2011.02.22
不満との共生、もしくは「無縁社会」の新たな自己責任論
「無縁社会」ということばがにわかに注目を集めるようになった。NHKが「キャンペーン無縁社会」として一連の特集番組を放送していた(http://www.nhk.or.jp/muen/)から、おそらくNHK発なのだろう。ちょっとおどろおどろしいことばだとは思うが、まあいわんとするところはわかる。一方、朝日新聞では「孤族の国」という特集(http://www.asahi.com/special/kozoku/)を組んでいる。細かいところはよくわからないが、おおざっぱにいえば、この二つはいずれも、社会のなかで人と人とのつながりが細くなっている点への注目という意味で、似たもののように思う。
2011年2月12日放送の「日本のこれから 無縁社会 働く世代の孤立を防げ」は、視聴者参加型の討論番組だった。音声だけ聞いていたのだが、この番組は、同シリーズのそれまでの番組とやや毛色が異なり、「無縁社会」そのものというよりは、その背景としての経済的側面に主な焦点をあてていたのが興味深かった。番組のウェブサイトにはこんな文章が出ていたので引用してみる。
NHKスペシャル「無縁社会~三万二千人」、日本の、これから「どうする?無縁社会」など、このテーマに関する番組を放送する度に、NHKには「他人事とは思えない」、「明日は我が身」といった声が数多く寄せられています。
特に働き盛りの現役世代からの声は多く、中には・・
20~30代の4割が非正規雇用で働いている今、賃金があがることも、明日の保証もない。不安や経済的理由から、新たに家族や子どもを持つことを諦め、また自分を支えてくれた両親などの家族が高齢化、他界していく中で、気がつけば自分を支えてくれる人・存在がいなくなってしまった・・。といった声もありました。
つまり、仕事がない、あっても正規雇用ではないから会社には頼れない、給料も安い、だから結婚できない、子供ももてない、一方で親は高齢化し頼れなくなる、他に相談できる相手もいない、といったところだろうか。
もともと「無縁社会」シリーズでは人と人との心のつながりに注目してきたような印象があったので、それとはややずれるような気もするが、現役世代の孤独ということになると、仕事が大きなテーマとなるのはある程度自然といえば自然ではあるのかもしれない。
実際、京都大学の研究では、経済・生活問題を動機とする自殺(遺書があるケース)の件数が1990年代後半以降急増しており、また20~50歳代男性では自殺原因のトップが経済・生活問題となっている、などの事実が指摘されているから、的を射た視点ではあるのだろう。(平成17年度内閣府経済社会総合研究所委託調査「自殺の経済社会的要因に関する調査研究報告書」2006年3月。http://www.esri.go.jp/jp/archive/hou/hou020/hou18a-1.pdf)
あるいは、NHKは今年の4月ごろから「変えなきゃにっぽん」と題した新シリーズをはじめるらしいから、現実的な解を模索する方向へ議論をもっていって、そちらへつなぎたかったのかもしれない。
とはいえ、こと経済の話になると、もう後の展開はある程度予想がつく。この種の議論には典型的な対立構造があるからだ。
「自己責任論」vs. 「社会の責任論」
いうまでもないが、対立しているのは、いわゆる自己責任論と社会の責任論だ。苦しい状況におかれた人々がいるとして、それはその人たち自身の責任なのか、社会の側に問題があるのか、という論点。
実際、両者の議論は、予想通り平行線をたどった。この日の放送でいえば、前者の立場をとったのは、「人材派遣会社社長」(NHKらしい表記だ)の奥谷禮子さんだった。今の若者は自分で努力せずに何でも他から与えてもらおうとする、人に要求する前にまず自分で努力をせよ、といった典型的な意見だ。記憶が定かでないが、仕事は選り好みしなければある、といったこともいわれたかもしれない。
この方はこういう主張を以前からしておられるから、まあはじめからそういう役回りとして呼ばれたのだろう。実際そうした「期待」に応え、場の「憎まれ役」になってくれたわけだが、社会の中には、これに近い考え方をする人は少なからずいる。番組と並行してツイッター(ハッシュタグ「#muen」)で意見募集をしていたが、そのなかでも、数の上ではやや少ないものの、自己責任派の方は確実にいた。
これに対して、他の出演者の方々(みずほ情報総研の藤森克彦さん、NPO代表の奥田知志さん、批評家の宇野常寛さん)はおおむね、自己責任だけでは負いきれないものがある、社会で負うべき部分もあるはずといった、どちらかといえば後者の主張の側に近い主張だったように記憶している。
ツイッター上でもこちらに近い意見の方が多かったので、その意味では世論を反映した配分だったのかもしれない。豊かになった社会のなかで、人は自己有用感に飢えている、といった話もあって、奥谷さんから「社会のなかで自分が役に立っているという自覚なんて求める方がおかしい」という身も蓋もない反論を食らっていたようだが。
結局のところ、番組もツイッターも、議論は互いにあまり混じり合わないまま終わった。かみ合わせようとする努力が足りなかったといえばそうなのかもしれないが、そこには単純な考え方のちがいだけではない問題もあったような気がする。
個人的には、上の二者ではどちらかといえば後者に近い意見だと自分では思っているが、前者の考え方も理解できるし一定のシンパシーも感じるので、まあ中間的な立場なのだろう。より重要なのは、議論がこのレベルの対立にとどまっていてはいけないという点だと思うので、以下それについて書いてみる。
どこで線を引くか、という問題
まず、難しいところはとりあえず捨象して、単純に考えていただきたい。自己責任論者を自認する人でも、たとえば本人の責任を問えない状況で重い病気などにかかってしまい、本当に働くことができず、したがって収入がなく生活に困窮しているという人に対して、生活保護その他の公的支援を行うことに反対する人はそうはいないだろう。そういう人を「弱者」と呼ぶなら、弱者を助けることへの社会的なコンセンサスはある、とみていいのではないか。
一方、本当は働けるのに嘘をついて生活保護を受け、その金で安閑と暮らしている人がいるとしたら、それを許せると答える人も多くはないだろう。弱者を救うための制度を悪用する輩に対して憤るのは自然だし、感情論をおくとしても、こういう人がどんどん出てくれば、財政がもたなくなったり、社会のモラルが崩壊してしまったりするおそれがある。
つまり、どちらの方向にせよ、極端な状況に対しては、意見の対立は本来あまり起きないはずだが、実際の議論の場ではたいてい、そこが主戦場となる。自己責任論をとる人は後者のみをイメージして、制度を食い物にする輩を許すべきではない、甘えるなと主張し、逆に社会の責任論をとる人は前者のみをイメージし、保護を必要とする人に保護が行き渡らないのは問題だ、弱者に共感せよと主張するわけだ。
一種の選択的認知、あるいは論争に勝つための論点選択なのかもしれないが、社会にはそのどちらもがある以上、片方だけでは現実をふまえたことにはならないし、議論がかみあわなければ実のある結論を導くことはできない。
この問題、統計学でいうところの、いわゆる「第1種過誤」(実際に差はないのにも関わらず、統計的に有意差ありとしてしまう誤り)と「第2種過誤」(その逆)の関係を想起させる。仮に、上記のような公的支援に関してこの分類をあてはめ、本来保護を受けるべきでない者を保護してしまう誤りを「第1種過誤」、本来保護を受けるべき者を保護対象からはずしてしまう誤りを「第2種過誤」と呼んでみよう。もちろん、どちらの過誤も避けたいところだが、なかなかそうはいかない。多様な実態に対応するための政策ツールが十分な柔軟性を持っていないからだ。
たとえば憲法第25条で定める「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を、条文通りにすべての国民に対して保障しようとすれば、上記でいうところの「第2種過誤」を避けることが最優先となる。しかしそれを実際にやろうとすれば財政に大きな負担がかかるし、大量の「第1種過誤」が発生して、不公平だと市民から批判を受けてしまう。
自治体の生活保護申請の現場で申請書をなかなか渡さないといったトラブルが生じるのは、そうした理想と現実のせめぎ合いがあるからだ。逆に、「第1種過誤」を防ごうとすれば「第2種過誤」が増え、保護を受けている人、彼らを支援する人などから批判を受けることになろう。
もう少し抽象化すると、これは情報の非対称性とコスト制約に起因する問題であるともいえる。全能の神であれば、その人が本当に公的支援を与えるべき対象なのか、うそをついていないかどうかといった真実を見抜き、実情に合わせた対応を自在にとることができるのだろうが、当然ながら人間にはそんなことはできない。
実情に合わせたきめ細かい対応をしようとすれば、その分コストがかかるし、プライバシーなどの問題も起きるから、どこかで割りきって線を引かなければならない。だから一定の基準を設け、公的機関が実行可能な検証方法で検証しつつ運用し、過ちがわかれば修正するといった方法をとっているわけだ。
新たなやり方
2月12日の放送では、宇野常寛さんが、無縁社会化に対して、いたずらに過去への回帰を指向するのではなく、ネットの活用など新たなやり方で、新たなタイプの「縁」を作る努力をすべきだ、といった趣旨の発言をしていた。かつての社会のよかった点を取り戻したければ、元に戻すのではなく、新たなやり方を模索すべきだ、というのは至極当然である。
現在の「無縁社会」も、旧来の「縁」に縛りつけられていた社会に対して私たちが不満を抱き、変えてきた「進歩」の結果として生まれた側面があるからだ。「新たなやり方」のなかには、当然ながら現代のIT技術も含まれよう。ネットを介した人と人とのつながりをより積極的に評価し、新たなタイプの「縁」で人とつながっていくことで、人が幸せになるのであれば、それを避ける必要はない。問題の少なくとも一部は、技術で解決できる場合もあるはずだ。
上記の公的支援をめぐるジレンマも、その一部は、ITの活用など新たな工夫によって解消できるかもしれない。たとえばだが、個人の購買データなどを公的機関に把握させることと、税負担軽減や公的扶助受給などをひもづける「ライフログ減税」という考え方を、楠正憲さんが提唱している。「全能の神」の代わりにコンピュータとネットワークの力を使って、情報の非対称性やコスト制約に対処しようというわけだ。「ライフログ減税で消費刺激と財政健全化への布石を」(『雑種路線でいこう』2009年12月10日)
また、似たアイデアとして、公的給付に電子マネーなどを活用して、使途を制限されたクーポン化するという方法も考えられよう。アメリカにはフードスタンプなる制度があるが、その電子版のようなものをイメージしている。用途は食費にかぎられる必要はなく、教育や医療などを含めてもいいし、それぞれのなかでも必要不可欠なものに限るといった制限もできるだろう。
この種のシステムは開発・運用コストが心配だが、電子化することで、よりきめ細かいサービスを、より安いコストで提供できるようになれば、効率的、効果的な社会保障のあり方として、現行の制度と比べてより望ましいものにできるかもしれない。もちろんプライバシーなどデリケートな問題もあるが、検討に値すると思う。これは保護を受ける個人の権利を政府がどう守るかという問題であるだけでなく、保護を受ける個人の権利とそのコストを負担する他の個人たちの権利をどう調整するかという問題でもあるからだ。
「不満」から逃げることはできない
しかし、どんなやり方をしても、問題が完全に消えることはない。およそ有効なかたちで人を結びつける「縁」なり「絆」なりがあれば、それは少なくとも一部の人にとって束縛と感じられるものとなろう。逆に、人々を縛りつけず自由を保障する「縁」なり「絆」なりがあれば、それを物足りなく思う人は必ず出てくる。個人が好みで選べるようになっていたとしても、それすら不満に思う人はいるだろう。人は多様だからだ。
もっと重要なのは、もし技術の活用などで、個人の自由を縛らない新種の「縁」なり「絆」なりをつくる方法を手に入れたとしても、しばらくたてばわたしたちは、それを束縛と感じるようになるだろうということだ。私たちが不満を感じる閾値は時代とともに、状況によって変化していく。そのくらいの「柔軟性」を、わたしたちの心はもっている。
同様に、無縁社会の背景にある経済問題に対してどのような公的支援を行うかについても、皆の不満が解消される状況は未来永劫到来しないだろう。支援の水準をどのように設定しても、不足と思う人、過剰と思う人が必ず同時に出てくる。
多数決で決めれば少数派の意見を尊重せよといわれ、少数派の意見を尊重すれば民意を無視するといわれる。そして政府に対する期待の水準、いいかえれば満足のハードルは、状況が改善すればそれに合わせて上がっていく。それはわたしたちの歴史が示していることでもある。こうした不満は、人間が技術や社会を進歩させてきた主要な原動力のひとつだったはずだ。
したがって、いずれにせよ、どこに線を引いても、どんなきめ細かい対応をしようとも、不満は必ず存在しつづけるだろう。その意味で重要なのは、わたしたちがこうした不満と「共生」していかなければならないのだという自覚なのではないか。
もちろん、共生とはただ黙って我慢しろという話ではなく、状況の改善へ向けた努力の必要性を否定するものでもないが、同時にわたしたちは、どうやってもなくなることはない不満に対して、耐性を身につける必要がある。
いたずらに過去を美化し回帰を願うのでもなく、すべてが解決された理想の未来を夢想するのでもない。社会や政府の側がやるべきことを主張し要求するのと同時に、それがないことを自分が動かない理由にはせず、むしろ不満を原動力とし、自分がよりよいと思う社会を実現していくためにいま自分ができること、やるべきことを淡々とやっていくことが求められる。
「社会の責任」があるなら、それを主張していくのは個々人の「自己責任」だ。それは、社会が責任を果たすためのコストを分担するのが自己責任であることと表裏一体であるともいえる。「社会」が自分と切り離された別個の存在ではなく自分を包含する人の集団であるのと同じ意味で、「社会の責任」とは多くの人々の「自己責任」の集合体といえるのではないだろうか。
もちろんそうした自己責任の種類や大きさは人によってさまざまにちがうだろうが、まったくゼロということは、ふつうはないはずだ。少なくとも、不満と「共生」する現実に向きあっていくこと、状況の改善のためにその不満を表明し、自らできることを担っていくということは、いま、わたしたちが共通して負うべき自己責任の重要な一部であると考える。
推薦図書
自分の本をこういうところにあげるのはたいへん、たいへん気が引ける。この本は基本的にブログをベースにしたエッセイ集的なものなのでさらに気が引けるのが、あまり遅くなるとさらにやりにくくなるので、加筆したり書き下ろしたりした部分もけっこうある、などと言い訳しつつ、ここであげておく。上記の文章との関連では、この本の最後に「責任は「足して100%」ではない、と思う」という節があって、わたしの「責任」に対する考え方を書いてある。上記の文章におけるわたしなりの「自己責任論」に関する補足になると思う。
プロフィール
山口浩
1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に「リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ)がある。