2022.03.14
入試国語選択問題の「正解」について――早稲田大学教育学部の説明責任
2022年2月19日に行われた、早稲田大学教育学部一般入試の国語問題(第一問)に、私の著書『フーコーの風向き-近代国家の系譜学』(青土社、2020年)の一部が用いられた(44-51ページ)。
それについて、はじめは何の気なしに問題を解いてみた私は、結果的に以下の問い合わせを早稲田大学入学センターに行うことになった(3月4日。メールの一部を改変なしに引用)。
貴学の教育学部国語の第一問に、私の著書『フーコーの風向き』からの出題がありました。
先日解答例が公表されましたので、それについての質問です。
貴学の解答例
問一 イ 問二 ハ 問三 ニ 問四 ホ 問五 イ 問六 ホ 問七 ニ 問八 ハ
河合塾・代ゼミの解答速報(全く同じ)
ホ ハ ニ ホ イ ホ ニ ハ
駿台予備校の解答例
ホ ハ ハ ニ イ ホ ニ ハ
この論文全体の論旨、およびフーコーの思想を研究してきた上での私が考える解答例
ハ ハ ハ ニ イ ホ ニ ハ (駿台と同じ)
また、問二については貴学の解答例、予備校の解答速報、そして選択肢の消去法でハと解答してありますが、厳密には正解なし。消去法ではなく、ハが正解となる根拠を、問題文中の該当箇所を示して説明いただきたいと思います。
さらに、上記のメール文中に説明不十分な点があったので、追加で以下のメールを送った。
問1について、私の解答と予備校の解答が異なるのに(駿台と同じ)と書いてしまっている点についてです。フーコーの生権力論全体について最も適切なのはハです。しかし課題文の範囲ではホを正答とすることももっともだと考えます。その点を明記しておりませんでした。つまり、そのことを考慮するなら、問1はホとなり、つまり駿台と同じになります。
上記を見れば分かるとおり、問一に関しては予備校間で正答が一致、大学の「解答例」のみ異なっている。ただし、3月11日に確認したところ、駿台は3月1日の早稲田大学からの「解答例」発表後に解答を変更し、すべて大学と同じものに修正した。その上で、「解答」とは別の「分析」のページに、速報の際の選択肢を挙げ、問一、問三、問四について別解の可能性を示唆するやり方を取っている。問一について「ホが誤りと言えるかは疑問」、問三について「ハとニの違いは不明瞭」、問四について「ニが誤りと言えるかは疑問」と書かれている。河合塾と代ゼミは3月11日の段階では変更していない。
国語問題そのものについては、各予備校のページから、新聞社が出している問題掲載ページにリンク (1,2)がある。ここでは全文を掲載できないので、参照していただきたい。
私からの上記の問い合わせに対する大学からの回答(3月9日)は、次のとおりであった。
ご意見いただきありがとうございました.頂いたご意見に基づき,
学部内で検討した結果,いずれの設問についても訂正の必要は
ないとの結論に至りました.
入試問題への問合せについては,個別にお答えはしていません
ので回答は差し控えますが,今後の参考にさせていただきます.
これも原文のまま引用している。納得できない、というよりこれで納得する人がいるとは思えない回答なので、同日改めて問い合わせた。全く同じ回答をもう一度受け取っただけであった(3月10日)。再度の問い合わせの際、こういった回答に終始するならば「ネットでの公表を含めて」対応を考えると早稲田大学側に知らせておいたので、ここに疑問点を公表することにしたい。
1.問一について
問一は、「傍線部1「個と全体の近代特有の結合」とあるが、どういうことを指しているか。」という設問である。傍線部の直前の段落から読み取れる答えとしては、「個人の幸福と国家全体の富や安全の増大との結合」あるいは「国家の繁栄・秩序と個人の幸福・安全とを不可分に結びつけること」といった内容になる。これはミシェル・フーコーの生政治論の中心にある考えの一つで、近代国家の特徴を、全体と個の結びつきの特有のあり方に求めたものである。
問題内で提示された選択肢は、
イ 国家と個人の利害の結びつきを前提とすること。
ロ 国家が個人も幸福になるように理論を構築すること。
ハ 国家の力を増大させるために個人の幸福を実現すること。
ニ イデオロギーよりも具体的な政策として国家が個人を管理すること。
ホ 国家の力と個人の幸福とが同時に増大または減少するようにすること。
である。
三予備校は当初すべて「ホ」を正解とした。大学の解答は「イ」である。イは「国家と個人の利害を結びつけること」(「前提」ということばがない場合)であれば、正解の一つである。しかし、いったいなぜ「ホ」が正解でないかは不明である。
傍線部直前の段落に、「全体と個の利害を結びつけ、国家の力と個人の幸福とが相関して増大したり減少したりするようなしかたで両者を同時に生み出す」と書かれている。国家と個人の利害を結びつけることの言い換えが、この文章の後半部分、つまり選択肢「ホ」である。国語の選択問題に独特の流儀に倣って、正答の適切さに度合いがあるとするなら、正答は「ホ」となる。そして、「イ」にある「前提」という単語は課題文には書かれていない。著者の意図としても「、」で結ばれる前半と後半(「全体と個の利害を結びつけ」と「国家の力と個人の幸福とが相関して増大したり減少したりするようなしかたで両者を同時に生み出す」)は、前提と結果ではなく並列あるいは言い換えによる説明である。
ちなみに私が書いた補足メールにある内容についても一言述べておく。フーコーの統治性研究全体を見るなら、結局は国家というのはその繁栄のために個人の幸福を利用した、というニュアンスが強く出ている。したがって、フーコーの全体としての論調となると「ハ」が正答と著者としては言いたくなる。だが、問題文の範囲ではそれは書かれていないので、正答は三予備校の(当初の)解答どおり「ホ」と考える。
2.問二について
問二の正答は大学・予備校ともに一致しており、明らかな間違いを排除していく消去法によって「ハ」を正答と導くことができる。しかし、この設問はそもそも設問として成立しているのか不明である。問題文は「傍線部2「社会に固有の「自然性」によって構成される人口という対象の発見あるいは発明が、生政治を可能にしている」とあるが、それはなぜか。」である。正答とされる選択肢は、「ハ 生政治とは人間が生きることそれ自体に関する政治なので、単なる個人の集合としての全体の数字ではなく、人間が生きることに関わる様々な側面に即した数値に分けることによって人々をきめ細かく統治できるから。」である。
課題文中のこの部分は、「社会の自然性」という非常に説明が難しい概念に関わっている。フーコー研究の中では、これは「規律型権力」と対比される「生政治」、あるいは「国家理性-規律の17世紀」に対比される「18世紀の自由主義経済学以降の統治性の新しいタイプ」と関係している。詳細は『フーコーの風向き』第7章、また『統治の抗争史-フーコー講義1978-79』(勁草書房、2018年)を参照してほしい。このように言いたくなるほど難解かつ複雑な概念である。かぎられた問題文でこの概念の理解を設問に入れること自体、かなり難しい試みと思われる。
ものすごくざっくりいうと、ここでの社会あるいは人口の自然性とは、外から為政者が介入して思いどおりに改変できるような単純さを備えておらず、それ自体独自のリアリティを有する集合性である。
たとえば、少子化の日本では人口を増やそうとしてさまざまな施策を行っているが、一向に出生率は上がらない。この問題は中国でも深刻だ。あの中国をもってしても、国がふたりっ子、三人子を容認したらすぐに人々が子どもを産みだすわけではない。またひとりっ子政策が与えた影響も、当初考えられていたものよりはるかに深刻かつ長期間にわたることが分かった。こういうことを、人口の「自然性」、つまり勝手にいじれない生き物みたいな社会の特性として表現しているわけだ。市場への下手な介入が相場をめちゃくちゃにしてしまい、予想外のところに効果が及ぶのもこれに似ている。
では、正答選択肢の文章を見てみよう。ここでは、「単なる個人の集合体としての全体の数字」と、「人が生きることに関わる様々な側面に即した数値に分けること」が対比されている。選択肢を見るかぎり、全体をざっくり捉えることと、人間が生きる様々な側面に分けて数値を算出することのうち、後者が生政治を可能にしているという理解のようだ。
これは本文中のどこに書かれているのだろう。生政治の特徴は、傍線部より後の課題文にあるとおり「固有の規則性・自然性を有するものとして認識された社会・人口」をコントロールしようとすることにある。それは、人口という「新しい「全体」の発見」=人口の自然性の発見によって成り立っており、全体の数字か様々な側面に即した数値に分けることかというような対立が問題なのではない。
3.問三について
早稲田大学国語の流儀かもしれないが、これも奇問と思われる。設問は「傍線部3「フーコーがいう「人口」に当たるもの」とあるが、それは何か。」である。
問題内で提示された選択肢は、
イ 政治組織としての国家。
ロ 国家の一部としての地域。
ハ 人々を人口として見た全体。
ニ 特定の集合体としての社会。
ホ 人口学によって見いだされた個人。
である。大学が提示した解答例では「ニ」が正答である。駿台のコメントにあるとおり、選択肢のうち「ハ」と「ニ」の違いが不明である。人口と社会は課題文内ではほぼ入替可能な語として並列して使われている。そして、問2のところで見たように、これは「新しい「全体」」を指しているので、「ハ」の方が正解に見える。さらに「ニ」の「特定の集合体としての社会」は、「特定」の内容が何なのか、どのように「特定」なのかが説明されておらず、本文内にも前後に「特定」の語がないので、消去法で「ハ」となる。
4.問四について
問四の設問は「傍線部4「生政治の展開の中で、ある人口の出生率と死亡率、生殖能力や罹病率などの全体が、「経済や政治の多くの問題と結びつけられ」(フーコー)重視されるようになった」とあるが、それはなぜか。」である。
問題内で提示された選択肢は、
イ 人口を一定に保つためには、出生率と死亡率、生殖能力や罹病率などを規範に合わせなければならないと考えられていたから。
ロ 出生率、死亡率、自殺率、犯罪率こそが社会秩序を不安定にするので、正常性を基準とすることでそれらを一定に保てると考えられていたから。
ハ 国家にとっては人口構成が一定であるのが望ましいので、出生率と死亡率、生殖能力や罹病率が変動しないようにすべきだと考えられていたから。
ニ 国家にとって人口構成は最重要項目なので、その変動要因となる数値をコントロールすることで人口を望ましいレベルに管理できると考えられていたから。
ホ 生政治では、たとえば人口構成を出生率と死亡率、生殖能力や罹病率などの様々な数値を一定の値に保つことで国民を統治しやすくなると考えられていたから。
大学の「解答例」が提示する正答は「ホ」である。課題文中では、傍線部の直後の段落で、「「率」の一定性(出生率、死亡率、自殺率、犯罪率などの一定性)は、社会に秩序が保たれていることの証左であり、率の激しい変動は、上昇にせよ下降にせよ介入のための指標となる」とある。そのため、「たとえば、出生率が死亡率に比して極端に高い上昇曲線を示している場合には、その上昇を抑える施策が必要かどうかが、政治的・経済的目標との関連で検討される」ことになる。
ここでは選択肢「ニ」と「ホ」が正答候補となる。私は当初の駿台とともに「ニ」を選んだが、大学の「解答例」は、河合塾・代ゼミとともに「ホ」を正答とする。ニの前半「国家にとって人口構成は最重要項目なので」が間違いなのだろうか。しかし、課題文を読むと、ずっと国家にとっての人口の重要性が書かれているので、この部分を理由に弾く根拠はどこにあるのだろう。少なくとも「最重要項目でない」とは書かれておらず、「最重要項目となったことが近代国家の特徴だ」と書かれているように読める。さらに、後半部分は少なくとも「ホ」と同じ程度には正答に見える。
「ホ」について、「ニ」との「正解度」の違いを考える上で、次の点を指摘したい。ここで微妙ながら伝えたかったことは、率の急激な変化は国家にとって黄信号であるが、必ずしも悪いこととはかぎらないということだ。たとえば戦後の日本では出生率は急激な上昇を示したが、それが国家の繁栄にとって悪いこととは考えられなかった。
しかし、たとえば出生率と乳幼児死亡率の関係を見た場合に、出生率の上昇が一定程度抑えられるべきと考えられるケースもあるだろう。たしかに統治が安定した国では、主要項目について率が一定になる傾向があると考えられてきた。しかし国家の非常時や成長期、または成熟期などの各社会がおかれた状況によって、数値のコントロールのあり方は柔軟に考えるべきともされてきた。つまり、一定性を保つことで統治がしやすくなるかどうかは、国や社会の状況によって変わってくるということだ。
話が複雑になったが、課題文のこの部分は「数値を一定の値に保つことで国民を統治しやすくなる」というより、「数値が一定に保たれている国の統治は安定している場合が多い」という、国家の秩序や安定性の度合いを測る一つの「基準・尺度」として率の一定性を捉えている。
こうした理由で、「一定性を保つ」=「統治しやすくなる」という課題文中には書かれていない因果的な結びつきを明記している「ホ」が消去され、「ニ」が正答となる。
問題についての私の見解は以上である。問五以下は正答が導ける出題と考えている。最後に早稲田大学からの返答の問題点を指摘しておく。
私は、最初に引用した早稲田大学入学センターを経由した教育学部からの回答に対して、とても腹を立てていて3月9日に以下のメールを書いて送った(整理のために書くと、私から早稲田大学に送ったメールは計3通)。
受験生一人一人の人生がかかっている問題に関して、著者の問合せにこのような回答で納得するとお考えでしょうか。
訂正の必要がないという判断に至った議論の経緯、そしてその理由について、速やかに回答をいただきたいと思います。
回答をいただけない場合には、この間の経緯をネット上で公表することも含め、こちらも対応を考えさせていただきます。受験生がこのような大学側の態度を知ったら、一体どういう気持ちになるでしょう。受験生は「今後の参考」など望んでいないことは、少し考えたらわかることではないでしょうか。
あまりにも不誠実な回答に、驚き呆れています。早稲田大学の見識に関わる重大な事案にならないよう、再度「著者からの問合せに対応した」といえるような返答をお願いいたします。
これに対して、入学センター経由での教育学部の返答は、
入試問題への問合せについては,個別にお答えはしていませんので
回答は差し控えさせていただきます.
であった。そこで公表を決意したのだが、なかでも一つ大きな疑問がある。それは「個別にお答えはしていません」という部分である。入試問題の正答に疑義があり、それがいくつかの予備校の解答速報および課題文の著者によって疑義とされる場合であっても、それを「個別」の質問と見なして答えないということだ。おそらく、早稲田大学ともなると解答速報を作っている大手予備校関係者は、国語のプロであると推測される。彼らの解答速報が食い違う時点で、これは問題を含んでいると認識されるのが普通だろう。
これに対して大学側が一切答えないとなると、回答が得られるのはいったいどんな問い方の場合なのかということだ。「個別」だからダメというのなら、Change.orgで賛同者を募って署名を提出すれば答えてくれるのだろうか。あるいはオープンレター形式で賛同者を募ればいいのか。そうではなく、時々起こるように何箇所かからクレームが入った上で新聞などで取り上げられた場合のみ、対応してもらえるのだろうか。「お答え」してもらえるかどうかの基準がどこにあるのかについても、疑問が増すばかりであった。
また、何のために私が天気のいい春休みに寝不足の朝っぱらからこんな文章を書いているかについて、最後に述べておく。私自身にとっては、一度出版された自分の文章が入試問題に使われ、それが場合によって一部改変されることにとくに問題はない。これまでも多くの入試問題に使われてきたし、模試や参考書への掲載を断ったこともない。一度公表した文章は、解釈も利用も開かれたものだと考えている。「誤読」も「誤配」もありうるだろう。
そういう訳で、ずっと以前に丸谷才一という著者がやったような、国語問題全体への皮肉っぽい批判や、入試に使わないでほしいといった高慢な主張をするつもりはない。なによりも、受験国語のあり方が、とくに難関校入試において再考を要することは多くの関係者が部外者よりずっと切実に感じていることと思われる。そういうなかで、少なくとも課題文から正答が導けるしかたの選択問題を作るために、大変な苦労がなされているのだろう。
今回は、こうした一般論とは次元が違う話である。腕試しの模試ではなく入試問題、しかも多くの受験生(早稲田大学の公表数値によると教育学部だけで1万4000人以上の志願者数)が受ける一般入試の国語問題という、あくまで特定の問題についての疑義である。一問の不正解に泣く受験生の存在は、早稲田大学と同じ大規模私大に勤務する私自身にとっても他人ごとではない。たとえ出題に神経をすり減らす苦労があるとしても、忘れてならないのは、大学内にいる作問者は受験生から見れば圧倒的な権力者であるということだ。どんな問題を出すかも、何を正答とするかも、そして正答に疑義が出された際に説明を行うかどうかも、すべて大学側が一存で決められる仕組みになっている。今回このことを痛感させられた。
そうしたなかで、受験生にとってできるかぎり公正な入試問題と解答を作成するとともに、疑義に答えることは、問題作成の役割を担う大学教員にとって、守るべき最低限の誠実さではないだろうか。そのため今回は、早稲田大学教育学部と著者のこれまでのメールでのやりとりを公開し、広く読者の判断を乞うとともに、大学側に誠実な対応を改めて求めたいと考える。
早稲田大学は私の出身大学である。早稲田での四年間はかけがえのないもので、いまも強い愛校心を持っている。だからこそ、能力ある受験生が公正に評価され早稲田の杜に集い、キャンパスをますます活気あるものにしてくれることを願っている。
*論争含みになりかねないこのテーマでの寄稿を快く受け入れてくださった、SYNODOS編集部と代表の芹沢一也氏に感謝する。
プロフィール
重田園江
1968年生まれ。明治大学政治経済学部教授。早稲田大学政治経済学部卒業後、日本開発銀行(現日本政策投資銀行)を経て、東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。著書に『統治の抗争史ーフーコー講義1978-79』(勁草書房、