2019.10.29

「つくられた自然」の何が悪いのか――「自然再生事業」の倫理学

吉永明弘 環境倫理学

社会

今年の夏もひどく暑かった。この暑さと人が排出したCO2の蓄積との因果関係などについては私には判断がつかないが、都市部の暑さの原因には人為的な要素が明らかにある。舗装道路の照り返し、エアコンの排熱、緑地の少なさなどは、少なくとも体感レベルには大きな影響を与えていると思う。地球規模の話をしなくとも、現在のこのような環境は人間が生み出している部分があることは否定できないだろう。

私の専門分野は環境倫理学であり、特に「都市の環境倫理」について考えている。現在、多くの人々は都市に住んでおり、都市環境とは我々にとっての住み場所としての環境である。都市は自然と対立させられ、都市=自然がない地域と表象されることもあるが、それは誤りである。都市部にも自然が存在する。そして都市部の自然こそこれから維持していかなければならないものなのだ。

このような問題意識を背景にして、『現代思想』(青土社)の9月号の「特集=倫理学の論点23」に「人新世下のウィルダネスと「都市の環境倫理」」という論文を寄稿した。要点は以下の二つである。(1)アメリカの環境倫理学の前提をなしていたウィルダネス(原生自然)の保存という考え方はさまざまな批判にさらされており、人新世(もはや人の手が入っていない自然は存在しない)という考え方はそのダメ押しをした。(2)しかし、人間にとってウィルダネス経験をするということは重要だ、という論点は生き残っており、それならば都市においてこそウォルダネス経験の場を残すべきだ。具体的にはコンセプトにまみれていない雑木林や空き地をウィルダネスとしてそのまま残しておくべきだ。

詳細については『現代思想』所収の拙論を読んでいただきたいが、ここでは、それに関わる話題として、「自然再生事業」について環境倫理学の立場からコメントしてみたい。

 

環境倫理学における「自然再生」に関する議論

従来の環境倫理学において「自然再生」は批判の対象であった。1982 年に環境倫理学者のエリオットが論文「自然偽造」(Faking Nature)を著し、それを引き継ぐ形で、1992 年にカッツが「大嘘――自然の人間的再生」(Big Lie)を著した。そこで彼らは、人間が再生させた自然は「偽物の自然」であり、それを自然というのは「大いなる嘘」である、と主張した。これらの議論の背景には人の手が加わっていないウィルダネスこそが本物の自然であるという考えがあった。

近年ではアンドリュー・ライトが彼らの議論を批判して、自然再生事業を支持している。その理由は、第一に、再生された自然は、自然が自律的に復原していくことの支援になりうる。第二に、本当の自然との類似性をもっているので、それとかかわる機会は、再生されていない自然に対して、配慮しなければならないという人々の思いを強化する。第三に、再生活動を通して、人間が自然に与えた損傷がいかに複雑なものかを知ることができる。(以上は、丸山徳次「自然再生の哲学〔序説〕」『里山から見える世界 2006年度報告書』龍谷大学里山学・地域共生学オープン・リサーチ・センターのまとめによる)。

ライトがこのような考えを持ち得たのは、彼がウィルダネスこそが価値ある自然だという考えから逃れていたからである。また彼はウィルダネス概念と、原野・農村・都市という地域区分が結びついて、都市という環境が不当に貶められることを批判して、「都市の環境倫理」の必要性を提唱した人物でもあった。

 

人がつくった自然を賛美する

近年では、ウィルダネスこそが本物の自然であり賞賛に値するという主張はかなり旗色が悪くなっている。エマ・マリスのように、ウォルダネスを幻想して退け、世界を人間の「庭」(多自然型ガーデン)として作り上げることを称揚する議論も現れている。マリスによれば、自然保護の目標は、生物多様性の豊かな世界を人間の手で実現することにある(エマ・マリス『「自然」という幻想』草思社)。

訳者の岸由二によれば、この本は自然保護の新時代到来を告げた本であるというが、考えてみれば、人がつくった自然を賛美することは、けっして目新しいことではない。例えば「美林」は美しい人工林を称える言葉で、原生林に対しては用いられない(井原俊一『日本の美林』岩波新書)。また、フランスの作家ジャン・ジオノの『木を植えた人』を読んで感銘を受けるのは、主人公が植えた木々があたかも自然の森のようになって、主人公が植えたことに他の人々が気づかないという点にある。これを読んで、人がつくった森なんて偽物だよ、という感想を抱く人はまれであろう。むしろ、人間の営みが自然の営みのように錯覚されるに至る点に感銘を受けるのである。

「好意的再生」と「悪意のある再生」

 

以上のことから、自然再生には特に悪いところがない、つくられた自然は悪くない、と言えそうである。だが、それにもかかわらず、ある種の自然再生事業には依然として胡散臭さがつきまとっており、それはそれで理由がある。

アンドリュー・ライトは、自然再生を、「好意的再生」(benevolent restoration)と「悪意のある再生」(malicious restoration)に区別する。先にライトが推奨した自然再生は、「好意的再生」の場合に限られる。ライトによれば、「悪意のある再生」とは、例えば川床の再生が山頂採掘を許すための口実として使われる場合であり、これは批判されるべきだという。これこそが、自然再生事業が悪く思われる大きな要因であろう。開発を進めて森を切り拓くけれども、その代わりに植林をするから問題はない、という態度は、もともとあった森を残したい住民たちにとっては欺瞞的に映る。開発を進める側は森を代替可能と見なしているが、残したい住民たちにとってはその森は代替不可能なものだからである。しかしこのように自然再生を代償的に用いるというやり方は、環境政策に埋め込まれているものである。

 

代償ミティゲーション

開発に伴う環境悪化を防ぐための対策の一つとして、「ミティゲーション」(緩和)というものがある。それは「自然への悪影響をさけたり、やわらげたりする」ことであり、次の三つに分類される。

①回避(開発を中止したり、別のところで行うことで自然への悪影響をさける) 

②最小化(開発面積を小さくしたりして、自然への悪影響をできる限り小さくする)

③代償(開発によって失われる自然の代わりに、別の場所で自然を守ったり、新たに自然を回復したりすることで悪影響の埋め合わせをする)

日本生態系協会会報『エコシステム』No.45(引用はブログサイトより)

http://blog.canpan.info/seitaikeikyokai/archive/45

重要なのは、回避、最小化、代償の順に試みられるべきとされていることだ。その意味では「代償ミティゲーション」は他に手段がないのでやむを得ず行われることにすぎない。そして実際にはこのような「代償ミティゲーション」であるものを、自然再生事業として大きく宣伝することによって、やむを得ず行われる埋め合わせにすぎない事業が立派なもののように見られてしまう可能性がある。そのような自然再生事業を前にすると、一方で壊しておいて他方で再生するのか、といった違和感を覚えてしまう。過去に失われてしまった自然を再生しようというプロジェクトとは話が違うのだ。

繰り返しになるが、それまでにあった森の木を切り倒しておいて、別の場所に「いこいの森」をつくるというやり方には、何か落ち着かないものがある。『現代思想』の拙論で展開したテーマに引き付ければ、それはコンセプトに染められていない都市のウィルダネス的な場所を失わせて、コンセプトにまみれた森をつくることに他ならない。

したがって本稿の結論としては以下のようになる。①つくられた自然はそれ自体は悪くない、現在の自然は何らかの形で人がつくっているところがあり、つくられた自然を賛美することも多い、②しかし、個別の問題として、自然再生事業が自然破壊のための埋め合わせとして行われる場合には、少なくとも自慢できるものではなくなる。自然再生事業は個々に中身を精査して良し悪しを判断する必要がある。

 

ブラックなものにアウトと告げよう

最後に蛇足を一つ。自然再生事業についての違和感や落ち着かなさは、再生可能エネルギーについて考える場合にも訪れる。再生可能エネルギーの開発と普及は、それ自体としては特に問題はないだろう。しかし、そのなかには、「悪意のある」再生可能エネルギー事業も存在する。

単純な法令違反が行われ、設置してはならない場所にソーラーパネルが設置され、短期的な利益が追及される。それによって生き物のすみかが奪われたり、地域の安全が損なわれたりする。このような事例に目をつぶるならば、再生可能エネルギーの開発と普及を推進する側は、知らないうちに自然破壊に手を貸していることになる。先のライトの悪意/好意というのは単純すぎる二分法のように思われるかもしれないが、このように「環境に良い」とされながらブラックなことが行われている現場を考えるうえでは非常に有効である。

倫理学者は一般に、グレーゾーンに興味をもち、複雑な課題、厄介な問題、答えのない問題に取り組むことを「面白い」と考える。環境倫理学も、動物個体の生命を守るべきか生態系全体の健全さを守るべきかといった、簡単には答えが出ない問題を好んできた。これは難しい問題だ、と頭を悩ませることにある種の喜びを見出してきたともいえる。しかし環境問題のなかには、非常に単純でブラックなものがある(明らかな法律違反など)。法的・倫理的にアウトな行為に対して「それはアウトだ」と言うことも倫理学者の役割だと考えれば、自然再生事業や再生可能エネルギーについて一般論として語るのではなく、個々のケースを見て、「これはアウトだ」と告げることも、環境倫理学者の役割だと思う。

プロフィール

吉永明弘環境倫理学

法政大学人間環境学部教授。専門は環境倫理学。著書『都市の環境倫理』(勁草書房、2014年)、『ブックガイド環境倫理』(勁草書房、2017年)。編著として『未来の環境倫理学』(勁草書房、2018年)、『環境倫理学(3STEPシリーズ)』(昭和堂、2020年)。最新の著作は『はじめて学ぶ環境倫理』(ちくまプリマ―新書、2021年)。

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