2025.02.05

政治的リベラリズムから婚姻制度を考える
「公正さというのは極めて限定された世界でしか通用しない概念のひとつだ。しかしその概念はすべての位相に及ぶ。かたつむりから金物屋のカウンターから結婚生活にまで、それは及ぶのだ」(村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)
「本日をもって、我が鈴木家は解散する」(山本直樹『ありがとう』)
政治的リベラリズムと婚姻制度
現代は価値が多様化した時代である。社会にはさまざまな問題が存在するが、ゆずれない重要な価値観にかかわるものである場合、対立は激しいものとなる。宗教にかかわるケースが典型的だが、特段の信仰をもたない人でもそうした事態に直面することはあるだろう。解決策のひとつは、何から何まで同一の価値観を全員が受け入れることである。だがこれは、特定宗教への改宗を強制するようなものであって、魅力的でも実行可能な選択肢でもない。
異なった価値観をもつ人びとが、その違いを保ったまま、共生することはいかにして可能か。これはまさに、ジョン・ロールズが『政治的リベラリズム』(1993年)で考察した問いである。「すなわち、自由で平等ではあるが、複数の理にかなった宗教的・哲学的・道徳的世界観によって深く分断された市民から成る公正で安定的な社会が、長期にわたって存続することはどのようにして可能か、である」(ジョン・ロールズ『政治的リベラリズム』神島裕子・福間聡訳、筑摩書房、2022年、6頁)。
ロールズは『正義論』(1971年)で平等主義的リベラリズムを提唱したことで有名だが、この第二の主著では、価値の多元性を認めることから議論をスタートさせている。2022年には待望の翻訳も公刊された。本稿の目的は、この「政治的リベラリズム」というアイデアに着目し、婚姻制度のあり方を再検討することである。
最初に、政治的リベラリズムの基本的な考え方を説明しておきたい。まずそれは、二つの領域あるいは価値を区別する(より詳しくは以下を参照されたい。齋藤純一・田中将人『ジョン・ロールズ:社会正義の探求者』中央公論新社、2021年、第三章)。
・政治的(political)なもの:どのような価値観をもつのであれ、誰にとっても受け入れ可能と想定されるもの。社会の主要制度や重要な政策の正当化という限定された目的をもつ。
・包括的(comprehensive)なもの:宗教の教えや哲学の学説に代表される、ときに共約不可能で、相互に両立しない世界観のこと。その各々がきわめて広い射程や目的をもつ。
そのうえで、政治的リベラリズムは、前者のみに基づいて政治が行われるべきだと主張する。極端な例え話だが、星占いによって消費税率が決定されるとしてみよう。ほとんどの人びとにとって、この決定はたまったものではないだろう。なぜなら、星占いは包括的な世界観に依拠するものであるため、論争的な性格を免れないからだ。政府はこの意味で中立的なものでなければならない。
政治的リベラリズムとは、「共有可能な価値(=政治的価値)を特定・限定したうえで、そうした価値だけに基づいた正当化をめざすリベラリズム」のことである。「限定的リベラリズム」といってもよい。対照的に、リベラルな政治を支持するとしても、包括的な価値に基づく正当化をめざす立場は、「包括的リベラリズム」といえる。星占いほど論争的ではないとしても、何らかの包括的な考えにアピールしようとする論者は少なくない。
さて、政治的リベラリズムが考察対象とするのは、私たちの生活に多大な影響を及ぼす社会制度のあり方である。ロールズが検討を加えたのは、法的・政治的・経済的制度(社会の基礎構造とよばれる)だが、婚姻制度もそこに含まれると考えられる。というのも、結婚は──それをしないことも含めて──人生での重要な決定であり、法律によって一定の地位や利益を保障されているからだ。
ロールズは、『正義論』の時点では一夫一妻制の家族を自明視していた。だが、のちに批判を受けとめ、『政治的リベラリズム』の頃には考えをあらためている。「正義の政治的構想によっては、(一夫一妻制、異性愛その他の)いかなる特定の家族形態も求められていないのである」(ジョン・ロールズ『公正としての正義 再説』田中成明・亀本洋・平井亮輔訳、岩波現代文庫、2020年、§50.1)。政治的リベラリズムが多様な家族のあり方を認めるのはたしかだが、このテーマについてロールズは掘り下げて論じることまではしなかった。
これは理論上のみならず実践上でも興味深い問題である。なぜならば、日本社会では異性愛と一夫一妻制に基づく婚姻制度が採用されているが、近年、これを問い直そうとするさまざまな動きがみられるからである。たとえば、2015年から東京都渋谷区と世田谷区が同性カップルを対象にした「パートナーシップ制度」を導入し、今日では多くの自治体でも実施されるようになった。ミレニアル世代はLGBTQに理解があるともいわれている。
2021年3月17日、札幌地方裁判所は同性婚についての画期的な判決を下した。同性婚を認めていない現状につき、国は損害賠償までは負わないとして、原告(三組の同性カップル)の訴えを退けつつも、この事態は法の下の平等を定めた憲法14条に違反するとした。裁判としては国側の勝訴だが、現状の婚姻制度が憲法違反だとされたことの意義は小さくない。また、2022年3月23日には、最高裁において、夫婦別姓での婚姻を認めないのは違憲だとする申し立ての上告自体は却下されたものの、小法廷の裁判官5人のうち2人は、現行の規定が憲法に違反するという判断を示した。同性婚や夫婦同姓制度の見直しの機運は高まりつつある。
それでは、政治的リベラリズムの観点から婚姻制度をどのように考え直すことができるだろうか。以下では、対照的な論陣をはるマイケル・サンデルとエリザベス・ブレイクの議論を参考に考察してみたい。両者はともに現行の婚姻制度の変革を求めるが、そのやり方は異なっている。単純化していえば、サンデルは政治的リベラリズムにブレーキをかけるのに対して、ブレイクはさらにアクセルを踏もうとする。
サンデルの同性婚擁護論
サンデルについてはご存知の人も多いだろう。おそらく世界でもっとも有名な政治哲学者である。ハーバード大学での講義、およびそれを書籍化した『これからの「正義」の話をしよう』は、幅広いオーディエンスを獲得した(マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』鬼澤忍訳、早川書房、2011年)。本書のラスト「第10章 正義と共通善」で、サンデルは彼なりの同性婚擁護論を展開している。
最初に、ロールズとサンデルの関係について補足しておきたい。二人は三〇以上の歳の差があるがハーバードの同僚で(ただし学部は別)学問上でも交流があった。だがサンデルは、ロールズのリベラリズムに対する批判者でありつづけてきた。
ロールズ的なリベラリズムは、さまざまな価値観=善(グッド)の構想があるのを認めたうえで、それらを適切な仕方で共存させるのが正(ライト)だとする。この意味での正(ライト)を体現する政府は中立的なものでなければならない。いいかえれば、政府は特定の価値観に肩入れしてはならないし、各人は自分独自の主張を公共的討議の場に直接もちこむべきではない。
この要請は「善に対する正の優先性」とよばれる。先述した、政治的リベラリズムの基本的な発想──政治的なもの/包括的なものの区別──も、この考えの一例である。なぜなら、宗教の教えに代表される包括的な善の構想は共約不可能であるため、政治に直接もちこまれるとしたら、多大な不和や争いをもたらすと想定されるからである。
この考えはけっして突飛なものではない。たとえば、裁判の判決文は「善に対する正の優先性」に沿って書かれている。つまりそこでは、特定の価値観ではなく、誰にとっても受け入れ可能な論拠に基づいて議論が組み立てられ、結論が下される。政治的リベラリズムの実践をよく体現する範型として、ロールズはまさに最高裁の推論様式を例にあげている(『政治的リベラリズム』279-290頁)。
サンデルとロールズはおそらく選挙では同じ候補者や政党に投票するだろう。社会的問題への両者のスタンスはさほど隔たったものではない。実際、ともに同性婚制度を支持している。しかし、結論は一致するとしても、そのやり方については意見を異にする。端的にいえば、サンデルは同性婚を支持するが、「善に対する正の優先性」を否定しながらそうするのである。まさしくこの方法面での異論こそ、彼によるロールズ批判の一貫した特徴にほかならない。
なぜサンデルはこうした立論を採用するのだろうか。それは、正と善を分離する中立的なリベラリズムでは、人びとの動機づけが弱まり、ひいては政治が空洞化するとされるからである。リベラルの論法はなるほどスマートであり、理論上は正しいかもしれない。だがそれは、実践上は政治の貧困化をもたらしたのではないか。彼によれば、慎み深いリベラルが政治から距離をおくうちに、スマートではない宗教右派が政治のアリーナに進出し、世論に多大な望ましくない影響をあたえるにいたった。
アメリカの保守派、とりわけ宗教右派の大多数は同性婚に反対する。彼らからすれば、それは端的に間違っているからだ。自分たちが信じる経典に「結婚とは異性婚のことである」と書かれているため、あるいは経典をそのように解釈する以上、同性婚は正しいものではありえない。
さて、かりにこのような人びとに対して「いや、そうとは限らないのではないですか」と説得を試みるとすれば、どのようなものになるだろうか。
ロールズなら次のように述べるだろう。あなたがどのような宗教を信じるかは基本的に自由である。「同性婚が間違っている」と個人的に考えていても構わない。しかし、これはあなた独自の価値観=善の構想であって、すべての人びとに関わるイシューについて検討する場合、カッコに括る必要がある。婚姻制度はまさにそうした公共的な問題だ。この社会には「同性婚は間違っていない」と考える人たちもいる。それでも異性婚のみを支持したいならば、あなたは誰にとっても説得的な理由を提出する必要がある。それができないとすれば、異性婚に限定されない結婚の可能性を認めなければならない。もっとも、同性婚が法的に認められたとしても、あなたは個人的な見解を改める必要はない。
まさしくこれは「善に対する正の優先性」にもとづく論法であり、『政治的リベラリズム』では公共的理性(公共的な理由づけ)とよばれる(『政治的リベラリズム』第六講義)。サンデルはこうした主張が洗練されたものであることを認めている。しかし、こうしたロールズ的なリベラリズムは難点を抱えているともサンデルは考える。
サンデルが問題視するのは、自分の善の構想をカッコに括るという要請である。見方によればこれは相当に要求度が高い。いわばそれは、裁判において当事者と裁判官の一人二役を強いられるようなものだ。もちろん優先するのは裁判官の役割である。この役割分担をうまくやりおおせる人もいるだろうが、熱心な信仰をもつような人にとっては大きな負担となるだろう。少なからぬ人にとって「善に対する正の優先性」の要請はけっして自然なものではない。
説得の話にもどると、サンデルなら次のように述べるだろう。あなたが熱心な信仰者であることはまちがいないし、信心深さは社会にもよい影響をあたえる。ただし、どのような信仰であってもよいわけではない。善い心構えをもつことが重要なのだ。あなたの信仰の多くは善いものかもしれないが、「同性婚は間違っている」というのはどうだろうか。かつては妥当だったかもしれないが、時代や社会は変化していくものだ。さらにいえば、同性婚を支持する人びとは道徳的に堕落した人びとなどではない。彼らもまた社会の共通善に貢献している。だとすれば、あなたは結婚についての考えを改めるべきなのだ。
つまり、サンデルは善の構想に直接アピールしようとする。この論法はよくもわるくも分かりやすい。彼自身、ロールズ的なアプローチを「洗練派」、みずからのそれを「素朴派」と名づけている(マイケル・サンデル『公共哲学──政治における道徳を考える』鬼澤忍訳、ちくま学芸文庫、2011年、第21章)。もちろん彼は、政治的リベラリズムの前提となる価値観の多元性にもコミットしている。だがそのうえで、サンデルはあえてナイーブな論法を選ぶ。こうして彼は政治的リベラリズムではなく包括的リベラリズムの立場に接近する。
サンデルは、自分の主張を補強するものとして、同性婚を認めたマサチューセッツ州最高裁判所の2003年の判決に注目している。裁判長マーガレット・マーシャルの意見はロールズ的な洗練した論法=公共的理性に則って書かれているようにみえるが、結婚の目的について述べた箇所では特定の善の構想を参照している。サンデルが強調するのは、この判決が同性婚を認める一方で、一夫多妻制や一妻多夫制を退けるものであったことだ。
「マーシャルは結婚の目的に関して中立を装うことはせず、それについて対照的な解釈を示している。彼女によれば、結婚の本質は生殖ではなく、二人のパートナーのあいだの独占的愛情関係だ──二人が異性であっても、同性であっても」(『これからの「正義」の話をしよう』404頁)
たしかに善の構想に直接アピールすることは論争的かもしれない。だが、サンデルによれば「善に対する正の優先性」をとるとしても、最終的には何らかの価値観がそこには潜んでいる。婚姻制度についても同様である。マーシャルの見解──結婚の本質は生殖ではなく(性別にかかわらず)二人のパートナー間での独占的な愛情関係にある──に説得される人は少なくないだろう。私たちは善についての素朴な感覚をむやみに恐れる必要はない。そして、異性愛も同性愛も善いものであることにおいて等しいのだとすれば、両者を婚姻制度で区別することは不当である。
サンデルによる同性婚擁護論には相応の説得力があるし、知識人としての彼のスタンスや貢献はリスペクトに値する。だが、この論法には何か見落とされていることはないだろうか。以下ではこの点も含め、ふたたび政治的リベラリズムの観点から婚姻制度を検討したい。
ブレイクの最小結婚論
あらためて政治的リベラリズムの基本的な考えを確認しておこう。それは、誰にとっても「共有可能な価値(=政治的価値)を特定・限定したうえで、そうした価値だけに基づいた正当化をめざすリベラリズム」のことであった。それゆえ、特定の人びとしか受け入れることのできない論争的な価値観は、正当化のプロセスから除かれなければならない。
もっとも、同好の士だけが集まっているような組織やサークルにおいては、ここまで厳格な要求はなされない。たとえば、大学・会社・宗教団体はそれぞれ独自の価値観に依拠していることもあるが、いざとなればメンバーをやめることができる。すなわち、参入離脱の権利が保障されているために、これらの組織は包括的な価値観に部分的に基づくものであってもよい。
対照的なのが国家というユニットである。というのも、各種の中間団体とは異なり、国家には退出の自由がない。特定の国家に私たちは生まれおち、特定の国籍をもつ市民として一生をすごす。他国籍を取得して故国を離脱することは可能ではあるが、そのコストはきわめて大きく、ほとんどの人びとには現実的な選択肢ではない。それゆえ、国家権力の行使にかかわる重要な制度編成の正当化については、特別な配慮と挙証責任が必要とされる。
婚姻制度も政治的リベラリズムの正当化対象と考えてよい。それでは、現行の制度は、誰にとっても共有可能な価値によって正当化されるものになっているだろうか。エリザベス・ブレイクによれば答えはノーである。政治的リベラリズムの観点からみると現状の婚姻制度はとても理にかなったものとはいえない。彼女が代替的なアイデアとして掲げるのは〈最小の結婚〉(minimal marriage)という斬新な構想である。
アメリカのライス大学で教鞭をとるブレイクは、2012年にこのテーマを論じた重要なモノグラフを公刊したが、幸いなことに翻訳で読むことができる(エリザベス・ブレイク『最小の結婚──結婚をめぐる法と道徳』久保田裕之監訳、白澤社、2019)。さまざまな論点が提起されているが、大きく三点に再構成したい。
①現状の婚姻制度が依拠する〈二者間の親密な恋愛関係〉という考えは論争的であること。
②あるべき婚姻制度にとって有意な事項は〈ケア関係の形成〉であること。
③政治的リベラリズムによって支持される婚姻制度は〈最小の結婚〉であること。
第一に、現状の婚姻制度が〈二者間の親密な恋愛関係〉という考えに依拠していることが批判される。多くの人にとって、これは意表をついた主張かもしれない。しかし、ブレイクは文学・哲学・法学のさまざまなテクストの分析をつうじて、既存の社会通念にさほど妥当性がないことを説得的に論証している。誤解がないように補足しておくと、彼女は〈二者間の親密な恋愛関係〉という考え自体を全否定しているわけではない(積極的に肯定してもいないが)。要点は、この考えと婚姻制度が必然的に結びつくわけではない、ということにある。
この主張は、サンデルの同性婚擁護論に対する厳しい批判となる。なぜなら、彼の擁護論は「結婚の本質は生殖ではなく(性別にかかわらず)二人のパートナー間での愛情関係にある」という価値観に依拠するものであったからだ。たしかにこの主張は、異性婚しか認められていない社会において同性婚を擁護する場合には有効なものだろう。私もこの点では異論がないし、サンデルのやり方に一定のメリットがあることにも同意する。しかし、ブレイクの考えからすれば、この論法はすすむべき方向性や目的地をまちがって設定している。
それでは、婚姻制度についてどのように考えるべきなのか。ここで第二の主張が出てくる。すなわち、恋愛関係というよりケア関係こそが、婚姻制度にとって有意だという主張である。ケアとは、親しい人びとの間で形成される、配慮を中心とする関係性のことだ。生活に支障を抱える人びとのニーズに応じる営みとしてイメージされることもあるが、ブレイクはケア関係を広くとらえる。介護のみならず、さまざまな愛情や友情、それから養育もケア関係に該当する。
人びとは親密圏において複数のケア関係を生きるが、現状の婚姻制度はそれに正しく応じたものだろうか。ブレイクによれば、それは〈二者間の親密な恋愛関係〉を特権視するものであり、他のケア関係を適切に捉えていない。社会生活から生じる利益と負担を私たちは納得のいく仕方で分かち合う必要がある。これがいわゆる分配的正義の観念である。たとえば、たくさん稼ぐ人は多めに税金を払うべきだし、生活が苦しい人は優先的に処遇されるべきだといえる。しかし、婚姻制度についてはこのような観点からの考察が不十分だった。ブレイクはケア関係の分配的正義を再検討しているのである。
そしてここから、第三の主張として、政治的リベラリズムが積極的に参照され、〈最小の結婚〉という提案がなされる。この構想は、婚姻の認定基準(=ケア関係の存在)を最小化することで、親密な恋愛関係にある二者間に限定されない、さまざまなケア関係に応じたさまざまな婚姻関係を可能にすることを目的とする。〈最小の結婚〉のもとでは、たとえば親密な友人四人で結婚することもできる。同性婚が認められるのはいうまでもない。
〈二者間の親密な恋愛関係〉は価値あるものかもしれないが、誰にとってもそうだとはいえない。いわばそれは特定宗教への信仰のようなものである。対して、〈ケア関係の形成〉の必要については、誰であっても合意することができるだろう。こちらは信仰の自由に相当する。後者だけが政治的リベラリズムの正当化要件をパスできる。それゆえ、従来の二者間に限定された婚姻制度ではなく〈最小の結婚〉が支持されることになる。
信仰とのアナロジーをつづけると、中世ヨーロッパではキリスト教(カトリック)だけが正統な信仰として認められていた。これは異性婚だけが認められている状態に相当する。つづいて、キリスト教の別宗派(プロテスタント)が異議申し立てを行ない信仰を認められた。これは同性婚が認められた段階に準ずる。ただしこの時点では、キリスト教という特定宗教のみが認められていた。あるいは依然として婚姻は二者間で結ばれるものだった。〈最小の結婚〉がめざすのはその次のステップ、すなわち、特定宗教だけではなく多様な信仰の自由が認められた状態に相当する段階といえるかもしれない。
ただし、ブレイクは婚姻制度そのものの廃止(disestablishment)までは主張していない。民間にすべてを委ねると、私的な団体や権力による抑圧の移譲や既存の性愛規範の再生産が生じるだろう、というのがその理由である。この論点については〈最小の結婚〉よりもさらに先をめざそうとする、松田和樹氏の刺激的な論考も参考にされたい(「愛のために「結婚制度」はもう廃止したほうがいい、法哲学者の私がそう考える理由」『講談社現代ビジネス』2022年2月11日 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/92323)。
最後に、ブレイクが「成人間のケア関係」と「子どもの養育というケア関係」を分離していることを注記しておきたい。すべての子どもたちが恵まれた環境で生まれるわけではない。満足な教育を受けることができない子ども、あるいはヤングケアラーの役割を負わされている子どもすら少なくない。かつての同性愛者への処遇がそうであったように、こうした境遇の放置は公正(フェア)なものとは到底いえない。ブレイクは、養育については生物学上の親ではなく社会的な親によるケアが行われるべきだとしているが、これもまた示唆に富む見解だと思われる。
おわりに
本稿では、政治的リベラリズムの観点から婚姻制度のあり方について検討した。政治的リベラリズムとは、「共有可能な価値(=政治的価値)を特定・限定したうえで、そうした価値だけに基づいた正当化をめざすリベラリズム」のことである。サンデルは政治的リベラリズムではなく包括的リベラリズムに接近することで同性婚を正当化しようとしていた。だが、それは相応の説得力をもつ一方で、二者間の愛情関係に依拠することは論争的な側面をもつ。まさにこの点を批判的に捉え返したのがブレイクである。彼女は〈二者間の親密な恋愛関係〉ではなく〈ケア関係の形成〉に注目することで、政治的リベラリズムの考えに沿いつつ、〈最小の結婚〉という独創的なアイデアを提示した。
〈最小の結婚〉が即座に受け入れられることはないだろう。しかし、ブレイクの議論は大筋において説得的なものであり、既存の常識や制度に疑問を投げかけることに成功している。また、サンデルの同性愛擁護論は論争的だが、特定の条件や限界をもつという認識のもとで用いるなら、有効なものでありうるだろう。政治的リベラリズムはきわめて抽象的で限定された考えに思われるかもしれないが(実際そうなのだが)、現実を見直すための補助線として大きな意義をもっている。公正な社会を考えるにあたって、それは欠かすことのできないアイデアなのである。
プロフィール

田中将人
1982年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。博士(政治学)。専門は、政治哲学・政治思想史。早稲田大学助手、高崎経済大学・拓殖大学・早稲田大学非常勤講師を経て、現在、岡山商科大学法学部准教授。単著に『ロールズの政治哲学——差異の神義論=正義論』、共著に『ジョン・ロールズ——社会正義の探究者』などがある。https://researchmap.jp/tj-pl/