2012.04.04
文学は「生命(いのち)の砦」か「隔離の檻」か
「少数者」(マイノリティ)にまで文学が浸透した社会
一介の「日本近現代文学」「障害者文化論」の研究者という立場から、日本という社会の特異性を説明するならば、たとえば次のように言うことができるかもしれない。すなわち、“社会の「周縁」や「底辺」で虐げられ、場合によっては教養や社会的ステイタスなどから遠ざけられてきた「少数者」(マイノリティ)にまで文学が浸透した社会である”と。
このような文学について、いまわたしの目と手が届く範囲で一例をあげれば、かつては死と隣り合わせの長期療養を強いられた結核患者や、苛酷で非人道的な環境に置かれていた労働者、就学・就業・恋愛・結婚といった社会参加への道を閉ざされた障害者などの文学があげられるだろう。しかもこれらの人々が、たんに文学の「消費者」(読者)に留まるのではなく、むしろ「生産者」(書き手)であった点はきわめて興味深い。(多少、主旨は異なるかもしれないが、刑務所の受刑者が文芸クラブを立ち上げていた事例などもある)。
上記のような人々が文学の「生産者」になり得た背景には、日本社会の高い識字率が関与しているのは間違いないが、それだけで説明がつくわけでもなさそうである。識字率がそのまま文学の浸透率に繋がるわけではないし、また場合によっては、学校教育の現場から疎外されてきたマイノリティたちが「識字訓練」のために詩や俳句を作り、いわば「文学すること」と「文字を覚えること」が同時進行で進んでいた事例も見受けられるからである。おそらくそこには、「私的な感情を綴る」という行為の底に潜在する文化的特性があるようにも思われるのだが、そのような壮大なテーマを考えるためにも、まずは個々の文学作品を掘り起こし、その意味を読み込む地道な作業が必要であろう。
社会的に虐げられている人々が生み出した文学というと、ともすると「政治的な解決を求めた主義主張」や「差別に満ちた社会への告発」で埋め尽くされているかのように考えてしまいかねないが、必ずしもそうではない。実際には、具体的な問題解決を訴えるというよりは、日々の「喜怒哀楽」を率直に吐露した情緒的表現も多い。どうやらそこには、自身の辛い心情を吐露し、同じような境遇にいる者からの共感を得ることで、苛酷な人生を耐え抜くための「癒し」や「心の支え」を得たいという、文学の自己表現的役割に対する需要が潜在していたようにも思われる。
「文学の功罪」がもっとも極端に現れた事例
社会の「周縁」「底辺」で虐げられた人々の文学。そのひとつの象徴的事例がハンセン病患者たちによる文学であろう。拙書『隔離の文学―ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス、2011年)は、ハンセン病患者たちによって綴られた文学の歴史と意義について検討したものである。
この病気は、かつて「癩病」と呼ばれ、ときに病名を口に出すことさえ憚られるほど忌避された。その差別の悲惨さは、松本清張の『砂の器』をはじめ多くの文学作品にも採りあげられてきたので、あらためて説明する必要もないかもしれない。
日本はこの病気に対して、明治期以来、患者を療養所へと収容する「隔離政策」を中心とした対策を講じてきた。時代によって隔離の根拠法の性格も、隔離対象者の範囲も、あるいは療養所の役割も変遷するので、「隔離政策とは何だったのか」を一言で説明するのは難しい。ただ、人里離れた僻地の療養所に長きにわたって隔離された患者は少なくないし、病気が治った後も諸々の事情で社会への復帰を果たせず、今なおそこを生活の場とせざるを得ない人々がいるということは、決して忘れてはならない。
かつてのハンセン病患者たちにとって、療養所がいかなる場所であったのかを説明するのも非常に難しい。社会のなかで悲惨な差別を被ってきた者にとってはひとつの「避難所」であり、同じ痛みを知る者同士が集う生活の場に心安らぐ場合もあっただろう。
しかしながら、かつての療養所に存在した貧困、通信・文書への検閲、反抗的な患者への懲罰的な暴力、そして患者同士の結婚に際して施された「優生手術(断種手術・人工妊娠中絶手術)」等々の事情を考慮すれば、療養所が患者にとって「良い場所」であったとは、なかなかどうして言いがたい(ただし一口に療養所といっても、国立のものと私立(宗教立)のものでは性格は異なるし、同じ国立であっても地域差もあるので、これもまた難しい)。
なかには別れがたい家族から引き剥がされるかたちで隔離収容された事例もあるし、健在する古老たちの証言では、しばしば療養所からの逃走をはかった者や、あるいは自死という悲しい結末を迎えた者がいたこともうかがえる。そのような患者たちにとっては、そこでの生活はむしろ「苛酷」「劣悪」でさえあっただろう。療養所という場に(あるいは「隔離政策」そのものに)大変な「生きにくさ」を噛み締めた人々は決して少なくなかったはずである。
ハンセン病患者の受難の歴史、あるいは療養所の苛酷な状況の詳細については拙書を参照して欲しい。さしあたりここで書いておきたいのは、そのような「生きにくい」環境のなか、文学を心の支えに生きていた人たちがいたという事実である。世界的に見れば、特定の場所(療養所や療養村など)にこの病気の患者を隔離しようとしたのは日本だけではない。しかし患者たちが体系的かつ膨大な量の文学作品を残しているのは、どうやら日本独自の現象のようである。付言すれば、日本の療養所では、かつての患者たちが残した資料を後の世代の患者たちが受け継ぎ、保存・活用する活動がつづけられてきたという点も非常に興味深い。
私見では、ハンセン病患者たちによる文学は“虐げられ、苦しめられた人々にとって、「文学の功罪」がもっとも極端に現れた事例”ではないかと思っている。一方では、文学は「隔離の檻」であった。すなわち、患者たちに隔離を受け入れさせるための思想統制に利用されたのである。実際に「隔離政策」の施政者たちの導きに従いながら、自ら「隔離されて幸せな自分」を文学に描き出す患者も少なくなかったし、場合によっては「人権侵害」にさえ該当し得る「優生手術」を受け入れようとする文学作品を書いた者もいた。悲しいことに、そのような文学が「隔離政策」のプロパガンダとして利用されたことも事実である。
しかしながらまた一方で、患者にとって文学は「生命の砦」でもあった。つまり、文学を通じて辛い心の内を吐露することは、仲間との連帯感を醸成する営みであり、また差別や暴力によって打ち砕かれた自尊心を守るための自己表現でもあった。戦後になって種々の福祉制度が整うと、患者たちはようやく療養慰安金を手にすることができるのだが、興味深いことに、そのなけなしの慰安金をはたいて文芸同人誌を発行していた患者たちもいた。そのような患者たちにとって「文学すること」は、「食べること」や「眠ること」あるいは「治療すること」と同じくらい重要だったのだろう。
生き延びるための「生存の技法」
「隔離政策」によって心身ともに傷つけられたハンセン病回復者たちが、「人間」としての自尊心と名誉を取り戻すために国家賠償請求訴訟を提訴し、画期的な勝訴判決を勝ち取ったことは記憶に新しい(熊本地裁2001年5月)。この判決以降の啓発活動や事実検証作業によって、ハンセン病問題はすでに決着がついたかのような言われ方をすることもあるが、しかしながら、まだまだこの問題は考えなければならないことが多い。
「制度」「政策」「法律」といったものが学ばれる際、ともすると、不特定多数の「名もなき人々」が発した個人的な感情の問題は、検討するに足らない「雑音」のように受け取られてしまう。しかしながら、実際に「制度」「政策」「法律」のなかを生き、その「生きやすさ」や「生きにくさ」に一喜一憂するのは「名もなき人々」である。そのような感情の問題を「雑音」として捨象してしまうのではなく、むしろ「通奏低音」として受け止める想像力と感受性を喚起する点にこそ、文学研究の存在意義があるのかもしれない。
いまわたしなりに、ハンセン病患者たちの文学を学ぶ必要性を(やや乱暴に)要約すれば、“極めて「生きにくい」制度や生活環境のなかで、患者たちはどのようにして「生き延びて」きたのか。その「生存の技法」を検討する極めて重要な事例である”とでもいえるだろうか。患者たちが「生き延びる」ために、文学を通じて私的な感情を吐露していたのであれば、そのような文学の役割や力はおおいに検討されなければならないだろう。
患者たちは、怒り、嘆き、笑い、喜怒哀楽の波を掻き分けながら、「生きにくい」療養所の生活を凌いできた。あるいはそのような私的な感情を発露し、共に分かち合うことで「生き延びる」ことができたのかもしれない。そのような患者たちの私的な感情が綴られた文学は、きわめて重要な文化的遺産である。
「生きにくい」人間の感情表現の力
拙書の範囲から大きく逸脱して、ここで話は現代へと飛ぶが、いまの日本の社会保障制度に拭いがたい不信感と閉塞感を覚える人はきっと多いことだろう。社会全体に余裕がない状態では、制度上のしわ寄せは、結果的に「底辺」「周縁」の弱い立場の人々が被ることになる。「廃止」(一部改定)が決まった「障害者自立支援法」や、場当たり的に改定が繰り返され、その度に細分化・狭量化していく「介護保険制度」、あるいは「生活保護」などは典型的な例かもしれない。
人は誰しも、自身が所属する社会の中でしか生きられない。そのなかに「生きにくい」部分があるのであれば、それを変えていくために声をあげることは大事なことである。いまわたしたちが享受している制度的権利の一つひとつが、それまでの市民運動や個々に声を上げた人々の勇気の成果であることは忘れてはならないし、またこうしている今も「生きにくい」社会を変える努力を尽くす人々がいる。
しかしながら現実的には、そのような「生きにくい」社会が来週、再来週改善されるわけではない。改善されるわけではない社会の中で、わたしたちは来週も再来週も生きなければならない。わたしたちは「生きにくい“社会”」を変えるためにあれこれと考えなければならないが、それと同時に「生きにくい“いま・ここ”」を耐え忍ぶことも考えなければならない。
「生きにくい」人々は、怒り、嘆き、愚痴り、あるいは逆に開きなおって笑ったりしながら、その日その日を何とか凌ぎつつ暮らしているのだが、逆に言えば、怒り、嘆き、愚痴り、あるいは開き直って笑いながら「生き延びて」いる人々が発する感情表現は、想像以上に大きな力を持っているのかもしれない。
昨今、障害者や難病者のなかには、ブログやツイッターで個人的な感情を綴ることを「生命の砦」にする人々が意外に多いようである。それらは(ハンセン病患者が綴ってきたような)「詩」や「小説」といった文学の伝統的なスタイルを採る場合も採らない場合もあるのだが、日々の些細な感情を誰かに読まれることを願って吐露するという点では、ハンセン病患者たちの文学と同じような切実さを覚えることがある。
しかしながら、これはネットというツール自体についてしばしば指摘されることであるが、ヴァーチャルな「砦」に過剰にこもり過ぎることで現実の他者や社会一般の感覚から乖離し、自分の考えを相対化しにくくなってしまうというデメリットが生じる危険性もあるだろう。「生命の砦」は、宿命的に、「隔離の檻」と接点を持ってしまうのかもしれない。(もちろん、「砦」と「檻」が紙一重であろうとも、とにかく「生き延びる」ことが大切である。)
急速に進化しつづけるコミュニケーションツールが、将来、人間の私的な感情表現をどのように変化させていくのかはわたしの想像外のことである。しかし、人間は私的な感情表現をしつづけなければ生きていけないことは確かなようであり、またその人が「生きにくさ」を抱えていればいるほど、その重要性は増していくようにも思われる。将来の展望は見えなくとも、「生きにくい」人間の感情表現の力については、過去の事例から学ぶことはできるだろう。拙書が、その学びの階梯の小さな一段になることができるならば、望外の幸せである。
プロフィール
荒井裕樹
2009年、東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科特任研究員を経て、現在は二松学舎大学文学部専任講師。東京精神科病院協会「心のアート展」実行委員会特別委員。専門は障害者文化論。著書『障害と文学』(現代書館)、『隔離の文学』(書肆アルス)、『生きていく絵』(亜紀書房)。