外人夫妻が○○さんをたずね、夏ものワイシャツ五枚、オーバー一枚、カン詰め、コンロ(小型)などを贈り、○○さんを勇気づけた。

[1960.9.4]

旅路の果てにほら穴暮し/三十年も“人間脱出”

厚生園に温かくひきとられる

美里村明道の俗称“山岳”で、戦前からこれまで約三十年も洞穴生活をつづけていた老人が、コザ福祉事務所のはからいで十六日、那覇市首里の厚生園にあたたかく迎えられた。ひとりぼっちで、だれにも迷惑をかけず、一般社会と没交渉で山に暮したこの老人は過去の生活について一切話そうとしない。「何が老人をそうさせたのだろうか……」

さる七月二十五日の十八号台風で、“山岳”に山くずれが起きたとき、この老人は落ちてきた石にうたれ、左足骨折の大ケガをした。通りがかりの農夫がみつけてコザ病院に入れ、行路病人として約三か月治療したが、戦前から“山岳”の洞穴に住んでいた、ということで、肝心の身元はサッパリわからない。何を聞いても「ハイ、イイエ」というだけで、要領をえなかった。世話したコザ福祉事務所や病院側でもいろいろ調べたがやはりダメ。

ところが、さる九日、キズもなおって元気になった本人が、はじめて自分の名前を名のり、勝連村平安名○○、○○○○さん(六四)とハッキリした。勝連村役所に問いあわせると、戸籍名簿にチャンと名があり、老人を知っているという部落民もいた。

いっぽう厚生園でも指導員の△△△△さんらが勝連まで出かけてしらべた。これらの結果をまとめると大体次の通りになる。

○○さんは幼いころ両親を失った。兄弟は四人いたが、兄は大阪でなくなり、妹の一人は幼死、もう一人の妹は消息が知れない。いま身寄りとしてはオイ(兄の子供)だけで、このオイとも音信不通。むこうは○○さんが死んだものと思い、一昨年大阪から帰郷したとき、○○さんの法事をすませたという。小学校四年まででて、十四、五歳までは日雇い仕事などをしていたらしい。その後盗みの疑いで刑務所へ入った。釈放されると、一たん平安名にかえったが、ある日プイと出ていったきり、行くえをくらました。美里村の四十代の人々が小学校時代に○○さんの姿を洞穴でみるようになったとのことで、部落民は○○さんを“山岳フラー” [フラーは「ばかもの」の意味] と呼んでいた。物乞いをしたり、部落民がもってきてくれる食べものなどで今日まで生きのびてきたようだ。

厚生園でも○○さんの口は重い。○○園長らが何か聞き出そうとしても本人は「ウーサイ」 [目上の人に対する丁寧な返事] と頭を深く下げるだけ。身のまわり品はコザ病院でくれた衣類とツエが一つ。オドオドした態度で人がきらいらしく、人の視線からすぐ目をそらす。そうかといって悪い印象はあたえない。厚生園でタオルをかえてやろうとしたら「キタないからさわらない方がいいでしょう」とことわったともいう。

○○さんにたいしてまわりの人たちはもっと早く救済の道を考えてやるべきではなかったか、という批判の声もあるが、いっぽうその過去について、つぎのように推理する関係者もいる。(1)○○さんはどうみても善良だ。過去三十年の山の生活で、女子どもにイラズラしたり、悪いことは一つもやってない。こういうことから若いころ盗みを働いた、ということは案外無実の罰ではなかったろうか(2)罰がはれて部落にかえったとき、村八分の扱いをうけたので、気の弱い本人はいたたまれなくなり、飛びだしたと思われる。あれやこれやで一種の恐怖症になり、山へ入ったのではないか。

[1961.11.18]

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さて、これで戦後の「もうひとつの沖縄」を描いてきたこの連載も終了である。繰り返しになるが、ここで紹介した『沖縄タイムス』の記事は、ほんとうにごく一部の断片的なものでしかなく、その取り上げ方も恣意的なものだが、それでも私たちがもつ沖縄のイメージのいくつかをくつがえすことはできたと思う。

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最後に、お知らせを。この連載は、戦後沖縄の経済成長や人口増加に関する概説、あらたな章、全体のまとめと解説などの書き下ろし部分を加えたうえで、共和国(という名前の出版社)から、来夏には刊行される予定です。

プロフィール

岸政彦社会学

1967年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。社会学。専門は沖縄、生活史、社会調査方法論。著書に『同化と他者化』、『断片的なるものの社会学』、『東京の生活史』、『図書室』、『リリアン』など。

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