2011.01.20
専門分化の「帰結」 ―― 専門家の3つの「受難」
R・バックミンスター・フラーの「宇宙船地球号操縦マニュアル」に、「専門分化の起源」と題した章がある。原著では「Origins of Specialization」で、いうまでもなくダーウィンの「種の起源」(Origins of Species)をもじったものだが、もちろん内容は生物学と関係ない。簡単にいえば、専門家たちがそれぞれ自分たちの領域に閉じこもって「専門バカ」となり、ものごとの全体を見ようとしないというタコツボ的状況を批判したものだ。
いかにも総合的な知を指向したフラーらしい書きぶりだが、そうした目で現代の状況を見たらさぞかし不満だろう、と想像してみることがある。かつて彼が批判した「専門バカ」たちが跋扈する状況がおそらくあまり変わっていないから、それは当然不満だろうが、それにも増して、現在各所で見られる、専門家たちの「受難」の方が、彼にとっては気になることかもしれない。
専門家受難の時代
ここのところどうも、「専門家」と呼ばれる人たちについては、総じて旗色が悪いという印象がある。「専門家」をどう定義するかにもよるが、とりあえず一般的な意味で「専門家」に分類されそうな職種をいろいろ思い浮かべてみると、仕事が減ったり職を追われたり、はたまた自ら辞める人が相次いで人手が足りなくなったり、相次いで訴訟を起こされたり逮捕されたり、信頼を失ったりといった具合で、とにかくあまりいい話を聞かない。
考えてみれば、近代以降はある意味「専門家の時代」だ。もちろん、分業は動物にもみられるし、古代から専門家に分類されるべき数々の職業はあった。しかし、今のように社会の幅広い領域で、体系化された知識や技能の蓄積・伝授のメカニズムと、程度はさまざまだが、そうした知識や技能を一定水準備えた者を認証し、そうした者だけが収益機会を独占できる制度的しくみが整備され、そうした専門家たちが社会を動かすために不可欠なプレーヤーとされるようになったのは、そう古い話ではない。
アダム・スミスが「諸国民の富」で分業の発展を分析した18世紀後半は、ちょうど産業革命が本格的に進み始めた時期だ。当時すでに多くの専門家がいたわけだが、その後産業や社会はさらに、そして急速に高度化・複雑化していった。それに伴って、幅広い領域の業務について深い知識や技能をもつ専門家の関与が必要とされるようになり、そのうち重要な一部については資格制度が整備され、現在のような姿になったというわけだ。
(1)急速な技術進歩という受難
しかし現代、とくに20世紀終盤以降は、むしろ専門家「受難」の時代といってもいいような状況がみられるようになった。具体的にはいくつあるように思われるが、ここでは3つあげたい。
ひとつは技術進歩だ。これまで一定の知識や技能を備えた人間でなければできなかった仕事の少なくとも一部は、機械によって代替できるようになった。また、高価な機械や技術が低価格化して素人でも簡単に使えるものとなったり、あるいはまったく別の技術に取って代わられ、別の専門家によって担われるようになったりしたケースもある。専門家が介在する必要性が減少ないし消滅すれば、その専門家の収入や仕事が減ったりなくなったりするのは自然な流れだ。
たとえば昨今のメディア業界の構造変化の中には、これによるところが少なからずある。これまで多額の資本を必要とし、それゆえに少数者の手に握られていた「伝える」ための技術が、広く利用できる手軽なものになった。
このため、それまで結びついていた「作り手」と「伝え手」の分離が進み、後者の付加価値が相対的に低下したわけだ。書籍や雑誌の業界は、その事例のひとつだ。ブログその他でウェブを通して安価に情報が発信できるようになったり、あるいは紙の書籍や雑誌でもネットを通じて販売されるようになったりすると、情報を物理的媒体に固定したり、それを従来のやり方で顧客のもとに届けたりする業務の価値は相対的に下がっていく。
本が高価だった中世には、本を修理する専門の職人がいた。また、つい数十年前までは、活字を版に組む仕事はそれなりに高度な技能を必要とする専門職であり、出版ビジネスを支える重要な役割を果たしていた。しかしこうした専門技能は、本を安価につくる技術が発達する過程で次第に必要性が薄れ、それにともなって専門家たちも活躍の場を狭め、失っていった。
いま起きていることは、基本的にはそれと変わらない。現在の技術進歩がかつてのそれと大きくちがうのは、そのペースの速さだ。いまは、ひとりの専門家のキャリアより短いスパンでどんどん進んでいく。かつては技術変革期に生れつくという「不運」を負った専門家だけが直面した問題に、現在ではすべての専門家が向き合わなければならない。それがこの受難の本質だ。
もちろん、ある技術が用済みになったからといって、それを専門とする人まで用済みになるとはかぎらない。蓄積した知識や技能、あるいは新たな努力をもって、新しい技術の専門家となることもできようし、また別の領域に移っていくことも可能だろう。実例は数多くある。
たとえば1993年の映画「ジュラシック・パーク」では、当初予定されていたミニチュアによるコマ撮り特撮が、コンピュータグラフィックスに変更された。しかし、当初の仕事を失った特撮専門家は、コンピュータグラフィックスのモデルをいきいきと動かすための「演技」指導として、その力を発揮することになったという。
専門家がもつ知識や技能にはしばしば、それが依拠する技術を超えた一般的な要素が含まれており、他に転用できるケースも少なからずある。そうした機会がすべての専門家に開かれているわけではないが、少なくとも対処のしようがないということではない。むしろ現在では、専門家としてもつべきスキルセットのなかに、技術進歩に対する柔軟性が加わったというべきなのかもしれない。
(2)過剰なリスク負担という受難
ふたつめの「受難」は、専門家に対する要求水準が不自然に高まっているとおぼしき状況だ。つねに考えうる最上の水準を維持するのが当然、という類の考え方である。
とくに、本来結果が不確実なものに対して確実な成果を求められる結果、専門家が過剰なリスクを負わされているケースは看過できない。医療過誤問題はなかでも典型的なもののひとつだろう。医療過誤というと、不心得な医師による不届きなふるまいのようなイメージがあるが、必ずしもそういう場合ばかりではない。
実際、医療関係訴訟の件数は2000年ごろから急増している(表1)。おそらくこれは、1999年に注目を集めたふたつの事件と関係がある。肺の手術予定だった患者と心臓の手術予定だった患者を取りちがえた事件と、看護師が点滴薬をまちがえ死亡させてしまった事件だ。いずれも大きな病院で、ミスがあまりに初歩的なものだったことと、とくに後者の事件で、発生後の病院当局が事件を隠蔽するかのような対応をとったことが、国民の医療への不信を決定的なものとした。
したがってこれらは上でいう「不届き」の事例に入るのだろうが、これ以降、突然医療全体の質が低下したとは考えられないことから、ふたつの事件をきっかけに、医師や医療機関への責任追及に対するハードルが下がったと考えていいだろう。
民事上の責任よりも問題なのが、刑事責任だ。民事上の賠償責任は保険や無過失補償制度(2009年より出産事故による重度の脳性まひを対象としてスタート)などで少なくともある程度カバーできるが、刑事責任はその性質上、他に転嫁することができないからだ。
日本医師会の医療事故責任問題検討委員会が2007年5月にまとめた「医療事故に対する刑事責任のあり方について」によると、医療事故に対して刑事責任を問う動きも、医療過誤訴訟と同様、2000年以降激増している(表2)。
医師が逮捕される事例も、1999年まではわずか1例だったのに対し、2000年以降2007年までに少なくとも3例あるほか、非公表の事例も含めて医療過誤が刑事裁判、とくに公判請求にいたった事例が、1999年1月までのおよそ25年間で76件であったのに対し、1999年1月以降2004年4月までの約5年間で79件に上る、としている。
医師への責任追及が適切なものであったかどうかは、当然ながら個別のケースを細かく検討しなければわからない。しかし、こうした環境の変化が全体としてどんな影響をもたらしているかをみることも参考になるはずだ。
端的にいって、医師の過剰なリスク負担が医師不足問題に影響しているとの見方は強い。なかでも大きく影響を受けていると思われるのは、リスクが高いとされる産婦人科医師の不足問題だ。
「財政制度等審議会財政制度分科会財政構造改革部会」(2009年4月21日開催)の配布資料に「主な診療科別の医師数の変化(平成8年から平成18年の10年間における変化)」がある。厚生労働省の「医師・歯科医師・薬剤師調査」から再構成されたものだが、これによると、1996年から2006年までの間に、診療科別の医師数は、総数で8.3%増加しているにもかかわらず、産婦人科では10.6%減少している(図1)。
もちろん少子化の進展や、厳しい労働実態等の事情もあるだろうが、同時期に小児科医の数は6.7%増加しているし、厳しい労働実態は逆に医師数減少の結果でもあることを考えれば、この差の少なくとも一部はリスクの差に起因すると想像してよさそうに思われる。
実際、小児科やその他の診療科と産婦人科とのあいだでは、訴訟リスクには大きな差がある。厚生労働省「診療行為に関連した死亡に係る死因究明等の在り方に関する検討会」第13回会合(2008年3月12日)配布資料には、主な診療科ごとの訴訟件数(既済)を比較したグラフがある(図2)。
訴訟件数では内科がもっとも多いが、医師1000人当たりの件数で比較すると、内科の2.7件、小児科の2.2件などと比べ、産婦人科は16.8件と突出して高い。産婦人科と並んで医師数の減少が著しい外科が、医師1000人あたりの訴訟件数で産婦人科に次ぐ水準にあることも傍証となろう。
医師のような専門家の資格制度は、素人にはわからない専門的知識や技術について一定の水準を確保するとともに、それに関する情報の非対称性を減らす目的がある。しかしこの「一定の水準」は、もちろんその重要性からして相当の高いレベルではあるべきだが、「考えうる最高のレベル」を意味するわけではない。すべてのケースで最高水準の知識や技術が必要とされるわけでもなく、また、たとえ水準が最高でも供給が少なければニーズを満たすことはできないからだ。
仮に最高の野球選手がイチローだとして、すべての野球選手がイチローのようにプレーできる必要はないし、またイチローひとりだけでは野球の試合はできない。それと同じことだ。専門家として備えるべき水準がどの程度かは、そうした諸要素を考慮し総合的に考える必要がある。
もちろん、専門家は民事・刑事責任の追及を免除されるべきと主張するものではない。医師もときに過ちを犯す人間であり、しかるべき責任を負うべきケースがあろう。しかしそのまったく裏返しで、全知全能ではない以上、その注意義務の水準とリスク負担の程度においても相応の限度があるはずだ。
そしてその限度は、その時点での知見と技術の水準や、リスクの告知のような手続き的な要素とともに、当事者および社会全体としてのメリット・デメリットの比較考量も行った上で決定されるべきであろう。
医師不足問題一般についてはいろいろ議論もあるようだが、社会が相応の資源を投入して育成した専門家が、負わされたリスク負担のために萎縮し、あるいは撤退や参入辞退に向かう結果、充分なサービスの提供がなされなくなり、結果として社会全体が損失を被るような事態があるのだとしたら、そのようなリスクの負わせ方には無理があるとみたほうがいい。
医療過誤問題において医師や医療機関が過剰なリスクを負わされる理由の一端は、問題の対処が医療専門家ではなく、警察や検察の手にゆだねられ、原因究明や再発防止よりも医師個人や医療機関への責任追及に主眼がおかれていること、そしてそれらの機関が、ややもすると専門的知見よりは「庶民感覚」や「被害者感情」を重視しすぎることにある。
しかし、専門的技能の特殊性をふまえた対処の方法は他にもありうる。たとえば航空機や鉄道の事故が起きた場合は、国土交通省の運輸安全委員会が第三者の立場で、専門的見地から調査を行う。
当事者の責任追及と切り離すことで、当事者による隠ぺい等を防ぎ、原因究明や再発防止に資する狙いがあるわけだが、同時に、専門家の知見をもって原因究明がなされることで、素人視点による過剰な責任追及から当事者が守られるという要素もある。また、こうしたプロセスがある程度公開されていることで、全体のしくみに対する信頼感が醸成されることにもつながろう。
このような、真相解明に重点をおいた第三者機関は、医療事故に関しても提案されているが、紆余曲折があってまだ実現していない。他の領域でも、こうした機関の存在が望ましい場合があろう。医療にかぎらず、多分に不確実性を含む高度な専門領域に関する事故や事件の処理にあたっては、第三者委員会という形態でなければならないかどうかは別として、当該分野の専門的知見を充分に反映されるしくみを確保し、社会全体として適切にリスクが分担されている状態をめざしていくべきだ。
(3)専門性そのものへの否定という受難
3つめ。今日、専門家が行うべきものとされる業務は広範にわたるが、そのなかには、素人には絶対行うことができないタイプのものと、そうでないものとがある。前者の典型的な例として、たとえば航空機の操縦や外科手術などがあろう。こうしたものについて、素人が専門家にあれこれ口をはさむのは難しい。しかし後者の場合、素人談義の格好の餌食となる場合がある。例として、教育を挙げたい。
昨今、学校や教員への風当たりは厳しい。教員の不祥事が相次ぎ、きちんと教えられない指導力不足教員が跋扈するなど教育現場はめちゃくちゃ、子供たちの学力は低下し、道徳も生きる力も身につかず、ゲームにばかりふけって何もできないダメな大人が大量生産される事態になっている。日本の教育が危ない。教師には任せておけない。今すぐなんとかしなければ・・・とまあこんな感じに流れるのが典型的かと思う。
こうした議論をする者のなかには政治家や有識者も少なくない。とくに近年、教育改革国民会議(小渕内閣、2000~2001年)教育再生会議(安倍内閣、2006~2008年)やその後を引き継いだ教育再生懇談会(福田内閣、2008~2009年)など、教育制度を外部の目で再構築しようとの動きが活発になってきている。教育界に大きな影響力をもっていた日本教職員労働組合(日教組)が90年代以降弱体化し、対決路線から転じたことも、そうした口を出しやすくなった背景としてあげられるだろう。
だが、実際のところどうなのだろうか。教育問題をめぐる議論を眺めていて興味深いのは、問題だと騒ぐ人は多いが、その論拠が往々にしてきわめてあいまいで情緒的であることだ。教員はみな無能であり、信用や尊敬に値しない、問題の解決能力はない、だから教育問題の解決には外部から知恵を入れないといけない、ということなのだろうが、どうも個人的な記憶や思い入れによるものが目立つ。
2006年に設置された「教育再生会議」にしても、教育制度をどうするかについては一生懸命論じているが、いまどうなっているか、なぜ「再生」が必要なのかというそもそもの点については、抽象的な指摘や、教育制度とのリンケージがはっきりしない一般的な社会問題を取り上げるばかりだった。
これにかぎらず、事実やきちんとした分析に基づかず、「最近の若い者はだめだ」といった典型的なお説教型の論理をもって、専門家の専門性自体を否定するかのような議論がよくみられる。
たとえば教員の「不祥事」を取り上げてみる。定義にもよるが、教育職員が受けた懲戒処分等の数がそれに当たるとすると、その1999年以降の動向は図3の通り、毎年4000件前後で推移している(ちなみにその半数以上は交通事故)。2007年のスパイクは北教組事件にともなう大量処分だ。2009年の急増の原因はわからないが、分類中「その他」のみが急増しており、何か特定の原因を伺わせる。
すなわち、教員の不祥事は、少なくともこの10年ほどのあいだ、固有の事例はともかくとして、おおむね安定的に推移しているといえるのではないか。もちろんこれには、どの程度「熱心」に不祥事問題を認知しようとしたかという問題が隠れているからいちがいにはいえないのだが、少なくとも、ここからは、よく語られるような、「トンデモ教師が増えている」といった問題の影は見いだせない。
また、これも教育問題としてよく取り上げられる指導力不足教員だが、最近だと毎年300人前後が認定されている。多いように思われるかもしれないが、分母となる公立学校の教員は全部で約9万人いるから、比率にすれば0.3%だ。少ないから問題ないというつもりはないが、2004年当時の600人弱から減少傾向にあるし、人数的にもシステム全体の問題というより、個別ケースの問題ととらえるべきレベルだ。これを、「最近の教師はダメだ」といった乱暴な総論の根拠にあげるのはバランスを欠いた議論というべきだろう。
これに対して、学力低下はたしかに全体にわたる問題だろう。「近頃の若者は勉強しない」といった年寄りの愚痴は、少なくとも今日生存しているすべての世代が経験しているはずの通過儀礼のようなものだが、最近よく引き合いに出されるのはOECDのPISA(生徒の学習到達度調査)だろう。
この調査は、OECDが加盟国の15歳を対象に3年毎に行っているもので、平均が500点になるように設定されている、いわば国際共通学力テストだ。国ごとの順位が出るので、各国の教育関係者がそのたびに一喜一憂する。2000年から2009年までの4回の調査について、日本の順位と得点を表3に示す。
PISAが注目されたのは、2000年時点で日本は対象国でトップクラスにいながら、その後2回にわたって順位を落としつづけたからだ。とくに2006年の結果は当時大きな衝撃をもって受け止められ、教育再生会議発足や、ゆとり教育見直しのきっかけのひとつとなった。2009年のPISAにおいては、2006年よりも順位が上がったが、関係者の警戒感はまだ解けていないようだ。
上をめざすのはもちろん悪くないと思うが、これを「深刻」な学力低下の証拠とみるのは少々問題があるのではないか。まず、この順位自体は必ずしも低いものではない。2009年PISAでは56の国・都市が参加している。どの科目についても、上位よりも下位の方がたくさんあるのだ。
さらに、OECD自体が、世界に190以上ある国のうちトップクラスの国を中心として構成されている。また、いずれの科目においても、2009年調査で日本より上位に入った国の多くは、2000年以降一貫して日本と比べ上位もしくはごく近い下位にあった国か、2003年調査以降新たに参加した国や都市だ。
得点の絶対レベルが2000年時点と比べて多少落ちているのは事実だが、学力低下が「深刻」とまでいう根拠としては少々弱い。さらにいえば、2000年以前の成績はわからないわけで、「オレの若い頃はもっとできた」という議論は、第1回PISA以前に15歳を通過した者にはできないはずだ。
一般の人たちは、教育についてどう感じているのだろうか。内閣府が毎年行っている「社会意識に関する世論調査」のなかに、世の中で「いい方向へ向かっていること」「悪い方向へ向かっていること」を列挙して選ばせる設問がある。このふたつの設問でそれぞれ「教育」をあげた人の割合を使い、その差をとって一種の指数をつくってみた。つまり、「いい方向へ向かっている」-「悪い方向へ向かっている」で計算される、いってみれば「教育意識DI」だ。国民が教育をどうみているかについて、おおざっぱな方向性を知ることができる。
これをみると、年によって大きく振れているものの、総じて1990年代まではプラス、90年代末以降はマイナス基調になっていることがわかる。そうか教育はどんどんだめになってきたのだな、と思うのは早計だろう。全国数千人規模の調査だ。教育の実情は地方ごとにちがうわけで、全国調査の結果がいっせいにこれほどの振れ幅で毎年よくなったり悪くなったりする理由は考えにくい。教育現場の状況の反映というより、メディアの報道等からの影響があるとみる方が自然だ。
DIのトレンドが変わった潮目である1998年は、新しい小・中学校学習指導要領(2002年4月施行)が告示された年だ。例の「ゆとり教育」を体現したこの指導要領に対しては、当初から大きな反発があった。DIの大きな変化はこれを反映したものだろう。2000年に教育改革国民会議がはじまり、2003年には日本の教育改革有識者懇談会だの民間教育臨調だのといった動きもあった。DIが最低を記録した2006年は、PISAの結果が衝撃を与え、安倍内閣の下で教育再生会議が活動を始め、教育基本法改正が行われた時期にあたる。
メディアもこうした動きを刻々伝え、危機感を煽った。表4は、朝日、読売、毎日の3全国紙において「学力低下」をキーワードとして行った新聞記事検索のヒット数の推移だ。90年代には毎年20件程度だったものが、1999年から急増している。このあたりの数年は、いわば「日本の教育はダメだ」というキャンペーンが繰り広げられた時期だったわけだ。
こうしたグループがひとつの目的としたであろう教育基本法改正が済んだからか、あるいは政権が変わったからか、最近はこうした大きな動きはみられない。DIは2006年を底としてここ数年再び上昇基調にあるようにみえるが、そのことが反映しているのかもしれない。
しかし一方で、教育現場の疲弊は着々と進んでいる。文部科学省調査によると、うつ病などの精神疾患で休職した公立学校の教員は17年連続で増加し、2009年度には過去最多の5458人に達した。2000年度(2262人)の2.4倍だそうだから、著しい悪化だ。この手の話にはよく、いわゆる「モンスター・ペアレント」(最近は「ヘリコプター・ペアレント」と呼ばれるタイプもあるらしい)の話題が付随することが多い。
いくつかの調査によると、アメリカやイギリス、中国や韓国などの外国と比べ、日本では教員に対する尊敬の度合いが低いらしいが、それはそれとして、一般的には、日本の保護者は教育に対してはそれなりに満足している。
ベネッセ教育研究開発センターと朝日新聞社による「学校教育に対する保護者の意識調査」(2008年)では、小中学生の保護者の約8割弱が、学校に対して「満足できる」、6割弱が「学校の先生は信頼できる」としている。絶対水準が高いかどうかはともかく、これらの数値は2004年時点の調査と比べて上がっているから、学校に対する満足、教師に対する信頼はここ数年向上しているとみることができよう。
しかし一方で、教育熱心な保護者ほど教師に対する不信の度合いが強い傾向もみられるという。そうした保護者がすべてモンスター・ペアレントということはないだろう。これもまた「問題教師」と同様、極端なケースは少数にとどまるのではないかと思われるが、保護者の母数は教員よりはるかに多いから、一部の極端な人たちが騒いでいるだけだとしても、教員にとって実際に大きなストレス源になることも十分ありえよう。
教員が受けるストレスについて福島大学等のグループが行った2008年の日米比較研究では、アメリカの教員が主に生徒指導を負担と感じているのに対し、日本では生徒指導によるストレスだけではなく、多忙感や孤独感も深刻であるとの結果が出ており、生徒や他の教師、保護者との信頼関係をつくれずにいることが原因になっているとの指摘がなされている。
ベネッセ教育研究開発センターが2007年に行った「第4回学習指導基本調査」でも、教員は、教材準備の時間が十分にとれず、作成しなければならない事務書類が多く、休日出勤や残業も多いといった点を主な悩みとしてあげており、多忙が大きなストレス源となっていることを示している。
平均して11時間半~12時間学校で仕事をするほか、家でも平均1時間強仕事をしており、睡眠時間は平均して6時間弱と、NHK放送文化研究所が2005年に実施した「NHK国民生活時間調査」による「勤め人」の平日の平均睡眠時間7時間02分より1時間以上短い。これらの状況は2004年の調査時に比べて悪化しており、教員をとりまく環境が厳しくなってきていることと、上にあげたメンタルヘルスの悪化との関係を窺わせる。保護者の学校への満足度が同期間に上がっていることの代償ともいえるかもしれない。
90年代以降、教育分野はさまざまな「外部」の声に翻弄されつづけてきた。もともと誰でも子どもとして、また親として関わる分野であり、口を出しやすいのは事実だ。しかしこれをシステムとして定め、きちんと運用できるようなしくみをつくり、実際に運営していくのは、素人にできる領域の仕事ではない。
専門家が担うべき領域において、ガバナンスの問題として外部の声を反映するしくみをつくること自体はけっこうだが、現場が対応に右往左往し、疲弊していくような状況は望ましいとはいえない。
どうもこの問題については、「熱心」な人々、政治家や有識者、メディアのような「声が大きい」人々が世論を引っ張り、もっといえば「混乱」させているような印象がある。とくに政治的な意図で手を伸ばすようなことは慎み、専門的知見を基礎とした議論の上で進めていくべきであろう。
「受難」から「連携」へ
上にあげた3つの「受難」は、それぞれ例としてあげた領域以外にも少なからずあてはまる一般的な要素を含んでいる。本稿で指摘したいのは、こうした、本来一般性のある問題、専門家の知識や技能が社会のなかでよりよく生かされるためにどうしたらいいかという問題に対しては、専門家が分野を超えて連携し、主張を束ねていくべきなのではないか、ということだ。
現在のように、それぞれの領域の人々が別々に対処にあたるだけでは、どうしても「一般」の声に比べてその主張は弱くなりがちだ。これはフラーが指摘した「専門分化」がもたらしたひとつの望ましからぬ帰結だと思う。
フラーは「専門バカ」を批判したが、「専門家」そのものを批判したわけではない。むしろ専門的知識の価値をよく理解した上で、それらを個別分野ごとにではなく、総合していくことの重要性を指摘したのだ。もちろん総合的な知を必要とする領域は他にもあるだろうが、今日の状況においては、上記のような共通の「受難」から専門家を守るための方策もまた、その重要な一分野となっているのではないだろうか。
推薦図書
原著は1968年刊。じつはわたしが読んだのはこの版ではなく、1988年刊の東野芳明訳、西北社版なのだが、そちらは絶版のようなので、現時点で入手しや すい方をあげた。「宇宙船地球号」という表現を初めて使ったのはフラーだが、このことばが情緒的な意味合いで使われることが多いせいか、フラーについても エコロジーやらニューエイジやらの人みたいな誤解をする人がたまにいる。
だが、フラーが意味したのは文字通りの「宇宙船」、つまり閉鎖系のマシンとしての地球であって、本書は、そこに備わった資源をうまく使うために、「船内」をどのように設計し運営したらいいかについての独創的なアイデアを、一般システム理論のアプローチで語ったものだ。
もうずいぶん前の著作であり、俗に「フラー・ジャーゴン」と呼ばれる独特の言葉遣いのためとっつきにくくもあるが、その示唆は現代にも通じる普遍性がある。 ある意味、時代が追いつけなかった「悲劇の天才」だが、インターネットが世界を覆い、社会の各所でこれまで離れていた、あるいは別々のものと考えられてい たものたちが新たに結合し、力を総合する状況がみられる現代において、もう一度、現代の視点で読みなおしてみると面白い本ではないかと思う。
プロフィール
山口浩
1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に「リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ)がある。