2012.01.05

新春暴論 ――「幸福」な若者を見限ろう

山口浩 ファィナンス / 経営学

社会 #若者論#絶望の国の幸福な若者たち#国民総幸福#ブータン

昨今、「幸福」をめぐる議論をよくみかける。「国民総幸福」を政府の目標に掲げるブータンの国王夫妻が来日したこともひとつのきっかけになっているのだろうが、政府の研究会でも経済成長だけでない政策目標を設定すべきであるとの議論が行われたり、都道府県別の幸福度ランキングが発表されたりと、いろいろな話がでてくるのは、やはり経済の停滞が長引いているせいで、成長への関心が相対的に低くなっているのだろうか。

「国民の幸福度、132の物差しで数値化 内閣府が試案」(朝日新聞2011年12月5日)

http://www.asahi.com/business/update/1205/TKY201112050419.html

国民の豊かさを測る新しい「幸福度指標」の試案を内閣府の経済社会総合研究所が5日、発表した。「男性の子育て参加への女性の満足度」「ひきこもりの数」「人並み感」など132の指標をそれぞれ数値化し、国民が幸せかどうかの「物差し」にしたいという。

「大学院政策創造研究科の坂本教授研究室が「47都道府県の幸福度に関する研究成果」を発表」(法政大学プレスリリース2011年11月10日)

http://www.hosei.ac.jp/koho/photo/2011/111110.html

11月9日(水)、市ケ谷キャンパスにて、大学院政策創造研究科の坂本光司教授と研究室の社会人学生が、様々な社会経済統計を活用して47都道府県の幸福度を40の指標から評価・分析し、それらを総合化したランキングを発表しました。

とはいえ、これは日本社会にかぎられた話ではなく、アカデミックな領域でも、幸福に関する研究が90年代以降急速に進んできているらしい。行動経済学などのように、これまで経済の問題として扱ってきたテーマへの心理学的なアプローチの導入が進んできているということもあるだろう。いろいろな研究成果がどんどん発表されたり、また一般向けの論考が出たりしていて、なかなか面白い状況になっている。全体として、「幸福」とは何か、についての関心が高まっていることはまちがいない。

「絶望の国の幸福な若者たち」

個人的にも若干の興味があるので、そうしたようすをぱらぱらと眺めていたのだが、最近話題を呼んだもののなかで、『絶望の国の幸福な若者たち』(古市憲寿著、講談社、2011年。以下「本書」と呼ぶ)という本が目に留まった。著者は26歳、といえばまだ十分「若者」の年齢であるわけだが、気鋭の社会学者であるらしい。

「本書」の出発点は、巷の若者論でその「不幸」(客観的な意味で)やら、それに対して立ち上がろうともしない不甲斐ない状況やらを指摘される現代の若者が、実際には上の世代よりも強く幸福を感じて、日常の生活に満足している、という点にある。これは実際にそういう調査結果があって、2010年の内閣府「国民生活に関する世論調査」によれば、20代男子の65.9%、20代女子の70.6%が現在の生活に満足している、と回答している。70年代の20代と比べて10%ポイント以上上昇していることから、話題を呼んだものだ(ちなみにだが、これと整合的でない調査結果もあって、たとえば同じ内閣府の『平成21年度国民生活選好度調査』で、「現在、あなたはどの程度幸せですか」に10段階で答える質問では、7点以上をつけた回答者の比率は15~29歳、40~49歳、50~59歳でほぼ同じで、60歳以上は明らかに下がる)。

http://www8.cao.go.jp/survey/h22/h22-life/images/h02-1.csv

http://www5.cao.go.jp/keizai2/koufukudo/shiryou/1shiryou/6.pdf

そうした状況を受けて「本書」は、巷の通俗的な若者論を、肩の力の抜けたカジュアルな語り口で、鮮やかに一刀両断にしてみせる。曰く、年輩者による若者論は、都合のよい批判対象である若者を使った自分語りであると。若者を心配するふりをしながら、実際には不安なのは彼ら年輩者であり、閉塞感が蔓延する現在の状況がさらに進んだとしても、困るのも彼ら自身ではないか、と。何せ自分たち若者は、ニコ動とモバゲーと、あとは日々食える程度の収入と仲間がいれば幸福と感じることができるのだから、将来が不安ならば、社会を変えたければ、若者に頼らず自分たちでやれ、と。

なんとも痛快ではないか。「本書」は、やや「刺激的」なタイトルのせいもあって、多くの共感とともに反発も呼んだらしい。しかし、わたしに言わせれば、これはまさに慧眼だ。若者たちの心配をするようなことを言っていても、わたしたちはまず自分たちのことが心配なはずだ。そうした「隠された本音」を「本書」はずばりと突いている。だからこそあれほどの反発を呼んだのではないか。通俗的若者論のロジックをそのまま使って切り返すあたりも、見事というしかない。おおいに反省しよう。若者論は若者に任せて、わたしたちはもっとわたしたち自身のことを考えるべきではないか。

というわけで、本稿では、古市氏の論に乗っかって、自分の世代である40代を論じてみることにしよう。これも古市氏に倣って、あくまで通俗的世代論のスタイルで。

ちなみに、わたしの文章スタイルについては、ある編集者さんから「関節外しのような」という評価をいただいたことがある。その正確な意味を理解しているかどうかはわからないが、「相手の話に乗っかって悪乗りしてみせる」のがブロガーとしての自分の芸風の一部であることは自覚していて、あるいはそういう意味なのかもしれない。以下の文章も、タイトルに「暴論」とつけたことからもお分かりいただけるかと思うが、まあそういう類のものだ。「新春」だし、ひとつ「無礼講」ということで(通俗的世代論によれば、「無礼講」を持ち出せるのは年長者の特権だ)。それでは暴論、スタート。

絶望の国の不幸な40代

さて本題。先ほど紹介した「国民生活に関する世論調査」でみると、現在の生活に満足していると回答した人の割合がもっとも低いのは50代(男性51.1%、女性58.9%)で、その次が40代(男性55.5%、女性60.4%)だ。40代は50代よりもやや幸福度が高いけれども、それでも「幸福」な20代の若者と比べれば優に10%ポイント以上も差がある「不幸」ぶりだ。60代から上の世代でも「満足」という回答はもっと多いから、そのあいだに位置するこの世代が全体のなかでもっとも「不幸」ということになろう。

わたしに関して言えば、大学を卒業して企業に就職したのがバブル期の最初期にあたる。いわばバブル世代のはしりというわけだ。さぞかしいい思いをしただろうとよくいわれるが、就職活動(当時は「就活」ということばはなかった)が楽だったことを除けば、基本的にそういう気はしない。よく伝説のように語られる派手なイベントだの乱痴気騒ぎだのといったエピソードは、一部業界を除く多くの一般企業の、しかも新米社員には、およそ縁のあるものではなかったはずだ。バブル期は、ひたすら忙しく、こき使われた時代だった。そもそもバブル期の前半は、景気がいいという認識すらなかったのだ(当時の関心事はプラザ合意後の円高不況と日米貿易摩擦、それに地価高騰だった)。

バブル絶頂期にはやったことばのひとつに「シーマ現象」というのがある。1988年に日産が発売した高級乗用車の名だが、これがヒット商品となったことから、高額商品一般への需要の高まりを象徴するものとしてこう呼ばれるようになった。ポイントは、このことばに、持ち家もなくアパート住まいをしている庶民なのにシーマのような高級車に乗るなんてアンバランスだ、という揶揄のニュアンスが含まれていたことだ。地価高騰で庶民の夢だったマイホームが縁遠いものとなり、代わりに人びとは高額商品を買って憂さを晴らしている、という見立てだったのだが、その裏には、もう高度成長はこない、というあきらめにも似たムードがあったことは否定できない。

実際、オイルショックをきっかけに、日本経済は高度成長期から安定成長期へと移行したとの認識は当時すでにあった。もちろんバブル期の大半は、景気循環でいえば拡大期、つまり好景気であって、その期間も空前の長さだったから、少なくともその後期にはその認識もあったわけだが、そのときの成長率でも、高度成長期でいえば景気の谷にあたる時期よりも低い水準だったのだ。

しかし、理屈ではわかっていても、刷り込まれたものの考え方はなかなか改まらない。わたしたちの世代が子ども時代に植えつけられた、高度成長期のような成長がつづくことを暗黙裡の前提とした価値観や行動様式は、大学を卒業した時点、つまり高度成長期がはるかかなた昔に過ぎ去ってしまっていたバブル初期時点でも、まだかなりのところ健在だった。そしてわたしたちは、社会に飛び込んだ途端にバブルの喧噪と幻想に巻き込まれ、わけのわからないままさんざん振り回されたあげく、結局その後「失われた20年」と「終わりなき日常」だけを手元に残されたのだ。不幸を感じるのも当然だろう。実際、上記内閣府調査で、2010年時点の40代は、10年前(2000年、30代)も20年前(1990年、20代)も、一貫して生活への「満足」度が低い。

こういう通俗的世代論は不毛だ、という議論はよくある。たしかにその通りだ。人びとをグループ分けするときによく使われる基準といえば、性別や年齢、所得や職業、趣味や思想信条といったあたりだろうが、人はいくつもの属性を兼ね備えているのがふつうだし、そうした差以上に個人差の方が大きいだろうから、どう分けようとも乱暴な区切りであるにはちがいない。わたしもそう思うが、本稿は、「本書」が巷の若者論から引き継いだ通俗的世代論スタイルをそのまま再利用させてもらっているだけなので、ここではそんな批判は気にしない。

上記の内閣府調査結果からいうなら40代より50代の方が不幸じゃないか、というご指摘もあろうが、ここでは都合のよいデータや識者見解を適宜つまみ食いするという「本書」のスタイルに倣い、「本書」の中で引用されている、人が不幸だと考えるのはまだ「将来の可能性が残されている」場合だ、という大澤真幸氏の見解を紹介しておこう。若者が「幸福」と答えるのは、彼らがもはや将来に希望を抱けないから、なのだそうだ。

まあ理屈はわかる。これにしたがえば、40代は50代よりも絶望に近いところにいるということになるのだろうか。逆にいうと、50代の方が将来の希望があるということになる。こう考えるとなんだか変な感じもするが、これも気にしない(またまたちなみに。じつは、中年世代の幸福度が他の世代より低いというのは割とよくみられる傾向で、現在の日本にかぎった話でもないらしいが、それも都合よく無視する)。まあ40代と50代は隣接しているわけだし、細かいことは気にせず、とにかく現在の日本の40代は不幸だ、と断言してしまおう。少なくとも若者や高齢者よりは不幸なのだ。

もちろん、少なくともマクロ的には、世代で語るべき内容というのはある。社会のなかで、年齢をトリガーにした資源配分メカニズムがすでに制度化されているからだ。年金しかり、医療介護しかり。年功序列型賃金制度や定年制度もそうだ。そうした社会のなかでの資源配分とその負担に関する世代ごとの損得を論じるいわゆる「世代会計」という考え方があるが、これでみると、おおざっぱにいっていまの40代あたりは、ぎりぎりで受益超過の世代から漏れ、負担超過の第一世代となるらしい。夢を奪われ、金を奪われというわけで、これが不幸といわずして何を不幸というべきだろうかというぐらい不幸ではないか。

増島・島澤・村上(2009)「世代別の受益と負担~社会保障制度を反映した世代会計モデルによる分析~」

http://www.esri.go.jp/jp/archive/e_dis/e_dis220/e_dis217.html

若者にそっぽを向かれ

これではいかん。なんとかしなければ。社会を変える方法はいろいろあるだろうが、誰にでもできるのは選挙での投票だ。改革を進めてくれる政治家を選び、「逃げ」にかかっている高齢者層から既得権をひっぺがして再配分し、将来にわたって持続可能な社会をつくらねば。となれば、若い世代と連携して票を集めて、ということになるのだろうが、これがうまくいかない。若い世代は選挙に行かないからだ。曰く、どうせ自分たちが投票に行っても政治は変わらない、少子高齢化で若年層は少ないから老人たちには票数で勝てない、と。

実際には、必ずしもそうではない。下表の「有権者数」は、平成21年時点の年齢層別の20歳以上人口(の推計値)を示す。これが有権者の総数というわけだが、これでみると、たとえば40代より若い有権者の数は約4,913万人おり、 50代以上人口の5,529万人とそう遜色ない。つまり、仮に投票率が100%だったとすると、50代の約半分を説得して「味方」につけられれば、全体としてそれ以上の年代よりも大きな政治力を握ることができるというわけだ。もちろん実際には他にいろいろな要素があるわけだが、少なくとも、少子化世代だから高齢者には票数でかなわないという考えはあまり適切でない、ということぐらいはいえるはずだ。

表1:世代ごとの有権者数と投票者数の比較(単位千人)

しかし、ここに世代ごとの投票率をかけると、話はちがってくる。表1の「投票率」は、財団法人明るい選挙推進協会調べによる2009年の第45回衆議院総選挙の世代別投票率、「投票者数」は上記の世代別有権者数に投票率をかけたものだ(90代の投票率は80代と同じと想定している)。これでいくと、40代以下の投票者数は3,074万人であるのに対し、50代以上は4,313万人となり、その差はかなり大きなものとなってしまう。仮に50代がすべて「味方」してくれたとしてもまだ足りない。実際には選挙区割の問題で、議員定数は高齢者の多い地方に偏って配置されているから、状況はさらに不利だ。

しかし、こんな状況でも若者たちは別に平気、というのが、古市氏の意見だ。彼らには失うものがない。もちろん失いたくないものはあって、それがユニクロやらしまむらやらであったりするわけだが、それらはすでに、誰にでも、そして比較的安価に手に入る状況が実現しているからもう大丈夫。しかし40代はちがう。ブランドものだって好きだし海外旅行には行きたいし、たまにはおいしいもの食べたいし車も家も欲しい。なのにそれが思うようにはできない。贅沢な望みというなかれ。かつての水準からみれば現在はずいぶんつましくなっているはずだが、それすらできない。本来、年を取ればもっといろいろできるはずだったのに。元からそうしたものを知らずにすんだ若者世代とちがって、これは大いに不幸なことなのだ。

もちろん、こういうあれこれはいわば枝葉末節。本当に重要なのは、間近に迫る「老後」の備えに関する不安だ。2012年は団塊の世代が65歳を迎える年でもあるらしい。政府は公的年金における物価スライドを適用する方針を打ち出しているようだが、それだけで年金の給付と負担のバランスがとれるというものではない。しかも若い世代はどんどん年金保険料を支払わなくなってきている(国民年金保険料の納付率はどの世代でも低下傾向にあるが、若年層はもともと納付率の水準が低く、2009年段階では5割を割り込んでいる)。このままでは年金財政は早晩立ち行かなくなる。改革のために残された時間はもうほとんどない。にもかかわらず、共闘できれば社会を変えられるかもしれない若者層にそっぽを向かれ、わたしたちは、もはやなすすべがないところまで追い込まれたのだ。

40代の「生存戦略」

こんな八方塞がりな状況下で、「きっと何者にもなれない」ことがもうはっきりしてしまったわたしたち40代にとっての「生存戦略」は何だろうか。別にペンギン帽子をかぶって「生存戦略ぅー!」と叫んでいるわけではないが、古市氏が教えてくれた。素直に「もともと持っていた夢を奪われたわたしたちの方が不幸です」「老後を支えたのに自分たちは支えてもらえそうにないわたしたちの方が不安です」ということを認めればいいのだ。「若者の将来が心配だ」とか「持続可能性のある制度設計を」みたいな、かっこつけた物言いはもうやめよう。もっと「本音」でいこうではないか。

政府も、国民の「幸福度」(どんな指標で測るかはともかく)を、政策策定の際の参考にすることについて、検討をはじめている。もしその方向へ政策が進むのならば、自分たちを「幸福」と感じている若者たちより、自分たちを「不幸」と感じている40代にこそ手厚い資源配分を行え、と堂々と主張してもいいだろう。といっても、必ずしも何か特別なことをしなければならないというわけではない。上の世代といっしょになって、高齢者に手厚いこれまでの制度を可能なかぎり維持しつづけるよう、給付を減らしたり、負担を増やしたりするようなあらゆる改革を拒否すればいい。逆に、給付を増やしたり、負担を減らしたりする政策には、積極的に賛成していこう。

若い世代のなかにも、こうした政策でメリットを受ける人たちが出てくるかもしれない。やむを得ないものならしかたないが、メリットを受ける人数があまり多くなりすぎないよう、慎重に配慮しなければならない。パイはかぎられている。人数が多ければ、その分わたしたちの取り分が少なくなってしまう。できるだけ中年以上の世代の取り分だけを増やす政策を推進すべきだろう。うまくごまかせるなら、若年層の負担を増やす策もどこかに忍び込ませればいい。もうこれからは、わたしたち自身の「不幸」の解消や低減に関心を集中するのだ。すでに幸福な世代より、いま不幸な世代にこそ大きなパイを。配分の基準は、すでに得ているパイの大きさではなく、そのパイから得ている「幸福」の度合いだ。幸福感を政策目標にするなら、それは当然のことだろう。

もちろん、こんなことは長期的に持続可能ではない。しかし、「100年安心」だの「持続可能性」だのはもう考えなくていい。ここがポイントだ。まだ公的年金資産は約100兆円ある。超低金利で量的緩和とくれば、国債もまだまだ出せそうだ。過去の蓄積を、自分たちが老後を過ごす今後40年間程度で使い切り、借金もこれ以上できないところまで増やしていいと割り切ってしまえば、いまのしくみは十分、維持可能であるはずだ(もう少し欲張って、給付を増やしたり負担を減らしたりしても大丈夫だ、きっと)。これは、「残り時間が少ない」というわたしたちの世代の「弱み」を、「気にかけなければならない期間が短くてすむ」という「強み」に変えることでもある。そう、後の世代のことを考えなければ、わたしたちは逃げ切れるのだ。

たとえば、民主党がマニフェストに掲げたものの、財源問題で話が進まなくなっている最低保証年金は、いってみれば高齢者限定のベーシックインカムのようなものだ。ベーシックインカムについては、さまざまな理由で現時点での実現性はかなり低いが、高齢者向けの年金ということなら、実現性はぐっと高まる。財源がないというのは、法律による縛りを除けば、要するに持続可能性の問題であるから、それが40年間だけもてばいいという話なら、消費税を上げなくても、ありもしない埋蔵金を探しまわらなくても(ほんとにあるならぜひ使うべきだが)、過去の年金資産の取り崩しと国債増発で対応が可能なのではないか(あとのことは、経済成長を促進する策をとるとかなんとか言っておけばいいのだ)。売れる国有財産もすべて売ってしまえ。ありがたい話だ。すぐにでも検討を進めようではないか。

いま、40代以上の世代が一致団結して高齢者の「既得権」を守る方向でその票を使えば、相当長期間にわたって選挙での優位を維持することができよう。やがて世代交代が進み、次第にその数は減っていくだろうが、今後40年もてばいいと考えれば、そう心配することはない。どうせ大幅な制度改定には長い期間がかかるのだ。「現状維持」を選択しつづけてさえいれば、わたしたちも「逃げ切り」世代の仲間に入ることができる。わざわざ「手を汚す」のが憚られるなら、制度改訂に関する「慎重な検討」と「熟議」を20~30年もつづけておけば、ほぼ同じ効果を生むのではなかろうか。

考えてみれば、これまでわたしたちは、若者たちのことを心配しすぎ、かまいすぎてきたのだろう。親子の関係になぞらえれば、過保護な親のような状態だったわけだ。しかし、10代やそれ以下の子どもたちはともかく、20代はもう大人だ。自分たちのことは自分で決め、行動できる。彼らはすでに充分幸福を感じており、いまある安価な幸福以上のものを望んでいない。おせっかいなおじさんおばさんたちが、彼らの将来を心配し、いろいろ応援しようとしても、いっしょにやろうと手を差し伸べても、その真意を疑われ、よけいなお世話と疎まれ、偉そうにすんなと拒否されるだけだ。わたしたちは、「子」の「親離れ」を心配するよりまず、「親」自身の「子離れ」を考えるべきなのだ。

過去の蓄積と借金の余力をわたしたちの世代で使い切って(どうせこのまま放置すれば早晩使い切る)しまえば、当然その後わが国はいまより貧しく、追い詰められることになるだろう。しかし、そんな状況になれば、かつてのように「坂の上の雲をめざしてまっすぐにただひたすら上を見つめてかけ昇る」類の、青雲の志を持った若者が現れるはずだから、あとはそういう人たちの創意工夫に任せよう。その時点ではもう高齢者になっているであろう現在の若者は、ニコ動とモバゲーで老後のヒマをつぶしながらその登場を待つとよい。仮にそういう若者が現れず、どん底を這うような社会になったとしても、みなが同じようなレベルであれば、そしてニコ動とモバゲーさえ楽しめるレベルが維持できれば、そこには絶望の果てのこの上ない「幸福」が残されていることだろう。いずれにせよ、彼らの心配は不要だ。

「Hungry」で「foolish」な若者を海外から

それではさすがにイヤだという人もいるかもしれない。若者たちはいいとしても、40代のなかには、あと40年以上生きる方もいるかもしれない。もし長生きしてしまったらと考えると、現状を「幸福」と感じ、満足してしまっている若者たち、スティーブ・ジョブズがいうところの「hungry」でも「foolish」でもない若者たちに、自分たちの老後の支えを任せておくのはやはり不安だ。

現在は活用不十分な女性の力をもっと活用すればいいという意見も出てくるだろう。もちろん、女性の活躍はぜひ期待したいところで、実際そういう人も出てくるだろう。しかし、上記の内閣府調査では、 20代女性は男性以上に現状に「満足」しているし、国立社会保障・人口問題研究所が2010年に行った「第4回全国家庭動向調査」では、20代女性の専業主婦志向が大幅に上昇していて話題にもなった。正直、あまり多くを期待できる状況とはいえない。

そうなると、ここはひとつ、新たに「hungry」で「foolish」な若者たちを外から迎え入れることを検討しなくてはならないのではないか。幸い海外、とくにアジアなどに多い、発展著しい国や地域のなかには、そうした意欲と能力にあふれた若者たちがたくさんいる。彼らに日本でキャリアを追求し、日本の経済や社会をリードするチャンス、そこから正当な利益を吸い上げる機会を提供すれば、日本社会の活力を一部は復活できるかもしれない。

アジアから労働者を受け入れるというと、つい、先進国が低賃金で雇える途上国の労働者を受け入れたものの社会が混乱したり治安が悪化したりして大変、という図式を思い浮かべてしまいがちだが、そういう話ではない。受け入れるべきなのはむしろ高給の、社会をリードする層となるべき前途有為の若者たちだ。彼ら(それほど多人数である必要はない)に、工場の生産ラインやコンビニのレジではなく、本社の役員会議室で、あるいは商品企画や研究開発の最前線で、その知見やリーダーシップをフルに発揮してもらえれば、日本にもまだ成長のチャンスは残されているのではないか。逆に日本の幸福で従順な若者は、現場で管理者から言われたことを忠実に遂行することに長けていよう。ちょうどいい組み合わせだ。

移民制度をどうこうというとかなり大がかりな話で、そう簡単に進むとは思えないが、実際にはそんなめんどくさいことをしなくても、事態は企業主体でどんどん進んでいくだろう。というか、もう話は進みはじめている。たとえば、先日来のタイの洪水で日系企業のタイ工場が操業できなくなっている件では、日本で代替生産を行うため、タイ人労働者を日本に呼び寄せているが、それでいま来日しているのは、ラインで実際に働く労働者ではなく、日本のラインで働く非正規雇用の労働者を指導する役割の人びとだ。もちろんこれは特殊な事情の下でのものだが、ある意味今後を暗示する象徴的な事例ともいえる。アジアにおいて日本人労働者は、もはや指導する立場とはかぎらないのだ。

「タイ洪水:現地従業員が来日…代替生産支える2000人」(毎日新聞2011年12月8日)

http://mainichi.jp/select/biz/news/20111209k0000m020056000c.html

来日したのは品質検査や生産ラインの担当者ら。同工場では約15年前から生産のタイ移転を進めており、今回代替生産する製品も国内では既に作っていなかった。このため同社は、作業に慣れたタイ人従業員を呼び、代替生産のために新たに契約した約160人の日本人派遣社員の指導的な役割を担ってもらうことにした。

また、楽天、ファーストリテイリング、パナソニック、ローソンなど、一流企業のなかには、外国人採用を本格的に増やす企業が出てきている。ファーストリテイリングでは、2012年の新入社員のうち8割である1,050人が外国人であり、海外店舗だけでなく国内店舗や本社管理部門でも、外国人を幹部として登用していく方針を明らかにしている。またパナソニックでは、11年度新卒採用1,390人のうち、海外で外国人を採用する「グローバル採用枠」が 1,100人になるという。残る290人についても、日本人だけを採るわけではないとのことだ。

もちろん、これらは日本人を差別しているわけではなく、企業の生き残りや成長をかけた国際戦略の一環として、必要となる優秀な人材を確保しようとしているだけのことだ。当然、日本人の中からも、こうしたニーズに適応する人材がいれば登用していくことになろう。先日もみずほFGが、初任地が海外となる日本人向けの採用コースを設けたとして話題になった。

「新卒対象「初任地が海外」採用…みずほFG」(読売新聞2011年12月21日)

http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20111220-OYT1T01344.htm

みずほフィナンシャルグループ(FG)は、2013年4月入社の新卒者から、初任地が海外となる新たな採用コースを設ける。今後の収益の柱と期待する海外事業で活躍できる人材を育成するのが狙いだ。

つまり、企業はすでに、国籍に関わりなく、企業の将来の成長を託すことのできる人材を選び、彼らを戦略的に育成、活用していく方向へと、じわじわ動きはじめているのだ。こうした層の人びとであれば、日本で就労ビザをとるのも比較的容易であろう。こうした動きはさらに加速していくのではないか。彼らは国に頼らないし、活躍できる場があれば国を選ばない。古市氏のいう「強者のアナーキズム」だ。彼らに将来を任せれば、わたしたち40代の老後、少なくとも生きているあいだくらいは、きっと安心していられる状況を保ってくれるにちがいない。あとは彼らが、わたしたちの世代が生きているあいだに日本を見捨てて海外に出て行ってしまわないよう、祈るだけだ。

幸福な日本の若者たちも、頼もしいリーダー層の人びとのもとで、ニコ動やモバゲーを楽しみながら暮らしていくことに満足してくれるだろう。「本書」には、今後貧困が増加すれば暴動が起きるのではないかという懸念もちらりと書かれてはいるが、日本での貧困は大半が相対的貧困であり、生命の危険があるようなケースは多くはない。貧困状態の若者が増えたとしても、ただでできる投票にすら行かない彼らが、逮捕され、ニコ動もモバゲーもない刑務所に入るリスクを犯してまで暴動に走るとは正直考えにくいから、まあ事実上心配は不要なのではないか。実際、暴力犯罪の数は近年減少傾向にあるのだ。

もし本当に治安が悪化してきたら、そのときは警察を増強し取り締まりを強化してもらえばよい。外国人労働者を厳しく取り締まれば国際問題になりかねないが、自国の労働者であれば基本的に内政問題だから、海外からどうこういわれる筋合いもない。

幸福であるという不幸、不幸であるという幸福

いわずもがなだが、「本書」において古市氏が、文字通りの意味で「若者は幸福だ」と言っているのかというと、必ずしもそういうわけではない。古市氏は『POSSE』Vol.13で、著書『困ってるひと』(ポプラ社、2011年)がベストセラーになった大野更紗氏と対談しているのだが、そのなかで彼は、この「幸福」は「あくまでもカッコ付きの『幸福』で、ただ単に「日本の若者が幸せでよかったですね」と言っている本ではないんです」と語っている。もちろんわたしもそのあたりは理解しているつもりだ。本稿の暴論も、似たような意味でとっていただけるとありがたい。つまり、単純に「40代は不幸だから助けてくれ」とか「いまの若い人は幸福だそうだからほっといていいよね?」とかいう類の議論ではない、ということだ。

かといって、「本書」は「じつは若者はやっぱり不幸だからなんとかしろ」と言っているわけでもないところがいまひとつ曖昧で、それが批判される理由のひとつにもなっているようだ。少なくとも古市氏自身は、「本書」のなかで北欧諸国の政策について言及したり、ベーシックインカムを好意的なニュアンスで紹介したりもしていて、ゆるやかには高福祉高負担型の社会へのシンパシーをにじませてはいるように思うが、それをはっきりとは主張しない。そのために若者たちが立ち上がるべきだという主張を軽やかに拒否していることと無関係ではないだろう。そんなことは自分たちの責任ではない、やりたければいまの社会をつくった責任がある上の世代でやってくれればいいじゃん、というわけだ。

「世代論では問題は解決しない」といいながら通俗的世代論の裏返しの論理を押しつけられ、「若者に期待するな」と言いつつ暗に若者への支援を期待されているふうでもあるわけで、こちらとしてはもうどうしていいのか正直困ってしまうが、年配者による通俗的若者論の押しつけによほど辟易したのだろう。20代といえば、他の現役世代とともに社会を担う側のはずだが、社会のなかでちゃんとした位置を与えてもらえない以上、そうした役割分担もごめんこうむる、というやや駄々っ子めいた主張のようにもみえる。

そうした意味も含めてか、「本書」を、若者による「開き直り」の書であるとした書評をどこかで見かけた。つまり彼らの「幸福」は、開き直りのよりどころであるわけだ。同じような意味でいえば、本稿は、40代はもう「幸福」な若者を見限るべきとの主張、ということになる。「いまの若者はだらしない、しっかりしろ」といった通俗的若者論は、「本書」もいうとおり、昔からみられるものだが、それは文字通りの意味で受け取るべきものというより、「頭の硬い年寄りどもはすっこんでろ」という若者からの反発とセットで、社会を支え、進めていく役割を順次引き継いでいく世代間のエール交換のようなものだったといえる。「本書」の分析によれば、若者たちは、それを自覚した上で、自分たちの順番を「引き受ける」ことを拒否してみせたということになる。当事者意識のない彼らと共闘することはできない。

わたしたちはもう、実りのないおせっかいはやめて、自分たちの世代のことだけ考えよう。とはいっても、もちろん自分自身の子や孫のことは気になる。もし彼らが社会のリーダー層に入りたいというなら、自分の身を削ってでも、10代のうちによい教育を施してやりたい。世界のどこに行っても暮らしていけるように。しかしそのためには、幸福な20代にではなく、いまのうちに、わたしたちの世代に手厚く資源配分がなされなければならない。逆にもし、子や孫がニコ動と幸福に暮らせればそれでいいというなら、それを生暖かく見守るしかない。せめて、力強く引っ張ってくれるリーダー層の人材を海外から迎え、優秀な彼らに未来を託そう。それでいい。

これは、思うように動いてくれない若者たちに対して「このままだとこんなひどいことになるぞ」と脅かしたり、「やーいざまーみろ」と逆ギレの悪態をついて溜飲を下げたりする趣旨のものではない。すでに現実として目の前にあらわれつつある動きを、少々露悪的に(もちろん「本書」のスタイルに倣ったものだ)書き記しただけのことだ。だから、年金の問題にせよ、外国人労働者の問題にせよ、わたしがこうやって書いたりするまでもなく、事態はもう、この方向に流れはじめている。幸福な若者たちをあてにしない社会への移行は、徐々にはじまっているのだ。

しかし、こういってみてもおそらく、すでに幸福な若者たちには響かないだろう。わたしたちの世代が、先人たちの蓄積をつぎこみ、彼らの将来の糧を先食いして、それを(幸福な彼らとちがって)不幸な私たち自身の「逃げ切り」のために使ってしまったとしても、彼らに「幸福な階級社会」の「二級市民」として生きる自由だけを残したとしても、彼らは恨みには思うまい。それはわたしたちやその上の世代が「した」ことの結果ではなく、大人である彼らが、自身の幸福のために、できたはずのことを自ら「しない」と選んだことの結果であり、その時点ですでに受け入れていた未来だからだ。

以上。暴論、終了。

最後に、少しだけまじめに

「本書」と本稿をお読みいただいた方は、これまでのさまざまな若者論をここちよく消費してこられた方も含め、通俗的世代論の(というより、それらが裏に隠した本音の)醜悪さをたっぷりとご堪能いただけたのではないだろうか。居酒屋談義は別として、意義ある議論をしたい向きは、そろそろ「次」の段階に進むべきかと思う。率直な議論自体は必ずしも有害ではなかろうが、むき出しの利害や反感の衝突となると、あまり生産的な結果にはならない。タコツボ化の懸念がかねてより指摘されるネットが行き渡った現代社会の言論界において、警戒しておくべきポイントのひとつではないだろうか。もちろん、上にも書いた、世代間の資源配分の問題はきちんと議論する必要がある課題だが、そのためには、こうした通俗的世代論を超えた、より大きな社会的合意をめざす議論が求められよう。

古市氏も、若い書き手の「生存戦略」として、通俗的若者論へのカウンターパンチを選択した(あるいは出版社から求められた)、という部分があるのだろう。どれほど売れたのかは知らないが、これだけ話題になったということは、その狙いはそれなりに成功したのではないか。わたしなどはとても及ばない優れた才能の持ち主であることは、「本書」を読めば誰にでもわかる。ご本人は、「想像力の豊かな人間ではない」としていて、ご自身の「身の回り」だから若者を論じたと書かれているが、その才能を世代論(しかもとびきり通俗的な)で費やしてしまうのはなんとも惜しい。ぜひ社会に広く共鳴を呼び、世代を超えて連帯のきっかけとなるような、そんな次作を期待したい。というとなんだかすごく上から目線のようだが、むしろ一ファンからの絶賛と期待、とご理解いただきたい。

プロフィール

山口浩ファィナンス / 経営学

1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に「リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ)がある。

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