2015.10.06
常識的道徳の悲劇を乗り越えるために――「深遠な実用主義」に向けて
税制、福祉、中絶、同性婚、環境規制……何が正義か、誰がどんな権利をもつのかをめぐって現代社会は引き裂かれる。人々が自分の考えを心の底から正しいと信じて争うとき、対立を解決する方法はあるのか? ジョシュア・グリーンの『モラル・トライブズ』から阿部修士氏による解説を転載する。
これまでの本とは一線を画する、新たな道徳哲学の本がついに翻訳・出版された。著者のジョシュア・グリーン氏は、若くしてハーバード大学心理学科の教授となった新進気鋭の研究者である。彼は二一世紀初頭に、「少数の命を犠牲にしてでも多数の命を救うべきか?」といった人間の道徳判断に関わる脳のメカニズムを、世界に先駆けて報告し、一躍時の人となった。
彼の研究は心理学と神経科学、そして道徳哲学を独創的に融合させたものであり、今なお世界中の多くの研究者に多大な影響を与え続けている。本書は彼のこれまでの研究の集大成であり、極めて野心的かつユニークに、科学的な知見――とりわけ心理学や神経科学といった、人間のこころと脳のはたらきに関する最新の知見を織り交ぜながら、道徳哲学を議論する珠玉の一冊である。
本書において彼は、社会生活を営む我々人間を取り巻く二種類の問題と、人間に備わった二種類の脳のモードについて説明しながら、自身の道徳哲学の議論を進めていく。
二種類の問題とは「コモンズの悲劇」と「常識的道徳の悲劇」である。コモンズの悲劇とは、ある特定の集団内における、自身と他の人間との葛藤や対立――すなわち、《私》と《私たち》との間に生じる問題を指している。ある集団の中で、全員が自身の利益を貪欲に追求すれば、共有すべき資源は枯渇し、その集団はたちゆかなくなる。この問題を回避するには、他者と協力すること、すなわち《私たち》を《私》に優先させることが必要だ。
一方、常識的道徳の悲劇とは、文化や宗教、そして道徳的価値観に違いのある集団間の葛藤や対立――すなわち、《私たち》と《彼ら》との間に生じる問題を指す。道徳を異にする集団はそれぞれ、《彼ら》なりの正当な価値観を持っているため、その対立は容易には解消されない。この問題を乗り越えるには、様々な集団間でも共有可能な新たな価値観を見つけ出し、《私たち》と《彼ら》との溝を埋めることが必要だという。
中東におけるイスラム国の台頭など、現在の日本でも目をそむけることのできない多くの問題が生じているが、つまるところ、こうした対立の多くは道徳的価値観の違いに起因しており、集団間の問題である。
コモンズの悲劇と常識的道徳の悲劇という言葉で表現される、集団内と集団間の対立を解消するために、グリーン氏は脳の二種類のモードを使い分けることが必要だと主張する。彼は脳をカメラにたとえ、それら二種類のモードを「オートモード」と「マニュアルモード」と呼ぶ。
「オートモード」は直感的反応や情動的反応に関わるものであり、自動的で素早いこころのはたらきのことである。「五人の命を救いたいからといって、一人の命をわざわざ犠牲にするなんて、そんな恐ろしいことはできない!」というのがオートモードのはたらきだ。一方、「マニュアルモード」は熟慮を要するような、論理的思考や合理的判断を担うこころのはたらきである。マニュアルモードの思考は、「五人の命を救えるのなら、一人の命を犠牲にすることも、全体の利益を考えればやむを得ない」といった具合である。
グリーン氏は、脳のオートモードは我々の道徳的直観の担い手であり、コモンズの悲劇、すなわち集団内での対立を回避するうえで有効だと主張する。彼の理論では、道徳とは協力を促進するために、生物進化や文化進化によって結実した、一連の心理的能力とされている。つまり、我々人間は少なくともある集団内では、自然と協力的になりうる。
思わず反論したくなった読者の方もおられるだろう。人間は所詮、自分の利益こそが最優先であり、他者のことなど二の次ではないのか、と。ところが、様々な心理実験の結果が、人間に本質的に備わっている集団内での協力性の存在を示唆している。したがって、集団内でうまくやっていくには、つまりコモンズの悲劇を回避するには、オートモードに任せておけばよい。
では、常識的道徳の悲劇、すなわち集団間での対立を回避するにはどうすればよいのだろうか? グリーン氏は、ここで脳のマニュアルモードを使うことが重要だと主張する。オートモードは集団内の協力を促進させるため、ともすれば《彼ら》よりも《私たち》をひいきする。しかも、わたしたち人間は、このオートモードのはたらきに無自覚である。したがって、オートモードに任せていては、《私たち》と《彼ら》との対立は避けられない。「《私たち》対《彼ら》の問題ならゆっくり考えよ。」というのが彼のメッセージだ。対立を生む集団間の感情は、いったん脇に置き、マニュアルモードを使って考えるということだ。
ただし、少しばかり冷静に、そして論理的になったからといって、簡単に解決できるほど、常識的道徳の悲劇は生易しいものではない。彼は、集団間の対立を回避する具体的な方策として、マニュアルモードを使ってできることを提唱している。それは「共通通貨」を見つけることだ。全員が共有できる、道徳の真の共通基盤のことである。
彼は「幸福を公平に最大化する」功利主義の背後にある価値観こそが、現代社会に必要とされている道徳の共通基盤ではないかと考える。これは合理的に考え妥協する、という単純な話ではない。彼の主張によれば、功利主義は誤解されている。幸福を求め、苦痛を回避したいとする人間の価値の核心を、公平に評価すること、つまり自身と他者とで幸福や苦痛の価値に違いはない、というエッセンスを盛り込むことで、共有可能な道徳哲学が生まれると彼は主張する。
正しく理解され、賢明に適用された功利主義を、彼は「深遠な実用主義」と名付けている。これこそが、常識的道徳の悲劇の回避を可能にする、グリーン氏の提唱する新たな道徳哲学である。
そもそも、道徳とは人間が持つ善悪の規範であり、法律のように明文化されてはいない、人間の内面的原理である。それゆえ、簡単な「答え」など存在するはずもない。道徳にも明文化されたルールが存在したら、どれほど気楽なことか。明確なルールがない状況では畢竟、道徳哲学は私たちに、マニュアルモードを使って考え続けることを強いるのかもしれない。
だがグリーン氏はこの点について、比較的明るい見通しを抱いているようだ。私たちのマニュアルモードは人間に備わった特別な機能であり、それによって集団間における異なる道徳的直観を超越できると彼は信じている。懐疑的な読者の方もおられるかもしれないが、彼は決して非現実的な理想を語っているわけではない。本書の最後では、実践的かつ実現可能な「道徳脳」の使い方が提唱されている。
本書には道徳哲学のみならず、最新の心理学や神経科学の話題も満載である。近年では「社会神経科学」という学問分野が著しい発展を遂げており、人間の社会性と脳のはたらきとの関係について、非常に多くのことが明らかとなっている。本書のテーマである道徳も、近年の研究の重要な話題の一つである。ただし、上述した通り、本書は人間の道徳を司る脳のシステムが明らかになった、という単純な主張に終始するものではない。道徳哲学から生まれた問題意識にもとづいて科学的にアプローチし、さらにその知見をもとに哲学的思考を展開させるという、従来には見られなかった学問の姿がそこにある。
本書においてグリーン氏は、ベンサムとミルのことを空理空論をこねくり回す哲学者ではなく、勇猛果敢な社会改革者であると評しているが、私に言わせれば、グリーン氏も同様の勇猛果敢さを持ち合わせている。ただしベンサムやミルのそれとは一味違う。彼は従来の功利主義思想をベースとしながらも、時に的確にその思想を深化させ、時に柔軟に現実世界とのバランスをとりながら、現代社会の問題にアプローチ可能な深遠なる実用主義の議論を展開していく。彼の独創的な試みは、道徳と科学のかつてない融合を実現させた、二一世紀の新たな学問の開拓と呼ぶにふさわしい。
私自身は二〇一〇年から二〇一二年の二年間、グリーン氏の研究室に研究員として所属し、道徳とも密接な関連のある人間の正直さについての研究を進めてきた。彼との会話の中で、今なお非常に印象に残っているエピソードが一つある。彼が主に、心理学や神経科学の分野で影響力のある研究成果を発信し、心理学科で教鞭をとっているにもかかわらず、「自分は哲学者である」と語っていたことだ。
本書で展開されているのは、まさに科学に裏打ちされた哲学的議論であり、彼のこれまでの「哲学者」としてのキャリアのエッセンスが詰まっている。「二一世紀の科学を利用すれば、二〇世紀の批判をはねかえして、一九世紀の道徳哲学の正しさを立証できる、私はそう信じている。」という彼の主張も、本書を読めば納得だ。
重厚な本書を読み進めていくには、脳のマニュアルモードをフル稼働させる必要があるだろう。しかし、本書は読者のその努力に、必ずや報いてくれる。多くの先端的な学術的知見に触れ、思考実験を通じて知的好奇心がとめどなく刺激され続けた結果、充実した読後感を得られることを保証したい。二人の小さな子供を育てながら、大学での研究・教育を行いつつ、必死に本書を執筆していた彼の姿を目の当たりにしてきた者としては、本書がこうして日本の読書界に届けられたことは、望外の喜びである。
プロフィール
阿部修士
京都大学こころの未来研究センター特定准教授。ヒトの正直さ・不正直さを生み
出す脳のメカニズムについて研究している。近著に「嘘をつく脳」(苧阪直行編
『社会脳科学の展望』所収、新曜社)など。