2012.06.14
言論空間における「関係性の明示」について
告知協力しようしようと思っているうちに期限が来てしまって内心申し訳なく思っているのだが、今私が関わっている、WOMマーケティング協議会(略称「WOMJ」)が、「WOMJガイドライン」改訂に関する意見募集を行なっていた。
「WOMJガイドライン改訂への意見募集を行なっています(5月30日~6月9日まで)」
http://womj.jp/news/2012/05/womj53069.html
口コミマーケティングにおける「関係性明示の原則」
いわゆる口コミマーケティングの事業者や関心を持つ個人などが集まっているWOMJは、口コミマーケティング(「WOMマーケティング」ともいう)を実施する際に事業者が守るべきルールをガイドラインとして定めている。その中心となっているのは、「関係性明示の原則」と呼ばれる以下のようなものだ。
WOMマーケティング事業者は、どのような関係性において、WOMマーケティングが成立しているかについて、消費者が理解できるようにしなければならない。関係性とは、原則として金銭、物品、サービスの提供とする。http://womj.jp/overview.html#anchor05
一般に口コミマーケティングでは、消費者による自発的な情報発信を喚起しようとするわけだが、その際、口コミの起点となる情報を発信する消費者に対して、金銭、物品、サービスなどの提供を行う場合がある。典型的には、レビューを書いてもらうためのサンプルや、ブロガーイベントなどに参加する権利、あるいはイベント会場までの交通費等の提供が挙げられる。これらの「関係性」がある場合にはその旨を、情報発信を行う消費者が明示するように、事業者として必要な措置を講じるべきだというのが、WOMJのいう「関係性明示の原則」だ。
このガイドラインは、2009年に発足した当初のWOMJが、まだ口コミマーケティング業界が今よりもずっと混沌としていた中で、多様な事業者が合意できる最大公約数として定めたものであり、そのためあえて抽象的な表現になっている。何がOKで何がダメかを細々と議論するより、望ましい方向性を掲げ、そこに近づくよう努力していく方がよい、というアプローチだった。
当時はこれでよかったのだが、業界が育ってくるにつれ、あいまいでわかりにくいといった声が挙がるようになってきた。折しも、昨今のステマへの批判の高まりもあって、もっと実効性のあるルールとすべくガイドラインを見直そうという動きが出ている。私が所属するWOMJガイドライン委員会でいろいろ情報収集や議論を行なっているところだが、同時にWOMJ会員や一般からの意見を求めようとしたのが冒頭の意見募集だったというわけだ。
改訂検討の中でこれまで挙がった論点は、主に「関係性明示の原則」の具体化に関するものだ。どの範囲で、どのような明示を行うか。その実行をどうやって担保するか。変化の速い業界でもあり、すべてを決めておくことはできないにせよ、ある程度は決めておかないと、現場で「使えないルール」となってしまう。また、これと併せて、「口コミ」とは厳密には言いにくい、Facebookの「いいね」ボタンを押す行為などについてもこのガイドラインの守備範囲に入れ、口コミでないものを口コミと誤解させるような偽装行為を行わない、といったルールを新たに定められないかなど、検討を続けている。
細かい論点はいろいろあるが、基本的な発想はシンプルだ。一般的な消費者が、口コミマーケティングによる情報発信に接したときに、その発信をした消費者が事業者とどのような関係にあったのかは、消費者の判断に影響を与えうる。であればそれは、あらかじめ明示されるべきである、という考え方だ。たとえばブロガーが、事業者から無料のサンプルをもらったり、イベントに招待されたりするなど、便宜をはかってもらったのであれば、そのブロガーが当該商品やサービスを推奨したとしても、その言説は便宜供与に影響されている可能性がある。しかしそのことは開示されなければわからず、結果として消費者が判断を誤るおそれがある。
もちろん、事業者がマーケティング活動として、サンプルを提供したり、ブロガーイベントを行ったりすること自体は何ら恥ずべきことではなく、正当な事業活動の一環だ。しかし、そうであればこそ、そのことは堂々と開示すべきだ。また、単に開示しないというだけでなく、積極的に隠蔽して、あたかも一般人が自然に抱いた感想であるかのような口コミをさせたとすれば、それは消費者を「騙す」行為であるといわざるを得ない。そのような「恥ずべきマーケティング活動」は、行うべきではない。そういう考え方だ。
言論空間に「関係性明示」は必要か?
前置きがすっかり長くなってしまったが、本題はここからだ。WOMJで口コミマーケティングにおける関係性明示のあり方を議論したり考えたりしているうちに、「待てよ」と思いあたったことがある。ネットにおける情報のやりとり一般、特に言論の部分においても、ある主張をする者と、その主張に関連する他の個人や団体等との「関係性明示」を行うべきであるといったルール、一般人を誤認させるような「偽装行為」を行わないといったルールが必要ではないだろうか、という問題だ。
マーケティングと言論はちがうという考え方もあろうが、基本的にそう変わらないという考え方もありうる。私はどちらかといえば後者の立場だ。言論は、自らの考えを伝え合う「知」の口コミとみることができる。だとすれば、何らかの利害関係によって動機づけられた言説は、いってみれば「知」のマーケティングだ。後者は排除すべきという考えの人もいるだろうが、ポジショントークというのはどんな領域でもあるわけで、その関係性が明示されていれば、受け手は自分で判断できる。特にネット言論では、関係性がわかりにくいものも少なからずあることから、情報の受け手がよりよく判断できるよう、関係性の明示がほしいところだ。口コミマーケティングがあれば「知」の口コミマーケティングもあるわけで、前者に関係性明示が必要だとすれば、後者にも関係性明示が必要なのはいうまでもない。
この問題は、ネット言論の領域で、そのごく初期から「実名vs. 匿名」論としてさんざん行われてきた議論を思い起こさせる。つまり、ネットでの言論を責任あるものとするために発言者の実名を原則とすべきか、あるいは言論の自由の実質的な担保をはかるために匿名を許容すべきか、といった議論だ。
この古くて新しい議論を、今ここで蒸し返すつもりはない。個人的には、この問題に対する答えははっきりしていて、「それぞれの場合と、当事者の選択による」というだけのことだ。一般論として、匿名による言論は、書き手の責任を問われることが少ないことから、無責任なものとなりやすい傾向がある。これを防ぐために、実名の開示や、トラブルの際のトレーサビリティの確保が必要な場合は当然あるだろう。しかしもう一方では、まさにその裏返しで、身分を明かしては自由な言論ができないことも少なくないため、匿名での言説を許すことに格別の意味がある場合もある。
どちらにも根拠がある以上、単純にどちらか一方をとればいいということにはならない。場合によって使い分ける必要がある。そもそも強制力のあるルールではないから、各人が自らの好みに基づいて、それなりのトレードオフを承知の上で選択すればいい。実名と匿名の中間にあたるような、たとえばアイデンティティが保たれる固定されたハンドルネーム、あるいは、通常は管理者のみが身元を知っていて、いざというときには一定の条件の下でそれが開示されるようなしくみなどの利用が解決策となる場合も当然あるはずだ。
では、口コミマーケティングの分野で求められる「関係性の明示」や「偽装行為の排除」といった考え方を、ネット言論の場にあてはめると、どういうことになるだろうか。
関係性の明示は、当然ながら実名の開示とイコールではない。自らが何者であるかを伏せたままでも、関係性を示すことはできる。ある言説について、受け取った人がその意味や背景を理解する上で意味があると判断される組織や個人との関係性については開示した方がよい、ぐらいの話になろうか。たとえば原発再稼働問題に言及するなら、自分が誰かということではなく、原子力や電力会社に関係する組織に所属しているかどうか、そういった機関などから報酬や研究資金などを受け取ったりしたことがあるかどうかなどについて明示された方が、その言説の背景をよりよく理解できるだろう。
もちろん、常識的な範囲というのはある。一般的な言論の場において、あらゆる「関係性」をすべて、微に入り細に入り詳細にわたって明示するなどといっても、できるはずがない。たとえば、個人としてブログやツイッター、フェースブックなどを楽しんでいる一般の個人が、たとえば原発について発言するときは自分がどの電力会社とどのような契約をしているかを明示し、自動車について発言するときには自分が乗っている車のメーカーやら、顧客の中に自動車メーカーがあるかどうか、あるいは自分の家族との間に何か関係はないかなどをいちいち書かなければならないとしたら、およそ何も発言できなくなる。つまり、明示すべき関係性とは、言説を受け取る一般人が、もし知っていたらその判断に影響を与えると思われるような関係性、いわば「重要な関係性」に限るべきだろう。
同様のことは口コミマーケティングにもいえるのだが、マーケティングの場合、ビジネスに直結した行為に関するものであることから、開示を必要とする関係性の範囲は比較的広くとらえられる。これに対し、表現の自由との摩擦が問題となりうる言論の場合には、開示されるべき関係性の範囲はもう少し限定的に考えた方がいいだろう。たとえば、一般の個人が日常的にネットで行っているブログやツイッターの書き込みも言論の一種ではあるが、実際のところ、これらに関係性明示を求めるのは現実的ではない。そもそも、ふつうの人から発信される情報にそれほどの客観性や信頼性を期待する人はあまりいないし、影響力の範囲も限られる。
ではどんな場合は問題となりうるだろうか。ここでは3つ挙げてみたい。
(1)専門家の場合
まず、専門家がその専門分野に関する主張をする際には、何らかのかたちで関係性の明示がなされる方が望ましい度合いが比較的高いのではないかと思う。言論の場において、専門家がその専門分野に関して行う情報発信は、より高い客観性、信頼性や影響力を期待されるものであり、それがその言説が対象とする組織や個人との何らかの関係性によって歪められていないかどうかを知ることには、社会的な意義があるからだ。この点に関して、最近の世論は、かつてより専門家に対して厳しくなってきている。それは以下のような記事をみても明らかだろう。
「専門家12人が報酬受領申告 利益相反なし、保安院」(共同通信2012年2月9日)
経済産業省原子力安全・保安院は9日、保安院が主催する意見聴取会 や、原子力安全に関係する総合資源エネルギー調査会の部会などの審議会に所属する専門家256人のうち12人が、委員になる際、原子力関連の企業や団体か ら何らかの報酬を受け取るなどしているため利益相反の可能性があると申告していたと発表した。
http://www.47news.jp/CN/201202/CN2012020901001945.html
これまで、こうした専門家と関連機関との関係性は、高度な公平性を保たねばならない一部の例外を除き、必ずしも問題があるものとはされてこなかった。専門家の倫理として、報酬の授受等の関係性があったとしても、専門分野に関する言説が影響されることはないと考えられてきたからだろう。しかし、特に震災以降、「専門家」全般に対する信頼は大きく揺らいでいる。上の記事で取り上げられたケース以外にも、震災や原発事故に関して、いわゆる「御用学者」批判は、多くのメディアでみられた。
これらの批判の中には、実際には根拠のないものも多く含まれていただろう。しかし今や、専門家の言論に対して、以前のような「無邪気」(あえてこう書く)な信頼が寄せられる状況ではなくなっていることも否定できない。少なくとも、鋭く意見が対立する場において、「関係性明示」が専門家の言説の信頼性を担保するために必要と考える人が少なくないことは確かだ。もちろん、専門家が関係性明示なしに言論を展開する自由はあるわけだが、その際にはその言説への信頼性が低下するというコストを自ら負担することになろう。
(2)社会的な影響力が大きい場合
では、専門家でなければ関係性明示は必要ないのだろうか。昨今の情報技術の発達による社会の変化にはさまざまなものがあるが、その中でも大きなものの1つは、いわゆる「プロ」と「アマ」の境界が曖昧になりつつあることだ。これはさまざまな領域で生じており、言論ももちろん例外ではない。ネットには、専門家による言説もアマチュアによる言説もいっしょくたにされて、その影響力を競わされるフラットな言論空間が広がっている。このような状況で、専門家ではないにもかかわらず関係性明示を求めるべき情報発信者がいるとすれば、それは、それを仕事としているかどうかではなく、その言説にどの程度の影響力があるかによって選別されるべきだろう。
たとえば、ステルスマーケティングが横行しているとして「2ちゃんねる」等で批判されたゲーム関連の情報ブログ、いわゆる「ゲハブログ」の運営者たちは、必ずしもゲームビジネスに関する専門家というわけではない。しかし少なくとも、ゲームやゲーム機に関する情報源として一定の存在感と影響力を持っていることもあって、ゲーム会社などとの関係性を明示しなかったとして批判を呼んだわけだ。この例に限らず、一般人であっても、影響力の強い情報発信者は少なからずいる。
専門家でも、専門家としてではなく一般人としてネットで発言している場合はある。そうした場合は、必ずしもその言説に専門家としての信頼が置かれるとは限らない。しかし、何らかの分野で専門家と呼ばれる人たちは、自らの専門分野以外でも、関連する知見や専門家としての自らの知名度などを活用した情報発信を行い、ある程度信頼される発信者(いわゆる「識者」という扱いだ)として位置づけられている場合も少なくない。そういった場合は、やはり社会的な影響力が大きい場合と考えるべきだろう。
どこで線を引くかについては議論の余地があるだろう。しかし、少なくとも、影響力のある発信者であることを自覚するのであれば、関係性の明示が社会的に求められていることの自覚もまた必要なのではないかと思う。
(3)一般人が判断を誤るおそれのある偽装を伴う場合
もう1つ、身元や関係性など、アイデンティティに関する情報を偽装した言論についてはどうだろう。たとえば、男女間の役割分担のような問題を議論しているときに、男性が女性のふりをして、「私は女性だが男性側の意見に賛成である」といった主張を展開したとしたら? 2011年のいわゆる「九州電力やらせメール事件」では、玄海原子力発電所2、3号機の運転再開に向けて行われた佐賀県民向け説明会の際、九州電力が、関係会社の社員らに対し、その身分を隠し、一般住民を装って、運転再開を支持する旨のメールを出すよう指示していたとして、厳しい批判を浴びた。
身元を明かさない匿名の情報発信が、表現の自由を守るために認められるべきだとしても、身元を積極的に偽る行為を正当化する根拠にはなるまい。掲示板やブログ、ツイッターなどのソーシャルメディアでも、たとえば何かの業界関係者と思しき人が一般人を装ってその業界に有利な主張を展開したり、政府関係者が自らを民間人であると偽って政府批判に反論したりするなど、実際とは異なるアイデンティティを使って言論活動を行う行為が散見されるが、身元を偽装した言説は、いかに内容がよくても、やはり今ひとつ信頼を置けないところがある。
もちろん、身元を明らかにできない場合はあろう。しかしその場合は匿名で発信すればいいのであって、偽装行為が無制限に許されるべきものとは思わない。少なくとも、ある程度の影響力を持つ情報発信者であれば、その影響力を行使する際に、少なくとも偽りのアイデンティティで他人を誤認させるようなふるまいは慎むべきではないかという主張は充分ありうるだろう。
では、ここしばらくの間ネットで注目を集めたこの件はどうだろう。
「検証・女子大生の学費支援サイト、炎上で活動停止の裏 騒動を増幅させた「乖離」とは(ネット事件簿)」(日本経済新聞 2012/6/5)
5月28日、学生の学費を一般から募る支援サイトが、支援金の全額返還と活動停止を発表した。サイト開設からわずか11日のことだった。ある“女子大生”の支援金募集を始めたところ2日で約100万円を集めたが、様々な批判が集中。今年最大級の炎上事件へと発展し、サービス停止に追い込まれた。「1人でも多くの苦学生を救いたい」という思いで始まったこのサイトは、なぜつまずいたのか。サイト運営者や支援金出資者の証言をもとに検証した。
http://www.nikkei.com/article/DGXBZO42176240U2A600C1000000/
この「事件」は、学費支援を目的としたクラウドファンディングサービスが「炎上」したというものだが、注意すべきなのは、批判していた人々は、ここに資金を投じた人たちとは概ね別ということだ。記事によれば、「彼女に出資をした当事者からのクレームはあまり露見していない」という。つまりこの件は、お金を出した人たちが「だまされた」と騒いだわけではなかった。むしろ、お金を出していない人たちが中心となって「おかしい」と声を挙げたのだ。ということは、批判が集まったのは、このサービスに関して行われた当事者からの情報発信のあり方に対してだったと考えた方がいいように思う。
批判された最大のポイントは、学費支援を求めた学生が、実際には支援募集時点ですでに退学となっていた事実が伏せられていたことだった。よく確認していなかったとのことだが、もし意図的に隠していたのだとすれば、きわめて背信的といわざるを得ない状況だろう。在学資格があるかどうかは、この支援自体の意味があるかどうかについて決定的な影響をもつポイントであるということを考えれば、よく確認していなかったこと自体が重大な問題だとの考え方も当然ありうる。
さらにもう1つ、このサービスを企画した人物と、支援対象の学生が、実は「同居」していたという事実が伏せられていたという点も、強い反発の原因となっていた。実際には単なる「ルームシェア」であったと当事者は後になって説明したが、少なくとも日本の一般的な常識では、男女の「ルームシェア」はそう多くみられる状況ではない。やましいことはないとしても、当然開示すべき「関係性」であると判断する方がむしろ自然だろう。
支援対象の学生の身分にせよ、このサービスの企画者との関係性にせよ、問題がどちらか一方であれば、今回ほどの騒ぎにはならなかったかもしれない。しかしこれらが重ねて指摘されたことで、批判者たちは全体として何らかの「偽装」、あるいは背信的な姿勢のような印象を受けたのではないかと思われる。
私自身は、クラウドファンディングの可能性を基本的には前向きにとらえている。このサービスについても、あらかじめ上記の事実を開示した上で堂々と支援を募集していればよかったのではないかと思う。当該学生に集まった資金はおそらく、学費支援というよりファンクラブ会費に近いものだったろうが、そうしたものを許容するスキームであったことも、根本的な問題だとは思わない。それだけに、情報発信の失敗によって、身分や関係性などが偽装されているかもしれないとの印象を与え、言説の信頼性を大きく毀損してしまったことは残念でならない。
「主体」としての消費者
繰り返すが、ネットでの活動によけいな制限を加えることには反対だ。情報の流れはできるだけ自由であってほしい。制約が加えられることによって萎縮してほしくはない。しかし同時に、自由な情報発信が、結果として情報の受け手に誤解を生じさせたり、何らかの不利益を与えたりするおそれを持っているのも事実だ。だとすれば、メリットとデメリットを比較し、後者が大きい一定の場合には、何らかのルールがあった方が、全体としては情報の流れをよくすることにつながるだろうし、情報発信者としても得策であるはずだ。
もちろん、他者から強制されるわけではないので、それぞれの情報発信者が自らの責任で自らを律するという話ではある。少なくとも、上で挙げたような、ある程度の影響力を持つと考えられる情報発信者に関しては、事業者が事業活動を行う場合と同等とまではいかないまでも、ある程度はその発信力に応じた責任を自ら負うべきではないだろうか。また、影響力はさほどではない場合でも、身元や関係性を積極的に偽装するような行為は、やはり望ましいとはいえない。こうした自律は、ネット社会に対して、私たちが主体的な情報発信者として参加していく際に払わなければならないコストではないかと思う。
プロフィール
山口浩
1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に「リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ)がある。