2018.01.10

新春暴論2018――「許される体罰」を考えてみる

山口浩 ファィナンス / 経営学

社会 #体罰

毎年この時期に書いているこのシリーズ、今年も機会をいただいたので再び。

2018年2月の平昌オリンピックが開催間近となってきた。2020年の東京オリンピックも次第に迫ってきているわけで、このところスポーツの話題がメディアの中でも増えてきているという印象がある。とはいえ、いい話ばかりとはいえない。最近の話題の中心はなんといってもこれだ。

●「日馬富士 貴ノ岩に暴行疑惑 ビール瓶で殴打、右中頭蓋底骨折」(スポニチ 2017年11月14日)

https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2017/11/14/kiji/20171114s00005000046000c.html

横綱・日馬富士(33=伊勢ケ浜部屋)に、幕内力士への暴行疑惑が浮上した。関係者によれば、10月26日の鳥取で行われた秋巡業後の酒席で、東前頭8枚目、貴ノ岩(27=貴乃花部屋)をビール瓶で殴打し負傷させたという。

10年前にも新弟子の少年をビール瓶や金属バットで殴るなどして死に至らしめ、惜しくも大賞は逃したものの「かわいがり」が流行語大賞候補にノミネートされるなど話題をさらったあの大相撲である。金属バットはさすがになくなったようだが、「伝統」はしっかり受け継がれているようだ。

スポーツ界において、これは必ずしも驚くべき話ということもない。特に学校でのスポーツにおいては、さすがにビール瓶はあまり聞かないが(それは別の意味で問題がありそうだ)、体罰自体は決して珍しくはない。昨年報じられた記事をいくつか挙げておくが、同じようなペースでいつも何らか話題には上っている。こう多いと「日常茶飯事」とまではいわないが、「どこにでもある話」ぐらいには言って差し支えあるまい。

●「高野連 指導者の体罰、過去5年で最少 SNS中傷は増加」(毎日新聞2017年6月22日)

https://mainichi.jp/koshien/articles/20170623/k00/00m/050/036000c

●「奈良育英の男子サッカー部で体罰 監督の校長が退職」(サンスポ2017年8月14日)

http://www.sanspo.com/soccer/news/20170814/scd17081412080001-n1.html

●「野球部監督が部員蹴る体罰 青森県立八戸西高、練習試合中に」(サンスポ2017年9月13日)

http://www.sanspo.com/baseball/news/20170913/hig17091312510002-n1.html

●「ラグビー部顧問が部員に体罰 神奈川・伊勢原の向上高校」(福井新聞2017年10月23日)

http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/252322

●「部活で体罰、教員に停職 大阪市立中バレー部顧問」(産経新聞2017年11月24日)

http://www.sankei.com/west/news/171124/wst1711240091-n1.html

●「足利工大付バレー部で体罰 男性コーチが生徒に蹴り」(日刊スポーツ2017年11月30日)

https://www.nikkansports.com/general/news/201711300000621.html

いうまでもないが、体罰は法律で禁止されている。場合によっては民事・刑事の責任を問われることもある。そこまでいかなくても、いまや問題が発覚すれば、体罰を行った指導者は退職を余儀なくされるなどの社会的制裁を受ける場合も多いだろう。

●学校教育法第11条

校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

●体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について(通知)

24文科初第1269号 平成25年3月13日

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1331907.htm

●学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰等に関する参考事例

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1331908.htm

スポーツ、特に学校スポーツの場における体罰問題については、これまでも数多くの研究がなされ、対策も一度ならず提案されてきた。文部科学省の有識者会議による2013年7月の報告書では、指導者の資質の問題として指摘されている。

●「スポーツ指導者の資質能力向上のための有識者会議(タスクフォース)」報告書

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/sports/017/toushin/1337250.htm

かくいう私も以前、リスクマネジメント的な視点で書いたことがある。

●「体罰は許されない」では解決しない理由(山口浩 – シノドス 2013年10月7日)

https://synodos.jp/society/5795

にもかかわらず、なぜこれほど多く発生し続けているのか。何か私たちは、根本的な勘違いをしているのではないか。そもそも、体罰を「撲滅」しようとすること自体がまちがいなのではないか・・・。

というあたりで、悪乗り回路が発動し始めたので、暴論スタート。だがその前にdisclaimerをひとくさり。以下は、あくまでお屠蘇気分が抜けない方向けの「暴論」である。「暴論」はあくまでレトリックであり、全体としての論旨は体罰容認ではないが、「暴論」の中で、一見容認するかのような表現が出てくる。過去に体罰を受けるなどして、体罰に関する言論に対して敏感な方はぜひお読みにならないことを強くお勧めする。

体罰小史

ご存知の方も多いと思うが、体罰禁止の歴史は古い。明治から明治12年の教育令にはすでに、体罰禁止が定められている。

●教育令(明治十二年九月二十九日太政官布告第四十号)第46条

凡学校二於テハ生徒二体罰殴チ或ハ縛スルノ類ヲ加フヘカラス

http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317966.htm

禁止令が出たということは、実態として存在したということだ。俗説でよく、「日本の体罰は旧日本軍由来でそれ以前にはなかった」などというものがあるが、もし本当になかったのならこんな禁止令は必要ない。

朝日新聞の記事データベースで「体罰」「しごき」を含む記事の数を調べてみた。1999年以前と2000年以降は異なるデータベースなので件数を直接は比較できないが、戦前には「体罰」に関する記事がほとんどないこと、記事数は時代とともに次第に増えてきていることなどがわかる。

しかし、実際には戦前にも体罰が日常的にあったことは多くの証言があるので、これはむしろ、戦前には「体罰」が問題とされること自体が少なかったことを示すものと考えるべきだろう。ちなみにこれらの多くは授業中などでの体罰で、スポーツにおける体罰に関する記事はほとんどない。

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とはいえ、旧軍の慣習ないしその影響を受けた当時の一般的風潮という要素はもちろんあっただろう。つまり戦時下、学校その他の場において、指導の名の下での暴力がより容認されやすい傾向にあったであろうということだ。1947年施行の学校教育法では改めて体罰が禁止されたが、数年後には体罰の「復活」を報じる記事が散見されるようになる。これを軍隊の悪弊と扱う記事は少なくないので、少なくともそのような認識があったことは疑いようがない。

●学校教育法第11条

校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

●「子供を殴るのは止めよう 体罰の復活には閉口 教師に打たれた私の子供の場合から」(朝日新聞1952年12月19日 東京/夕刊)

戦後しばらく影をひそめていた“ビンタ教育”が最近また目立ってきたので「日本子どもを守る会の教育対策委員会では十一月十九日の会合で“子どもをなぐらない教育”を全国に広げることを決めたが、十七日その第二回の会合が東京都一ツ橋の教育会館に開かれ、差迫った問題として、まず学校教育から絶対に暴力を締め出すことに全力をあげようということになった。

●「体罰の復活(ひととき)」(朝日新聞1955年12月15日 東京/夕刊)

●「学童に旧軍隊式体罰 渋谷区西原小で問題化」(朝日新聞1958年6月25日 東京/朝刊)

ではスポーツの場における体罰はいつごろから話題に上るようになったのかというと、1965年に起きた、東京農業大学ワンダーフォーゲル部しごき死事件はひとつの転機となっているようだ。

●「暴力団なみの“シゴキ”「登山訓練」で重体 農大ワンダーフォーゲル部員」(朝日新聞1965年5月22日 東京/朝刊)

大学の山岳部やワンダーフォーゲル部では“シゴキ”と称して新入生にとくに重い荷を背負わせて、へばるとピッケルでしりをたたいたり、倒れても引きずり起して歩かせるなどがごく普通に行われているというが、今度のようなひどい例は初めて。

●「あすから人権週間 学生のリンチふえる 目立つ運動部・寮関係」(朝日新聞1965年12月3日 東京/朝刊)

学生の私的制裁事件は三十八年十二件、三十九年十五件、四十年二十七件の計五十四件と次第にふえている。学校別では中学八件、高校四十件、大学六件。

制裁が起るのは、運動部がもっとも多く、二十六件、寮生活九件、応援団四件、その他十五件。

法務省人権擁護局の話 学生間の私的制裁がふえているのは東京オリンピック契機に叫ばれた「根性養成」がはき違えられた結果、個人差を無視して練成が行き過ぎたためだ。

ここでは運動部の先輩が後輩に対して行うものであるせいか、「しごき」と呼ばれている。上掲の表では「しごき」に関する記事数を併せて調べている。65年のこの事件以前以降急速に増えるが、その後減っていく。しかし、スポーツの現場における体罰が減ったわけではなさそうである。

●「国士館高では体罰 名門の剣道部 部長、30人にビンタ」(朝日新聞1978年7月4日東京/夕刊)

「最近、授業中に剣道部員が昼寝をして困る、とほかの先生から注意されている。練習はつらいが、寝ては困る。剣道と勉強を両立させろ」と言って一人ずつほおにビンタをくらわせた。

●「運動部での体罰をなくせ 工藤さほ(福島支局)(コラム私の見方)」(朝日新聞1999年12月6日 東京/朝刊)

東京女子体育大学の阿江美恵子・助教授(体育心理学)が、一九九四年から九五年にかけて学生五百九十六人に聞いたところ、二百二十三人(三七・四%)が「過去に運動部の指導者から暴力を受けたことがある」と回答したという。

教育の場における体罰に関する意識は、70年代以降80年代にかけて、校内暴力やいじめなど社会問題ともなった教育現場の実状、戸塚ヨットスクール事件(これはスポーツというより教育の問題ととらえられていたように思う)など複数の事件を経て、根強い抵抗を受けながらも次第に変わっていく。

それに対して、スポーツの場における体罰が問題として人々の関心に上るようになったのは、比較的最近のようだ。1980年代半ば以降、スポーツ指導の際の体罰に起因する死亡事故がいくつか報じられており、それらはそれぞれの地域で教育上の事故としてとらえられたが、スポーツにおける体罰が全体として社会問題視される風潮はなかったと記憶している。

●「「陸上部の娘 体罰で自殺」 慰謝料求め提訴 岐阜」(朝日新聞1985年6月8日 東京/夕刊)

●「罰練習で小5男子死ぬ 船橋のソフトクラブ 指導教諭が敗戦責め 炎天下で校庭を10周 過去にもバットで殴る」(朝日新聞1986年8月5日 東京/朝刊)

つまり、スポーツ指導の際の体罰は最近まで、死亡など深刻な結果をもたらすものでなければ、あまり悪いものとは考えられていなかったということだ。今は状況が変わり、「体罰」に関する記事の中で、運動部などスポーツの場において指導者が行うものが少なからず含まれるようになってきたが、それでもスポーツ指導者の間で体罰擁護論が消えたわけではない。

●「体罰、運動部員6割容認 3大学に朝日新聞社アンケート(暴力とスポーツ)」(朝日新聞2013年05月12日 朝刊)

朝日新聞社が3大学の協力を得て運動部所属の510人にアンケートしたところ、半数以上が体罰を容認した。

体罰の影響(複数回答可)は「気持ちが引き締まった」(60%)「指導者が本当に自分のことを考えていると感じた」(46%)などの肯定的なものが、「指導者自身が勝ちたいという気持ちで体罰をしてきたと感じた」(20%)「指導者の目を気にして練習、試合をするようになった」(18%)などの否定的な影響を上回る傾向があった。

「スポーツを教える側になったとして体罰を使うか」の問いには、「絶対に使わないと思う」が51%。「使うと思う」「時と場合によって使うと思う」は合わせて45%だった。「使う派」も体罰経験のある学生の方が、ない学生より12ポイント比率は高かった。

新聞の論調もこの点では似ており、簡単にいえば「体罰はいけないが許されるべき場合があり適切に行えば一定程度効果も認められる」といった意見だが、特にスポーツの場合、「結果を残せば許される」といった風潮が強く認められるのが特徴だろう。

下の記事は、伏見工高ラグビー部監督として無名だったチームを1981年に全国高校ラグビー大会で初優勝へ導き、テレビドラマ『スクール・ウォーズ』のモデルともなった山口良治氏の弁だ。ドラマの中で生徒を殴るシーンは感動を呼ぶシーンとして描写されていたが、実際にもやっていたわけだ。これを「よいエピソード」のように紹介していることにご注目いただきたい。こうした考え方は、今でも消えたわけではない。

●「生徒を思い、涙流せるか 伏見工高ラグビー部総監督・山口良治氏(体罰を語る:2)」(朝日新聞2006年06月14日 朝刊)

監督就任1年目の試合で112対0で負けた。あの時、生徒に向かって「悔しいと思わないのか!」「同じ高校生に負けて何とも思わないのか!」と、泣きながら殴ったことを今でも覚えています。あれで子供たちが気づいてくれてね。今の伏見工の原点です。

たたいて喜んでもらえることなんて、なかった。いつも心で泣きながら、たたいていました。

(中略)

僕は昔、親の前でも、子供を殴ったこともあったけれど、それを体罰だとは思ってはいません。親に訴えられたら、いつでも辞める覚悟をして、生徒と接してきました。

体罰をして訴えられるケースを見ていると、果たしてその場で指導者と子供が抱きあって泣けるだろうか。ただ悪い生徒をけっても、殴っても何もその子は変わらない。どれだけ生徒のことを思えるか。子供とのコミュニケーション、アフターケア。ともに汗を流し、涙を流せる場を作っていけるかが大事なんです。

体罰に関する研究

体罰は日本のスポーツ研究において重要なテーマであり、これまで多くの研究が行われてきた。むろん専門外なので網羅はできないが、スポーツの場における体罰に関する日本語の研究をざっと眺めてみると、おおむね次の3つのカテゴリーに分かれるように思われる。

(1)体罰に関する選手や指導者の意識調査と分析

(2)スポーツの場において体罰が起きる構造とその意味の分析

(3)いかに体罰をなくすかについて方法論やその実践の紹介

(1)に関しては、アンケート調査が数多く行われている。選手の多くが体罰を経験していること、どちらかといえば強いチームにおいてより多くの体罰が行われていること、中学、高校においてもっとも多くの体罰が行われること、個人競技より集団競技においてより多くの体罰がみられること、自分に非があるとき、指導者の熱意を感じたときなどに容認されやすい傾向があることなど、結果はおおむね共通しているようだ。

●阿江美恵子(1990)「スポーツ指導者の暴力的行為について」『東京女子体育大学紀要』25,9-16.

●阿江美恵子(1991)「暴力を用いたスポーツ指導の影響について:学生への追跡調査より」『東京女子体育大学紀要』26,10-16.

●阿江美恵子(2000)「運動部指導者の暴力的行動の影響:社会的影響過程の視点から」『体育学研究』45,89-103.

●大石千歳・阿江美恵子・若山章信・本村清人(2014)「スポーツ指導者の暴力についての調査 その1:本学学生の体罰経験に関する実態調査報告」『東京女子体育大学女子体育研究所所報』8, 3-8.

●大石千歳・阿江美恵子・若山章信・本村清人(2015)「スポーツ指導者の暴力についての調査 その2:体罰の効果や指導者の人物像および運動部員のストレスについて」『東京女子体育大学女子体育研究所所報』9, 3-11.

(2)については、指導者や選手の個人的特性や両者の関係、スポーツ集団の構造や特性、スポーツそのものに内在する身体的苦痛への忍耐、はてはスポ根マンガの影響まで、じつにさまざまな要因が挙げられ、分析されている。まとめると、体罰が起きるのにはそれなりの背景となる要因があり、それらを解決しなければ体罰をなくすことは難しいという主張である。

●松田太希(2016)「運動部活動における体罰の意味論」『体育学研究』61, 2: 407-420.

●大峰光博(2016)「運動部活動における生徒の体罰受容の問題性:エーリッヒ・フロムの権威論を手掛かりとして」『体育学研究』61, 2: 629-637.

●松田太希(2015)「スポーツ集団における体罰温存の心的メカニズム:―S. フロイトの集団心理学への着目から―」『体育・スポーツ哲学研究』37, 2:85-98.

●村本宗太郎・松尾哲矢(2015)「運動部指導者からみた運動部の「聖化システム」と体罰に関する研究」『日本体育学会大会予稿集』66, 0:106-107.

●坂本拓弥(2011)「運動部活動における身体性―体罰の継続性に着目して―」『体育・スポーツ哲学研究』33, 2) 63-73.

●坂本拓弥(2015)「体罰・暴力容認の一つの背景とその変容可能性」『体育学研究』60(Report) R3_1-R3_8.

●石村広明(2016)「体罰における「通過儀礼的機能」と「懲戒的機能」に関する考察」『日本体育学会大会予稿集』67, 0: 330_2-330_2.

●佐藤広菜・海老原修(2014)「体罰への社会システム論アプローチ」『日本体育学会大会予稿集』65, 0: 96-97.

(3)も、コーチングやアクティブラーニング、アンガーマネジメントなどの個人的な能力開発に関するものから法的責任の議論やオンブズマンなどの制度活用、はては精神論まで、ありとあらゆる手法やアプローチが提案されている。

●図子 浩二 (2015) 「体罰・暴力根絶のためのコーチング学からのアプローチ法」『体育学研究』60 (Report): R10_1-R10_14.

●畑 喜美夫(2017)「ボトムアップ理論による運動部指導」『日本体育学会大会予稿集』第67回 公開日

https://doi.org/10.20693/jspehss.67.15_2

●霜触智紀・木山慶子(2017)「保健体育科へのアンガーマネジメントの導入意義を探る: わが国の学校教育におけるアンガーマネジメントに関する研究動向から」『群馬大学教育学部紀要. 芸術・技術・体育・生活科学編』52: 57-70.

●谷釜了正他(2016)「日本体育大学における体罰排除教育の効果 : 卒業年次生の分析」『日本体育大学紀要』46, 1: 91-104.

●西山哲郎(2014)「体罰容認論を支えるものを日本の身体教育文化から考える」『スポーツ社会学研究』22, 1:51-60.

さまざまな研究があるものの、それらのほとんどは、最終的に「体罰はやってはいけないことである」をアプリオリの前提としているという点で共通点しているように見受けられる。

しかし、体罰がスポーツの成績を向上させるかどうかを直接分析したものは、探し方が悪かったのかもしれないが、見つからなかった。少なくとも、あまり多くはなさそうだ。スポーツ指導において体罰に効果はないという主張はよくみられるが、実際にみられるものの多くは、体罰、特に幼い子どもに対するしつけのための体罰による負の影響を指摘するものであって、学校スポーツ、あるいはプロスポーツのような場を前提としたものではない。

●片柳章子(2016)「いじめや体罰が被害生徒に重篤な精神症状を呈する構造について」『ストレスマネジメント研究』12, 2: 97-104.

●「子供を叩かないで! 体罰の影響を科学的に研究」(Newsweek日本版 2017年11月15日)

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/11/post-8914.php

●「暴力的指導に有効性なし」 教育社会学者・山本宏樹さんに聞く(毎日新聞 2017年12月15日)

https://mainichi.jp/articles/20171215/mog/00m/040/025000c

●「スポーツに暴力は必要か」(シノドス2013年9月9日 山口香)

https://synodos.jp/society/5523

スポーツ心理学の分野では、中程度の緊張がよいパフォーマンスにつながるとする20世紀初頭の古典的ないわゆる逆U仮説(Yerkes-Dodson’s lawともいう)について、その後行われたさまざまな検証によって、その他いくつかの要因が影響することがわかってきている。しかしこれらから、体罰が競技パフォーマンスに対して明確にプラスまたはマイナスの一方だけの効果を持つという結果をみてとることはできない。だからこそ「体罰はいけない」はアプリオリの前提でなければならないのかもしれない。

●Yerkes, R.M., & Dodson, J.D. (1908). The Relation of Strength of Stimulus to Rapidity of Habit Formation. Journal of Comparative Neurology & Psychology, 18, 459-482.

●Hardy, L. & Fazey, J. (1987). The Inverted-U Hypothesis: A Catastrophe For Sport Psychology? Paper Presented at the Annual Conference of the North American Society For the Psychology of Sport and Physical Activity. Vancouver. June.

●Hardy, L. & Parfitt, G. (1991). A Catastrophe Model of Anxiety and Performance. British Journal of Psychology, 82, 163-178.

●Jeffrey A.Miles and Jerald Greenberg (1993). “Using Punishment Threats to Attenuate Social Loafing Effects among Swimmers.” Organizational Behavior and Human Decision Processes 56, 2: 246-265.

●Yoshifumi Tanaka and Hiroshi Sekiya (2011). “The influence of monetary reward and punishment on psychological, physiological, behavioral and performance aspects of a golf putting task.” Human Movement Science 30: 1115-1128.

上掲のものも含む多くの研究が指摘するように、これだけ批判されても体罰がなくならないのは、当事者、特に上位の選手や指導者の中に「体罰はやり方によっては有効である」「いけないことだが指導のためにはしかたがない」という考え方があるからである。「有効」とは、第一義的には優れた競技パフォーマンスであろう。この点について、現状では研究者がいえることは必ずしも多いとはいえないだろう。

あいまいな基準と社会の容認論

もう1つ、重要なことは、「何が体罰にあたるか」についての基準自体が必ずしも明確ではなく、また指導の現場に浸透しているとはいいがたい状況があることである。文部科学省は、学校教育法上許される懲戒と許されない体罰との区別について、ガイドラインとなる資料を示してはいる。

●文部科学省「学校教育法第11 条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方」

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1331908.htm

しかし、たとえば「部活動顧問の指示に従わず、ユニフォームの片づけが不十分であったため、当該生徒の頬を殴打する」は、「身体に対する侵害を内容とするもの」として体罰に分類されるが、では「頬を殴打する」代わりに頭を軽く叩くのはどうか、また清掃活動などの課題を出すことは懲戒権の範囲とされるがそれが長時間にわたり、人によっては肉体的苦痛を伴うものであったらどうかなど、現場で生じうるさまざまなケースをどう判断するかについて明確な基準を示すものではない。

そもそも文部科学省自身が、「個々の懲戒が体罰に当たるか否かは、単に、懲戒を受けた児童生徒や保護者の主観的な言動により判断されるのではなく、上記(1)の諸条件を客観的に考慮して判断されるべきであり、特に児童生徒一人一人の状況に配慮を尽くした行為であったかどうか等の観点が重要」としている。裁量の余地を残したのは現場の判断を尊重する趣旨であろうが、結果として現場の指導者が大きなリスクに直面することになることを考えれば、ある意味、行政としての「逃げ」であることも否定できない。

●問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)

18文科初第1019号 平成19年2月5日

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/07020609.htm

「いやしくも有形力の行使と見られる外形をもった行為は学校教育法上の懲戒行為としては一切許容されないとすることは、本来学校教育法の予想するところではない」としたもの(昭和56 年4 月1 日東京高裁判決)、「生徒の心身の発達に応じて慎重な教育上の配慮のもとに行うべきであり、このような配慮のもとに行われる限りにおいては、状況に応じ一定の限度内で懲戒のための有形力の行使が許容される」としている(昭和60 年2 月22 日浦和地裁判決)。

こうしたあいまいな姿勢にならざるを得ない要因の1つは、社会全般の体罰に対する態度がそれほど一貫したものでないということもあろう。実際のところ、スポーツ界の外でも、体罰容認論はそれなりの支持を受けている。

●「「体罰」に関するアンケート調査 38.8%が肯定派」(NEWSポストセブン 2017.10.14)

http://www.news-postseven.com/archives/20171014_620684.html

教育やしつけの名のもとの暴力は愛なのか罪なのか──。本誌・女性セブンの読者からなる「セブンズクラブ」の会員410名(全国10~80代の男女)を対象に体罰について賛成か反対かアンケート調査を実施した(アンケート実施期間2017年9月8~9月13日)ところ、「賛成」は38.8%、「反対」は61.2%という結果になった。

●「喫煙生徒を血まみれになるまで殴った教師、母親は「よくぞやってくれました」と頭を下げた【「体罰」を考える】」(産経新聞2013年4月9日)

●「スポーツにおける体罰について」生島勘富(アゴラ2013年01月22日)

http://agora-web.jp/archives/1514461.html

体罰は正しく使えば確実に効果があります。

すなわち、スポーツ界において体罰がなくせないのは、スポーツ界の人々が特別に悪い人だからではない。むしろ一般社会の方が、多くの体罰肯定論者を抱えているかもしれない。もちろん、スポーツ指導者は体罰の問題について、一般国民よりも高い意識をもっているべきとは思うが、上の例のように、全国紙が擁護ととれる論陣を張り、企業経営者が体罰の有効性を説く社会において、自身が指導する選手のパフォーマンスによって評価・選別される弱い立場にあるスポーツ指導者だけに「聖人」を強いることの方が無理というものだろう。

「許される体罰」の条件を考える

そうまでして本音では体罰を「温存」したいのであれば、無理に「根絶」などしようとしても無駄だ。もちろん、法律その他の「建前」からいえば体罰は「悪」であるし、実際の弊害も数多く報告されているが、法律や制度が建前から離れることは容易ではないし、肯定論者はそもそもそんなことはわかったうえで肯定している。

ならばむしろ、どうすれば、大きな弊害なく「温存」できるかを考えた方が実際的というものだろう。「許される体罰」なるものがあるとすればそれはどんな場合になりたつのか、何せ「暴論」なのでおおざっぱに3つほど考えてみた。

(1)宗教であると主張する

宗教界においては、「荒行」と呼ばれる、身体を痛めつける修行がある。天台宗・比叡山延暦寺の千日回峰行や日蓮宗・中山法華経寺の百日大荒行などがよく知られている。前者は延暦寺1300年の歴史の中でたった2人が成功したのみだそうだが、後者の方は毎年行われていて何人もの僧が参加している。修験道でも荒行は行われる。禅宗では坐禅の際、警策で肩を叩くことがある。より広くとらえれば、多くの宗教にみられる「禁欲」自体、苦行の一種と考えてもいいかもしれない。

これらはいずれも、そもそも「罰」ではなく、修行のための宗教上の行為として長年受け入れられてきたものであり、それによる肉体的苦痛も、受ける側が自ら望んで受け入れている。もちろん、これによって死亡など重大な結果が起きてしまうと、たとえ同意の上であっても指導者の法的責任は免れることができないであろうが、そうでないレベルであれば、信仰の問題である以上、外からとやかくいわれることは少ないであろう。

●「禅の修行「座禅」 肩を棒で叩く行為は「体罰」にあたるか?」(弁護士ドットコムニュース2013年05月23日)

https://www.bengo4.com/c_1009/n_402/

●日蓮宗「荒行」で死亡事故 責任は誰にあるのか?(弁護士ドットコムニュース2013年06月03日)

https://www.bengo4.com/c_5/n_450/

ならば日本のスポーツ界も、「スポーツ」などというぬるいカテゴリーに属することはやめて、自らを宗教と主張してみてはどうか。そもそも日本の少なからぬスポーツは、たとえ西洋由来のものであっても、精神性を重んじ、勝負より己に勝つことを至上とする「道」であるとされるではないか。

ならば宗教は遠い存在ではない。神でも仏でもいいが何らかの超越的存在に捧げる宗教儀式として競技をとらえ、体罰も罰ではなく「修行」の一環であると主張すればよい。実際、スポーツの場において体罰が発生する構造について、スポーツ集団をカルトになぞらえてみればよく理解できるとする研究がある。別にカルトに限る必要もなかろう。

●石村広明・田里千代(2017)「スポーツ集団における体罰についての一考察 : 野球部とカルト宗教集団との類似性を手掛かりに」『天理大学学報』68, 3: 61-74.

しかし、このアプローチにはやや問題がある。学校でのスポーツ活動を宗教ととらえることは、憲法第20条の信教の自由、教育基本法第15条の国公立学校における宗教的活動の禁止などとの関係が問題になるのだ。私立学校においては、特定の宗教に基づく教育を行う方針で募集すればいいかもしれないが、国立学校においてはスポーツができなくなってしまう。多くの体育教師を輩出する某国立大学などは存亡の危機に直面しよう。これではいかん。

(2)芸能と位置づける

相撲界で今問題となっている暴力事件に関して、お笑いなど芸能界から擁護する声があるようだ。学校での体罰についても、擁護する人はいる。

●「松本人志、日馬富士を擁護 「土俵以外で暴力ダメは無理がある」」(ハフポスト 2017年12月03日)

http://www.huffingtonpost.jp/2017/12/02/matsumoto-hitoshi_a_23295305/

●「講師に対する暴行で生徒が逮捕 ビートたけし「生徒の暴力には暴力で対抗する強い先生も」」(しらべえ2017年10月1日)

https://sirabee.com/2017/10/01/20161311690/

お笑い界でこうした意見が出ることは、芸人を肉体的、精神的に痛めつけることで笑いをとるスタイルの芸人が1人ならずいることを考えれば、さほど違和感はない。この業界でいう「いじり」は相撲界でいえば「かわいがり」、他のスポーツでは「特訓」ということなのだろう。もちろんその裏には、そうした「いじり」を笑い、「特訓」に感動する日本の視聴者たちがいるわけだ。

ならば話は早い。スポーツ全体を芸能、すなわち見世物と位置付ければいいのだ。そもそも相撲は見世物だったのだから何の問題もない。「国技」などという大風呂敷はさっさとやめて、見世物に徹すればよい。他のスポーツも、観客を集めて見せることで収益を上げるものは数多くあるのだから、広い意味では芸能と考えて問題なかろう。選手たちもよく、「感動を与えたい」などと言っているではないか。どうせなら笑いもとってやるといい。

人は誰かが苦しんだり苦しめられたりするのを安全な場所で見るのが大好きだ。マラソンでランナーが苦しげな表情をするのも、柔道で締め技をかけられた選手の表情が苦痛に歪むのも、リアクション芸人が熱湯風呂に突き落とされてバタバタと大げさにもがくのも、漫才コンビが互いの容姿や家族を笑いものにするのも、画面を通して見ればさして変わらない日常の娯楽の1つにすぎない。

今でもテレビで時たま放映される、鬼コーチが選手を罵倒したり、ときには殴打したりするシーンは、ドラマなら感動を呼ぶシーンだ。選手も監督もすべて芸人、すべて納得ずく、そう考えれば、彼らの痛みや苦しみは私たち見る者の娯楽として消費できるし、それを見て誰か文句をいう人がいても、「芸事なんだからしかたないじゃん?」ですむ。せっかく「芸」をご披露するのだから、スポーツの場での体罰は、すべて動画で撮影してネットで公開するといい。体罰のやり方、受けたときのリアクションは注目を集めるポイントだろうから工夫が必要だ。各自「芸風」を磨くとよろしかろう。

しかしこれにも問題がある。テレビに出てくる芸人を見ていればわかるが、実際のところ面白い人はそのうちごく一部で、大半は正直面白くもなんともない。芸人でございと言ってはみても、面白くなければ芸人としての存在価値はない。結果としてスポーツはごく一部のプロのものとなってしまう。これもいかん。

「治療」と考える

宗教と位置付けるにせよ芸能と位置付けるにせよ、本人の同意は不可欠だ。では、事後に問題とならないようにするためにはどのような同意が必要なのか。まっさきに思いつくのは、医療におけるインフォームド・コンセントの考え方である。

医療におけるインフォームド・コンセントのベースとなるのは、患者の自己決定権である。患者本人が説明を理解し自ら判断する能力があるのであれば、その意思決定を尊重すべきであり、それを無視し同意なく治療を行うことは、たとえ医療行為として適切であったとしても、患者の人格を尊重していないことになる。

インフォームド・コンセントの成立要素は、次のようなものであるとされる。この考え方は、おおむね応用できそうに思われる。

●丸山英二(2006)「インフォームド・コンセントの基本的考え方」平成18年度 中国四国ブロック管内 インフォームド・コンセントに関する研修会資料

http://www2.kobe-u.ac.jp/~emaruyam/medical/Lecture/slides/061006Okayama.pdf

(1)患者に同意能力があること

(2)医療従事者が(病状,医療従事者の提示する医療行為の内容・目的とそれに伴う危険,他の方法とそれに伴う危険,何もしない場合に予測される結果等について)適切な説明を行ったこと

(3)患者が説明を理解したこと

(4)医療従事者の説明を受けた患者が任意の(→意思決定における強制や情報の操作があってはならない)意識的な意思決定により同意したこと(医療行為の実施を認め,医療行為に過失がない限り,その結果を受容する)

ならば、スポーツにおける指導を一種の医療行為と考えてみるといいかもしれない。文部科学省によれば、スポーツは「体を動かすという人間の本源的な欲求にこたえるとともに、爽快感、達成感、他者との連帯感等の精神的充足や楽しさ、喜びをもたらし、さらには、体力の向上や、精神的なストレスの発散、生活習慣病の予防など、心身の両面にわたる健康の保持増進に資するもの」である。

ストレスの発散や生活習慣病の予防であれば、それはより健康な状態をめざすという意味で医療に近い行為であるから、その指導は医師による医療に準じるものと考えてもよかろう。もし効果があるなら、そのために体罰を行うことに何の遠慮が必要だろうか。

●スポーツ振興基本計画 1 総論

文部科学省スポーツ・青少年局企画・体育課

http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/plan/06031014/001.htm

当然、スポーツ指導という「治療」を行うにあたっては、「患者」すなわち選手たちに対してその内容を説明し、同意をとる必要がある。インフォームド・コンセントを事後に立証するためには、書面が必要となる。指導に際して行う体罰の種類や行う条件、その回数などの体罰メニューを詳細に、「練習中にだらけたと監督及びコーチの過半数がみなした場合にはビンタ。ただし1時間に3回以内、1回あたりの強さは××ニュートン以下」など個別に列挙し、項目ごとに同意の印をつけてもらう。

体罰により発生するかもしれない被害や副作用も十分に説明し、当然ながら選手側に自由意志に基づく拒否権を与える。未成年者については当然、親など保護者の同意も併せてとる。この基準は学校や競技団体、場合によっては自治体や国のチェックなり認証なりを通してその適切さを検証していく。不適切な体罰に対する苦情申し立て機関も必要だ。

いうまでもないが、その考え方の前提にあるのは、体罰が指導法として有効であるという科学的根拠である。完全な因果関係の証明は難しくとも、疫学的証明ならある程度できるかもしれない。少なくとも、より上位の選手や指導者の方が体罰を容認する傾向が強いことはわかっている。

罰を与えることが競技パフォーマンスに与える影響についても研究はされているが、見た限りこれらは基本的にプレー時の状況によるパフォーマンスの変化についてのもので、練習時の体罰がもちうる長期的な競技パフォーマンスへの効果について十分分析しているとはいいがたい。日本のスポーツ界において体罰が有効か(どのような体罰をどのように行うと効果があるのか)については、やはり日本の文脈で、日本のデータを用いた分析が必要ではないかと思われる。

少なくともスポーツ界を含む日本の多くの人々は、表向きはともかく、本音の部分では、ある程度の体罰を事実上容認している。ならば堂々と、容認する論陣を張るといい。国際的な評価が気になる人もいるかもしれないが、指導者はともかく、体罰を受ける側の選手がそれゆえに競技を失格になるという話は聞いたことがないし、そもそも本人の同意の上で、オーソライズされた方法で体罰を行うのであれば、外から文句をいわれる筋合いもなかろう。「Taibatsu」はすでに国際語になっている。体罰は日本の文化、とでも言ってやるといい。東京五輪は体罰で金メダル、おおいに結構ではないか。

●Aaron L.Miller (2010). “Taibatsu: ‘Corporal punishment’ in Japanese socio-cultural context.” Japan Forum 21, 2: 233-254.

以上、暴論終了。

まじめな話、ここに挙げた3つのアプローチは、実際にやるのはそれなりに困難なはずで、ここまでやらなければならないならそもそも体罰などやめようとなるのが合理的な考え方だろう。

とはいえ、まったく荒唐無稽な主張ばかりとも考えていない。体罰はともかく、指導法に関する十分な説明や事前の同意は必須だ。すでに多くの学校では生徒の部活動参加に際して保護者の同意書をとっているだろうが、それを現在より詳細に、指導の内容や懲戒の可能性とその手法についても説明したうえで同意書を取り付けることぐらいはしてもいいように思う。

場合によっては、指導の場を撮影するなど、外部からの事後的な検証を可能にしておくことも考えるとよい。相撲界を含むプロスポーツの世界はより明確な契約があるかもしれないが、ビール瓶で殴るのは正当化しにくいが、規律や儀礼などのために一定の行動を義務付け違反した場合に懲戒を下すというのであれば、その具体的な内容もあらかじめ契約ないしその付属資料に盛り込んでおくのがスジというものであろう。

そもそも体罰の定義自体があいまいで、かつ時代によって動いている。文部科学省の「懲戒・体罰に関する考え方」にも影響を与えているであろういわゆる水戸五中事件の高裁判決(東京高判1981.4.1)では、中学教師が「平手及び軽く握つた右手の拳で同人の頭部を数回軽くたたいたという軽度」な行為について、他の事情を勘案すれば「体罰といえる程度にまで達していたとはいえず、同人としても受忍すべき限度内の侵害行為であつた」としている。

しかしこの判決は、この生徒が事件後体調を崩し、8日後に脳内出血で死亡したこと、その際左側頭部に内出血が認められたとされることなどを併せ考えると、少なくとも現在同様の事案が発生した場合に同じ判断ができる状況とはいえまい。現在許容されるとするものについても、今後問題視されるようになる可能性は充分にある。

本稿はスポーツ指導の際の体罰全般を容認せよと主張するものではない。しかし何が体罰か自体がこれほどあいまいである状況で「体罰は違法」と言ってみても現場の参考にはならない。

文部科学省は「状況に応じ一定の限度内で懲戒のための有形力の行使が許容される」というのであれば、「飽くまで参考として、事例を簡潔に示して整理したもの」を示すだけにとどまらず、どんなときに何をどのようにすれば懲戒あるいは指導として許容されるのかについて学術的根拠に基づく明確なルールを示し、かつ教員やスポーツ指導者などの養成課程にそのための知識と技能を伝授するプロセスを組み込み、さらに広く社会一般にその基準を周知するなどの対応をとるべきであろう。

現在、多くのスポーツ指導者や選手たちは、建前と本音の板挟みになっている。あいまいな基準や相矛盾する複数の立場からの批判は、彼らを苦しめるだけでなく、それ自体がスポーツにおけるパフォーマンスの追求を阻害する要素となっているのではないか。

フェアプレーは、ルールとその運用方法に関し競技者や審判、さらには観客の側も含む全員の合意があって初めて成立するものであろう。体罰に関しては、どうもそうはなっていないようだ。その背景には、「体罰はいけない」が「勝利のための犠牲」を当然視する、「体罰はいけない」が「泣きながら殴る熱血指導」には感動するといった、一般社会におけるダブルスタンダードがある。このことから目をそらし、スポーツ指導者だけに責任を押し付けていることこそが、問題の根幹ではないだろうか。

プロフィール

山口浩ファィナンス / 経営学

1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に「リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ)がある。

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