2013.03.27

震災の痛みと共に生きていくために

フォトジャーナリスト・佐藤慧インタビュー

社会 #震災復興#ファインダー越しの3.11#NPOみんつな

東日本大震災から二年が経過した。少しずつ薄れはじめた震災の記憶のなかで、いま被災地はどうなっているのだろうか。何が求められているのだろうか。自身も震災によって最愛の母親と愛犬を亡くすという辛い経験を乗り越えて、被災地のいまと向き合い、伝えつづけるジャーナリスト佐藤慧氏にお話を伺った。(聞き手・構成/出口優夏)

民間による助成金支援が必要な理由

―― 自己紹介を兼ねて、ご自身の活動内容についてお聞かせください。

ジャーナリストとして、もともとはサブサハラアフリカとよばれるアフリカ南部の貧困地域や紛争現場をおもに取材していました。しかし、東日本大震災が発生してからは、ぼくの両親が住んでいた岩手県陸前高田市を中心として、被災された方々への取材も継続的に行っています。

また、友人たちとともに東日本大震災復興支援非営利団体「NPOみんつな」(http://www.mintsuna.net/)を運営し、被災された方々への支援活動を行っています。震災発生当初は緊急物資支援が中心でしたが、現在は地元の方々による草の根の小さな活動団体に助成金支援をする活動が中心になっています。たとえば、子育てをしている女性を支援している地元の助産師さんの団体に月々5万円の助成金を給付するというかたちで、現在は10団体ほどに助成金支援を行っています。

もちろん、行政の助成金もありますから、ぼくたちが助成金支援をおこなう必要性を疑問視される方もいるかもしれません。しかし、行政の助成金システムというのは、応募手続きのプロセスがとても複雑で、さまざまな書類、審査を経る必要があります。なので、地元のお母さんたち2、3人でやっているような小さな団体にとっては、行政の助成金はハードルが高い場合も珍しくありません。

なおかつ、仮に行政による助成金を受けられたとしても、受け取った助成金ごとに別々の収支、活動報告を提出しなければなりません。そういった事務処理作業だけで、本来の活動業務が大幅に圧迫されてしまいます。もちろん本来であれば、そのような作業は各団体の責任のもと厳正におこなわれるべきものです。しかし、緊急で必要とされている活動の場合、本来の活動を行う負担になってしまうのであれば元も子もないということで、小さな団体のなかには行政の助成金はあきらめて、自腹で活動をつづけているところが多くあります。ならば、ぼくらみんつなのような民間の団体が、地元の方々がもっと気軽に使用できる助成金をつくればいいのではないかと思いました。

みんつなの活動資金は、もともとはぼくらが震災直後に全国の皆様から預かった募金によるものです。もちろん、募金してくださった方々の気持ちのこもった大切なお金ですので不明瞭な使い方は許されませんが、あくまでも「募金の再配分」であるため、使用用途は各団体が臨機応変に決めることができますし、会計報告は各々の団体が各自に行っています。

言うなれば、「募金をしたいけれどどこに募金したらいいのかわからない」という支援者と、「活動資金が必要だけれど助成金を受けられない」という地元の支援団体のマッチングのような作業を行っています。支援先の決定は、この助成プロジェクトの代表であるぼくと、地元出身のメンバーとのリサーチで決定していますが、根本にあるのは「個人的な信頼」です。すべての人々を支援できるわけではない以上、現地でいただいた縁から、必要と思われる箇所に支援をおこなっています。

―― 震災発生から2年が経過しますが、被災地支援も転換期にはいってきたのではないでしょうか?

実際、どんどん被災地から支援団体が姿を消し、メディアに取り上げられることもむずかしくなってきました。ぼくたちみんつなも、メンバーとしては多くの人が参加しているのですが、実質的に活動しているのは現在では数人です。ほかのメンバーは手が空いているときに作業を手伝ってもらうというかたちで関わっていただいています。

みんつなは基本的にはメンバーに給与を支払ったり、経費を負担したりということはしていないので、移動費や、本来の仕事を休んだ場合の経済的損失を考えると、ほかに仕事をもっている大人たちが被災地に関わりつづけるというのは厳しいですよね。ぼくはジャーナリストとして、本業のためにも毎月現地に通うことが可能でしたので、ほかの人よりも自由に支援に関わることができました。被災地への関心が薄れてきたいまだからこそ、支援や発信をつづけていくことに意味があるのではないかと考えています。

―― みんつなの今後のプランはあるのでしょうか?

みんつなを立ち上げた当初から、3年間は継続して活動していこうと決めていました。そして、いまのペースで活動していくと、ちょうど震災から3年が経過する2014年の春で活動資金が尽きることになります。なので、残りの1年は引きつづき助成金支援を行っていく一方で、現在ぼくたちが支援している団体が、今後も自立的に活動を行っていくことができる体制づくりをしていかなければならないですね。

また、みんつなの活動が終了したあとも、ぼくの本業を生かした記録、発信は継続していきたいと思っています。

カメラを通して現実を認識する

―― みんつなの活動と並行して、ジャーナリストとしても陸前高田で取材をつづけられていますが、震災発生当初からジャーナリストの使命のような気持ちがあったのでしょうか?

ぼくは東日本大震災が起きたとき、ちょうどザンビアで取材を行っていました。なので、直接地震の揺れを感じることはできなかったし、インターネットでニュースを見ていても実感がまったく湧きませんでした。ようやく「これはただごとではない」と思い始めたのは、福島第一原発の爆発を知ったときです。

また、両親の住んでいたまち、陸前高田市の情報が一切ニュースに上がって来ませんでした。これは、「ほかの地域にくらべて被害が少なく報道の必要性が低い」か、「壊滅的な被害を受け誰も現状を報告できない」かのどちらかだと思いました。そして、陸前高田市の近辺のまちの被害状況を知ると、後者であることは明白でした。震災後、両親とまったく連絡がとれなかったこともあり、まずは両親を探しに行こうという思いだけで、直ちに帰国しました。そのときは、ジャーナリストとしてなにかしようという気持ちよりも、個人的な衝動が強かったと思います。

―― でも結果的に、佐藤さんは震災直後から写真を撮りつづけていらっしゃった。お母さまの安否が依然としてわからないなかで、佐藤さんご自身も精神的に大変だったのではないかと思いますが、それでも写真を撮りつづけようと突き動かしたものはなんだったのでしょうか?

帰国した当時は両親の安否のことしか頭にありませんでしたが、陸前高田に入る準備を進めていくうちに、「ジャーナリストとしてなにができるのか」、あるいは「支援団体の一員としてなにができるのか」ということも少しずつ考えはじめていました。しかし、考えられるようになったということが、写真を撮りつづけたことと直結しているわけでもありません。

ぼくがなぜ現場で写真を撮りつづけたかというと、写真を撮るという行為がぼくにとって「現実を認識する」という行為だったからだと思います。当時、自分が立っている周囲は瓦礫ばかりで、沢山の遺体も目につく状況でした。余りにも悲惨な光景を前にすると、その光景が夢か現実かわからなくなるときがあります。まったく実感が沸かなかったり、逆に気分が高揚してしまったりと、自分の感覚が狂っていくのを感じました。そんな自分をなんとか現実に繋ぎ留めておく道具として、ぼくはカメラを手にしていたのだと思います。

カメラというのは自分の意志で覗きこみ、自分の意志でシャッターを切るものです。そして、その写真のなかに、自分が直面している現実が見えてくる。もちろん、それは世界共通の現実、絶対の真理ではないですが、少なくとも自分にとって唯一の主観的な現実です。カメラを通すことで、通常では理解の及ばない凄惨な現実にしっかりと目を向けることができたのだと、いま思い返すとそう思います。

写真を撮りつづけていた一方で、カメラを向けることのできなかったものもたくさんありました。たとえば、避難所をまわっているなかでお会いした被災者の方々にカメラを向けることはできなかったし、向けることが正しいとも思えなかった。カメラというものはときに人を傷つける凶器にもなりうるということを、いままで以上に強く実感する現場でした。

大事な瞬間を記録にのこす

―― 被災地で撮った写真のなかで、とくに思い入れの深い写真はなんでしょうか?

2011年の12月に共著で出版した『ファインダー越しの3.11』にも掲載していますが、遺体安置所で撮った写真と、母の葬儀のあとに撮影した花の写真は思い入れが深いですね。いまでも撮影した瞬間のことを鮮明に思い出しますし、その瞬間に感じたさまざまな感情を忘れないために撮影したのだと、いまでは思っています。

この写真は、母を探しながらはじめて本格的な遺体安置所に足を踏みいれたときのものです。いままでも海外の現場でさまざまな遺体を目にする機会はあったのですが、まさか日本であれだけの数の遺体を目にすることになるとは想像もしていませんでした。

写真は陸前高田の隣町の体育館の様子ですが、400をこえる遺体が棺のなかに眠っています。その敷居をまたいだ瞬間、もう生きた母には会えないのだという予感を強く感じたことを覚えています。そのときに感じた、なんとも言えない生と死のあいだに立っている感覚というものを、カメラを通じて刻みこみたかったのだと思います。

これは誰かになにかを伝える写真というよりも、自分の内面と向きあうために撮影したものですが、いま思うと、このときにカメラを構えることができて本当に良かったと思っています。もちろん、ぼくがその場でカメラを構えたことで、自分の見知らぬ所で誰かを傷つけていた可能性は否定できませんが、そのときのぼくにとっては、その行為は目の前の死と向き合うひとつの方法だったように思います。

もう一方の花の写真は母の葬儀のあとに何気なく撮ったものです。ほとんど無意識に撮影しており、あとから写真を見返したときに、「あ、何かが写っているな」と感じた写真です。

じつはこのほかにも多くの花の写真をこの時期に撮影しています。瓦礫に埋もれ、黒く塗りつぶされた市街地を歩いていると、足元に咲いている小さな花の美しさが際立って感じられました。普段生活をしているなかでも、花は花としてその場所で凛として咲いているはずなのに、このような状況にならないとその美しさに気づくことができなかったんですね。そう考えると、命の儚さや美しさというものは、目の前に現実として存在するというよりは、自分自身の心の内面から滲み出て来るもののように思います。

「人」を伝えていく

―― 継続的に陸前高田で取材をされていくなかで、佐藤さんのコンセプトみたいなものはあるのでしょうか?

取材というよりも、なにかを被災地で探しつづけているという感覚がつづいています。なので、陸前高田に通わずにはいられないというのが本音ですね。でも、せっかく「ジャーナリスト」という職業につかせていただいているので、人々になにかを伝えることができればいいなとは思っています。

伝えたいことはたくさんありますが、マイナスのことと同時にプラスのことも伝えたいですね。なので、人々が被災地の現状を忘れないように、震災による被害、復興への大変な道のりを伝えつづけようとも思っていますし、また、力強く前に進んでいる人たちの様子を伝えることで、ほかの被災者の方やそれ以外の方々に勇気や励ましを与えられたらいいなとも思っています。

反対に、無力感、絶望感に打ちひしがれ、孤独のなかで「生きのこってしまった」という罪悪感を抱える人々に寄り添い、その痛みや命の尊厳を伝えることも、ほかのこと以上に大切なことだと感じています。

そういったなかで、取材のメインとなっているのはやはり「人」ですね。震災直後から取材をつづけてきたおかげで沢山の方々との縁をいただいて来ました。震災を肯定することはできませんが、震災後に出逢った多くの大切な人々のことを思うと、その不思議なめぐり合わせに感謝せずにはいられません。

あの日から2年経ついま、震災によって生じたさまざまな出来事が、中身のあいまいな言葉で片付けられてしまっていることにとても違和感を覚えます。たとえば、「復興」という言葉をあちこちで耳にしますが、じつは「復興」ってすごくあいまいな言葉だと思います。経済やインフラの復旧のことを指すのか、それとも、被災者の精神的な回復を指すのかもはっきりしない。

では自分自身にとって「復興」とは何なのだろうと考えたときに、ぼくは「人々が痛みや悲しみを持ちながらも、前に進んでいこうと思えた瞬間」が「復興」への第一歩だと思っています。つまり、人々が社会的生命力をふたたび取り戻した瞬間のことですね。

痛みや悲しみは本質的には絶対になくならないものです。ただ、その痛みを無視していても苦しみはなくなりません。傷と正面から向き合い、その痛み、悲しみを抱えながらも生きて行こうと思える覚悟や理解、それが「復興」へ向けて必要不可欠なものだと思います。そういった一人ひとりの「復興」の足跡に焦点を当てて取材していくことで、さまざまな希望の種を見つけていきたいと思っています。

もともと、ぼくたちみたいに大手に所属していないジャーナリストは大局を取材できるわけではありません。人手もお金も足りないし、そういう仕事は大手に任せざるを得ません。ぼくたちにできることは、自分自身の身を現場にさらし、目の前にいる人との真摯なコミュニケーションを深めていくことで、「どこかの誰か」ではなく「顔と名前を持った個人の物語」を伝えていくことです。

それはアフリカであっても日本であっても変わりません。それはもしかしたら小さなパズルのピースにすぎないかもしれませんが、結局のところ、全体を描く大きな絵というものはそれぞれの受け手のなかでつくられるものだと思っています。このパズルのピースが、それぞれの現実を認識する手助けとなることができれば、報道の役割は果たすことができると思っています。

―― 震災から一年半以上たって、ご自身の心境の変化はありましたか?

震災が起こった当初は、そこにいる人々と海にはどうしてもカメラを向けられませんでした。でも、いまは目の前にある痛みや悲しみを肯定したいという気持ちが強くなったからか、むしろ人や海の写真を撮りたいと思うようになりましたね。

震災の記憶が薄れていく前に

―― 『ファインダー越しの3.11』を出版されようと思った理由はなんでしょうか?

まずは自分に対してのけじめですね。どこかで自分自身が次に向かうための区切りがほしいと思っていました。ぼくにとっては、震災一ヶ月後に母の遺体を見つけ、葬儀を終えたことが大きな区切りとなってはいました。しかし、現実の出来事と心の整理というものは同じスピードで行われるものではありません。きちんと自分の心と向かい合い、現実に何らかのかたちで刻み込んでおかなければ、いずれその区切りはあいまいなものとなり、過去に押し流されてしまうのではないかという不安もありました。

人は忘れる生きものです。むしろ、忘れることで未来へと足を進めることができるのかもしれません。しかし、人生には「忘れてはいけない痛み」というものもたしかに存在すると信じています。その痛みはたんにネガティブな感情ではなく、むしろ未来への希望を際立たせてくれる存在として、ずっとかたわらに感じておきたい痛みなんです。

また、『ファインダー越しの3.11』を一緒に書いたフォトジャーナリストの渋谷敦志、安田菜津紀の両氏は、震災以前から一緒に活動してきた仲間でした。安田は同僚であり、かつ人生の伴侶でもあるのですが、ぼくがこの大きな喪失感、虚無感を乗り越えられたのは、あの時期にずっと側にいてくれる人々がいたからですね。3人で色々と考えたことや語り合ったこと、一緒に泣いたことも何回もある。そういったことを10年後や20年後に自分たちが見返すためのメモとして、記録をのこしておきたかったというのもありますね。

もちろん、この本を読んでいただく方々にも、ぼくたち3人がひとりの人間としてこの震災と向き合い、葛藤してきた体験を知っていただくことで、震災をたんに自然災害ととらえるのではなく、人生の意義、命の尊厳を考える機会としていただけたら幸いです。

―― 本の反響はいかがですか?

じつは被災された方々にも結構読んでいただいており、それが本当に嬉しいですね。ぼくが本当にこの本を届けたいのは、被災された人や心に傷を負っている人。おこがましいかもしれないですが、この本を通して「あなたのその痛みは無駄ではない」と伝えたいです。

人間がひとりで抱えられる悲しみには上限があります。簡単に人は虚無に押しつぶされ、自分の存在価値を見失ってしまいます。しかし、もしそこに同じ痛みと向き合うふたりの人間がいたら、ひとりの人間が支えられる二倍以上の悲しみを受け止めることも可能だと信じています。1+1は単純に2ではないんですね。3にも4にも、10にもなる。それが人間の強さだと思います。

現在、震災によってこわされたものは物質的なまちだけではなく、人々のつながり、コミュニティーというものも大きく分断されていると感じます。震災そのものの傷を軽んじるわけにはいきませんが、このようにつながりが分断されることで生じた傷というものへも、これから長い時間をかけて向き合っていく必要があると強く思います。

この本は、直接的な答えを提示するような本ではありませんが、手にとって下さった一人ひとりの方が、自分自身の内面を見つめるきっかけとなってくれたら、それほど嬉しいことはないですね。

第一次産業を見直すことで自分たちを見直す

―― いま、佐藤さんが追っている人や活動はありますか?

ひとつのものをメインで追っているという意識はあまりないのですが、最近は第一次産業に従事している人たちにスポットを当てることが多いですね。とくに、ぼくのまわりに漁師さんが多いので、漁師さんの仕事の様子をよく取材しています。

震災後、東北の沿岸地域によく足を運ぶようになりました。そこで気づいたことのひとつとして、第一次産業に従事する人たちが、都会に住むぼくたちの想像力の外に追いやられているという現実があります。

本当は第一次産業が成り立っているからこそ、第二次産業や第三次産業が発展していくことができるのです。でも、都会で消費生活を営んでいると、第一次産業の大切さを軽視しがちになっていく気がします。「どこかの誰か」がスーパーで販売している「食品としての魚」は、地球という大きな生態系のなかで育まれた命であり、それを市場に届ける人々の仕事というものは誇り高く、尊敬に値する素晴らしい仕事であるということが、せわしなく過ぎ去る日常のなかでは気づくことがむずかしい。この震災は、ぼくらが生きているこの社会のしくみそのものを見つめ直す、貴重なきっかけであるとも思います。

いまからはじまる新たな問題

―― いまの陸前高田の現状を見て、これは伝えていかなければいけないと思うことはありますか?

被災地以外の人に対しては、「まだまだ復興には時間がかかりますよ」と伝えたいですね。被災地と直接的なかかわりを持たない人々にとっては震災が少しずつ過去のことになってきていますが、被災地自体はまだなにも変わっていない。処理の追いつかない瓦礫もたくさんあるし、復興計画自体、諸々の制約もあり、ゆっくりとしか進めることができないので、更地も更地のままです。

ぼく自身、2年あればもっと色々と変わっていくと思っていましたから、認識の甘さを痛感しています。だから、みなさまにも震災の復興には5年、10年、もしかしたら半世紀近い月日が必要だということを知っていただきたいです。

また、現地で生活をつづける子どもたちも気がかりです。震災後、多くの大人がボランティアやメディアとして訪れ、子どもたちと触れ合い、語り、そして去っていきました。ぼくはときどき「写真教室」を小学校で開催させていただいているので、多くの子どもたちと過ごす機会があります。そこで帰り際に「また来るねー!」と言ったら、「どうせもう来ないんでしょ」と、冷たい返事が返ってきたことがありました。それはなぜかというと、その子がいままで触れて来た大人たちが、再会を約束しながら二度と姿を現さなかったということがあったようです。

もちろん、帰って来られない大人の事情も複雑でしょう。しかし、その子にとってはかけがえのない大切な繋がりを感じられた瞬間だったはずです。震災後、両親や周囲の大人には甘えることのできない環境で、唯一心をひらけた瞬間かもしれません。なにげなく口にした言葉が、そこにのこる人々を深く傷つけてしまう可能性も持っているということも、震災後という特別な状況にかぎらず、この社会で生きる一人ひとりが理解する必要があると思います。

最後に、身内を震災で亡くされた方のなかには、その現実と向き合えない方もまだまだいらっしゃると思います。ぼくはジャーナリストという職業に就いているので、何度も反芻し、自分と向き合う機会が自然とありましたし、心の内に抱えているものを外に出す機会もありました。おかげで母や愛犬の突然の死も、少しずつですが受け入れてきています。

しかし、そのようなケースはまれでしょう。大切な人を失った悲しみと向き合えず、また、周囲の人々みなが被災している状況から、「自分なんかが悲しんでいてはダメだ」と自分を責めてしまう人もいると思います。精神とは、気づかないうちにすり減るものです。そのような人たちに代わり、周囲の人間にできることとは、いつその人が心と向き合う決心をし、痛みを晒し、涙を流したとしても、そっとその痛みに寄り添うことのできる、包容力のある社会を育んでいくことだと思います。

無意識の心の傷が吹き出てくるときに、その痛みを「弱者の自己責任」と断罪せず、社会全体で支えるべきものであるという理解が、今後より一層必要になってくるでしょう。その価値観の変革こそが、この震災で命を失った多くの方に報いることのできる、最大の供養となることを信じています。

(2012年12月26日 中野にて)

プロフィール

佐藤慧ジャーナリスト

studioAFTERMODE所属ジャーナリスト。1982年岩手県生まれ。大学時代は音楽を専攻。世界を旅するなかで世界の不条理にきづく。2007年 にアメリカのNGOに渡り研修を受け、その後南部アフリカ、中米などで地域開発の任務につく。2009年にはザンビア共和国にて学校建設のプロジェクトに携わる。現在はアフリカを中心に取材を進めている。写真と文章を駆使し、人間の可能性、命の価値を伝えつづける。2011年世界ピースアートコンクール入賞。東京都在住。近著「ファインダー越しの3.11」

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