2012.02.03
原発震災に対する支援とは何か ―― 福島第一原発事故から10ヶ月後の現状の整理
私の原発震災への関わり
私はもともと福島には縁の薄い者であったが、いくつかの偶然が重なって、福島市の「ふるさと除染計画」の策定を非公式な立場から支援するようになった。その主な内容は、除染ボランティアの受け入れ態勢の整備の手伝いといったところである。この分野に何の専門性ももたない私としては、それは、専門家としてではなく、自分自身でドブさらいや草むしりするだけでも少しは役立つこともあるだろうくらいのつもりで始めたことであった。とはいえ、除染ボランティアはその是非を含めて大変センシティヴな問題を含んでおり、状況が変わればその意味合いが大きく変わってしまうような性格をもってもいた。このため、この問題に多少なりとも責任のある関わり方をしようとすれば、状況を追いかけてこの問題について勉強してゆかなければならなかった。そうこうしているうちに、この問題に多少深入りすることになったというのが私の身に起きたことであった。
その意味では、この文章の著者の主要な属性は、有体にいえば、被災地福島の住民の代弁者としての資格をもたないヨソモノの1人であり、かつ原子力や放射線医学に関して専門性を持たないボランティアの1人ということになる。
ただ、私自身は、医療・福祉領域に関わるところで、生活を支援することの意味を理解する、ということを自分の研究テーマの部分としてもってきた社会科学者であるということもあって、福島を中心とする原発震災に遭った人びとの生活をどのように支えることができるのかという観点から、この問題を見てきたということはある。とすれば、もしかすると、私のような社会科学者としての背景を持っている人間だからこそよく見えるということがあるかもしれず、その場合には、私から見えている震災の構図を伝える努力をすることに多少の意味はあるかもしれない。私がこの文章を素人ながらに書いたのはそういう理由からである。この文章をお読みの方には、この点を踏まえてお読みいただきたいと思う。
汚染地域に暮らすか、離れるか
福島第一原発の事故によって、放射能汚染地域の住民は、汚染地域で暮らすことを選択するか、離れるかの選択を強いられることとなった。2011年10月の統計をみるかぎり、住民票を移した人びとの割合は数%に留まっている。これは、最終的に福島に戻ることを諦めた人びとの数がまだ少数であるということにほぼ対応していると考えられる。また、県外に避難した避難者数は、概ね6万人弱程度とみられている。全体として避難者は15万人程度とみられていることから、県内に避難した人びとが比較的多かったことが想像されるが、今のところ、避難者数を把握することは難しく、正確なところはわかっていない。また状況は時間の経過とともに変化してゆくとも考えられる。だが、いずれの指標をみても、それらは、ひとまず放射能汚染地域の住民の大部分が、避難もせずに現地に住んでいるということを示している。
この結果は、東京をはじめとする域外の人々にとっては意外なものだったといえるだろう。というのも、大手メディア情報などをみても、好んで行われてきたキャンペーンは、たとえば福島市の渡利地区(同市で大波地区と並んで最も空間線量の高い地域の1つ)の住民は避難したいのに避難できず、「自治体に見殺し」にされようとしている、といったものだからである。だが、渡利小学校父母と教師の会によるアンケート調査は事態がもっと複層的であることを示している(*1) 。調査自体の技術的問題もあって含意を読み取りにくいが、少なくとも比較的積極的に現地に住み続けることを希望する人から、とりあえず住み続けようとしているひと、さらには避難を希望する人まで様々な人がそこに混在しており、積極的にせよ消極的にせよ多くの人びとは土地に留まることを選択しているということである。
(*1)渡利小学校父母と教師の会「「放射能問題でのアンケート」の結果について」(2011年11月21日)
このようなことは福島市だけで起こっているのではない。飯舘村は計画避難に対して最後まで抵抗したし、南相馬市では人口約7万人のうち6万人が一旦避難をしたと言われているが、その後順次人びとが戻ってきて、現在では5万人程度まで人口が回復しているとみられている。さらに、11月20日の大熊町長選では、帰還を訴えた現職が再選されている。
なぜ福島の人びとがかくも土地を離れないのか。この理由を知ることは、私たちが福島の人びとに対して何をなすべきかを理解する上できわめて重要なことだが、今のところはっきりしたことが言えるわけではない。ただし、それでもはっきりしていることはある。それは、被曝の危険という、土地を離れる強い動機づけにもかかわらず、多くの人びとがこれまで生活してきた地に依然としてしがみついているということであり、したがって、今次の原発震災へのアプローチは、このことを踏まえた上で行われなければならないということである。
私は福島を離れて避難や移住をした人びとが重要でないと言っているのでは決してない。にもかかわらず、私がここで福島に留まる人びとの存在を強調しているのは、特に、東京を始めとする域外で発言する人びとが、避難こそが「人道」に叶っていると考える傾向があるようにみえるからである。そもそも、今日の論争の構図である「避難か除染か」という2項対立自体、避難する人と留まる人が両方あるという前提を踏まえていない。そして、上のような避難論者は、少なくとも現状では少数派の選択肢に肩入れしている。とすれば、彼らは2重に実態を踏まえていないということになる。その意味では、私たちにとって、まず福島県の人びとが、「遊牧民」的な東京人よりははるかに「定住的」であるということを踏まえることが何より重要であるといえるだろう(*2) 。
(*2)この文章の草稿段階で、福島の人びとの定住性は見かけ上のもので、たとえば震災前の地価での土地買い上げなどを実施すれば皆福島を出ることに同意するのではないか、という趣旨のコメントを頂いた。もし許されるのであれば「実験」してみるとよいと思うが、私は、このような見解は、そもそも人びとが地理的広がりの中で生きる存在であるということを看過していると思っている。というのも、正価で土地を買い上げるくらいでいなくなるような人びとなら、震災前にいなくなっていてもおかしくないからである。実際、日本の近代史は、人びとが故郷を離れ東京などの大都市に流入する歴史でもあり、その裏返しで地方の農山漁村は過疎化の歴史を歩んできた。だが、それでも農村漁村は無人になったのではない。残った(残らざるを得なかった)人びとと、そのような人びとによって構成された社会がそこに残ったのである。福島から避難を推奨する論者は、自身が避難を薦めている相手がこのような人びとを含んでいることを踏まえるべきであろう。
福島において営まれている日常生活
福島の人々がその地にとどまることを選択していることについて、福島の現状を理解しない人びとの中には「メディアが安全を煽っているために住民が避難の必要性を認識できないでいるのではないか」と考える人が少なからずいるようだ。もちろん福島県の地元新聞である福島民報や福島民友などをみると、「風評被害とたたかおう」といった記事が多いのは事実である。だが、この見解が正しいと考える人は、たとえば福島市において日常みられる次の光景とこの見解が整合するかを考えてみる必要がある。1)福島県内でも福島県産の食品は回避されている。2)書店では放射能から身を守るためのハウツー本がベストセラーとなっている。3)街中で小学生以下の子どもをほとんどみかけない。
これらの事実は、福島県民が放射線に関するリテラシーが低いという認識は事実ではなく、一般の国民より高いレベルで、放射線に関する知識をもっているというのが事実であることを示唆している。とすれば、福島の人びとは、そこに住むことが怖くないからそこに住んでいるのではない。そこに住まねばならない理由があるからそこに住んでいるということになる。
その一方で、福島市では次のような光景も同時に目にする。4)街中を往来する人々の様子には普段と全く変わる所がない。たとえば福島駅前の繁華街を観察しているとわかるが、小学生がうろついていないということはあるものの、汚染地域外のJRの駅前の雰囲気と少しも変わるところがなく、他所から構えてやってきた人々にとっては拍子抜けするほどである。もちろん、この界隈の空間線量を測定すると1μSv/h近くある。
これらの一見矛盾する行為を同じ人々が行なっているという事実を整合的に解釈することは可能だろうか。私の理解では、これらの現象が一見矛盾しているように見えるというのは、一つの媒介項が欠けているためである。すなわち、福島の人々は日常生活を送っているという認識である。日常生活というのは、数日前に何をしたかが思い出せないほど淡々と、また多くの部分がルーチンとして行われる。いいかえれば、日常生活は、強い怖れの感情の対極にある態度で営まれるものなのである。
このように考えると、福島の人々がどのような課題をつきつけられているかがよくわかる。すなわち、放射線による健康リスクと隣り合わせの環境において日常生活を送るという課題である。このような状況に直面したとき人はどのように振る舞うだろうか。もちろん、自分の努力で避けられる危険についてはできる限りのことをする一方で、それ以外の危険については気にしないようにすることである。前者の行為も後者の行為も、自分の感情から強い恐怖心を排除するのに役立つという意味で、日常生活を円滑に実行するために役立つ行為である。
福島の人々が日常生活を送るという課題を解決することを基本原理として行動していると理解すれば、上のような一見矛盾するかにみえる行動を一人の人間がとることになんら矛盾がないということがわかるだろう。
地元メディアに、世論誘導がなかったとか、報道に誤りがなかったとか、そういうことを主張するつもりはない。だが、地元メディアの比較的「穏健」な報道姿勢は、福島に住む人々が日常生活を営むためには必要なものであることも確かなことなのである。地元メディアが住民の暮らしに直結する放射線に関する情報提供と、穏健な態度のバランスをとった記事を書くということには、一定の整合性があるのである。
住民主体の支援
児玉龍彦氏は、原発震災に対する専門家の支援は、原則として住民主体でなければならないと主張している。この点はメディア的にはあまり注目もされていないが、実のところ、原発震災を考える上で最も重要な支援原則であるといえるだろう。それは、例外的な判断が必要になる場合は排除しないにせよ、基本的には汚染地域に住む人々が、自分たちの地域をどうするかを決め、専門家は基本的にはその決定を尊重する形で支援を行なってゆくことが支援の原則であるということである(*3) 。もうすこし具体的にいえば、住民の多くが、さまざまなやむを得ない事情を抱えながらも、その土地にとどまろうとしている以上、その土地に住み続けることによる健康被害のリスク、精神的負担、日常生活の困難に対してどのように支援することができるかが、課題の中心となるということである(*4) 。除染が重要となるのは、それが、現地に住み続けることによって生ずる複合的な問題に対して、有効な手段となりうるためである。
(*3)もっとも、どのような意見が住民の意思を反映したもの、あるいは住民の利益に叶っているかを判断することは、必ずしも容易ではない。たとえば自治体は人口の維持に利益があることから、避難・移住希望者よりも残留者の意向を優先する傾向があるといえる。その意味では自治体を住民の利益の代表として理解することには限界がある。
(*4)他方で、土地を離れるという決断をした人々に対しては、そこで喪われる仕事や人とのつながりを含む、本人を支えてきた様々な生活上の諸要素を取り戻せるように支援するということが課題となるということである。
これに対し、あくまで避難をという主張の中には、現在の被曝状況を「人権侵害」という立場から非難し、避難を求めるというタイプの主張がある。このように主張する人びとは、現状が人権侵害状況なので、住民を強制的に避難させてよいという立場に立っている。いうまでもなく、この立場は基本的に住民主体の原則と両立しない。もちろん、被曝のリスクに対する評価によって、この状況が強制的な措置を必要とするか住民自身の判断に任されるべきか、言い換えれば「住民主体」と「人権の保護」のどちらが優越するかは変わってくるだろう。だが、ここで重要なことがある。それは、今や汚染地域の汚染状況や放射線被曝のリスクについて最もよくわかっているのは現地の人々だということである。これは、地方自治の基本認識でもある。とするなら、よほどのことがない限り、基本的には住民の判断に基づいて支援策が構築されるべきであるということになろう(*5) 。
(*5)現地に留まることを自身で決定する以上は、自己責任の原則を適用すべきだという議論がある。これは商取引などにおいて適用される原則ではあるが、これは自由権が行使される局面に限られるといえる。逆に、社会権を適用する局面においては、自己決定が自己責任を伴う必然性はない。
また、避難や疎開を軽々に主張する人々は、避難や疎開が強いる負担を無視しているか軽視しているように思われる。避難や疎開には、それまで生きてきた環境から避難者、疎開者を切断するという側面がある。また、家族の一部が避難、疎開する場合には、家族が引き離されるということにもなる(*6) 。これらのコストを支払ってなお避難や疎開を強制できるのは、極めて限定された状況においてのみであるといえるだろう。国が1mSv/y以上の被曝を許す制度改変をしたことを強く非難する小出裕章氏も、住民が福島を離れるべきかどうかについては「私にはわからない」と述べてきたのは、まさに避難や疎開によって失うものが大きいと認識しているからである(*7) 。
(*6)三宅島噴火(2000年)に伴う全島避難に際して、旧秋川高校施設を利用する形で全島の小中高校生が寮住まいするという事実上の「疎開」措置が取られた。その結果は惨憺たるもので、特に小学生については、2000年9月の時点で138名在籍していたが、体調を崩したり、親を恋しがったりする児童が続出するなどして、順次保護者に引き取られていった結果2002年3月までに在校生が0名になった(『三宅島噴火災害の記録』本編pp. 38-42)。私の取材に対しても、三宅島の行政・学校関係者ともに疎開はすべきでなかったと証言している。疎開を主張する論者は、「戦時疎開が可能だったのだから今回も可能だ」というような乱暴な議論から脱して、現代において疎開が可能となる条件について深く検討すべきである。なお、そもそも戦時疎開が「うまくいった」ということ自体十分立証されていないことにも注意が必要である。参照:http://www.miyakemura.com/kiroku/index.html
(*7)ただし小出氏の場合最近の発言には、「本来避難させるべき」というもう少し踏み込んだ表現がみられるようになってきている。
福島のリアリティ、東京のリアリティ
南相馬市の出身で、現在現地の除染活動に従事している原子力の専門家がいる。彼はいわゆる「原子力村」の一員とみなされている人物でもある。彼は、主に南相馬市の農家と連携して、農地と農家の自宅の除染を支援している。私が彼と面会した際、彼の次の発言に大変興味を惹かれた。すなわち「住民たちには、児玉先生と喧嘩しないでくれと言われている」という発言である。なぜこれが興味深いかといえば、南相馬と東京とではリアリティのあり方がまったく異なっているということを示唆しているからである。
東京では、除染をめぐる構図といえば、「原子力村」村民対これまでの原子力政策に責任を負っていない新たな専門家 ―― 児玉龍彦氏はその代表的存在であるが ―― ということになっている。メディアも市民もこの両者の闘争のどちらに軍配が上がるかを注視している状況であるといえよう。2012年1月から施行される放射線物質汚染対処特措法の第56条は、その闘争の最前線であるといえよう。
だが、現地に足を踏み入れると、福島では様々な立場の専門家が入り乱れて除染の支援をしているというのが実情であることが直ちに分かる。現地の人びとにとってみれば、自分たちの街、田畑、山林を安全にする手助けをしてくれる人であれば、それが「原子力村」の人間であろうが、そうでなかろうが関係ない。先に紹介した発言が示しているのは、福島の人びとが、このような構図でこの問題を認識しているということである。
実際のところ、東京では圧倒的な善玉とみられている児玉氏の南相馬市における評価は、東京におけるものと同じではない。児玉氏の基本的な狙いは、徹底的な除染=恒久除染を可能にする技術的条件、政治的条件を整えようとするところにあり、それはそれで重要なことだが、他方で、児玉氏は、南相馬に住む人びとの不安を緩和するための民地の緊急除染には関与していない。このため、同市の人びとは児玉氏に「来てくれるのはありがたいが、過剰な期待はしていない」という評価をしている。児玉氏に面会した際に、彼は民地除染に関与しない理由として「児玉研究室の能力を超えることはできない」と語った。私は、この態度は児玉氏の誠実さを示していると理解しているが、いずれにせよ重要なことは、児玉氏が南相馬を支援しているからといって、彼に任せておけば同地域の生活環境が順調に整えられてゆくということにはならないということである(*8) 。
(*8)加えて、児玉氏は市民自身による民地除染に否定的な立場なので、結局のところ同氏の立場は、緊急除染に必要なマンパワーは存在しないので、産業主導の除染を進めて恒久的な除染が実現するまで市外に避難しているべき、というものなのである。この立場は、多くの市民が南相馬に戻ってきている現状を前提とすれば、先に紹介した同氏の提唱する「住民主体」の原則と整合しない。
他方、「原子力村」の専門家の中にもいろいろな人があるであろうが、多くの人は、すでに福島の土地を再生することができなければ、原子力開発を再出発させることはもはやできないということを理解しているようにみえる。少なくとも、私が出会った方はそのような人であった(*9) 。とすれば、彼らの失地挽回を目指すエネルギーと能力を、福島の再生のために使う(従来の体制を温存させることなく、という条件がつくが)ことは、決して無益ではない。
(*9)この点については、「原子力村」の大物とみなされている山名元氏ですら「年間20ミリシーベルトという目安を提示した際に「最終的には除染などの対策を行い、年間1ミリシーベルトの平時の目標を目指す」という言葉を添えるべきだった」(『放射能の真実』日本電気協会新聞部、2011年, p. 141)と述べている。
結局のところ、南相馬市の除染は、さまざまな立場の専門家が入り乱れて支援する現場となっており、南相馬の人びとの多くが現地で生きることを選択した以上、支援はそのようなものとならざるを得ないということなのである。むしろ、現地に住み続ける住民を支援する政策を考えるという立場に立つならば、東京において存在する対立を、福島において競争のエネルギーに変換させて両者を活用する途を求めることが基本線ということになるであろう(*10) 。これは、今次の原発震災の責任を誰がどのように取るべきかという問題と、いかにして効果的に除染を行うことができるかという問題が区別されなければならないということを示してもいる。
(*10)児玉氏が私に説明してくれたところでは、原子力機構のような組織では十分に除染の成果を上げることができないという。とすれば、児玉研と原子力機構のどちらが大きな成果を上げることができるか、イコールフッティングの条件を整えて競争してもらうのが一番よいであろう。もちろん、そのようなイコールフッティングを実現することは事実上不可能なので、現実的解決策として、原子力機構に代表される「原子力村」の人びとに「退場」してもらわなければならないという議論はありうる。
国の責任について
今回の原発震災の一義的責任は東電と国にある。そして東電が国策の産物であることを踏まえれば、責任は最終的に国にあるといわなければならない。問題は、原発震災の責任が国にあるということが何を意味しているかということである。
国は1mSv/y以上の地域については、除染の責任が国にあるということを認めている。とすれば、福島の人びとは、国やその「末端」としての基礎自治体が除染してくれるのを待っていればよいであろうか。個人的な見解としていえば、私は、このような判断はおそらく悪い結果をもたらすと思う。というのも、この国の責任の承認は、「空手形」になる可能性が高いからである。現在国が除染のための財源として確保しているのは1兆円あまりであるが、これは十分に線量を下げるために必要な費用(推計にもよるが40兆円以上という見積もりが多いようだ)からみるとあまりに少ない。では今後財源を確保できる見込みがあるかといえば、おそらくほとんどないだろう。また仮に最終的に財源が確保されるとしても、その確保に長い時間がかかるとすれば、その間に住民の総被曝量は増えてしまい、効果は薄れてしまう。
私の理解では、問題は2点である。1つは、国民が総じて福島の人びとの被曝に対して冷淡であるということである。財源が調達できないということは、結局のところ福島の人びとに対して十分な税金が投入されるということについて、国民的合意ができないということである。原発震災の責任が国にあるということは、国民全体が責任を負うということに他ならない。だが、このような意識は日本人には総じて希薄であり、自分とは関係のない「国」が悪いと思っているようにみえる。除染の責任を取るのも、自分ではない「国」であって、自分は関係ないと思っているようにみえる。そして、このような国民の態度は、結局のところ国が除染のための財源を確保することを不可能にしてしまう。
もう1つの問題は、現在の民主党政権に、福島の人びとに冷淡な態度を取る国民に責任を取ることを呼びかけるだけのリーダーシップが欠けているということである。国の取るべき立場は2正面的なものである。一方では、原発震災の責任者として福島の人びとに対して謝罪し、償いを約束しなければならないが、他方では、その究極的責任が国民にあるということを国民に納得させなければならない。残念ながら、そのような芸当をすることは非常に難しいことであるように思われる。
私は、細野原発相は、彼のもつ誠実さの限りを尽くしてこの問題に当たっていると思う。だが、究極的責任が国民にあるということを国民にわからせることができなければ、彼の被災地住民に対する約束の多くは、「やろうとしたけれどできませんでした」という形で反故にされ、最終的には、できもしない約束をしたことで、被災地がその約束を前提として振舞うようになる分だけ、現地に害をなす結果となるだろう。たとえば、人びとが「待ち」の姿勢を取ることで福島の人びとの総被曝量は増大することになる(*11) 。
(*11)代わりに次の政策がより全面に出てくることになろう。すなわち、一方で今次の原発震災の責任を認めつつも、原発震災の健康被害は実は小さい(責任は小さい)ということを主張することで、責任の大きさと利用可能な資源の少なさとのギャップを埋めようとする政策である。だが、この政策は政治全般に対する不信を増幅させてしまう。福島県立医大の山下俊一氏は、彼の強い信念に基づき、また医学界の中心学説を主張しているだけであるにもかかわらず、被害を小さくみせることで利益を得る国を代弁する「御用」学者であると思われたことで、ほとんど「犯罪者」のような評価を受ける羽目となった。
原発震災の結果として、世論は脱原発の方向性を支持するようになっている。このことは、国民が原発震災について「反省」していることの証左であるといえるであろう。だが、それでもなお、日本人が考えるべきは、脱原発を実現しても、福島の地が放射能で汚染されたままであること、福島の人びとが日々被曝しつつあるということ、そして福島の人びとがそのことで大きな精神的苦痛を強いられていることのどれ1つとして解決されるわけではないということである。
私は、現在の政治状況を前提とすると、残念ながら国民に、福島の人びとを納得させられるレベルまで「元通り」にする責任を自覚させることは極めて難しいと思う。とすれば、問題を解決するには、結局のところ国民全般の態度を変えてゆくよりも、福島の地と人びとの抱える問題をなんとかしたいと考えている人びと(マジョリティではなくとも、たくさん存在する)が、どんどん問題解決に動いてしまうのが一番よいと思われる。市民社会的解決法といってもよい。
除染についていえば、汚染地をきれいにすることを望む住民・ボランティア・地元産業・自治体(可能であれば)が連携して除染を進めてしまい、費用を最後に損害賠償などの司法的手段を通じて、国につけ回すのも一策である。もちろん司法的手段を用いてもかかった費用を最終的に全額回収できる保証はない(特に日本の裁判所は「現実的」な判断を好む傾向があるため裁判で負ける可能性は低くない)。だが、仮に最終的に費用が回収できなくとも、福島の人びとの総被曝量を減少させ、放射能に伴う様々なリスクや苦痛を減少させるという成果を手にすることができるという利点だけは失われないといえるだろう(*12) 。
(*12)一般に、責任と効率は対立する場合がありうる。責任という観点からいえば、東電と国に除染費用全額を支弁させる必要があるということになるが、効率という点からいえば抵抗する相手に責任を取らせている時間があればまずは除染を進めてしまった方が被曝量を低減できる。たとえば、除染費用の実費の半額の支払いを約束させる代わりに賠償を放棄するという取り決めを住民と東電との間で結んだ場合、東電は一定の責任を免れ、他方住民はより迅速な除染の成果を手にすることになる。このような「解決」法は、功利主義的観点からは支持されうる一方で、道義的には理解を得られにくいかもしれない。
福島の人びとに対する支援とは ~ 生活を支える支援に向けて
これまでの議論をまとめると次のようになる。まず、1)避難(移住)する人と現地に留まる人の両方が存在するということである。したがって、2)住民主体の原則に沿って考えれば、支援としては、住民自身が自分たちの未来を決めてゆくことを下支えてゆくことが基本ということになる。そして、3)そのような支援は、国の責任で行われるのを待っているわけにはゆかない、ということである。
では、住民の決定を支援するとはどういうことであろうか。私の考えは次の通りである。まず、福島の人びとは、放射能による健康被害のリスクと、避難・移住することで失われる生活のコストを天秤にかけている。避難(移住)を選択するか、現地に残留するかは、その結果に過ぎない。重要なことは、どちらの選択肢を重視するかにかかわらず、どちらの選択肢ともコストが大きければ、福島の人びとにとっては選択することが迫られること自体が、苦痛に満ちたものとなるということである。それは、自分の命と3億円の生命保険のどちらかを選ぶのと、今日の昼飯として炒飯とスパゲッティのどちらかを選ぶのとで全く意味が違うというのと同じことである。とすれば、私たちがなすべき支援の1つの方向は、この選択のジレンマの深刻さの度合いを小さくすることであろう。具体的には、一方では、移住者・避難者に対する生活再建の支援をしつつ、他方では、除染をはじめとして様々な手段によって現地における生活を整えてゆくことである。いずれにせよ、キーワードは「生活」である。
【生存権保障を超える生活支援】
ここで少し原理的な論点を考えておこう。まず、避難者・移住者の生活水準が、生存権が保障する最低限(ナショナルミニマム)でよいと考えてよいだろうか、という問題を考えよう。ナショナルミニマム支援の場合、支援上の問題は、かなりの程度生活保護を基礎とした社会保障制度にいかに避難者・移住者を繋いでゆくかという問題になる。日本の社会保障では居住保障が非常に弱いので、この点を特に追加して考えるという形で修正を加えてもよい。だが、いずれにせよ、ここで問題となるのは、現在避難や移住しようとしている人は、その多くがそのようなナショナルミニマムより高い水準の生活をしていた人びとであるということである。この人たちは、従前の生活に近いものを確保できなければ、潜在的な避難希望者のうち、実際に避難する人はかなり限定されてくるであろう。とすれば、避難者・移住者を支援する場合、ナショナルミニマムを超えた対応がいかにできるかということも考えなければならない。
他方、現地に残ることを支援するという場合、もともと多くの人びとはナショナルミニマム以上の生活をしているので、従来の社会保障的支援法では、彼らの生活を支えることにならない。つまり、避難・移住・残留のいずれにせよ、被災者の生活を支援するためには、生存権保障だけでなく、それを超えるレベルでの対応を最初から考えなければならないのである。
このようにいずれの場合でも、ナショナルミニマムを超えた水準での支援が必要であるとするならば、そのような生活ニーズとは何かということを考えておく必要がある。生活ニーズには、一般に1つの構造的特徴がみられる。まず最低限必要なものというのはかなり客観性が高いということである。その最大の理由は、このレベルが生存の条件に関わっているからである。たとえば、衣食住が欠けてよいということにはならない。だが、それ以上の水準については、人によって生活に必要な要素が違うという意味で個別性が高くなってくるのである。たとえば、ある人にとってはペットの犬が一緒にいるということが生活にとって本質的な意味をもっているとしても、他人もそうだとは限らない。
以上を踏まえて、私の理解する避難者・移住者・残留者の生活ニーズを満たすための支援の基本方針を示すと、次のようになる。すなわち、1)最低限の生活水準の底が割れないように、まず社会保障制度への接続を支援する。2)最低限を超える生活ニーズに対する支援のためには、基本的には個別に相談に乗ってゆく機能(ケースワーク機能)を強化して当たらなければならない。その際、3)ケースワークを活性化するために必要なこととして、すべての人に同じ内容の支援をするという意味での「公平性」を追求することは放棄し、すべての人に各人に最良の支援を目指すという意味での公平性を追求しなければならない。
このように考えると、支援のあり方は自ずと決まってくるように思う。まず生存権保障については、行政に徹底して担わせることである。避難者・移住者については受け入れ側自治体が、残留者については地元自治体がこれにあたる。だが、最低限以上の生活水準部分については、行政に多くを期待することは、現状ではできない。もとより、このレベルでの対応を行政は非常に苦手としている。特に上の3)が行政には難しい(もっとも、行政保健師は例外的にこのようなケースワークを得意とする職種なので、健康面に関することを中心に保健師には多くを担ってもらう必要がある)。とすれば、この部分については市民セクターが担うことが強く期待されることになる。市民セクターの観点からこれをまとめると、市民セクターが特にターゲットとすべきは、1)被災者を生存権保障に繋いでゆく役割、2)個別の生活課題(ニーズ)をケースワーク的に把握してソリューションを構築すること、ということになろう。
このように、私は、今回の原発震災に対する支援について、生存権保障を超える生活支援の問題という理解の仕方をしている。だが、同種の問題は、高齢者福祉や障害者福祉をはじめとする福祉領域には今日一般に存在している問題でもある。これに対し、原発震災に固有の支援に関する論点があるということも確かである。そこで、以下ではこの点について述べておきたい。
【避難・移住支援】
これまでどちらかといえば、現地に留まる住民に力点をおいて議論してきた(それは除染について言及する限りそうなってしまう)。だが、私は避難や移住という方法が原発震災に対する解決法でないということを主張するつもりはない。むしろ、避難・移住を積極的に勧めた方がよい場合があることは承知しているつもりである。ひとつは、子どもや妊婦のように放射線による健康被害のリスクが高い場合である。もうひとつは、被災者が被災者であることをやめることを希望する場合である。後者について簡単に説明しておくと、被災者は、新天地で新たな人生を始めることを決断することで、被災者であることをやめることができる。被災者として生き続けることの辛さが、被災者をやめることでなくなるのであれば、新たに人生を作りなおすことのコストを考えても釣り合うという考え方はありうるし、実際過去の災害に際して、そのようなケースは、人口の半分が帰島しなかった三宅島噴火のケースでも散見されたことである。
このような人びとに対する支援は、被曝環境での活動である必要はないので、一般的なボランティア活動の範囲でかなりのことができる。現在、草の根レベルで避難者・移住者を支援している団体が、全国レベルでの連携を進めつつあると聞いている。このような動きが加速することを期待したい。
なおその際、避難(移住)支援ということでいえば、現在汚染地自治体や国の姿勢を批判することが、議論としては正論であってもあまり効果的でない可能性が高いことについては踏まえられる必要がある。たとえば、福島市の渡利地区についていえば、特定避難勧奨地点指定をめぐって避難を希望する住民側と行政側が対立する構図となっている。もちろん福島市は避難を希望する住民に対しても可能な支援を尽くすべきであり、その一つの方法が特定避難勧奨地点の認定であるということはたしかである。現在福島市は、渡利地区について特定避難勧奨地点の認定を行わない方針で臨んでおり、したがって、同市は果たすべき仕事を行なっていないと批判されても仕方がない。だが、その一方で、同市が避難を推奨しない立場に立つのはある意味当然でもある。というのも、地域社会の維持・発展にとって人口の維持は最も基本的な要素であるからである。このとき、少数派にとって特定避難勧奨地点をめぐって闘争することは簡単ではない。また、向こう2年間で線量が60%程度にまで下がってくるとみられていることから、時間が経過するにつれ、特定避難勧奨地点をめぐる闘争は、避難者・避難支援者にとってますます不利になってゆくことが確実である。
そして、より重要なことは、特定避難勧奨地点の認定は、重要ではあるけれども、避難や移住を希望する人びとを支えるために採りうる多様な手段の1つにすぎないということである。特定避難勧奨地点に指定されれば何がしかの当座の資金や、公営住宅への優先的入居の便宜が図られるといったメリットはある。だが、避難先・移住先で必要となるのはそれだけではない。仕事を見つけることができる見込みがなければ一家で移り住むことはできないし、地域社会とのつながりの再建、子供の教育に必要なケアなどさまざまなニーズの充足が必要となる。そして、これらの大部分は、避難先・移住先の自治体、地域社会、NPOの姿勢によって決まってくる問題なのである。その意味では、避難(移住)支援の主要なターゲットは、汚染地域ではなく、避難(移住先)の方に置かれることが必要なのである。すでに草の根レベルでは、全国的に避難(移住)者に対するケアが行われていると聞いているが、まだまだ態勢が整っているとはいえない。もし読者に域外から避難を主張する人々がおられたら、是非に要望したいことがある。それは、ご自分の地域においてどのような避難者支援が行われているか(いないか)を知り、どのようにすれば改善できるかを考え、実際に何らかの支援に参加していただきたいということである。
【被災地に住み続けることへの支援】
これに対して、現地に住み続けることに対する支援で、今次の震災にもっとも特殊かつ重要な支援は、いうまでもなく除染である。ただ、除染というのは、その作業自体が被曝環境で行われることもあって、その利益とリスクをつねに天秤にかける形で行われなければならない。しかも、専門家の間でも意見がわかれており、また日々新たな知識が加わってくるために、誰が、どこを、どの程度まで、どのような手段で除染すべきかについて、折々に再評価してゆくことがどうしても必要である。そのような認識を前提とした上で、次のように述べておきたいと思う。
まず、多くの住民が現地にとどまっているという事実を踏まえ、彼らを住民主体の原則に基づいて支援するとすれば、我々の除染に関する知識がどうであれ、除染自体は必要だということである。
もちろん、住民の総被曝量を引き下げることが必要であることが最大の理由である。被曝のリスクに対する見解は専門家によって分かれているとはいえ、線量が低いに越したことはない、という点ではすべての論者が一致しているし、とくに被曝による健康リスクの大きな子どもが、福島に住むことができないのであれば、福島の人びとにとって、生きてゆく場所が回復されたとはみなせないだろう。
だが、それだけではない。仮に福島の人びとの健康リスクが小さいという学説が今後有力になっていったとしても、依然として除染を進めておくべき理由は失われない。いいかえると、今後放射線のリスクに関する知識がどのように更新されようとも、除染をしておくことが必要になるということである。
現在、冷静な実証調査によって、当初私たちが想像していたよりも住民の被曝量は少ないといった結果が報告されるようになってきており、放射線被曝による健康被害は意外と軽微である可能性もある。だが、それによって除染をしなくてよいということにはならない。というのも、そのような事実だけでは、住民の苦痛を軽減することはできないからである。このため、住民の精神的苦痛を取り除くためにも除染が行われる必要がある。山下俊一氏が懸念しているように、今次の原発震災において最も深刻なのは、住民の精神面への影響である可能性は高いだろう。だが、同氏が失敗したように、「安全」と言って回るだけでその影響を取り除くことはできないのである。専門家の言説そのものの価値が下がっているときに、このような発言はむしろ反発を招く可能性がある。だが、このようなときでも確実に効果があるのが、除染なのである。つまり、除染は、最終的に被曝の健康被害のリスクがどの程度のものであることが判明するとしても、現状では価値のある活動であるとみなすことができるのである。
除染ボランティアの可能性
最後に、私が多少なりとも関わりをもってきた除染ボランティアの問題について整理しておきたい。除染ボランティアについては、おおまかにいって次の3通りの批判がなされてきたといえる。すなわち、1)除染はそもそも無理なので避難すべきという主張、2)東電や国が除染すべきという主張、3)専門家・専門業者が除染すべきという主張である。以下ではこれらの主張にそれぞれ問題があることを示した上で、ボランティアを含む除染の効果的な進め方について私の考えを述べたいと思う。
まず、1)について。私は、除染そのものの是非に関していえば、事の本質ははっきりしていると思う。というのも、除染にいくらでも人的・物的資源を投入してもよいのであれば、現在の技術でも相当程度の除染が可能だからである(限界がないと言っているのではないが)。児玉研究室が実施した南相馬市における幼稚園・保育園での実証実験では、いずれも屋内で0.2μSv/h以下まで下げることに成功しており、さらに興味深いことに、同市の市民団体である安全安心プロジェクトの手がけた保育園除染でも同レベルの結果を得ていることである。これらの事実は、徹底した除染を行えば、住宅地・市街地から、相当程度放射性物質を取り除くことができるということを示している(*13) 。児玉氏が指摘するように、山内知也氏が「除染不可能」と結論付ける根拠となった渡利地区の除染実証実験は、線量が落ちない程度の不徹底な除染であったというのが正しい評価であろう。さらに、効率的除染ということについていえば、限界はあるにせよ技術革新の余地は多いにあるともいえる。したがって、「除染は不可能」という論者は、つねに、何時の時点において、どの程度の人的・物的資源の投入で除染が不可能と言っているのかを明示して主張しなければならない。少なくとも頭ごなしにチェルノブイリにおいて土地が放棄された事実からの連想のようなもので、除染不可能と決めつけることには大きな問題がある。
(*13)住宅・市街地、田畑、山林では除染に求められるものも実施条件も大きく異なっているので一律に議論することができない。ここでは、ひとまず住み続けることを決めた人々への支援という意味での除染に限定して議論しているので、主に市街地・住宅を念頭に置いている。だが、農家を支援する場合は、田畑の除染を含めて考えなければならない。
次に2)について。今回の原発震災の一義的な責任が東電と国にあることは疑い得ない。その意味では除染の費用を工面する責任をこれらの主体は有している。その一方で、東電とか国が人間として実在しているとみなすことができないことには留意が必要である。というのも、十分な除染を行うには膨大なマンパワーが必要だが、これに対して、これらの主体に所属する人びとはあまりに少数だからである。とすれば結局のところ、東電や国が除染するとは、東電や国が雇った業者、労働者が除染するということを意味せざるを得ない。それは、直接今次の原発震災に責任のない人びとが、札束でひっぱたかれるようにして除染現場に連れてこられることである。とすれば、「除染は東電と国がやれ」という主張の正義は、それが誰によって主張されたかに依存することになるだろう。私はこれを被災地の人びとが主張しているのを頻繁に見聞きした。この場合、この主張は、「私はこれ以上被害を受けたくない」と言っていることを意味し、その限りでは多くの人びとにとって理解できる主張であるといえるだろう。これに対して、域外の人びとがこれを主張するとき、「私でない誰かが被曝環境で除染に従事してほしい。そのための人員を確保するためなら札束でひっぱたいてもかまわない」と言っているのと同じことになる。まさに「原発ジプシー」と同じ論理である。とくに域外から入ってくる労働者は形式的には「自発的」に現地に赴き作業に従事するということもできるが、他方で彼らの「自発性」は労働者の経済的な弱さによって歪められてもいるのである(*14) 。
(*14)もちろん、私は雇用労働ベースでの除染が一般に有効でないといっているのではない。有効でないのは、線量の低減という目標によって動機づけられていない労働である。その意味では、ボランティアを有給にしてもよいし、地元住民の除染活動に賃金を支払う形がとられても構わない。ただし、ここで重要なのは、除染は労働としては典型的な3K労働であることから、もともと現地の線量を下げたいと願う労働者=基本的には地元の人びとを雇用するのでない限り、労務管理は難しくなるだろうということである。
最後に3)について。これは主に児玉龍彦氏が主張していることでもある。同氏は、除染による2次被害の可能性を重視する観点から、住民やボランティアによる除染に対して否定的な立場をとっている。だが、この主張は、専門家が立ち会うにせよ、専門業者が行うにせよ、除染が最後は素人によって行われざるをえないことを看過しているといえる。たとえば、屋根の上の除染を行う際に、それを実施する者として想定されているのは鳶職であり、それが専門業者の専門性の意味なのである。とすれば、除染とは、どのような主体が行うにせよ、結局のところ、労働者、住民、ボランティアといういずれも素人のいずれかが行う作業ということになるのである。したがって、除染を行う素人の安全を確保する態勢を構築することができなければ、これらの間で2次被害の危険に違いはないと考えなければならない。児玉氏の主張は、専門業者が最も素人の安全を守ることができると言っていることになるが、これはおそらく事実ではないだろう。専門家の適切な助言と管理があれば、市民セクターによる除染は専門業者に安全面で劣るとはいえないからである。もちろん、このことは、市民セクターに対しても、除染が野放図な活動とならないよう、また専門家からの助言を適宜受けられるような態勢づくりが求められるということを意味してもいる。
以上は、除染ボランティアへの批判があたらないということを議論したものであるが、では、除染ボランティアそれ自体にどのような積極的な意義を認めることはできるだろうか。
まず、除染ボランティアの利点として、第1に、作業に際しての放射線被曝のリスクやその回避方法について十分な情報が与えられているということを前提とすれば、歪みの少ない自己決定(自発性)が可能であるということが挙げられる。この点は、札束でひっぱたかれて動員される労働者の場合と比べて、優れた特徴であるといえるだろう。
第2に、ボランティアが被災地の住民を支援したいという意思を持っていることである。業務命令ではこのような意思をもつことは難しい。特に除染の場合、作業に際して試行錯誤が必要になることが多い。思ったより線量が下がらなかったり、放射性物質が溜まっている場所がうまく見つからなかったりといったことが常時起きる。このとき、命令された作業だけをこなす労働者では効果を上げることができない。このような問題は、域外の労働者を動員するときに特に起きると考えられる(すでにそのような事例は指摘されている)。ボランティアの場合、住民の支援として作業に入るのでこのような問題は起こりにくいといえる。
第3に、ボランティアにはコミュニケーターとしての側面があることである。ボランティアは単に労役を提供しにやってくるというよりも、ボランティアを通じて何かを学び感じ取りたいという期待をもってやってくる。域外の人がボランティアとして福島に入れば、まさに百聞は一見に如かずで、福島の人びとが直面している困難をつぶさに理解することになるだろう。また、国民一般と福島の人びととの間の認識の乖離についても感得するだろう。そして、彼らの中から自分が学び感じ取ったことを人に伝える人が現れるだろう。すでに述べたように、原発震災に関する問題の根底には、国民の福島の人びとに対する冷淡な態度がある。この態度は、あらゆる部面で福島の人びとが問題を解決し、福島を復興させてゆくことを困難にする。このことを知り、国民一般のこのような態度に影響を与える人びとが、このようなボランティアから現れることが期待できる。
第4に、ボランティアには行政の限界を超える力があるということである。現在、除染は主に基礎自治体主導で行われようとしている。その特徴は、1)行政による計画、2)業者から主要なマンパワーを調達、3)ボランティアへの統制がある。除染を計画している自治体の多くは、除染作業を線量の高い順番にやろうとしている。おそらく行政にはこれ以外の公平性の基準を見つけることができないためにそうなるのであろうが、これでは、除染問題の複層的な性格に対応できない。というのも、住民の放射線被曝に関する苦痛は、線量順とは限らないからである。子供を持つ親、精神的ストレスに弱い人、健康面で不安のある人など、個別に対応すべきケースはいくらでもあり、これは線量順の除染では対応できない。
また、行政主導の除染は作業ペースが大変遅い。そもそも計画的に除染を実施しようとすること自体、効率的な除染という考えに反している。加えて、マンパワーの調達が業者に偏っているために十分な除染力を確保できないという問題もある。今次の震災は東北各県にまたがっているために、土建業者の需給は逼迫しており、十分な労働力を確保することは容易ではない。そしてこのような条件に合わせる形でボランティアを動員しようとしたために、現在のところ自治体は除染ボランティアの潜在力を十分活用できていない。結果、除染の作業ペースは大変遅くなってしまっているのである。たとえば、南相馬市では原町地区のような市内では比較的線量の低い地域の除染は2012年7月以降ということになっているし、福島市では、まだ10月末から12月までの間にわずか数10軒の除染しかできていない。このままだと、自分の順番まで待つことに耐えられない住民が多く出ることが予想される。
これに対し、ボランティアがボランティア主導で除染を進めることで、行政主導の除染にみられる上のような欠点をかなりの程度補うことができる。というのも、ボランティアは自分が支援したい人や地域を実力の範囲で支援する存在なので、結果的に困っている順番に支援することが可能になるからである。またボランティア主導で除染を進めることができれば、最大限のマンパワーを調達することができるという点で、作業を加速させることができる。
では、ボランティア主導の除染体制とはどのようなものだと考えればよいであろうか。私の考えでは、次の5点がポイントである。すなわち、第1に、ボランティアを含め住民支援という目標を共有できる、住民自身、ボランティア、地元業者、専門家、できれば行政からなる連携を構築すること、第2に、放射線被曝に関する十分な情報がボランティアに提供されること、第3に、困っている順番に除染することで、行政による除染と補完関係に入ること、第4に、そのために、個人の除染ニーズに関する情報(行政保健師が相談を通じて収集しつつある)を、行政と市民セクターで共有できる体制を構築すること、第5に、除染を行う人びとの被曝を最小限に抑える可能な限りの措置を講ずること、である。
なお、最後に除染ボランティアに関して、一点解決すべき深刻な問題があることについては言及しておかなければならないだろう。それは、国が1mSv/y以上の地域の除染について責任を認めている点と関わっている。現状では、ボランティアが除染をすると国の除染費用の軽減に役立つという構造になっている。だが、ボランティアは被災地の住民を支援したいのであって、原発事故に一義的な責任を負う国を支援したいのではない。現在の状況は、ボランティアが除染に関わることを抑制する状況となっているのである。したがって、除染ボランティアの十分な活用に際しては、彼らの活動と国の責任とが切り離されるような条件整備が必要となるだろう。たとえば、除染ボランティアの費用が最終的に国に請求され、国からの支払いが住民に還元されるような枠組みができれば、この問題は解決されることになる。このような法技術的な問題に詳しい人にはぜひこの問題の解決策を提案していただきたいと思う。
まとめ
以上の議論を簡略にまとめると以下の6点になるであろう。
1. 避難・移住する人びとと現地にとどまる人びとの両方が存在することを前提として支援手段を考えるべきである。
2. 支援に際しては、住民主体の原則を踏まえるべきである。
3. 国民の冷淡な態度が背景にある以上、国に責任ある行動を取らせることが容易でないということを踏まえておくべきである。
4. 支援の目標として、現状では、被曝による健康リスクと避難・移住によって生活を失うコストとの間のジレンマを軽減することに置くのが望ましい。
5. 被災者の生活ニーズの充足のためには、社会保障制度への接続と個別性の高い必要性に対応できるケースワークを両輪で実施しなければならない。保健師などのケースワーク職種に関する体制整備が行政に求められる一方、市民セクターによる機動的なケースワークが大いに期待される。願わくば、行政と市民セクターの密接な連携の実現を期待したい。
6. 現在の行政主導の除染には深刻な限界がある。住民、ボランティア、地元業者、専門家、行政の連携による柔軟な除染体制が作られることが必要である。
本稿では、原発震災に対する支援について、私の認識を縷々述べてきた。私からみえる原発震災の姿が、この問題に関心をもつ人びとにとって何らかの役に立つことになれば幸いである。
プロフィール
猪飼周平
1971年京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科准教授。専門は、医療政策、社会政策、比較医療史。
東京大学経済学部卒、東京大学大学院経済学研究科博士課程修了(経済学博士)。佐賀大学経済学部専任講師、助教授を経て2007年より現職。主著『病院の世紀の理論』(有斐閣、2010年)。