2024.02.16
アミア・スリニヴァサン『セックスする権利』
本書の題名「セックスする権利」は、一見したところぎょっとさせる。たとえば、いわゆる「インセル」、本書の説明によれば「自分はセックスできてしかるべきだと思いこんでいて、その権利を奪っている女性たちに怒りを燃やす男性」(p. 102)に、権力が女性を「あてがう」必要はない。それはあまりにも当然のことだが、次のような場合を考えてみよう。子どもたちがおたがいにサンドイッチを分け合っている。しかし、ある子どもだけのけものにされ、その交換の輪から排除されている。そこでその子にサンドイッチを分け与える「義務」は誰にもないのだろうか。たとえ「ない」としても、それは「義務ではない」というだけでは不十分ではないか。
この類比は、セックスがサンドイッチと同様に分配されるべきだということを意味しない。それは別物だろう。では、どのように異なるのか。本書は「セックスをそれ自体として扱う方法」(p. 102)を見つけようとするが、決して「答え」を出そうとはしない。本書ではセックスにかかわる膨大な事例やそれにかかわるフェミニストたちの議論が紹介されるが、そのそれぞれに共通する何かが抽出されるわけでもなければ、明確な対立軸のようなものが描き出されもしない。タイトルの「セックスする権利」も、インセルの歪んだ欲望だけを意味していない。たとえば、年長の男性教員を好きになった女子学生にはその相手と「セックスする権利」はないのか。好きな相手と好きなときに、好きな相手とセックスすることを女性の解放と捉える「プロ・セックス」フェミニストの主張はどう捉えられるべきか。こうした問いがいくつも重ね合わされながら、従来の問いでは不十分だったかもしれない事柄が明らかにされていく。
ひとたび新しい問いのようなものが立てられても、やはりうまくいきそうにないと引っ込められることもある。その試行錯誤の過程そのものが、まさにフェミニズムの実践として提示されている。本書は一九六〇年代のいわゆる「第二波フェミニズム」以降、現代のSNSの時代に至るまでの多くのフェミニズムの主張を踏まえており、学説史的整理としても有益である。しかし、本書の主張自体は、そのどれにも還元されない。性的な欲望が政治の産物であるという、本書で繰り返し語られる主張にしても、そうした語法が想起させる精神分析や家父長制批判、あるいは社会構築主義と本質主義……といった枠組みからつねにはみ出すように語られていく。だから本書の議論を、私たちがすでに知っているフェミニズムの特定の立場に引き付けて理解することはできない。本書の立場は、あえていえば「リアリスト」(p. 239)ということになろうが、それは性にかかわるあまりにも複雑で多様な現実を、特定の立場によって理解したつもりになることへの戒めである。したがって読者は、論じられている問題を既存の枠組みに回収してわかった気になることのないよう、忍耐強い読解が要求される。
インターセクショナルな抑圧
しかし本書の消極的な性格を強調してばかりでも、本書の論述が持っている力強さを伝えることにはならないだろう。本書の最も大きな問いは、性にかかわる欲望がどのように政治的に形作られるかということだ。そして、従来のフェミニズムがその問いに取り組んできたあり方が、どのように組み替えられていくべきかというように論述が進められる。そこでおそらく最大の鍵となっている概念が「インターセクショナリティ(交差性)」である。
女性にとって「共通の抑圧」はもちろん存在する。しかし当然ながら、抑圧は性的なものだけではない。人種、階層、障害の有無……さまざまな要因が相互作用した結果としてより根深いものになる。著者は「ファッカビリティ(fuckability)」という、〈白人のブロンド女性とセックスすることと、それ以外の属性の女性とセックスすることで社会から得られるものの違い〉として説明される独特の概念を用いる。それは「性をめぐる政治によって構築された性的魅力」であり、そこには「人種化されたヒエラルキー」がある(p. 144)。そこで低く位置づけられた、あるいは「アンファッカブル」な存在とされた女性は「レイプ神話」の犠牲となってその被害の声が隠蔽されかねない。そうした交差的な現実のもとでは、女性一般の「共通の抑圧」をスローガンにしたフェミニストの連帯は「ひときわ困窮した女性の大部分を放置し、ジェンダー平等によって既存の不平等の構造に参加しようとしている」と批判される(p. 229)。セックスにおける「同意」も、そうした「不平等の構造」による実質的な強制でないかどうかが問われなければならない。
こうした見方はもちろん、従来のフェミニズムの実践が見落としてきた一面を明らかにするものである。しかし、そう論じることがフェミニズム内部の分断に利用されることへの危険にも著者は自覚的である。著者は、かつての反ポルノグラフィ法制化運動や、性犯罪の重罰化を求める現代の監獄主義(carseralism)フェミニズムが、保守派による男性中心的な権力構造の温存のために利用されることへの危機感も適切に指摘している。連帯のためには、経済的な関係だけでなく、ジェンダーや人種、健常主義(ableism)に基づく従属を組み込んだ大きな資本主義体制を批判対象としなければならない。
それはどうすれば可能になるのか。本書の議論は性的な欲望がどのように、つまり人種、階層、障害の有無……と交差しながら形作られるかを詳細に見ており、それは現実を批判するための資源を与えてくれる。その点において著者は確かにリアリストである。しかしその姿勢は「欲望に不意をつかれ、行くとは考えてもみなかったところへ連れていかれることもあれば、欲情したり愛したりするとは思ってもみなかった人にひきつけられることもある」(p. 128)という自由への希望に裏打ちされてもいる。
エンパワメントに向けて
本書の議論は概して慎重であり、行きつ戻りつの試行錯誤がなされている。しかし随所に、現在のフェミニズムをめぐるアクチュアルな問題が取り上げられ、著者の積極的な主張もなされている。たとえば第二章「ポルノについて学生と話すこと」では、現代の若者たちにとってポルノグラフィがセックスのやり方を示す「情報」として消費されていることが取り上げられる。そこでポルノグラフィは「正しい」セックスのあり方を示す規範として受け止められ、それはたとえば第一章「男たちに対する陰謀」で論じられる、「男性を性的に興奮させた女性は、最後までしなければならない」という「ジェンダー化された性的期待のインフォーマルな規制システムから受ける強制」につながっている(pp. 38-39)。現代のインターネット上にあふれるポルノグラフィは性的欲望を多様化するどころか、その想像力をむしろ型にはまったものにしてしまう。著者はそこで性教育の役割を説き、それはセックスが何になりうるかを想像する権威はあくまで自分たちにあると伝えることにあるのだとする(p. 99)
また第五章「教え子と寝ないこと」では、教師と学生がセックスすることの是非が検討される。「同意」があれば許されるとか、好きな相手と「セックスする権利」があるとか、それを認めないのは学生を一人前として見ないことである……といったよくある論法は退けられ、この章では教師の職業倫理が積極的に語られる。教師と学生の関係は認識的な非対称性によって特徴づけられるのであり、したがって教師は、学生が教師に対して転移的に向けるエロティックなエネルギーを適切な対象、すなわち知識、真理、理解へと向け直さなければならないとされる。この認識的なエンパワメントこそ、権力関係の上にある者の責任だとする主張は本書全体に底流するものである。
随所でこうした積極的な主張がなされることも本書の魅力であることは確かだが、それらには当然に異論も多くあることだろう。実際、本書の中心となる第三章「セックスする権利」は初出時に、保守派だけでなくフェミニストにも毀誉褒貶を巻き起こしたが、第四章「コーダ――欲望の政治」はそれらを丁寧に取り上げ、反論しながら議論をふくらませている。それはSNS時代のフェミニズムの実践を示すものといえるだろう。一冊の本としてまとめられた後も変わらず、その実践は続いていくはずだ。
翻訳と装丁
本書の翻訳は正確で、文章も読みやすい。本文中には現代フェミニズムの論者やその専門用語、あるいはさまざまな時事問題が大量に取り上げられているが、訳者による本文中の補足が丁寧になされており、読者に親切なものとなっている。この分野の予備知識がなくとも十分に理解できるはずだ(議論の性質上、忍耐強く読むことは重要だが)。
また、本書のカバーには顔を隠して裸で横たわる身体(男性か女性かは明示されていない)が描かれており、見る者に不穏な印象を与えている。既存の枠組みに安心させることなく、むしろ絶えず不安をかき立てることを目指す本書にとって素晴らしい入口となっている。
プロフィール
吉良貴之
法哲学専攻。東京大学法学部卒業、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程満期退学。現在、愛知大学法学部准教授。研究テーマは世代間正義論、法の時間論、法と科学技術、およびそれらの公法上の含意について。主な論文として「世代間正義論」(『国家学会雑誌』119巻5-6号、2006 年)、「将来を適切に切り分けること」(『現代思想』2019 年8月号)。翻訳にキャス・サンスティーン『入門・行動科学と公共政策』(勁草書房、2021年)、エイドリアン・ヴァーミュール『リスクの立憲主義』(勁草書房、2019年)、シーラ・ジャサノフ『法廷に立つ科学』(監訳、勁草書房、2015 年)など。