2021.09.21
「論理的思考」の落とし穴――フランスからみえる「論理」の多様性
「ロジカル・シンキングを身につけよう」「これからの教育に必要なのは論理的に話す・聞く・書く能力である」……論理的に考え、書いたりプレゼンテーションしたりする能力はビジネスや教育分野でもてはやされ、現代では欠かせないスキルとして広くうたわれている。
しかし改めて考えると、「論理的」とはなにか? 「論理的」であることは何に立脚しているのか? どこでも共通する普遍的なものなのか?
『「論理的思考」の社会的構築』を著した渡邉雅子氏は、「「論理的」だと感じる思考や論理の型は、実は文化によって異なっており、それぞれの教育の過程で身につけていくものだ」と指摘している。本稿では、「論理」の多様性やその社会的構築過程、小論文教育から見えるフランス独自の論理のあり方、日本におけるアメリカ型「論理的思考」一辺倒の現状への警鐘など、論理をめぐる比較文化的観点から渡邉雅子氏にお話を伺った。(聞き手・構成 / 大竹裕章(岩波書店))
「評価不可能」とされたアメリカでの小論文経験
――ご著書『「論理的思考」の社会的構築』では、われわれが普遍的で共通だと思っている「論理」が、実は国や文化によって大きく異なること、そしてその「論理」の形成過程を鮮やかに描いています。どのようなきっかけから「論理」の違いに着目されたのでしょうか?
アメリカの大学で最初にエッセイ(アメリカの小論文)の試験を受けた時の評価が、「ungradable(評価不可能)」だったことです。何度書き直しても「説明せよ」というコメントが繰り返されるばかりで、途方に暮れました。
その後、エッセイの「書き方」を知って疑問が氷解しました。日本の作文とアメリカのエッセイでは、求められる構造が全く異なっていたのです。エッセイは「主張」とそれを支持する「事実」で構成される型を踏まえることで、はじめて「論理的」だと評価されるものでした。それに対して、「日本人の書くエッセイは「そして……そして……(and…and…)」と、出来事が起こった時間順に並列でつないでいく傾向がありわかりにくい」「アメリカでは、3歳の子どもでも自分の主張を通すために、「なぜ? なぜならば(Why? Because…)」と主張の弁護を行うのに」と、アメリカ人の教員に言われました。
確かに、日本の作文を下敷きにした形式で書くと、主張の論証が行われないばかりか、そもそも主張をしなくて済んでしまうのです。そうしたエッセイでは、読み手に私が重要だと思っていた情報が重要でないとみなされ、論文のポイントすら変わってきてしまう。
こうした違いに気づき、エッセイの構造に沿って書き直したところ、評価は三段跳びで上がりました。私の知識が増えたわけでも英語力が上がったわけでもないのに、「評価不可能」からA評価へ劇的な変化を遂げたのです。こうした文化のミスコミュニケーションの強烈な経験から、「論理的」「非論理的」の線引きはどこにあるのか、そしてそれは何に起因するのかを研究するようになりました。
アメリカの「論理」、フランスの「論理」
博士論文では日米の作文指導と書き方の構造の違いに着目し、後に『納得の構造――日米初等教育に見る思考表現のスタイル』(東洋館出版社)という書籍にまとめました。博士論文の指導教官からは「もう一ヶ国フランスを加えると、単純な二項対立を超えた議論ができるね」と指摘されたのですが、当時は「とても無理だ」と思って聞こえないふりをしました(笑)。でも、その言葉はずっと引っかかっていました。
日本に帰国後、在外研究の機会が与えられ、当初はアメリカ滞在を考えていたところ、同僚の先生に「フランスに行ってみたら?」と勧められました。この先生はアメリカで教育を受け、高校からフランスに留学されて、そこで私と同じ「論理の壁」に突き当たったそうです。さらに、フランス式小論文の書き方を習得してアメリカに戻ったら、今度はアメリカの教師から「何を言いたいのかさっぱりわからない」と言われ、アメリカ式に戻すのに大変苦労なさったそうです。
このお話を聞いて、「欧米」とひとくくりに論じられるアメリカとフランスでも「論理的」に書くこと、考えることが全く異なることが伺えました。かつての指導教官の言葉が蘇り、「フランスに行くしかない」と思いました。今から20年ほど前のことで、当時はフランス語がほとんどできませんでしたが、40歳から腹を決めて語学の勉強から始めました。
「バカロレア試験の準備教育を見ずにフランスの教育を語るなかれ」
こうしてフランスに行き調査を始めましたが、フランスの事情をよく知らなかったので、回り道も多かったです。まずはアメリカとの違いの原因を探るべく、博士論文と同じ手法で小学校の授業観察を行いました。フランスの小学校のフランス語(国語)教育は、日米とは全く異なるものだったので、その意味を探っているうちにあっという間に5年が経ってしまいました。
するとある日、小学校の先生から「あなたはこんなところにいつまでいるのか。フランスの教育の最上の部分は高校のバカロレア試験の準備教育だ。それを見ずしてフランスの教育を語ることなかれ」と言われました。そこで高校に目を向け、フランスの小論文「ディセルタシオン」と出会いました。これには、アメリカでエッセイと接した時以上の衝撃を受けました。
イエスでもノーでもない第三の道を求める弁証法の思考
――本書でフランスの「論理」を形成するものとして焦点を当てたディセルタシオンですが、どういったものなのでしょうか? 私たちがイメージする小論文とはどう違うのでしょうか?
本書で詳しく紹介していますが、大きく言うと2つの特徴があります。
1つが、問いに対する答えのあり方です。「○○はAか否か」という問いがあったとして、日本の小論文もアメリカのエッセイも、「Aである」あるいは「Aではない」と、イエスかノーかで答え、いずれかの立場を擁護します。
ところがディセルタシオンでは、こうした答えでは不十分です。イエスとノーを超える第三の道を求めるんですね。本書では、「国家への服従は常に義務か」という哲学小論文の例題を紹介していますが、「国家への服従は常に義務である」という〈正〉の定立に対して、「では、いかなる場合に国家への服従は義務ではなくなるのか」という、〈反〉の定立への問いを立てます。次に、「国家への服従を(義務でなく)意志と捉えるとどうなるか」といった〈合〉を導くための問いを作ります。問いに対する肯定でも否定でもない、それらの総合を通じてより大きく積極的な視点と結論を導きます。
もう1つが、自分の感想や感覚が一切価値を持たないことです。日本では小論文も作文も、主張の裏付けとして自分の経験や考えを用いますし、アメリカのエッセイでもこれは同じです。ところがディセルタシオンでは個人の体験や意見は全く意味を持ちません。4時間かけて書く大論述問題で「私は……(Je…)」という言葉は一度も出てきません。
先ほどの例題では、ホッブスやスピノザ、ルソーといった思想家たちの議論を引用しながら、先人の考え方を論述の中で〈正〉と〈反〉として対決させる。さらにもう一つ新たな考え方を、これも先人の議論の引用を使って〈合〉で引き出す、という手続きを生徒に促しているのです。著名な哲学者たちの議論は、それ自体で意味を持つのではなく、あくまで生徒が弁証法で論じるための「材料」なのです。
小論文が思考と論理の型をつくっている
――フランスの大学入学資格(バカロレア)ではディセルタシオンの形式を求める論述問題が主となっているそうですね。日本の大学入試共通試験(旧・大学入試センター試験)とどう違うのでしょうか?
日本の大学入試共通試験は多肢選択方式であり、記述式問題も課されないことになりましたが、バカロレア試験の人文社会系科目はすべて論述問題で構成され、3~4時間かけて問いに答えます。その時に、求められる型で書かないと、いくら目の覚めるような結論を提示しても合格できないのがポイントです。問いの形が論文の型を決めるのです。
弁証法の型で書くのは、先程の例のように「○○はAか否か」の、俗に言う「ウイ(はい)/ノン(いいえ)」の問いです。高校で訓練するのは、問いの形に沿って論文を書き分けられるようになることです。ディセルタシオンにおける弁証法は最も高度で、価値ある形と見なされています。そこで測られる能力は、問いに対して文献の引用で論証して結論が導きだせるかという「論証力」と「構想力」です。もちろん論証するためには、文献の理解と暗記が前提になります。また数学や自然科学の科目の試験も、答えに至る説明をきちんとしなければ合格できません。
バカロレア試験は大学入学資格と高校修了資格を兼ねますので、フランスの高校生は皆ディセルタシオンを学びます。それは単に小論文の方法を習得するだけではなく、弁証法的に考え、書くことを身につけることになります。本書で「思考表現スタイル」と呼ぶこの型を、フランスで作り上げているのがディセルタシオンなのです。社会学者のブルデューとパスロンは、ディセルタシオンの書き方と思考法の痕跡は、事務報告から文学的なエッセイまでフランスの社会のあらゆる場面で見られると指摘しています。身近な例だと、「どっちのヨーグルトが美味しいと思う?」という質問にも弁証法で答えるフランス人は多いですね。
――ディセルタシオンがフランスの、弁証法的な思考の型をつくっている、と。それは、いわゆるフランスの「国民性」やフランスらしさにも影響を与えているのでしょうか。
そうだと思います。ディセルタシオンの形で書いたり考えたりできるということは、ある意味では大人になる/フランス人(市民)になるということを意味します。バカロレア試験はそのための通過儀礼とも言えるでしょう。そのために国語教育をはじめとしたすべての教育が組まれているといっても過言ではありません。
よく、「フランス人の議論はわかりづらい」と言われますね。それはまさに、ディセルタシオンでは「矛盾の解決」のために、あえて「矛盾」を作りだすという論理構造のためだと思います。でも、ディセルタシオンの論理がわかると、フランス人の議論の論旨や意図はすっきりと見えてきます。ディセルタシオンを突き詰めていくと、最後にフランス社会の「価値観」にたどりつくのです。
――小論文という教育課程の要素でありつつ、国民性や思考・表現の型そのものに影響を与えるかたちでフランスに根ざしているということですね。
はい、その通りです。ちなみに、フランス的思考法や、その思考の持つ論理について述べた本はたくさんありますが、その多くはフランス文学や哲学を題材にしています。それに対して本書は、小論文授業や事例分析から、論理と思考法を明らかにした点が特徴だと思います。
興味深いのは、小学校、中学校、高校で「論理的に書き考える」過程が段階別に異なる目的と訓練法で行われていることです。たとえば小学校でみっちり行われる文法や物語の続きを書く訓練の意味は、ディセルタシオンという到達点がわかってはじめて理解できるものです。フランス的なパラドックスだと思いますが、最後に弁証法で跳躍するために、明晰さと厳密さを地道に積み上げていく訓練なのです。こうしたフランスの小論文に固有の「論理」と、その育成過程は、15年をかけてつぶさに見ていく中で浮き彫りになってきました。
普遍的な「論理」は存在しない
――よく「「天声人語」を外国人に読ませたら論理的でないと言われる。日本人には論理的に語り論じる能力が足りない」といわれますよね。こうした言説での「論理」と、本書でも論じているフランスの「論理」には大きく違いがあるように感じます。
ロバート・カプランという応用言語学者は、さまざまな文化背景を持つ留学生の小論文の分析から、文章の展開を分類してイメージ化しています。それによると、アメリカに代表されるアングロサクソン(英語)の論理は「直線」、フランス人(ロマンス語)の論理は「寄り道をしつつ進む不規則な線」、東洋は「外から中心に向かう渦巻」とされています。カプランの議論はざっくりした整理ではありますが、アメリカにはアメリカの論理の型、フランスにはフランスの論理の型がある、そして「天声人語」は東洋でくくられる日本の論理の型を体現していると言えます。
もちろん、数学の証明や論理学の三段論法などの「形式論理」については、正しい/正しくないかを論理的に証明することができます。押さえておくべきは、論理的な正誤はこうした「形式論理」でしか証明できないということです。しかし、小論文で用いられるのはそれとは異なる「論理」であり、修辞学(レトリック)の領域のことがらです。だから、文化によって論理に差異と多様性が生まれてくるわけです。
――「天声人語」に関する言説の例では、唯一・普遍の「論理」の存在を前提に、より論理的な欧米/論理的でない日本、という単線的な理解がなされているようにも感じられます。
日本では、欧米の論理=アメリカの論理とひとまとめでみなされているようです。ですが、文字通り「西欧」=「ヨーロッパの西」にあたるフランスの弁証法の論理では、〈正〉・〈反〉・〈合〉の三つ見方を同じ力強さで論証しなければいけません。これが自己の主張のみを押し通すアメリカの論理とは異なるのは、これまで説明したとおりです。
ビジネスに向くアメリカの「論理」、政治的熟慮に向くフランスの「論理」
――ビジネスの領域では、「グローバルな水準のロジカル・シンキングの獲得が重要」というような言説がよく見られます。こうした言葉をどのようにお考えになりますか?
まず、こうした言説はアメリカの「論理」を想定している印象を持ちます。「グローバル」な「ロジカル・シンキング」というのは、〈主張〉―〈エビデンス〉×3―〈主張の確認〉、というアメリカのエッセイに見られる「論理」の型です。
この型の特徴は、明確で素早いこと。ビジネスの世界では、自分の主張が誤解なく、素早く相手に伝わる効率性と、目的達成のために素早く状況分析して決断し行動に移す手続きが有効なのは間違いないでしょう。
他方、ディセルタシオンに見られるフランスの「論理」は、別の考え方はないか、十分な吟味は行われたかと時間を掛けて検討していくタイプの型です。これはビジネスというより、政治的な場面で熟慮し、最善の解を考えるときには有効に働くと思います。こうした違いを意識することが大事です。
ディセルタシオンの思考法が政治を動かした
――本書の特色の一つが、ディセルタシオンと市民性の関係について深く掘り下げていることです。小論文と市民性、直接的な繋がりは見えにくいですが……。
ディセルタシオンは片方の意見だけで押さないというのが大きな特徴です。一般的な見方に安住せず、それに反する見方を必ず提示し、さらにそれら2つの視点の盲点をも〈合〉で検討し、より積極的な視点を提示する、そうした発想法をある意味小論文を書かせることで強いているわけです。
本書ではディセルタシオンの歴史を1章分かけて追っていますが、一つの起点がフランス革命です。18世紀末に起こったフランス革命とその後の政治的混乱による血みどろの歴史を二度と繰り返さないために、「どうしたら極端な考えに振れることなく、間違いを回避できるのか」、「既存の価値観ですら議論の俎上に上げることができるのか」を追求する切実な要請がありました。熟慮し、多様な意見から新しい視点を導き出すための市民性形成の教育として、ディセルタシオンは哲学の議論の方法をモデルに創られました。経済効率を志向し科学の仮説検証をモデルにしているエッセイとは、目指しているものが根本的に違うのです。
フランスの状況について話すと、「聞こえはいいけれど、本当にそんなことができるのか」と白けた反応をされることも多いのですが(笑)、実際に高校生が政治活動に参加して政治の方向を変えた例はフランスではいくつもあります。極右とされる人が大統領候補として台頭してきた時、また若者向けの新雇用法が議会にかけられた時、地方の高校生たちがデモの口火を切ってそこからフランス全土に広がり、大統領候補も新雇用法も覆ったのは周知のとおりです。
とりわけ、新雇用法反対のストは長期間に及んで、大学や高校が封鎖され、バカロレア試験の準備ができない高校生たちからスト中止が叫ばれながらも、「個人の小さな都合のために大きなものを失うな」と最後までストが続行されました。若者たちにとって進学や就職がかかった年に一度の試験ですら、社会の共通利益のためには「個人の小さな都合」になる、そうした価値観の共有があるのです。
論理を突き詰めると「価値観」に行き着く
――ディセルタシオンからフランスの論理が見えるように、それぞれの文化での教育から、それぞれの論理や考え方が見えてくるのでしょうか?
「日本は単一文化の国」と、非常に素朴に理解・主張されることがありますね。でも、実際には文化の小集団がたくさんあって、それらの多様な人々から社会は構成されています。そして、多様な文化をまとめてひとつの社会たらしめる「主流の文化」を伝えるのが学校教育の大切な役割です。それが特徴的に現れるのが小論文で、アメリカのエッセイ、フランスのディセルタシオン、日本の小論文……それぞれに独自の論理の型を持つ、それぞれの社会に支配的な思考・表現の形態なのです。
私の研究は、それぞれの国の小論文の論理の型に着目したものですが、結果として見えてくるのはそれぞれの文化の特色です。「論理的思考」というと、文化的な土壌から切り離された、どこかに普遍的に存在するもののようにイメージされそうですが、そうではありません。スピーディーで効率性な解決を求めるアメリカ、弁証法の考え方をもとに熟慮と第三の答えを見つけようとするフランスというように、論理の検討を突き詰めるとその社会の「価値観」に行きつくのです。
論理の多様性を踏まえた教育が鍵に
米仏の違いの原因は、個人の目的達成を重視するアメリカ型のデモクラシーと個人の利益より共通善と福祉を重視する共和国型の教育の対比から説き起こすことができます。小論文の手続きと、歴史教育における過去の解釈と未来予想の方法に見る決断と行動の手続きそして市民性教育における合意形成のための討論の手続きにはこの対比において一貫性があるからです。そして、この一貫性こそが学校で文化を伝える時に重要なのです。学校で教える論理と社会の論理が全く違うものだったら、生徒たちは混乱しニヒリズムに陥るでしょう。こうしたアメリカ型だけではない多様な論理とその背後にある価値観を理解して、自分の立ち位置を知ることが重要なのです。
――現在は「論理国語」の教科化など、日本の学校教育においても論理的に話す・聞くことの重要性が強調されています。こうした状況についてはいかがですか?
今お話をしている2021年7月現在、「論理国語」はその理念や教科化の趣旨が示されているだけで、まだ教科書が公表されているわけではありません。ですから、まだ踏み込んで判断するには尚早です。しかし、私の研究と体験から2つの提案はできると思います。一つには、私が体験したようにTOEFLでいくら高得点を取っても、言いたいことが伝わらなければ意味がないので、英語の授業でエッセイの書き方を教え、アングロサクソン式の考え方を身に着けることが、異文化間のコミュニケーションをスムーズにすると同時にビジネス面で合理的にやり取りをする道筋になると思います。大学でよく書ける学生は、高校の授業や塾でエッセイを実際に書いて訓練を受けたという人が多いのです。
2つ目には、その上で論理が複数あることを知り、その中の自分の立ち位置を知るために、日本の起承転結の作文とアメリカのエッセイはどう論理が違うのか、またエッセイとディセルタシオンではどうか、それぞれの長所・短所はどのようなものかをレトリックの違いから考察してみることです。国語の授業でこうした異文化間レトリックの話題を取り上げると、生徒が書く時に型と論理展開を意識化させるのに意味があると思います。さらに日本の小論文とその論理はどうあるべきかのコンセンサスを社会の中で作り、そのコンセンサスに基づいて教育のグランド・デザインを描くことです。書くこと・考えることは、あるべき社会の姿と切り離せないことは、フランスの例がよく示しています。
ただ日本では、そもそも「論証」すること自体が重視されていないようです。その社会がどのような原理で成り立っているのかの配慮なしに、ただひとつの「論理」で押し通すと、必要のないものを押し付けることになりかねません。むしろ、どのような論理がタイプとしてあるのか、それはなぜかを知ることが、日本では重要なのではないかと思います。その上で、時と場所に応じて使い分けができるようになれば、これからの社会を生きる人たちにとって何よりのエンパワメントになるに違いありません。
これまでは「いかに論理的に書き話すか」に議論が集中していましたが、論理的とはどのようなことなのか、日本ではどのようなものになるのかを、哲学的にでも論理学的にでもなく社会と文化の問題として考え、議論が始まるきっかけに本書がなればと願います。
プロフィール
渡邉雅子
名古屋大学大学院教育発達科学研究科教授。コロンビア大学大学院博士課程修了。Ph.D.(博士・社会学)。専門は知識社会学、比較教育・比較文化、カリキュラム学。
主著に『納得の構造――日米初等教育に見る思考表現のスタイル』(東洋館出版社、2004年)、編著『叙述のスタイルと歴史教育――教授法と教科書の国際比較』(三元社,2003年),論文「フランスの思考表現スタイルと政治的教養の育成――アメリカとの比較から」『教育学研究』84巻第2号2017年、180-191 頁、”Typology of Abilities Tested in University Entrance Examinations : Comparisons of the United States, Japan, Iran, and France,” Comparative Sociology, 14(1), 2015, pp.79-101 など。