2024.11.29
培養肉は肉なのか? 肉の全体―部分論というレンズからみる社会課題
1.「いわゆる培養肉」
名は体を表すというが、実体が揺れているため名前も揺れ続けている食べ物がある。培養肉である。
近年、家畜の個体から取り出した細胞を大量に増やし、さらにそこから肉の組織をつくる技術――いわゆる培養肉(cultured meat)が注目を集めている。大学の実験室やスタートアップが研究開発を活発に進めており、シンガポールでは小売店やレストランでの販売も始まった。
培養肉が注目されている背景には、今後世界的に動物性タンパク質(肉・魚等)の供給が不足するのではないかという危機感が一つにある。植物性の材料から作られる食品と並び、不足するタンパク質を補うイノベーションになると培養肉は期待されている。
一方、新しい技術を用いる培養肉はさまざまな(マイナスも含めた)社会的影響を及ぼすのではないかと危惧も抱かれている。研究開発が進むことで私たちの消費生活、食や農の文化、生産流通のシステムにどのような変化が生じるのかを調べる取り組みが各国で始まっており筆者らも人文社会科学のチームで検討を進めている。
さて、培養肉の名前が揺れ続けていると書いた通り、この原稿を書いている2024年の段階では培養肉をどのように呼ぶかの確固たる名称は定まっていない。国連食糧農業機関(FAO)が提出したレポートでは名称が複数存在する問題に言及しており、レポートの中では議論をするための作業的な用語としてcell-based foodを使うと断っている。
日本でもカギ括弧付きの「培養肉」が用いられたり、いわゆる培養肉、と表現されたりする。ほかに検討されている名称には細胞性食品が挙げられるがこれも確定したものではなく、カギ括弧付きの「細胞性食品」といった表現が目にとまるのが2024年の現状である。
どうしてこのような揺れが生じているのか。実は科学界や海外の政策決定の場では、培養肉は肉であると言えるのかについて議論が生じている。培養肉という存在がどういった対象であるのかが確定されていない問題が、名前の混乱にも結びついてると言えるだろう。
日本ではこうした議論の以前に技術自体の認知度が低く、漠然としたイメージにとどまっているかもしれない。そして少ない記事や報道の中では、培養肉を肯定的に評価するにせよ批判的に検討するにせよ、培養肉が肉であることを前提としたままの主張も多いように思われる。しかし素朴なラベル付けは時として技術の実状についての誤解を生み、意思決定を攪乱させることにもつながりえない。
培養肉の揺れは、萌芽技術の特性や、翻って現代社会におけるさまざまな問題を理解する手掛かりになる。この記事では人文社会科学の観点から問題を整理し、培養肉を捉えるための視点を提案してみたい。
2.細胞から肉を作る
まずは、培養肉のつくり方を確認しておこう。培養肉は、大きく、細胞を増やすステップと増やした細胞を筋肉組織にするステップの二つのステップで作られる。
細胞を増やすステップでは、動物から少量の細胞を取り出し、ばらばらになった細胞をアミノ酸や糖などの栄養素を含む液体内で培養することで細胞が分裂を繰り返し増殖する。そして細胞を筋肉組織にするステップでは、増えた細胞を立体的な形にして筋肉組織ができあがる。立体的な組織にするにはいくつかのやり方があり、例えば、組織工学の手法や3Dフードプリンターの技術を応用することが考えられている。
培養肉のつくり方で留意しておきたいポイントは、この技術は、ばらばらとなっている個々の細胞からスタートして、ボトムアップに組織を再構成していく、という点である。このとき何を構成できていれば、肉が作られているとみなすことができるのかは、所与に決まっているものではない。
再構成される筋肉組織にはさまざまな段階があるし、再構成された対象が肉に近づいていることを示す指標にも複数が考えられる。たとえば、筋肉組織に特有の細胞が増えていることをもって肉への近さを示すのか。あるいは、その組織の構造がより筋肉に近い構造となっていることでもって示すのか、など、科学コミュニティの中でも培養肉の目指す肉についての議論がやりとりされる。
従来の食肉を科学的に扱ってきた領域である動物学や食品科学では、食肉の美味しさは、家畜が屠畜された後の肉の熟成――そこに含まれる複雑な生化学的反応のプロセスによってはじめて醸成されるものであり、培養肉が熟成をともなわないのであれば肉の美味しさは再現できないのではないかという見解も出ているようだ。つまり、培養肉は、肉の肉たる所以を獲得できないのではないかという主張が一部にある。
もちろんこの主張がそのまま支配的な見方となるわけではない。熟成のメカニズムは解明されていないことも残っているし、培養肉の科学・技術が進展を続けている中、熟成を達成できない、とも言い切れない。ここで重要なのは「肉の肉たる所以は何か」の特定に応じて、「培養肉は肉なのか?」に対する答えも異なってくるという点である。
3.文化の中の肉の価値:肉の全体―部分論
それでは文化的な観点から肉の肉たる所以について考えてみたい。動物の肉を食べるという行為は、私たちの歴史・文化に深く埋め込まれている。そして、肉食の習慣がある社会では、肉に関する活動は必ず「全体―部分」の関係性をともなってきた。
まず物理的な意味で「全体」(動物)があるからこそ「部分」(肉)は成立するという関係がある。私たちが肉を食べるということは、肉を食べる前に、肉が切り出されてきた全体としての個体の動物が存在し、その動物は食べる行為が生じる前に生物学的な意味で死を迎えていることを意味する。
そして象徴的な意味でも、全体が存在することの前提が、部分としての肉の魅力を保証し、肉を食べることによって人々が得る力の源泉となっている。食肉の魅力や価値が動物の存在に由来するという視点は、これまでの文化論でも論じられてきたところである。
つまり、肉が何かしら人を惹きつけるとしても、その魅力は食品単体としての美味しさや栄養素に還元できるものではない。文化的な観点から見ると、全体があるからこそ部分化された肉に価値が付与されるのである。
食肉以外の参考事例として、漢方薬ではサイの角が貴重な素材となるという。この事例でも角に含まれる栄養成分が問題なのではなく、元々生きていたサイ(の神秘性)を想定することによってサイの角の効用が成立している。
こうした肉の「全体―部分」関係は、地域共同体の規範形成や、慣習とも分かちがたく結びついている。あるアフリカの地域における狩猟場面の話であるが、得られた獲物の肉を切り分けるのは共同体の年長者である。そして部分化された肉は、複数のステップで地域社会のメンバーに行き渡るよう分配される。
分配の仕組みの詳細は地域によって異なるものの、切り分けと分配のプロセスはいずれでも重要となる。そして肉をメンバーが分かち合う慣習は共同体全体の一体感を高めることに貢献している可能性がある。
日本や中国など東アジア諸国でも祝いの場で肉を切り分ける風習が残っている地域がある。現代的な日本の食事の場面でも、全体を部分に分けるというプロセスや分かち合いの行為は特別な意味を持つ。分けられた部分の再結合によって、いま一度全体が現れるという共通認識があるがゆえに、獲物を細分化し、その切片を食するという食事という行為には共同体の一体性を想起させる作用があるといえるだろう。
まとめると、文化的な観点からすれば、肉の肉たる所以とは、全体―部分の関係性にこそある。この見方を肉の全体―部分論と名付けたい。全体―部分論に照らし合わせると、個の細胞からボトムアップに形成された培養肉は、切り取られる元の全体が存在しないことから、肉ではないという見方も可能となる。
4.肉の全体―部分論が更新する培養肉の課題
私たちの示した肉の全体―部分論は、培養肉はそもそも肉ではない――より精確に言えば、文化的な観点からは必ずしも肉と言えるわけではない――ことを提起する。とはいえ、このエッセイで培養肉が肉でないと断定し、結論付けたいわけではない。肉が肉と言える本質についての答えは多様であり、その多様性によって、培養肉が肉なのか、それ以外の何か、の答えも多層的に併存している。肉でなければ何なのかをメタファーを用いながら考えてみるのも面白いだろう。
強調したいのは、培養肉が肉だと当然視したまま行う議論よりも、肉ではないかもしれないと想定したときの議論の方が広がりを持つ、という点だ。培養肉は、登場からしばらく肉の代替物である(すくなくとも代替となることを目指す)ことが当然視されてきた。既に商品化されている培養肉でも、いかに肉らしい味を持つかが宣伝の材料にされている。倫理面に言及する主張でも、多くは遺伝子組み換え食品のアナロジーを用い、代替物としての安全性を問うている。
しかし、このように肉の代替物として培養肉を限定してしまうと、この技術の持つ特有の新しさや可能性をとらえきれない。また、気を付けるべき課題を見落としてしまうきらいもある。
肉の全体―部分論のレンズのもと新しく前景化する課題について、ここでは三点ほど指摘しておきたい。まずは、現代の食システムの(不)健全さである。全体―部分論は、私たちの文化においての食の意味が、食べる対象のもととなった動物全体の存在、ならびに、全体と部分のつながりによって構築され、共同体の規範とも密接に結び付いてきた点を示した。
しかし、現代社会においては、日常生活で食べているものの由来や、それが何から生じどのように配分されてきたのかを意識することはない。新規の食品技術の登場如何にかかわらず、現代の食のシステムにおいて食の全体―部分関係は既に失われている(すくなくとも不可視化されている)ともいえる。
しかし、部分のみでの食料供給がますます進むシステムでは、全体(個体)の死という制約がないからこそ欲望の箍が外れてしまう問題が頻出するかもしれない。望ましい食システムを先におき、どのように培養肉や関連技術を組み込んでいくのかといった視点が重要である。これまでの肉をめぐる文化が培ってきた、獲得物を皆に行き渡らせるための知恵などを土台にした制度設計も考えられるのではないか。
第二は、細胞の地位の検討である。これまで、人間と動物との関係性をどのように考えるべきかは、倫理学を中心に多くの検討が蓄積されてきた。人間を上、動物を下とする見方の是非を問うものや、動物福祉のあり方を問うものもある。こうした人間と動物との関係性があるとして、では、細胞というカテゴリーにどのような地位や倫理的配慮を見出すのかという問題を培養肉は提起する。
そして第三に、肉と紐づいたアイデンティティの問題も重要な課題となるだろう。もし肉の象徴的価値が、全体の個体を狩り支配することへの価値から派生しうるマスキュリニティ(男性優位的価値観)と紐づけられるのであれば、肉食への選好が嗜好性の問題を越えて強固な枠組みとして社会に残り続けるかもしれない。そうした傾向自体を振り返る時期にあるのではないか。
細胞を増やして食品を作る技術の応用には、肉だけではなく、魚や革製品もあり、実際、世界ではさまざまな食品種・製品のアイデアが実現に向かっている。先に述べたように、培養肉のつくり方を振り返ったときに、異なる食品のアナロジーを活用する可能性もある。こうした中で、技術の肉への応用のみに注目が集まりイメージが固まってしまうことのアンバランスなども肉の全体―部分論で見えてくる課題である。
5.やはり肉なのか?
ここまで、いわゆる培養肉と呼ばれている対象の技術的な特性を解説した後、文化的観点においては全体(個体)―部分(肉)の関係性こそが重要であることを指摘した(肉の全体―部分論)。そしてこの視点から浮かび上がる、培養肉について考慮すべき課題のいくつかを指摘した。全体―部分論は食一般をめぐる問題を考える際にも活用できる試論的な視角であり、今後さらに洗練させていきたい。
ところで話をややこしくするようで恐縮だが、培養肉が肉なのか?という問いが成り立つのは、逆説的に培養肉がやはり肉かもしれない可能性を含んでいるからだ、という点に最後に言及しておきたい。
たとえば、代替タンパクが広まる中で大豆肉も注目されているが、「大豆肉は肉なのか?」という問いを投げかけてもさして議論は紛糾しないだろう。大豆肉は大豆を原料として肉の形や味を再現したもので、肉ではないという見解を皆が共有している。もちろんここで「大豆肉を肉と名付けてもよいか?」という問いに変えると、良い/良くないといった論争は生じるだろうが。
つまり、培養肉の名称が揺れていることの問題は、本当は肉ではないのだけれど肉と呼んでよいのか、あるいは、本当は肉だけれども肉と呼ぶべきではないのか、という名付けの軸のみで決着がつくわけではない。そもそもの対象が何であるのかについての不確定性が中核にあり続けているがゆえの難しさと、面白さがある。このエッセイが、「いわゆる培養肉」の謎と魅力に読者を巻き込むものであれば幸いである。
[本稿で示した肉の全体―部分論は、Frontiers in Sustainable Food Systems誌に2024年に発表した「The cultural construction of cellular agriculture food: through the lens of the whole-parts framework for meat」で提起している。論文は、三成寿作氏、髙橋憲人氏、杉山祐子氏、川名晋史氏と共著で発表したもので、肉の全体―部分論のアイデアも5人で練っていった。ここに記して感謝申し上げる。もちろん本稿の文責は筆者が負うものである。]
プロフィール
日比野愛子
弘前大学人文社会科学部教授、博士(人間・環境学)。モノ(テクノロジー)と人間集団との相互作用に着目し、合成生物学(培養肉)をはじめ、感染症シミュレーション、アグリ・イノベーションなどのトピックや、ゲーミング・シミュレーションの研究を行っている(研究室ウェブサイトhttp://www.fibonacci-ah.net/)。著書に、山口富子・日比野愛子編著『萌芽する科学技術――先端科学技術への社会学的アプローチ』(京都大学学術出版会,2009年)、山口富子・福島真人編『予測がつくる社会――「科学の言葉」の使われ方』(分担執筆、東京大学出版会、2019年)、日比野愛子・鈴木舞・福島真人編『科学技術社会学(STS):テクノサイエンス時代を航行するために』(新曜社,2021年)ほか。