2012.10.31
福島に寄り添うとはなにか
大野 東日本大震災から16ヶ月がたちました。ニュースでは日々、原発問題がホットな話題として扱われていますが、実際にその原発がある福島で暮らしている人たちが、どのように暮らし、いまなにを考えているのかは、あまり知られていないように思います。
第3部のテーマは「福島に寄り添うとはなにか」です。今日は、様々な分野の方にご登壇いただき、この16ヶ月間それぞれがなにをされてきたのか、なにができなかったのか、今後なにを目指していくのかをお話いただきます。福島に寄り添うことについて、改めて考えることができればと思います。
「論点整理」による相対的な弱者の弱者化
大野 まずは皆さんの簡単な紹介をさせていただきます。最初に開沼博さんです。開沼さんは2011年6月に『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』を出版されました。開沼さんは現在も毎週、福島県に通われて研究を続けていますね。
開沼 まず今日までにどんなことが行われてきたのかをお話させていただこうと思います。この16ヶ月間進んできたことを一言で言い表すならば、それは「論点整理」です。これは複雑な問題を整理し、よりよい社会を繋げていくための必然的な流れである一方で、より複雑化している現実を見過ごしてしまうという可能性もあります。
一例を出しましょう。福島市に1時間程度で通える場所にある米沢市は、福島市に比べて放射線量が少ないため、米沢市に移住して福島市に通勤されている方がいます。このとき、例えば母子避難をされた方の場合、いままでは1つの家で暮らしていましたが、新しく家を借りることで賃貸料や光熱費、生活費が余計にかかることになります。すると経済的な負担が大きくなるため、お母さんや若い人はバイトやパートを始めて、生活基盤を堅固なものにしようとします。一見すると、ここにはなんら問題がないように思えます。しかしもとから米沢市に住んでいた方からすると、震災前から、衰退しつつある町のなかでなんとか守ってきた雇用が、避難してきた人たちに取られてしまっているわけです。
また震災以降、「今後は中絶や生まれてくる子の障害が増えるだろう」「大学入学者が減るだろう」という言説がよく聞かれましたが、実際は現時点において、中絶や障害において統計的に有意な増加は見られませんし、福島大学にいたっては入学者に微増が見られます。具体的な数値データが集まるに従って、徐々に実際になにが起こってきたのかがわかりつつある一方で、いまでも実情とは異なる言説が飛び交ってしまっているのが現状です。福島の状況も情報も見ようとせず、わけ知り顔で「福島は危険だ。福島で子育てする親は人殺し同然だ」と話す人がいる。センセーショナルに危険を煽れば、多くの人の注目を集められる状況が続くなかで、過剰な「言い切り」の言説が広まっている。そして、それは、いくら「善意」から出ていようと、少なからぬ被災者にとってハラスメントでしかない。
そもそも社会的、経済的に避難できない人もいる。母子避難の場合なら、避難した家庭のなかで、すぐに働ける人がいるか、家族に高齢者がいないかなど、様々な条件の差によって、その障壁の高さは極めて多様に変化する。課題は極めて個別的・重層的です。そのようなグラデーションがある現実がある一方で、あたかも課題が一枚岩であるかのように、つまり例えば「福島の問題=避難支援が重要」という、重層的に存在する課題の全体から見たら一部の問題しか解決できないところに、「論点整理」されてしまう。実情とは異なる言説によって、新たに生まれている問題が見過ごされ、相対的な弱者の弱者化が進んでしまっている。
中央の議論は、どうしても原発や放射線の話に集約されがちです。原発の問題も重要ですが、福島から県外に避難している人は県民人口全体の3~4%、多くの人はいまだに福島で暮らしています。原発問題のほかに、被災地ではなにが問題になっていることをしっかりと捉えることこそ必要でしょう。
福島と東京のギャップを埋める
大野 次に、医療ジャーナリストの藍原寛子さんのご紹介をさせていただきます。
藍原さんはもともと、福島県の地方紙である「福島民友新聞」の記者をされていらっしゃいました。その後、フリーのジャーナリストとして、海外、東京、福島と非常に広範囲を行き来しながら活動をされていらっしゃいます。今日は、震災後の福島に関するジャーナリズムの動き、特に、原発震災という未曾有の出来事に対して、ジャーナリズムの役割がこの間どのように変容してきたのかについて、お話いただければと思っています。
藍原 医療ジャーナリストをしております。藍原です。
被災時、私は国会議員の秘書として永田町にいました。そのときにはすでに、ジャーナリストに戻るために秘書を辞めることが決まっていました。震災以降、政府のあまりの危機管理のなさに絶望し、一刻もはやく辞めたいと思い、暇をもらって現場を歩き始めました。
枝野官房長官(当時)が記者会見で、浪江町や双葉町を「なみえちょう」「ふたばちょう」と読み上げたり、津波がいままさに押し寄せている様子をテレビのアナウンサーが「いわき港に津波が到来しています」と話しているのを見たとき、今後リアリティーの欠けた情報が広がっていくのだろうという予感を抱きました。浪江町、双葉町は「なみえまち」「ふたばまち」と読みます。そしていわき港はありません。小名浜港、あるいは久之浜港の間違いでしょう。
東京では現在、毎週反原発デモが行われています。しかし福島でそのような動きはほとんどみられません。あるミニコミ誌の編集長は「東京の人たちは原発に関するものを読むが、福島では食品汚染や育児に関するものが読まれている」と言っていました。私は、両方のテーマを取り扱いながら、福島と東京のギャップを埋めていきたいと思っています。
大野 どのようなギャップがあるのか、そしてどのようにギャップを埋めていくのか、お話いただければと思います。
さて今日は、事前の告知にはありませんでしたが、スペシャルゲストとして遠方からもうお二人をお呼びしております。
ボランティアコーディネート
大野 一人目は龍谷大学からおいでいただきました、筒井のり子さんです。日本のNPOやボランティア団体が、実際に災害支援の現場で本格的な活動を展開するようになったのは、1995年の阪神淡路大震災が契機であると言われています。筒井さんは、1980年代の非常に早い時期から、日本のNPOやボランティア団体の創成期に携わってきていらっしゃった方です。
筒井 龍谷大学で教員をしております筒井です。同時に、NPO法人日本ボランティアコーディネーター協会の代表理事もしております。
昨年の4月20日に、京都から夜行バスで初めて福島県に入りました。明け方の会津の雪景色や福島市内をピンク色に染める桜の息を飲むような美しさと、悲惨な状況とのギャップ。そしてそこに住む人たちと話をして、うまく言うことができませんが、研究者といった肩書を取っ払って、絶対にこの土地に関わり続けていこうと思いました。それから金曜日の授業が終わってから出発し日曜日の最終の新幹線で帰るといったかたちで、20数回、被災地に足を運んでいます。
皆さんもおっしゃられているように、福島に関して原発のニュースが流れることはあっても、避難所の様子やボランティア活動についての報道はあまりされませんでした。とても悔しい思いをしていたときに、福島県内から発信していこうという声があがって。福島県社会福祉協議会と地元のNPO法人、そして全国組織である日本ボランティアコーディネーター協会で「福島県災害ボランティアセンター通信」を始めました。4月下旬から7月までは毎週、その後今年の3月19日まで2週間に1回、毎号2万部発行し続けました。内容はてんこ盛りで、県内各地の災害ボランティアセンター紹介、ボランティアへ伝えたいこと、被災された方向けに仮設住宅の情報や精神科医による寄稿など、多種多様なものを掲載していました。
大野 筒井さんには、ボランティアコーディネーターが支援の現場で実際なにをつないでいるのか、また、福島県でのボランティア活動の現状と課題についてお話しいただければと思います。
設計事務所や建築屋としてなにができるのか
大野 お二人目のスペシャルゲストは遠藤知絵さんです。いままでお話いただいた方々も被災地と深い関係をお持ちですが、今日の登壇者のなかで最も当事者性をお持ちなのが遠藤さんではないかと思います。遠藤さんは、福島市の遠藤知世吉建築設計工房という設計事務所で働き、建築関係業者の任意団体「ふくしま建築集団」にて、放射能対策住宅「ふくは家(うち)」の企画や、福島で暮らし働く20~30代のメンバーにて運営される文化イベント「FOR座REST」に取り組んでいらっしゃいます。
遠藤 遠藤知絵です。最初にお断りしておきたいことがあります。それは、私は福島県の代表でもなければ、代弁者でもないということです。私はいま福島県福島市に住んでいて、生まれてから一度も福島を出たことがないという点で、確かに当事者性が比較的高いと思います。しかし当然ですが福島には沢山の人がいて、県の面積は東京都の約6.3倍もあるのです。ですからどうぞ、福島県200万人、福島市29万人のうちの1人の意見として聞いていただければと思います。
両親と3人で設計事務所をしています。この16ヶ月間、いろいろな情報を得てきましたが、結局、福島に住み続けていいのか、いけないのか。原発をなくせばいいのか、なくせないのか。私にはよくわかりませんでした。そうしたなかでなにかできないか考え、県内にある25社の建築業者で団結し「ふくしま建築集団」を立ち上げ、放射能対策住宅「ふくは家(うち)」を企画しました。放射能対策住宅という仰々しい名前がついていますが、新材料や新素材を開発し活用した住宅ではありません。この住宅は、いまある技術で設計事務所や建築屋としてなにができるのかという問題意識のもとで設計されています。
原発事故以降、まず始めたことはお施主さんのお宅に伺い、ガイガーカウンターで放射線量を測ることでした。そうしていてわかったことは、放射線のことをきちんと知らなくては、設計ができないということでした。これまで設計とは、土地を知り、風土を知り、そこに住む人の研究をすることだと教わってきました。そこで放射線のことも含めて、改めて環境について勉強をしました。詳しいお話はあとでさせていただきますが、とにかく福島に住めるか住めないかの議論だけでは駄目だと思っています。同時進行でいろいろなことを考えなければいけません。そういう意識をもって、いろいろな取り組みをしています。
判断するためでもなく、ともかく、耳を傾ける
大野 私たちは今日、この先、福島で人が住み続けられるかどうかを判断するために登壇したのではありません。いま被災地では避難を選んだ方もいれば、選ばない方もいらっしゃいます。あるいは社会的、経済的な事情で、そもそも避難を選択できない人もいます。現実にいま、福島に暮らしている人がいる限りにおいて、その人たちの生活を支えることが必要です。
意外に思われるかもしれませんが、東京駅から郡山駅までは、新幹線で1時間半ほどです。近いとは言えませんが、そこまで遠くはありません。にもかかわらず東京で流通している福島に関する言説と、実際に福島で暮らしている人が気にしていること、あるいは語られている言葉に大きなかい離が生じています。東京と被災地は、複合的なかたちで何層にも断層ができてしまっています。
私は出自がフィールドワークの初学者ですが、よく「地図を頭に叩き込みなさい」と言われました。地理的な要因や、距離に対する感覚が、その土地の人の生活に与える影響は非常に大きいからです。原発震災以降、原発から方針円状に何キロというような地理的な見方が、メディアではよく使われるようになりました。福島県の人は、「タテ(縦)」の感覚でものを考えます。地図を見ていただければわかると思いますが、横幅がとても広い県です。面積も広大で、北海道、岩手県に次いで全国で3番目に広い都道府県です。太平洋側から「浜通り」「中通り」「会津」の3地域に大きくタテにわかれています。これは「県中」や「相双・いわき」といった広域行政区分とは違うもので、どこに属しているのかという住民のアイデンティティのようなものでもあります。
例えば、開沼さんの生まれ育ったいわき市は浜通り。遠藤さんが住んでおられる福島市や郡山市は中通りですね。会津若松市は、会津地方の中心です。それぞれ、風土も人も言葉も全然違います。交通インフラ整備の格差も大きく、当然ながら東京の都心部で生活するようには、公共交通機関を使って行きたいところまで移動することができません。在来線の駅から各地域の生活圏を訪ねるためには、車が不可欠です。私は中通りと浜通りのちょうど中間点の出身ですが、「会津弁をしゃべれない」「いわきの人は東京に近いからサバサバしている」と思ったりします。
開沼 地理的な距離で言えば、東京と郡山市・福島市の距離は、いわき市よりも遠いんですが、新幹線が通っているので感覚的な距離は郡山市・福島市のほうが断然近いんですよね。だから、浜通りからしたら県庁とか地元テレビ局とかがある中通りに対して、隣の芝は青い的な憧れの気持ちを抱いているところもあります。福島県は、東京・埼玉・千葉・神奈川の面積を足しあわせた面積よりも広いんです。そういう、電車で数十分行けば隣の街に着くような都会的なスケール感とは違った感覚でものごとを考えないとその多様性は理解できない。だから、浜通り・中通り・会津ってわかれていて、普通に生きている限り、他のエリアの人たちと喋る機会はほとんどない。だからなにか共有された生活感覚もあまりないかもしれない。
大野 会津若松市には「観光」で行きますよね。
開沼 そう。泊りがけで県内を移動することがあります。県内の移動も旅行になるんです。その点、同じ旅行ならば東京から福島のどこかに来たほうが、高速バスに乗りさえすれば大したお金もかけずに来れるので、むしろ心理的な距離は近いかもしれないくらいです。
こうした状況で、まったく違うエリアに避難すると、発生する問題も多様になります。例えば、大熊町の高齢者が会津若松市に避難して、生まれて初めて雪下ろしをしなくてはいけなくなったと嘆いている。かと言って、雪の降らないいわき市に戻りたくても、先に戻った人が多くいて、病院が満杯となってしまっている。高齢者にとって医療体制と生活は直結している。仕方なく、生活のクオリティが落ちてしまうので、会津若松市に残ることを選んでいる人がいる。そのときに「福島に求められる支援」は、原発がどうこう、放射線がどうこうなんかではない。30分でも、1時間でも雪下ろしを手伝ってくれる人手です。
大きな政治的イシュー、わかりやすい課題を議論していれば「なにかすごいこと」を話している感覚になる。いかにも「それで全部が解決する」かのような雰囲気ができる。「課題整理」がそのようなコミュニケーションを促した側面もある。でも、そんな特効薬などないことは現実に目を向ければ向けるほど嫌というほど思い知らされる。いまこそ、複雑な問題をひたすら因数分解して、ひとつひとつ場合わけして対処しなくてはいけません。しかしそれは同時に、個々の問題にコミットする人が減り、支援が難しくなってしまうジレンマもはらみます。そのなかで、いま話したような重層的・複雑な福島の現状を知ってもらうこと、課題を正しく把握してもらうこと、一見地味な作業でも納得してもらいながらコミットをしてもらうことを続けていくしかない。そして、地道に支援の手を差し伸べてもらう必要があります。
ギャップを埋める双方向のコミュニケーションを
大野 福島民友新聞や福島民報新聞など、福島県内で流通している新聞は細かい状況を書いていますが、東京では南相馬市や経済的に規模の大きい郡山市、そして県庁所在地の福島市の話が主に頻出します。理由は明白で、その他の自治体には外部を受け入れる機能や、あるいは外部に情報発信する人的・社会的リソースが震災前から欠如していたからです。その他の自治体に関してはあまり丁寧な報道がされていないように思います。いま福島に住む人たちが、どんな問題を抱えていて、どんな支援を必要としているのか、そしてどんな情報を欲しているのでしょうか。
藍原 16か月経ったいまでも、福島に住む人たちは食品の汚染や、空間線量、子どもたちを外で遊ばせていいのかといった「生き延びるための行動を選択する道具」として情報を得ています。しかし大野さんのおっしゃるとおり、情報を提供する側のマスメディアは、被災地のニーズに十分に応えられていないのが現状です。
このギャップを埋めるために、福島の人たちがミニコミ誌やフリーペーパーを作り始めています。行政やNPO、学生、農家、主婦まで本当にいろいろな人が発行しています。世界的には「アラブの春」に代表される、twitterやfacebookをきっかけに始まった運動が起こっていますが、福島でも同様に、自分たちが情報を得るだけではなく、自ら発信していこうという動きが現れているんですね。情報源としての自らの可能性、力強さを感じ始めているのではないかと思っています。
大野さんが福島民友新聞で「東京からの手紙」という連載を始められました。東京と福島のリアリティーにギャップを感じるなかで、人々はこのような双方向のコミュニケーションを求めていると思います。復興アリーナでは、ミニコミ誌やフリーペーパーなど、様々なジャーナリズムを発見し、掘り起し、そして紹介していきたいと思っています。
自らの加害者性と被害者性を知る
大野 ギャップを埋めるために双方向のコミュニケーションが必要とされているんですね。これは筒井さんがされているお仕事、ボランティアコーディネートと近いもののように思います。そもそもボランティアコーディネーションとはなにか、筒井さんからお話いただけますでしょうか。
筒井 ボランティアコーディネーションという言葉は、阪神淡路大震災以降、一般的に知られるようになりました。しかし、その役割がどこまで理解されているかというと、少し狭められて捉えられているように思います。ボランティアコーディネーションは、ニーズを繋いでいくことが主な活動です。しかし、ただ繋いで終わってしまってはいけないと思います。
私は、80年代に7年ほど市民活動団体の事務局スタッフ(ボランティアコーディネーター)として働いていました。そのころは、いまのような介護保険制度や障害者自立支援法などはありませんでした。地域生活を支える福祉・保健制度が整っていなかったんです。しかし、遠くの施設や病院ではなく住み慣れた地域で当たり前に暮らしていきたいという思いを持つ方(市民)がおられ、そうした思いに共感し応援しようという方(市民)がおられる。そうした市民と市民の出会いと協働を進めるボランティアコーディネーションをしていくうちに、「ボランティア活動」とは、自分のなかにある加害者性と被害者性に気づいていくプロセスだと思うようになりました。
例えば重度の障害のある方と行動することで、いかに街に物理的なバリアーが多く、人々が無理解かということを知ります。そして、なにもわかっていなかった自分のなかの「加害者性」に気づきます。同時に、自分にとっても暮らしにくい街、社会であることに気づき、自分のなかの「被害者性」を知ります。今回の福島に通うなかで、再びこの「加害者性と被害者性」について強く考えました。ボランティアが被災地に行って必要とされる作業をするだけでなく、悲惨な被災地の状況、人々の悲しみやジレンマと自分がどのように繋がっているのか、自分のなかの加害者性と被害者性を見つめることが必要ではないか。そうした視点のコーディネートも必要だと思います。
昨年8月頃から、仮設住宅や民間借り上げ住宅に避難された方を訪問して見守り、コミュニティづくりを支援する「生活支援相談員」が市町村の社会福祉協議会に採用されました。被災3県で5~600人、福島県だけでも179人が採用されましたが、もともとケアマネージャーをされていた方もおられる一方、漁業ができなくなってしまった漁師さんなどもいらっしゃいます。そのためまずは訪問の仕方など、基本的な研修が必要で、私もずっと関わっています。ここで大切なことは、生活支援相談員が訪問先の人と信頼関係を築くだけで終わらず、その次のステップとして、その人が近隣の住民とも新しく関係を築いて、繋がりを広げていくことが大切でしょう。そのためになにをすればいいのか、相談員の人たちと勉強会を開いています。
大野 いま筒井さんは、ボランティア活動は、自分の加害者性と被災者性を感じるプロセスとおっしゃいました。ボランティアや援助は一方向ではありません。自分自身のある意味での当事者性、また自分がどうしても関わりきれない部分があることに気が付くようになるといった、様々な要素があると思います。
震災以降、理由は定かでありませんが、宮城や岩手にNPOやNGOが投入された一方、福島は通過されがちでした。そのせいか16か月が経過した現在でも、福島にはいまだにNPOやボランティア活動が定着していない現状があります。今後、ボランティアは増えていくのでしょうか。
筒井 ボランティアの数は、それぞれの地域の災害ボランティアセンター(現在は生活復興ボランティアセンター等の名称)で受け付けた数を、県のボランティアセンターで集約し、最終的に全国社会福祉協議会で集計して出されています。もう大々的にボランティアを受け付けていないところもあるため、正確に把握していないのですが、数は減っていると思います。
一方で、いろいろなNPOや団体が新たなプロジェクトを立ち上げはじめています。福島県災害ボランティア通信に「災害ボランティアは瓦礫の片づけだけではない!」と、当たり前のことを書いたことがあるのですが、びっくりされたんです。瓦礫の片づけだけが災害ボランティアだと思っている人がいたんですね。ですから、いろいろなプロジェクトが立ち上がることでいろいろな関わり方ができているぶん、はっきりとしたことは言えませんが、増えているのではないかとも思っています。
「ふくは家」とは?
大野 遠藤さんは福島で様々な取り組みをされていらっしゃいます。いままでどんな取り組みをされてきたのか、改めてお話いただけますでしょうか。
遠藤 先ほどお話した「ふくは家」の詳細な紹介は、それだけで1時間以上かかってしまうので、簡単な説明をさせていただきます。
ふくは家の特徴のひとつに、木造の平屋建てということがあります。コンクリートのほうが放射線を遮断することはわかっているのですが、放射線の勉強をしていくなかで、木造でも十分な対策がとれることがわかり、今回はあえて木造での提案としました。
もうひとつの特徴に、建物で囲まれている庭があります。現在福島では、親御さんがお子さんを安心して外で遊ばせられないことが問題になっています。建物で囲った庭は周囲の影響を受けにくくなります。例えば自分の敷地を除染したとしても、近隣の敷地が除染されているとは限りませんし、勝手に除染することも出来ません。近隣の環境に左右されにくい空間をつくることで、安心して外で遊ばせることができるのではないかと考えました。その他、もちろん放射線対策のみでなく、例えばダイニングは朝日の差し込む気持ち良い空間になっていたり、家事をしやすいようキッチン・貯蔵庫・脱衣所・浴室が一直線に配置されていたりと、心地よい空間を目指しています。
この家を建てればばっちりだと言いたいのではありません。ふくは家が考えるきっかけになればと思っています。例えば裏に山がある土地の場合など、また違ったプランが考えられるでしょう。5月に福島市、6月に郡山市でお披露目会を開いたのですが。多くの方から様々な意見を頂きました。今後も勉強や研究、企画提案を続け、いざというときのために蓄積していけたらいいなと思っています。
持続可能な地域中心の社会を考えるために
大野 今日は会場にNPO法人環境エネルギー政策研究所(ISEP)研究員の古屋将太さんも会場にいらっしゃっています。やや唐突ですが、少しコメントをいただけますか。
古屋 急に無茶振りされました。古屋です。簡単に自己紹介しますと、僕はNPO法人環境エネルギー政策研究所(ISEP)でエネルギー政策や地域での自然エネルギー事業の開発をサポートする活動をしています。
大野 県内の人たちは原発の代替としての自然エネルギーに対して、大きな期待を持っているかと思います。しかしエネルギー問題に関して、外から大きなプロジェクトや大きなゼネコンや企業がやってきて――もちろん、それを否定するわけではありません。大きな開発も必要ですから――住民の人たちがよくわからないまま、システマチックに物事が進んでしまっている構造は、あまり変わっていないのではないかという疑問もあります。素人目ですが、自然エネルギーに関する世界の先進的事業体として知られるデンマークのサムス島のお話などを伺っていると、地域振興としての自然エネルギー事業はその地域の住民の主体的な関わりが不可欠なように見えます。古屋さんのお考えをお聞かせください。
古屋 確かに日本、特に地方では近代化以降、すべての開発は、霞ヶ関や大手のゼネコンがすべて取り仕切る、中央集権的な方法で行われてきました。地元にも一時的に建設・土木の需要はうまれるものの、開発の利益のほとんどが中央の本社に還元されてしまう。いままではそのやりかたでそれなりに成り立ってきましたが、今後も同じやり方でいいかといえば、そうではないだろうと。
原発事故を経験した私たちはこの先どうしていくべきでしょうか。最低限、地元の人のイニシアティブのもとでやっていくことが重要になると思います。藍原さんも取材をされていたのでご存知かと思いますが、自然エネルギーをやりたい人は日本中にたくさんいて、福島でも同様の動きがあります。しかし、これは今日のシンポジウム全体のキーワードのひとつかと思いますが、「想像力」が乏しいように思います。
僕は、自然エネルギーは経済的にも新しい契機であり、夢を持っていいと思っています。しかしその先に、本当にたくさんの課題があることを忘れてはいけません。いろいろな地域でお話ししたり、相談を受けたりしますが、夢の先にある実現プロセスについての想像力が乏しいんですね。自分たちの責任で新しいことを始めるわけです。経験をつまないとなにが課題になるのかわからないでしょう。その経験が足りていないのは仕方ないとしても、その前の準備段階、つまり自分たちで調べること、考えることにあまり時間をかけないで、性急に進めているように思います。これは福島に限らず、自然エネルギーをやりたいと思っている全国の人たちに共通しています。
第3部のテーマは、「福島に寄り添うことはなにか」ということですが、専門的な知識や経験を持っている人たちが福島の人たちを支えることも重要でしょう。しかし、なによりも福島に暮らしている人たちが、なにをしたいのか、どうしたいのかというビジョンがあった上で、それを実現させるための支援が重要だと思います。今後、地域を中心とした持続可能な社会のあり方を、地域の人たちが中心となって考えていくには、まだ時間がかかるような気がしていますし、時間をかけていくべきだと思います。
福島をアゴラに
大野 この未曾有の震災と原発事故を経験し、私たちはこれから未知のフェイズに入っていきます。途方もなく長いロードマップを、徐々に策定していく以外に手段はありませんが、今日お集まりいただいた方々の、暫定的な今後の指針をお聞きしたいと思います。
藍原 今日、私は福島と東京のギャップを埋めることと、福島と東京の人がお互いにコミュニケーションを求めていることを話しました。私は過去に、フィリピンの臓器売買についての取材をしていました。それまで私は、フィリピンで臓器を売る人は貧しく、被害者だという思い込みを持っていたのですが、彼らには彼らの生活があり、言い分があります。そして、彼らが貧困から抜け出せない状況を、先進国が作ってしまっている。上から目線で見ている自分に気がつきました。
支援する側と支援される側の関係も同様です。支援することで、自分たちが様々なものを新たに発見し、得ているんですね。私は、ぜひ福島という場を、広い意味でのアゴラ(広場)として各地から来た多くの人々が問題を掘り起し、耕していける場にしたいと思っています。ヨーロッパの改革は、耕すこと、シャベル一本から始まりました。私たちも、みんなで会話をし、繋がり、掘り起こしていきたい。私は自分の体験からでしか物事を言えませんが、その可能性は、福島を取材していくなかで感じています。そうして新しい世界をつくっていければと思っています。
対話を広げていく
遠藤 ふくは家の紹介をするなかで、新素材の開発や活用はしていないという話をしました。実は建材屋さんに、除染しやすい素材や放射線をとめやすい素材がないか、数値だけでもいいから出してもらえないかとお願いをしています。ただ、47都道府県のなかに、たかだか3県の問題ではニーズが少ないためか、なかなか出してもらえません。地元企業としてはいままで以上に、「こういうデータが欲しい」「こういった開発はできないか」といった声をあげていかなくてはいけないと思っています。
福島市も多少なりとも震災の影響はありましたが、比較的恵まれた環境で生活しているなかで、津波で家が流された人、家族が亡くなられた人、原発の影響で地元に帰れなくなった人に、どのように寄り添えばいいのか日々悩んでいます。現時点では、まず知り合いをつくろうと思っています。いくら情報を集めても、それは1つの意見でしかありませんが、その対話をより広げていきたいと思っています。いま仲間と一緒にLIFEKUという企画を始めています。福島でやっている面白いことをホームページで紹介したり、福島の思いを伝えるピンバッジ「F-pins」の販売もしています。
皆さんが福島市に遊びに行こうと思っても、福島になにがあるのかわからなければ、知人も友人もいないと、なかなか来にくいと思います。そこで今日は、ぜひ私と知人になっていただいて、福島市に遊びに来るとき、LIFEKUにメールをいただければと思います。いまは福島市のメンバーがしかいませんが、わかる範囲で、福島の紹介をさせていただきます。
社会で生きることを考えるきっかけに
筒井 第1部でもお話がありましたが、阪神淡路大震災のときに得た教訓を活かしてボランティアコーディネーションという言葉は広まりました。やはり危険性や地元の負担の問題があるので、ボランティアが無条件にどんどん入ればいいわけではありません。しかし、ボランティアコーディネーターがプログラム開発能力を持っていれば、よりたくさんのボランティアをいろいろなニーズを繋ぐことができると思います。実際に、活動プログラムをしっかり組めたところでは、たくさんのボランティアを受け入れることができました。
また時間の経過に応じて多種多様な新しい問題がでてきますが、それらをキャッチして解決のためのプログラムを組んでいくこともコーディネーターの役割でしょう。今後、ボランティアやボランティアコーディネーターの役割をより多くの人に知ってもらい、一人ひとりがこの社会でどう生きていくのかを考えるきっかけになれればと思っています。
福島に寄り添うとはなにか
開沼 震災後これまで、「福島はもうだめだ、産業はおしまいだ」といった話は散々されてきました。第2部で詳しいお話をされていたと思いますが、いまでは一次産業も少しずつ再開のめどがたち、実際に震災以前と同じように動き始めている部分もあります。復興や復活をしている部分は確実にある。このとき「それでも、全体の一部だ」とか「復興しつつあるのだから、このままでいい」とか無駄に悲観・楽観せず、淡々といまだに足りていないところ、出来ていないことを見つけていかなくてはいけません。いつまでも「産業が衰退している」「行政が失敗している」という議論をしていても、何も生まれない。
皆さん「国はダメだ、県が動いていない」と言います。でも、そういう「失望の言葉」っていうのは、そこに期待があるから出てくるわけです。はじめから期待していなければ「失望の言葉」など出てこない。私のなかに「失望の言葉」はありません。はじめから行政に過度な期待をしていない、それ相応の期待しかしていないからです。古屋さんのお話もそうでしたが、行政から民間へトップダウンに資源を流しこむ構造のなかで戦後社会ができてきたのは確かです。しかしこの構造はもう通用しなくなっている部分も大きい。これまで、行政への期待値が100あったとしたら、それを50に下げればいい。
そして、残りの50を、例えば市民セクターで頑張っているところ、営利企業ながら目ざましい支援を行っているところに付け替えればいいんです。それは寄付金でも、応援メッセージでもなんでもいい。幸いなことに情報化によって、どこに期待すればいいのか、調べアクセスすることは比較的容易になっています。このような意識によって支えられるのがポスト3・11の社会のありかたのモデルとなるし、それが一見困難な「福島に寄り添う」という行為でもあるでしょう。
最後に、福島に寄り添うとはなにかについて改めてお話をさせていただきます。今日のシンポジウムは、第1部では支援のあり方、第2部では復興のあり方、そして第3部で「福島に寄り添う」という構成になっています。
「非日常の言葉」と「日常の言葉」にわけて整理を行いましょう。「原発」や「放射線」は「非日常の言葉」です。こうした言葉は、ある種「お祭り」的な、メディアにとっては食いつきやすく、また研究者にとっても観測しやすいものです。「支援」や「復興」も同様です。平常時には「支援」も「復興」もないところに、非常時に生まれる。
「福島に寄り添うこと」とは、「非日常の言葉」では語られない、「日常の言葉」に目を向けることなのではないでしょうか。行けばわかりますが、意外と普通なんです。子どもがタンクトップで楽しそうに歩いているし、ヤンキーは窓黒くした改造車から音漏らして元気に走っている。なんの偏見も持たないでいけば「いますぐ支援しなければ!」という空気を感じさせません。いろいろなものが日常に戻りつつあります。「そんなのいまも続く原発や放射線の非日常から目をそらしているだけだ」と言う人もいるでしょう。それも正しい。もちろんその点における支援も必要です。
しかし、「非日常の言葉」だけで語っていても、解決し得ない問題は日々生まれている。「非日常」へのアプローチと同時に、「日常」へのアプローチも重要となるのが現在とこれからの福島の状況です。今後、長期的に震災に向き合っていくということは、どれだけ日常にかかわっていけるかということだと思います。福島に協力すること、あるいはいかに意識し続けていくか。必要な支援がいったいなんであるのかは、ときにわかりにくいかもしれません。でもできることはいろいろと目の前にあるはずです。それに気づいていくことが重要だと思います。
大野 みなさんありがとうございます。
今日は、この場で皆さんと同じ時間を共有できてうれしく思います。いろいろな人が、いろいろなことを考え始めている。復興はむしろこれからです。復興アリーナでは、あらゆるレベルを巻き込んで、様々な情報を発信していきたいと思っておりますので、ぜひお見守りいただければと思います。今日は長い時間お付き合いいただきありがとうございました。
プロフィール
藍原寛子
福島県福島市生まれ。福島民友新聞社で取材記者兼デスクをした後、国会議員公設秘書を経て、フリーランスのジャーナリスト。マイアミ大メディカルスクール、フィリピン大、アテネオ・デ・マニラ大の客員研究員、東大医療政策人材養成講座4期生。フルブライター、日本財団Asian Public Intellecture。
大野更紗
専攻は医療社会学。難病の医療政策、
開沼博
1984年福島県いわき市生。立命館大学衣笠総合研究機構特別招聘准教授、東日本国際大学客員教授。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府博士課程在籍。専攻は社会学。著書に『はじめての福島学』(イースト・プレス)、『漂白される社会』(ダイヤモンド社)、『フクシマの正義 』(幻冬舎)、『「フクシマ」論』(青土社)など。共著に『地方の論理』(青土社)、『「原発避難」論』(明石書店)など。早稲田大学非常勤講師、読売新聞読書委員、復興庁東日本大震災生活復興プロジェクト委員、福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)ワーキンググループメンバーなどを歴任。現在、福島大学客員研究員、Yahoo!基金評議委員、楢葉町放射線健康管理委員会副委員長、経済産業省資源エネルギー庁総合資源エネルギー調査会原子力小委員会委員などを務める。受賞歴に第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞、第36回同優秀賞、第6回地域社会学会賞選考委員会特別賞など。