2025.03.04

メタ倫理学

シノドス・オープンキャンパス09 / 佐藤岳詩

社会 #シノドス・オープンキャンパス

はじめに

メタ倫理学という学問のことを知っている人は、どれくらいいるでしょうか。おそらくほとんどの人は名前も初めて聞いたのではないでしょうか。そもそも、倫理学でさえ何だかよく分からないのに、それにメタが付くとますます意味が分からないと言われてしまうかもしれません。ですが、たとえば次のような会話を考えてみてください。

A 「ねえ、○○社って、商品はすごく安いけど、それは児童労働とかでコストを下げてるからなんだって。とんでもない悪徳企業だよ」

B 「ふーん、でも児童労働の全部がそんなに悪いことなの? 小学生はともかく中学生くらいなら、本人の意志で働いたって悪いとは限らないんじゃない?」

A 「そんなことないよ。中学生だってまだまだ身体的にも精神的にも未熟だし、学業にも差し障るんだから、児童労働は大人による不正な搾取だよ」

B 「そうかなあ。そうだとしても、それってAの意見だよね。倫理観なんて人によって違うんだから、それを他人に押しつけるのは違うんじゃない?」

A 「そんなこと言ったら、暴力とか虐待が悪いかどうかも人それぞれってことになっちゃう。そんなのおかしいよ。誰にとっても悪いものは悪いはずだって」

B 「はあ、でも悪い悪いって言うけど、だいたい、悪かろうと悪くなかろうと、虐待をする人はするし、結局、儲かるなら子どもを働かせる企業はなくならないでしょ。結局、法律で許されているかどうかが大事なんであって、悪いかどうかなんてたいした問題じゃないんだよ」

A 「そりゃそうだけど、でも中にはそれが本当に悪いことだって分かってない、って場合もあるだろうし、それは悪いことだって前提があるから、法律で規制する、って話にもつながるんでしょ。やっぱり悪いか悪くないかは大事だよ」 

二人は①「児童労働は悪いかどうか」をめぐって話をはじめています。それが②「悪いかどうかは人それぞれか」にスライドし、最後は③「悪いかどうかは大事か」という話に展開しています。このうち、最初の問い①は直接に児童労働の悪さを問うています。ですので、児童労働が子どもの権利を侵害している点、本人の意志といっても、そのような意志を持たざるを得ないような環境は正義にかなった環境とは言えない点などが、ここでの議論の行く末を左右します。 

それに対し、後の二つの問い②と③は児童労働が悪いかどうかはさておき、そもそも悪さとはどういうものか、を問うています。つまり、あることが悪いかどうかは人それぞれでしかないのか、それとも誰にとっても悪いものは悪いのか。あることが悪いということは誰かに何かを思いとどまらせたり、規制をしたりする根拠になるようなものなのか、それともそんな力は悪いということにはないのか、そういうことを論じています。したがって、そこでは児童労働の現実よりも、「悪」というものはいったいいかなるものなのか、ということが論点になります。

 

ここで言う、後の二つの問い②と③のようなものを主に考えるのが、メタ倫理学と言われる学問です。一般的な倫理学がしばしば特定の行為や決定、政策などを切り出して、その善し悪しや判断の基準を問うのに対し、メタ倫理学では、そもそもそこで言われている善とか悪とかいったものはどういう特徴を持ったものなのか、ということが問われています。皆さんの中でも、こういうことなら考えたことがある、自分なりの主張がある、という人もいるのではないでしょうか。その場合、名前は知らずとも、メタ倫理学の世界に足を踏み入れているのです。

「善いとは何か」 

メタ倫理学の発展に重要な貢献をした人物の一人、イギリスの倫理学者、ジョージ・エドワード・ムーアは、1903年に『倫理学原理』という著作を著し、「善いとは何か」という問いは「善いものには何があるか」「善いものはどうすれば増えるか」という問いから区別されなければならない、と述べました。「赤いとは何か」という問いが、「赤いものには何があるか」「赤いものはどうすれば増えるか」という問いと違うことと同じです。「赤いものには何があるか」という問いには「ポスト」「トマト」などが答えになりますが、「赤色とは何か」という問いには、「トマト」では答えになりません。 

こうして、「善いものには何があるか」「善いものはどうすれば増えるか」「児童労働は悪いか」「児童労働はどうすれば減らせるか」といったことを問うような一般の倫理学とは別の問いを立ててそれに答えようとするという形で、メタ倫理学という学問ジャンルは誕生してきました。したがって、メタ倫理学の一つの特徴は、何かが善いか悪いかを直接に論じて私たちの行為や判断の指針を与えるのではなく、むしろ、善悪とは何かといったことを論じることで、間接的にそうした指針の理解に資することを目指す、ということにあると言えます。 

先の会話に戻って言うなら、Bの言っていることがメタ倫理学の研究によって正しいと分かれば、○○社が悪い企業であるかどうかもまた、人それぞれの意見に過ぎず、たいした問題ではないということになるでしょう。そうなると二人がこれ以上、○○社が悪い企業であるかどうかを論じても不毛なだけということになりそうです。他方、Aの言っていることの方が正しいとすれば、○○社が悪い企業であるかどうかは単に個人の意見を超えた誰にとっても大事な問題であり、それを論じることには重大な意味がある、ということになるでしょう。

メタ倫理学の各分野 (I)存在論 

ではあらためて、メタ倫理学の中にはどんな分野があるのでしょうか。伝統的な哲学の区分に近づけて言うならば、たとえば、存在論と認識論と言われるものがあります。存在論においては、善悪というものは私たちが作り出したものなのか、それとも、私たちが発見したものなのか、ということが問われます。もちろん善悪という「言葉」は人間が作り出したものです。しかし、善悪そのものがそうであるとは限りません。それは「太陽」という言葉を作ったのが人間だとしても、「太陽」という言葉と結びつけられている星は、人間が作り出したものではない、人間が存在しなくてもその星は存在しただろう、と言えることと同じです。問題は、善悪という「言葉」と結びつけられるような何かが存在するかどうかです。 

たとえば、ある人たちが児童虐待について、ある時期まではそれを善いものと判断し、ある時期からはそれを悪いものだと判断するようになったとします。このとき、彼らは、自分たちはこれまで間違ったものに「善い」という言葉を結びつけていたのだ、本当は児童虐待は「悪い」と結びつくものであったのだ、ということを発見したのでしょうか。それとも流行が変化するのと同じような意味で、どちらが間違いということもなく、ただ、時代の移ろいにともなって私たちの生活の仕方や考え方が変わり、それにともなって新しい道徳が作り出されたのでしょうか。ここで言う、道徳が発見の対象になるという考え方は、道徳は実際に存在しているという考えに基づくので実在論、道徳は作り出されるものだという考え方は反実在論などと呼ばれています。 

ただし、発見されるといっても、物理的な何かのような形で善悪が存在しているとはとうてい思えません。実際、古代世界ではしばしば善悪は神のような超自然的な存在者と結びつけられて語られてきました。現代でも信仰を持っている人たちは、善悪を神の啓示によって示されるもの、発見されるものと捉えることが多くなっています。とはいえ、信仰を持たない人にとっては、それは受け入れられるものではないでしょう。そのため、無神論的な実在論者たちは、自然科学の枠組みの中で、善悪の存在は説明できると主張したり、数学の規則と同じような仕方で善悪についての規則も定まっていると主張したりしています。

メタ倫理学の各分野 (II)認識論 

それに対し、私たちはどうやって善悪を認識しているのかという問題もあります。それが認識論にかかわる分野です。たとえば、法律のように先に参照すべき規則体系があって、それに照らして善悪を認識しているのでしょうか。それとも児童虐待のような場面を見れば、ただちにそれが悪いということは認識できるのでしょうか。あるいは、そもそも善悪というのは認識の対象などでは全然ないのでしょうか。 

さらに適切な認識とそうでない錯覚や思い込みをどうやって区別するのか、という問題もあります。これは、別の角度から言えば、善悪に関して確実な知識、真理のようなものはどうすれば得られるのか、ということです。一方で、私たちは児童虐待が悪いということは確実だと言いたくなります。しかし、他方で、死刑制度などのように、世界中で意見が割れているような問題もあります。かつては多くの国で奴隷制度がまかり通っていたこと、マジョリティがマイノリティに対して差別的な振る舞いをしていることなどを考えれば、単純に多数決で道徳的な正しさを決めるわけにはいきません。どのような仕方で認識したものであれば、確実で正統な権威を持った判断だと言うことができるでしょうか。 

この点について、そのような確実な判断などあり得ない、という立場もあります。特に、善悪は私たちの感情や態度と結びついているので、場面毎に変化し得る、と考える人たちは、そのように主張する傾向にあります。好き嫌いの感情はまさに人それぞれであるのと同様に、何を善、何を悪と感じ、判断するかも人それぞれというわけです。 

この点はモラル・サイコロジーや、進化倫理学と言われるメタ倫理学の分野とも関係してきます。善悪の判断をするときに、心の中でどのようなことが起きているのか、なぜ、そのようなことが起きるに至ったのか、ということの理解には、心理学や生物学の知見が欠かせないからです。たとえば、青い色を見るとリラックスできるとか、急に明るいところに出ると目を細めてしまうとか、人間は特定の刺激に対して特定の反応をすることがありますが、これは心理学や生物学によってなぜそうなっているのかをある程度まで説明することができます。善悪についても、人間の生物学的起源にまで遡って考えることで、なぜそうなるのかを説明することができるかもしれません。 

とはいえ、悩ましいのは、倫理学やメタ倫理学において求められているのは単なる説明だけではなく、正当化でもある、という点です。つまり、私たちはなぜあることを善いことだと信じてしまうのか、だけではなく、あることを善いことだと信じることはなぜ正しいのか、ということに、倫理の問題はかかわっているからです。なぜ人は虐待をしてよいと信じてしまうのかのメカニズムの説明ができたからといって、虐待をすることが正当化されたことにはならない、ということからもそれは分かるかと思います。では、どんな条件が充たされれば、こうした善悪にまつわる判断は正当化されるのでしょうか。心理学や生物学が発展しても、認識論にかかわる問題は簡単にはなくならないのです。

メタ倫理学の各分野 (III)道徳判断と行為 

三つ目に取り上げたいのは、善悪にかかわる判断(以下、道徳判断と呼びます)と、行為の関係にまつわる分野です。まず、道徳判断を下すことは、通常、それ自体が一つの行為です。最初の会話に戻って言えば、Aは「とんでもない悪徳企業だよ」という道徳判断をしていますが、これはBに向けて言葉を口にすること、いわゆる言語行為です。ではAはこの言語行為によって何をしようとしているのでしょうか。素朴に考えるなら、Bに対して自分の考えを表して、同意を求めている、もっと言えば、自分はもう○○社の製品は買わない、という決意表明をしているともとれるかもしれません。このように、道徳判断を一つの言語行為と捉えて、その目的や性質は何であるのか、ということを考えることも、メタ倫理学の中では研究されてきました。 

もっともシンプルに考えるなら、「しかじかのものは悪い」という発話は、「しかじかのものは黄色い」「しかじかのものは四角い」という発話と同じように、単にそのものの情報を伝えることを目的としている、と考えることができます。しかし、Aの発話に見て取れるように、「悪い」と言うことは単に情報を伝達するだけでなく、それを避ける方向へと聞き手を誘導したり、あるいはそうするよう助言をしたりする、という側面があるとも考えられます。さらに「○○社は××社よりも悪い」と発話しておきながら、××社ではなく○○社から製品を買っていると、それは心から言っていたのか?と思われてしまうという点を考えると、決意表明を含む、という要素があるという主張にも頷けるところがあります。 

そして、こうした言語行為としての道徳判断の機能の理解は、道徳や倫理そのものの理解にもつながってきます。道徳や倫理とはいったい何のために存在するのでしょうか。色や形のように単に世界の中に存在しているだけのものなのでしょうか。それとも、私たちの行為を制約して、一定の方向へと導くような何かなのでしょうか。その導きに反応しないこと、その存在を見て取れないことは、単に人と猫と犬ではそれぞれ色の見え方が異なるように、優劣のない単なる違いでしかないのでしょうか。そうではなく、道徳に反応しないことは非難に値するような欠陥なのだとすれば、それはいったいなぜ、そうなのでしょうか。

善悪はそんなに大事なことか 

この最後の点は、メタ倫理学における大きな問題の一つ、「なぜ道徳的であるべきか」という論点にかかわってきます。古代ギリシアのプラトンは、『国家』という著作において、すでにこの問題を扱っています。彼は、姿を透明にできる指輪があったなら、誰だって人のものを盗み、暴力を振るうといった不道徳なことを行うのではないか、結局、道徳はそれを守らないと他人から非難されるから、皆しぶしぶ守っているのであって、悪事をしてもばれないのであれば、道徳を守るべき理由などないのではないか、と自問し、以下のように答えています。

「誰にせよ、不正に金を受け取ることが利益になるというようなことが、そもそもありうるだろうか――もしその結果として、金を受け取ることによって同時に自分のうちの最善の部分を、最もたちの悪い部分の奴隷としてしまうことになるのだとしたら?

いいかね、もし金を受け取ることによって、息子なり娘なりを奴隷に――それも野蛮で悪い男たちの奴隷に――することになるとしたら、たとえそのために、巨万の富を手に入れたとしても、けっしてその人の利益になるとはいえないだろう。それなのに、自己の内なる最も神的なものを、最も神と縁遠い最も汚れた部分の奴隷として、何らいたましさを感じないとしたならば、はたしてそれでも彼は、みじめな人間だとはいえないだろうか」(プラトン『国家』岩波文庫294頁) 

プラトンに言わせれば、悪いことをして利益を得ることは、その人の内のもっとも大事なものをその利益のために売り渡して、自らを奴隷の地位に貶めることであり、それは誰に見つかるとか、非難されるとかいうこととは関係なく、そうなのだ、となります。すなわち、プラトンの考えでは、悪いことを避け、善いことをする、というのは、その人を正しい人にするという意味で、金品でははかれない仕方で、その人にとっての利益になるのです。 

しかし、後代の倫理学者たちの一部は、正しい人であるということが本人の利益である、というプラトンの主張はおかしいのではないかと考えました。というのも、正しい人であることが当人の利益になるのは、当人が正しい人でありたいと思っているときだけだろう、そもそも正しい人であることに何の関心もない人にとっても、正しい人であることは何にも代えがたい利益なのだ、ということは意味不明だと思われたからです。 

それは古代ギリシア語が読めるようになることは、古代ギリシア語で書かれた本に関心がある人にとっては利益ですが、そのような関心がまったくない人には特に利益にならないことと同じです。しかも、仮に古代ギリシア語の本に関心があっても、英語で書かれた本にもっと強い関心があったり、あるいはイギリスへの留学を控えていたりするなら、英語を読めるようになることの方がその人にとっての利益であり、古代ギリシア語よりも英語の勉強を優先した方がよいでしょう。そうすると、プラトンの言い分を通すためには、正しい人であることは、誰にとっても常に最大の利益であるということを証明する必要があります。 

これを証明することは簡単ではありません。とはいえ、わずかな金のために平気で不道徳なことをなす人を見ると私たちは、この人は何か大切なものを見落としているのではないか、と考えることも一方で事実でしょう。結局、道徳的であることは重要なように感じられるものの、それは本当に重要なのか、そして重要だとすればなぜ、どのくらい、どのような仕方で重要なのか、ということはいまだにメタ倫理学の中でも、議論され続けています。

答えの出ない問題と人それぞれ論 

さて、上記のようなことを考えると、これは答えの出ない問題なのではないか、あるいは、倫理学でもメタ倫理学でも、答えはもう全部人それぞれなのではないか、と言ってしまいたくなった人もいるのではないでしょうか。実際、プラトン以来、2500年も論じ続けて答えが出ないなら、もう諦めた方がいいのでは? そんなことより、実際の児童虐待や児童労働を減らすために何ができるかといった実践的で具体的、かつ緊急の問題に目を向けた方がいいのではという意見にも一理あります。実際、メタ倫理学はそういった実践の問題をおろそかにしていたのではないかという反省のもとに、20世紀後半以降、多くの倫理学者は応用倫理学と言われる現実の問題を取り扱う倫理学の分野にも身を投じていきます。 

しかし、自然科学の世界にも答えが出ていない問題はたくさんあり、何も倫理学だけがそうであるわけではありません。それにもかかわらず、倫理の問題になるととたんに、答えがない、人それぞれと言ってしまいたくなるのはなぜなのでしょうか。色々な説明がありますが、一つには現に私たちの倫理観が時代、場所、人と人の間で多様であることが挙げられます。しかも、私たちにとって倫理や善悪というものは多くの場合、私たちの生き方そのものを左右する重要なものであり、それを他人に勝手に決められることには強い抵抗感を覚えます。なので、「倫理にかかわる事柄は人それぞれ。私はあなたに口出しをしないから、あなたも私に口出しをしないで」という人それぞれ論が登場してきます。 

確かに不当な押しつけは避けるべきというのはもっともでしょう。ですが、多様であることを尊重することは、対話の可能性、ときにぶつかり合いときに嫌な思いもしながら、より良い在り方を共に目指す可能性を放棄することと同じではありません。メタ倫理学者たちも、自説とは違う主張にこそ耳を傾けることで、かえってより深く自説を理解し、ともに議論を重ねていくことで、より説得的な善悪の捉え方を目指しています。先に見たように、答えがあるかないか、人それぞれかそうでないかの捉え方は、議論の成否に、直接的にではないとしても、間接的に影響を与えます。そして、それらの積み重ねが私たちの人生そのものの善し悪しにもかかわってきます。日本ではあまり知られていない学問分野ではありますが、皆さんにもメタ倫理学に興味を持っていただけると嬉しく思います。

プロフィール

佐藤岳詩倫理学

北海道岩見沢市生まれ。専修大学文学部教授。博士(文学)。専門はメタ倫理学、応用倫理学。主な著作に『メタ倫理学入門』(勁草書房、2017)、『「倫理の問題」とは何か メタ倫理学から考える』(光文社新書、2021)、『心とからだの倫理学――エンハンスメントから考える』(ちくまプリマー新書、2021)など。

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