2021.10.04

「重度訪問介護」を全国に――株式会社土屋・高浜敏之氏の挑戦

河本のぞみ 作業療法士

社会

「重度訪問介護」は、重度障害当事者たちが長い年月をかけて暮らしの実践をし、粘り強く行政と交渉して国の制度にまで作り上げた(そのアクションは自立生活運動とも呼ばれる)、ある意味究極のサービスだ。たとえ指一本動かせなくても、人工呼吸器をつけていても、1人暮らしができる。同居家族に介護をしてもらわなくても、病院や施設ではなく、自宅で、自分仕様の暮らしができる。その暮らしを支えるのが、「重度訪問介護」による長時間滞在のヘルパーだ。

我が国にそのような制度があり、障害が重くてもそのように暮らせることは、案外知られていない。現実として、行政がヘルパーによる支援時間数を少なめに決めるということはあるし、ヘルパーがおいそれとは見つからないということもある。だが、まずはそのような暮らしをしている人が周りにいないと、その暮らしをイメージすることはできないだろう。かくして、病院や周囲の人からは、施設や療養病棟で終生暮らすことを勧められ、それしか方法がないと思ってしまう。      

「自立生活運動」、その帰結としての「自立生活」という時の「自立」の概念は、一般的に(とくにリハビリ業界で)使われる自立とだいぶ違う。リハビリテーションでは、日常の身の回りのことを自分でできることを自立と称し、そのための練習を繰り返す。だから自立という言葉は、日常生活に介助を要する人には使わない。トイレ動作が自立する、入浴動作が自立するという場合は、1人でトイレも入浴もできることを意味する。そこに介助が必要なら、日常生活を送るのに、他人に依存せざるを得ない。

だが、どうなのだろう。暮らしのある部分を他人に介助してもらうことは、1人の大人として認められないことなのか。当事者たちはそこを問うた。誰であれ、暮らしのすべてに人の助けがいらないという人はいないだろう。

自立生活運動は、リハビリテーションへの批判から生まれた。動作の自立を目指すトレーニングモデルは、介助を要することを敗北とみなしてしまう。だが身の回りのことが自分でできないなら、手伝ってもらえばいいではないか。暮らしの動作は介助を受けても、管理、選択、決定を自分でするという、そのような自立概念。大事なのは生活の主体が当事者にあるという一点だ。介助を受けることが、人間としての価値を貶めることでも何でもないという了解を、自立生活運動はもたらした。

「自立生活」というそんな暮らし方があるということを、まずおさえておかないと、この話は進まない。

1.「重度訪問介護」事業所

重度訪問介護は、長時間滞在のヘルパーが、身体介護も家事援助も外出支援も、当事者の意向に沿って行う。介助の手が必要ないときは、見守りということで待機する。

このヘルパーは資格を取るハードルが低い。もともとは、当事者がボランティア頼みで施設を出て、アパート暮らしを始めたのが出発点だ。ボランティアは運動の支援者だったり、学生だったり、そのあたりのストーリーは「こんな夜更けにバナナかよ」(渡辺一史氏のルポ、その後の映画化)で、少し知られるようになった。最初はそんな風に始まったが、安定した暮らしを作るには、しっかりと介助体制を組まないといけない。そのためにはサービスを公的なものにすること、ヘルパーに報酬が支払われる必要があった。それは暮らしがかかっている当事者が、率先して行った運動によって時間をかけて実現した。

制度ができるまでは、報酬なしでもがんばる支援者が、当事者のまわりに集まりやすい。社会変革を起こしているという実感が、金にならなくとも原動力となる。そして、期間限定だからがんばれる。だが制度ができたら、それを支えるのは報酬だ。

重度訪問介護は、介護保険の訪問介護や障害者支援法の居宅介護(いずれも短時間の支援)より単価が安い。長時間滞在することで収入は確保されるが、その仕事の仕方は不安定だ。運動とともに作りあげられた制度だから、運動体であり事業体でもある「自立生活センター」(CIL―Center for Independent Living)という小規模の事業所をはじめ、小さな介護事業所が運営することが多い。ヘルパーは利用者がいないと仕事にならないので、ぎりぎりでしか雇うことができない。つねに自転車操業となる。

自立生活をしようと思っても、ヘルパーを自分で見つけてくださいと言われたら、かなりお先真っ暗な気持ちになるだろう。ヘルパーはいつだって足りないという現実が、大きく立ちはだかる。

2.「土屋」って、何?

私が住む静岡県浜松市(人口約80万人)は、重度訪問介護の利用者が15人くらいと、かなり少ない。2012年から自立生活の当事者を各地で取材してきたが、自立生活運動が活発だった地域は、重度訪問介護の利用者が多い(たとえば同じ人口規模の東京都世田谷区は、2013年に105人)。だが、どこの地域でも、ヘルパー不足は共通の悩みであることに変わりはない。

そんななかで、少し前から耳にするようになった名前が「土屋」だ。とくに難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)の方の在宅生活で痰の吸引が必要な場合、ヘルパー確保は困難を極めるのだが、「土屋」のヘルパーが入ることになった、というような話が聞かれるようになった。それまで知っていた地元の事業所とは馴染みのないこの事業所はいったい何者? 急に浮上した「土屋」って誰なの? まずは、頭の中に???が渦巻いた。

どうも全国展開の会社組織らしい。早速リサーチ開始。地元でがんばっている小さな事業所を応援している私としては、全国展開の会社なんてうさん臭い。しかし、ヘルパーが足りない現実では、「土屋」さんにもお願いせざるを得ないのだから、知っておく必要がある。この二つの思いに加えて、好奇心も頭をもたげる。作業療法士として在宅支援に関わる私は、難病の方の暮らしを支える資源は何であれ知っておく必要がある。

「ホームケア土屋」(株式会社土屋。名前の由来や会社の理念などはHPに書いてある)に的をしぼったのは、社長の高浜敏之氏への興味からだ。「自立生活運動」の支援をしていたという経歴の持ち主が、運動ではなくて営利を追求する会社を手がけることにしたのは、それなりの心構えが必要ではないか。そこを聞いてみたいと思った。

コロナ禍の今、インタビューはZOOMで行われたが、そもそも彼らは運営のIT化を試みている先端企業でもある。泥臭い重度訪問介護の現場と、リモートで行われる会議。未来を先取りしているのか、まだまだ試行錯誤の最中なのか(恐らくそうなのだと思うが)。ともあれ、気になっていた人と画面で会えた。ZOOMは、代表取締役の高浜敏之さん(岡山県)、取締役・社長室室長、長尾公子さん(東京都)、障害当事者の取締役・最高文化責任者、古本聡さん(東京都)、対外情報発信編集担当、富田祥子さん(大阪府)と私(静岡県)をつないだ。(2021年6月18日)

3.初めまして、高浜さん

――まず、ご経歴では介護や自立生活の運動支援をされていたということですが、そういう方面へ興味が向かうきっかけはなんだったのでしょう?

高浜 私はいい年まで大学にいて、哲学や文学に興味がありました。そこで学んだことや考えてきたことが、営利企業とはどうも結びつかないので、一般企業に就職しようとは思わなかったんです。大学の仲間も多くが、病院や介護事業所に就職しました。また、鷲田清一(哲学者)の「聴くことの力」というエッセイを読んで感動し、その影響で対人援助の仕事をしようと思いました。大学卒業の時に、アメリカで同時多発テロ(2001.9.11)があり、社会的マイノリティの権利について考えたということもあります。

そのような経緯で、介護の仕事をしようと思ったのですが、たまたま応募したところが木村英子さん(現在参議院議員・障害当事者・全国公的介護保障要求者組合書記長)の事務所だったんです。そこで、自立生活をしている障害者と、彼らの運動を目の当たりにしました。そして、新田勲さん(脳性麻痺者・1970年代に府中療育センター闘争を経てアパート暮らしを実践し、公的介護保障要求者組合委員長として亡くなるまで運動をリードした)に会ってみないかと言われ、そのご縁で、他の方々の介助をしながら、新田さんの事務局で働くことになりました。

自分のビジョンを上回るものがそこにありました。のめりこみましたね。7年くらいです。私がかかわっていたのは、ちょうど支援費制度のスタート前夜(2003年)で、介護保険との統合(障害者の訪問介護時間上限を介護保険並みに4時間まで下げるなど)などを国が言ってきた時で、身体、知的、精神、難病などの各障害者団体が連携して運動していきました。そんな渦中にいたんです。

当事者の各団体のリーダーたちと知り合ったり、新田さんの代理として、毎日厚労省に行きました。あの時問題となったのは応益負担でした。また、重度訪問介護の核心である「見守り」が外されそうになったのを、何とか残そうというのが一大命題でした。新田さんはじめ当事者が厚労省とかけあって、なんとか残すことができた。そんな時代でしたね。

――支援費制度から自立支援法と障害者の制度を作る運動の真っただ中にたわけですね。今の会社の仕事になって、そういう運動の話は通じますか?

高浜 古本聡さんがいますが、話が通じる人は会社の中では少ないですね。毎週話してはいますが、みんな下を向いています(苦笑)。入社オリエンテーションなどの社員研修では、初めに必ず話しますが。

――熱い運動の時代は過ぎて、仕事として成り立てばいいやという風に変わってきていると思います。今は運動体としてのCILも勢いを失ってきていますそんな中では、大きな会社としてやっていくことでしか生き残れないのでしょうか。CILや小さな事業体とどう関係を作っていくのでしょうか?

高浜 CILや小さな事業体は無くなってはいけないし、無くしてはいけないと思っています。大きな会社でしかできないこともあるし、当事者組織や小さな事業体の役割もあります。我々が運動をやっていたのはCIL以前の小さな組織で、CILさえも妥協の産物だと言っていたくらいラディカルなところでした。

理念の共有ということでは、あの時の小さな事業所の仲間との方が、今よりずっとできていたと思います。今も理念は大事に思っていて会社に掲げていますが、会社に入ってくる人の動機とは、ずれているんです。ですので、理念の共有は相対的に難しくなっています。

でも、大きな組織と小さな組織の役割は違いますし、当事者が運営する小さな事業所の役割は本当に大きいと思っているので、共存共栄していきたい、サポートしていきたいという感覚は持っています。

一方、私は一つの危惧をもっています。全国のCILのリーダーたちが、けっこううちのサービスを受けているんですよ。もっと言うと、うちのサービスを受けないと生活ができなくなっているんです。以前はあり得なかったことです。CILがヘルパーの自給自足ができなくなってる。

もとCILにいた人たちの面接をけっこうしますが、やはりそこには不満がある。一言でいうと過重労働になっているんです。私も前に働いていた当事者事業所では、月平均300時間働いて、社会保険もボーナスもない。当事者の権利でやってきましたが、働く人の権利はどうなの? ということになる。そこに鈍感になっている。よりよい社会を作るんだという理想に燃えている時は、瞬発力として機能したかもしれないけれど、それで持続することはできない。私がいた頃から去っていく人はいましたが、今はそれに拍車がかかっていると思います。

もう考え方も変わってきていますから、当事者主権は革新的な思想だと思いますが、そこにとどまりすぎているとCILは力を失いかねないと思います。望まない結果ですが。

大きなスケールでしかできないこと、具体的にはスタッフの収入保障、キャリアパス、そういうことが私のところではできていますが、小さなところでは難しい。会社の代表としてというより、障害者運動をやってきた立場から思うことは、小さな事業所が生き延びるためには、一定の補助金を出す必要があると思います。そのくらいしないと難しい。ですから制度変革が必要です。

そういう動きは、少しあります。全国障害者在宅生活支援事業者連絡会というのを立ち上げています。これは厚労省の課長クラスと3か月に一回くらい話し合いを持って、小さな事業所からの要求を伝える機会になっています。

――小さな事業所はこれに参加しているのですか? 情報は届いているのでしょうか?

高浜 オーガナイズのために走りまわったのですが、残念ながら彼らにもう余力がない。運動とともにあった小さなところは、今運動をやっている暇はないんですね。利用者さんの生活を守るためという大義で、めちゃくちゃな労働が常態化している。だから会に参加する余裕がない。それでこの会は悲しいかなイコール、ホームケア土屋みたいになってしまっています。

――長時間滞在のヘルパーが個人の暮らしを支えるのは、人間関係ですから何かとトラブルが出てくると思います。いくつか入る事業所がどうシフトを組むか、ヘルパーの構えが違う事業所を誰がコーディネートするのか。ヘルパーに余裕がない中で、ヘルパーが立ちゆかなくなったらすぐに暮らしが破綻することは予測がつく。こういう暮らしの仕方全体を支える方法みたいなものはあるのでしょうか? それとも、経験して泣きながら、慣れていく感じなのでしょうか?

高浜 まあ……、そうですね。

自立生活はまず情熱だけで、ボランティアとして始まった。それを初めて事業化したのがCILでした。情熱と事業のバランスだと思います。うちはそこをもう少し事業の方に寄せていった。どちらも良い面、悪い面があるかと思いますが、理想だけで集まった人たちの共同体より、自分自身の生活を成り立たせるために集まった人たちの共同体の方が、時間軸も組み入れたら強いですね。

理想共同体はライフステージとか、その人の変化だとか、いろいろな理由で続けられないことが起きやすいですが、生活、お金がかかってると辞めないですね。ですから、トータルに見たときに強い。好きな言葉ではないけれど、最大多数の最大幸福ということでは、この方向性、運動からビジネスへの転換は、基本これでいいかなと思っています。失ったものもありますが。

気になっているのは、理想共同体の人たちが図らずも起こしているモラルハザードのようなもの、起きてしまっている現実がモラルに反してしまうということですね。ヘルパーが身体を壊した、利用者さんのところに入れない、代わりに行ける人がいない、穴が空いてしまう、そんなことが全国でよく起きていて、そんな時にうちに依頼が来るんですね。逆もあるかとは思いますが、8:2くらいの割合で、うちが他の事業者さんのサポートをしています。

それは倫理観が高いとかそういう問題ではなく、うちはヘルパーの人数に余裕を持たせておくことができるんですよ。余力があります。小さな事業所はヘルパーを余らせておくとすぐ潰れてしまいますから、それはできません。ヘルパーが足りないのは現実ですが、うちは多少は余力があるので、何かトラブルがあってもヘルパーを出せるんです。ヘルパーがコロナで行けなくなったとか、新たに24時間ヘルパーの依頼があった時に、すぐ対応できるようにはしています。

理想を主目的に集まった共同体ではないし、地域によっては人員不足で時間数で検討せざるを得ない(*)などのファクトがあったとしても、トータルに見たときに現実はより理想にかなっているという評価をしています。理想を実現するには力が必要です。でも力をつけるにはNPOよりもビジネスの方がふさわしいと思っています。

(*会社としては、基本的に時間数に関わらず契約は受け付けています) 

そもそも、この会社を作ったのは、あくまでも私たちの理想を実現するためです。営利が先に立つのは絶対にあってはならない、それは運動をやって来た新田さんたちの意志に反することだという思いがありました。それが蓄積していって、今の会社をつくるに至りました。

――社長という立場になって、社員から理想と違うと言われることはありませんか?

高浜 それはあります。私が理想を求めている、社員も理想を求めている。ただ、それは理想主義と現実主義というよりも、単に知らない人と知ってる人という感覚はあります。社員が言ってる理想は単に知らないだけということもあるし、こっちの理想が、現場の理想より先にいっているということもあります。こっちは新田さんに鍛えられて筋金入りですし、経営陣には当事者もいますから。

――当事者経営陣の古本さんから見て、高浜さんのスタンスはどうでしょうか?

古本 今のところ私から見て、社員より社長の方が理想に走っていますね。当事者運動ということでは、私は青い芝(*)にいたこともありますが、理想ということで言えば、高浜さんは青い芝よりもっと青い芝ですね。

(*青い芝の会は 脳性麻痺者の当事者団体として1970年代から活動し、施設を出てアパート暮らしを始めるというムーブメントが当事者たちに大きな影響を与えた。時に過激ともいわれたが、重度訪問介護に至る制度の素地を作った。)

――高浜さんは全国展開をされていますが、それは全国津々浦々に事業所ができることを目指しているわけですか?

高浜 もちろんです。うちの事業所がない地域はほとんど重度訪問介護が受けられない事態になっているわけですから、場合によっては生きることができないということになります。日本中どこにいてもこのサービスが受けられる、つまりすべての人が生きるという選択ができる環境作りです。

これは新田さんから言われた「何よりも大事なのは命」だという、生きられる環境を作るのが障害者運動の使命だという使命を継承しているつもりです。今のやり方自体を新田さんに見られたら怒られちゃうけど、でもじゃあ新田さんがやってた通りのやり方を続けて新田さんの理念が実現できるのか、というとそれは絶対無理ですから。ですから、発展的継承のつもりでいます。

――ヘルパーさんを集めるのはどこも大変ですが、「ホームケア土屋」はどうでしょうか?

高浜 もちろん大変ですが、大多数の県で人材募集サイトでのクリック数は1位ですね。潜在的ニーズに答えるために、利用者がいようがいまいが、つねに募集をかけています。また、ここに相当投資をしていますので、人が集まってくるんだと思います。

――全国に展開している各事業所は、それぞれの事情によって若干違うということでしたが、ある程度独立して任されているのでしょうか? それとも会社の理念が各事業所に行き渡るような仕組みがあるのでしょうか?

高浜 理念教育を徹底的にやろうとしています。重度訪問介護の資格研修で、まず青い芝や府中療育センターの闘争などの話をします。歴史を作ってきた当事者である古本さんや安積遊歩さん(*)、浅野史郎さん(**)に話してもらっています。

正社員は入社後、オリエンテーションを複数回やって、私や古本さんが理念を話し、時間をかけて共有していきます。そして、理念をどこまで体現できてるかという観点から、360度の評価を実施し、一定のスコア以上の方がマネジャークラスに昇進します。ある意味、私が経験してきた運動体以上の理念教育をしてはいます。ただ、これが実を結んでいるかというと、まだ十分ではありませんが、コツコツ続けていきます。

(*)安積遊歩さん 当事者運動の先駆者としてとくにピアカウンセリング、女性の立場での発信で有名。著書多数。

(**)浅野史郎さん 当事者の声に耳を傾けた、元厚生省官僚、元宮城県知事。福祉政策に当事者の声を反映させた。

――自立生活運動のころは、当事者が制度も理解して、ヘルパーさんに指示を出して、一緒に暮らしを作るというスキルを身に着ける、自立生活プログラムがありました。今、すでにサービスがあって、時間数が出て、ヘルパーさんが来て、利用者の方がヘルパーと暮らしを作るというスキルを持ってない場合があるかと思います。そのあたりはいかがですか?

高浜 それは今、非常に問題化しています。利用者さんがヘルパーさんを商品として消費してる、という感じが強まってきていて、ここをどうするかというところを古本さんが担当して下さってます。昔とはまたちょっと違う、お互いに尊重し合う関係を何とか再構築できないか、という取り組みをしています。

ただ、ALSなど難病の方や強度行動障害の方が利用者として増えている中で、昔のCIL的な当事者が主体となって指示を出して、我々が手足になって動くというのは、はたしてフィットするのかどうかというと、そうでもない感じもあります。あの方法論、あの神話が崩れつつある、という感じもあります。今やポストCIL、ポスト自立生活運動の時代に生きてるなという感覚ですね。

小さな事業所の存在意義はどこにあるのだろうか。高浜敏之氏に改めて聞いたところ、次の5点をあげてこられた。

・法人代表とスタッフの距離が近く、コミュニケーションもダイレクトに交わせる可能性が高く、大きな組織と比較した時に、理念浸透を進めやすい環境にある。

・新規のサービス依頼や新しいスタッフの参加のリズムもゆったりしており、人の出入りや循環が穏やかなため、クライアント(利用者)とアテンダント(ヘルパー)がより長時間に渡るパーソナルサポート関係を結びやすく、関係も深めやすい。大きな組織は善し悪しだとは思うが、キャリアアパスの体系が構築されるので、能力が高く意欲のあるスタッフが次なるステップへとキャリアを展開していく。結果、場合によっては短期間で現場を離れる傾向があり、クライアントの期待に叶わないことがある。

・小さな事業所はスケールメリットが働かず、経済価値の追求においてアップサイドが限定される。結果、スタッフそれぞれの目線が内向的になり、意味追求指向性が高まらざるを得ない。それゆえか、小さな事業所の方が、スタッフの意識レベルや知的レベルにおいて、相対的に高い精鋭チームが生まれやすい。

・とくにCILについては、当事者主体のチーム運営により、クライアントとアテンダントのコンフリクトが発生した時の介入が、より有効に機能するように思える。土屋のような規模の会社において経営中枢の過半数を当事者にすることは、今のところ現実的に不可能に思える。

・小さな事業所の方が制約が小さく、未来を切り開く社会的実験にチャレンジしやすいように思える。

4.今後に向けて考えてみる

最初に書いたように、「重度訪問介護」は制度に基づいた究極のサービスだ。これで、家族に負担を強いることなく、自分の暮らしを作ることができる……はずだが、現実はそう簡単ではない。重度訪問介護のヘルパー、しかも喀痰吸引の研修を受けたヘルパーは、簡単には見つからない。

自立生活運動が活発にアクションを起こしていた時の当事者は、脳性麻痺、頚髄損傷などの障害で、障害が重くても医療的ケアが必要な方は少なかった。というか、そういう人は病院以外では生きられないと思われていた(命がけで地域に出た筋ジストロフィー者たちが道を作ったが、今でも多くは元の国立療養所―名称は変わった―が終の棲家になっている)。

重度訪問介護のヘビーユーザーに、昨今ALS者が加わった。当事者にやり方を聞きながら支援するという方法、そういうヘルパーとの関係を、脳性麻痺者たちは時間をかけて作り上げたが、ALS者は介助者との関係をゆっくり構築する余裕がないことがある。

中年期以降に発症して、どんどん身体機能が低下するこの難病は、病気の進行に応じて、気管切開、人工呼吸器装着、胃ろう造設と、身体への侵襲とそれに伴う医療的ケア(喀痰吸引、経管栄養など)が必須となり、在宅生活は大波に翻弄される小舟のごときだ。(医療的ケアとは本来医師と指示を受けた看護師のみが行える医療行為を医療職以外のものが行うときに使う言葉)。在宅生活では家族も指導を受けて医療的ケアを行う。では独居者は? 家族が昼間、仕事で居ない場合は? 生きるのをあきらめることになる。

一方で、あきらめずに果敢に生きる道を切り開いた難病の先駆者たちは、ヘルパーに身をもって喀痰吸引の手ほどきをし、時間をかけて技を身に着けてもらい、公式には許されていないヘルパーによる吸引で暮らしてきた。彼らが繰り返し要望して、ヘルパーへの喀痰吸引の研修とその行為が医療的ケアとして認められるようになった。

高浜氏が言う「生きられる環境」とは、医療者か家族しかできない「喀痰吸引など」ができる重度訪問介護のヘルパーを、どこに住んでいようと利用できる環境という意味で、「ホームケア土屋」はそういうヘルパーを全国展開で生み出そうとしている。ALSであっても自宅で生きることをあきらめなくてすむように。

だが、このヘルパーにはかなり重責がかかっているというのも事実だ。重度訪問介護が出番となるのは、家族で持ちこたえられなくなってからのことが多い。最後の頼みの綱として入るから、緊張を伴う。時間をかけて当事者と関係を作りながら、暮らしを作り上げるというより、速く医療的ケアに慣れて、コミュニケーションの取り方に慣れて、細かいケアの積み重ねで成り立っている日々の時間をこなしていくことが求められる。次元の違う命のありようを持った当事者と介助者が、暮らしという日常をともにする。へルパーを支える仕組みがないと、彼女/彼らはつぶれてしまうだろうと思う。

「ホームケア土屋」は、現場のヘルパーが困った時の支えの仕組みがあるようだが、私が末端で垣間見る現場で頑張っているヘルパーたちには、もう一つ何かサポートが必要に見える。それはサービス提供というビジネスを超えた、何か泥臭い類のものだ。「自立生活」というこの暮らし方は、人力で不可能を可能に変えた。その時点で、個人の暮らしそのものが好むと好まざるとにかかわらず社会化されてしまう。だからどうしても、暮らし、そして生きることそのものが外力に揺さぶられるのだ。

ポスト自立生活運動の時代は、ポスト市場原理の時代かもしれない。小さな事業体と会社組織の大きな事業体のコラボレーションから生み出される新たなモデルが求められる。

当事者役員の古本聡さんが、今後の役割として、コミュニティの構築を考えているということだった。暮らしが個人に収束するのではなく、コミュニティに開かれていくこと。難題だが、恐らくすべての人に必要なことの鍵が、ここにありそうだ。

プロフィール

河本のぞみ作業療法士

作業療法士として訪問看護ステーション住吉(浜松市)に所属。重度障害者9人の暮らしを取材し、「当事者に聞く自立生活という暮らしのかたち」を2020年3月三輪書店より上梓。看護とリハ、重い障害と車いすといったテーマで取材、執筆をしている。演劇者(里見のぞみ)として路上演劇という活動にも従事。

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