2013.12.20

「不理解の中の復興」の帰結――この国のゆくえ?

山下祐介 社会学

社会 #東日本大震災#震災復興#人間なき復興

いったい、福島の話をどうやって伝えればよいのだろう。いったい、何がどうなって、これほど事態はこじれてしまったのか。

私(山下)が福島第一原発事故の避難者と向き合い始めて2年半。この間に知り合った原発被災者・市村高志氏と、同じく社会学者の佐藤彰彦氏の二者とともに語り合い、原発避難の真相を避難当事者の声をもとに綴ったのが2013年11月に出版した『人間なき復興』だ。

「不理解」が引き起こす分断

本書のキーワードは「不理解」である。ふつうは「無理解」だろう。あえて「不理解」という奇妙な語を使ったのにはわけがある。

原発避難をめぐって生じているのはどうも「無理解」ではない。みなこの原発事故・原発避難については関心があり、一定の理解を示している。だがどうも、その理解では駄目なのだ。理解したつもりになっていることが、本当の理解ではないために、避難者のためとされて行われているものが「これは自分たちのためではない」ということが生じている。

「理解できない」(無理解)のではなく、「それは本当の理解ではない」(理解にあらず=不理解・非理解)、そういうことがあまりに多く、しかもそうした不理解が、避難者をめぐる現実を、きわめて難しくしているようなのだ。

例えば政府による、帰還を中心とした復興政策。これはとくに事故当初、メディアなどに盛んに出ていた「帰りたい」「いつになったら帰れるんだ」という避難者の声をそのままに理解し反映させたもののようだ。だが「帰りたい」という声をそのまま鵜呑みにして理解してはならないのだ。みな内心では「本当は帰れないのは分かっている」のである。「帰りたいけど帰れない」のが多くの人の現実なのに、「帰りたい」という部分だけが都合よく取り上げられ、帰還政策に結びついてきた。そこには「『帰りたい』という人々を、なんとしてでも早く帰してあげたい」という正義の感覚さえ潜んでいるようだ。

そして今回、もう一つ別の避難者の声、「帰れないなら帰れないと言ってくれ」を真に受けて、一部地域について国有化を進めるような議論も政治家の口から出てしまった。本書脱稿のあと出てきたことで、本文には取り上げられなかったが、これもまた不理解の一つだろう。

たしかに「帰れないと早く国で決めてくれ」という声はある。でもまた多くの人には「ふるさとがなくなる」ことには抵抗があり、実際に土地を買い取るとなれば大きくもめるに違いない。今後はさらに、「じゃあ、いくらになる」といった形の論理も現れて、避難者間の分断はますます進むことになろう。それどころか買い取り地域のすぐ傍らには、中間貯蔵施設のそばに帰ることを強要される人々も出てくるわけだから、これもまた実施されれば、不理解による、社会的分断を推し進めるだけの正義の政策となるのかもしれない。

そしてより重要なことは、こうした方針の決定はすべて政府がにぎっていて、住民も避難自治体も蚊帳の外にいるという構図が一貫していることだ。国による一部地域国有化のニュースも当事者たちとの相談の上でのことではなく、一方的にメディアを通じて被災者に(被災自治体にさえ)伝達されたものなのである(この点は拙著『東北発の復興論』第5章に別の文脈で論じておいた)。

「被災者の生活再建」「被災者の復興」という名目でやっている政策や事業が、結局は被災者置き去りで、単に公共事業を押しつけるだけのものになってしまっている。そういう感じが強まっている。そして公共事業を実施することとは、お金を使うこと、ばらまくことであり、あたかもそれが復興であるかのようだ。失われた経済を元通りにするために、新しい産業を作り、雇用を作るというが、結局は公共事業で経済を潤わせ、自治体の人口を維持することだけに目的は向いており、必ずしもそこに戻る人は被災者ではなくてもよいかのような雰囲気さえある。

このままでは、人々の人生はあの事故で終わり、ふるさとも終わって、別の人々が別の形であの地を有効に利用していくことになりそうだ。

「簡単に解けるような問題ではない」から始まる

でも、問題は政府だけなのかといえば、そうではないだろうと我々は感じている。これは筆者自身の問題でもあるわけだが、はたしてこの事故を通じて、科学や専門家はその役割をちゃんと果たせているのだろうか。そういう問いもこの本では発してみた。

そもそも原発事故は科学が引き起こした人災である。原発は科学なしにはあり得ず、事故を起こしたからにはそれを進めてきた科学や専門家のあり方が問われねばならない。にもかかわらず何の反省もないまま、事故前と変わらぬ科学・専門家のあり方がまかり通っている。

例えば低線量被爆に関しての科学の言説。一方で、年間1ミリシーベルトでも危険だという専門家がいれば、他方で100ミリシーベルトでも大丈夫だという専門家がいる。政府が採用した帰還の基準、年間20ミリシーベルトは、この互いに相容れない科学者の意見の間をとったものと理解できる。そんな基準の作り方があってよいのかと思うのだが、実際それが現実のようなのだ。

だが、それ以上に問題なのは、こうした安全・危険についての専門家の言説の扱われ方である。もちろんそれぞれの専門家は自分たちの責任感からそれぞれの考えを発言しているはずだ。しかし、避難者からしてみれば、ただ科学的にこう思うという発言が繰り返されるだけでは駄目なのだ。年間1ミリシーベルト以下の被曝でも危険だという発言。一見「1ミリでも危険」という論者の方が、避難者の味方になっているかのようである。しかしながら多くの避難者は避難の過程で被爆をしており、また除染も限界があることは分かっているので、あまりに危険を強調されれば、「あなたもあなたの子どもも人生は終わり」「ふるさとは取り返しのつかないほど汚れているから、もうおしまい」といわれているようなものだ。実際に専門家の口からは「福島の子どもは結婚するな」という発言もあった。

避難者は、100ミリ浴びても安全という方を信じたいし、現に今も多くの場所で低線量被爆は続いているのだから、そうであることを確信していかねば子どもたちに未来はない。しかしじゃあ、そうかといって、放射線はいくら浴びでも大丈夫だから、いつまでも避難していないで帰りなさいなどと言われても、それはそれで帰れるはずがない。とくに子どものいる家庭では帰れない。子どもが帰れなければ親も無理だ。高齢者だってやはり難しいだろう。帰るにしてもそこには相当な無理が生じているはずだ。

「なぜ人々が帰れないのか」を理解するためには、さらに原発事故が壊したものは何なのかを突き詰めて考える必要があるが、ここでは割愛する。「コミュニティが壊れた」「ふるさとになってしまった」など、本書の議論を参照されたい。

問題は、さらにここに、国民世論から押し出されてくる強い力、排除の論理までもが加わっている、このことが重要なのだ。メディアや一般国民によるこの事故の理解のあり方が、避難者の現状に大きく関わっている。例えば、避難者問題をめぐる次のような不理解が、人々の状況を次第に追い込みつつある。

「賠償もらってよかったね」「賠償があるから生活再建できるだろう」そんな言説が避難者に対して向けられてはいないか。あるいは、「そもそも原発立地したことに問題がある」「原発がある地域に住んでいた以上、被害を受けることは自己責任なのではないか」。

賠償は、何かを壊した者がいるから、そしてそれが取り戻すことができないまでに壊されてしまったから、お金に換算して償ってもらうものだ。賠償をもらうことの背後には、喪失という事実がある。しかしながら、失ったこと・失ったものについては正当に評価されないままにただお金だけが積み上がり、賠償金の額だけが一人歩きしている。だがその賠償の額でさえ、決して当事者間での納得のいく話し合いの過程があるわけではなく、一方的に加害者側で決めて査定しているものであるわけだ。

そして、自治体や地域住民が、原子力を地域振興の一つとして選んだというのも典型的な「不理解」である。

考えれば簡単だ。原発立地は自治体や住民ではできない。こんなものを作ろうなど、自治体や住民が考えつくはずがない。おそらく東京電力でさえなく、国家が関わったからこそそこにあるのだ。しかも40年前の決定であり、いまいる国民の多くがこの決定に関わっていないことも、この国の無責任の源泉にはあるのかもしれない。

国家によって行われた賭け。それが原発の建設だ。そしてそれに失敗した。だが失敗した後、国はこの責任を反省したり、問われたりすることなく、実害は被災者の肩にのみ大きくのしかかり、それどころか国が「かわいそうな被害者を支援してあげる」といった関係にさえ形成されていく。

国家による賭けとその失敗。その現実の中で、住民たちは事故の後処理をめぐって国家に頼り、また国家と争わねばならない。しかも場合によっては、国民対被災者にさえなりかねない危うさがある。ここにこの問題の本質的な難しさがある。

国民の理解や世論の行方が、この問題の行く末を大きく決める。ならば今生じている様々な論理の矛盾を洗い出し、それを整合的に理解できるような道を見つけ、提示していくことが、研究者・社会学者としての我々にできることだ。本書はそうした原発避難者の論理探しを、避難当事者の声を社会学の手法を用いて紡いで作ったものである。だからこうお願いしたい。原発事故に関わる方、また何らかの形でこの事故に自分の関わりを見つけようと模索を続けている方々。そうした方々にはぜひ本書を一読し、この事故の複雑性をそのままに受け入れていただきたい。

「これは簡単に解けるような問題ではない」。このことを認めることから、我々のポスト原発事故の第一歩はあるだろう。今のままでは原発事故からの復興政策は遅かれ早かれ破綻する。もしそうなる前にできることがあるとすれば、この事故の本質をできる限り多くの人が知り、不理解を理解へと近づけることからでしかないはずだ。むろん我々だってすべてを理解したなどというものではない。しかし避難の当事者と社会学という専門性を掛け合わせることで、何もしないよりはかなり見通しのよい見取り図をこの書では描けているはずだ。

不理解を越えて「本当」を知ること

だが、我々のそうした意図とは裏腹に、原発事故・避難者政策はいま急速に進展しつつあるようだ。本書の制作は2013年1月から9月にかけて行った。この間、帰還政策への批判書として作業をすすめた本書だったが、その後事態は展開して、先述のように、一部被災地の国有化の議論までもが政府側から出てしまっている。すでに遅きに失したのかもしれない。

このままこの流れで進んでいけばいったいどうなるのだろうか。いまは原発避難者特例法によって、地域から避難した住民たちが元の自治体構成員であることを維持しているために、人々は「ふるさとを最終処分場にするな」という論理でこの地を原子力の魔手から守りつづけている。しかしながら今後、一方で国による買い取りが行われ、その地が汚染物質の貯蔵地になることが決定した上で、他方でその周りの地域の住民には「賠償は終わりだ、帰れ」という形で帰還を迫れば、多くの人は帰るにも帰れず、かといって生活再建もできずに路頭に迷うだろう。そしてその際に、多くの人々が今の自治体を離れて避難先の自治体の住民になってしまったら、いったいこの地のことを誰が決定していくようになるのだろうか。

ある意味で、曖昧にすることでバランスを保っている状態のところに、何かを決定させる(帰る、帰らない)ようなことをすれば、いかなる方向へと避難自治体が動いているのかは計り知れない。そしてそれを十分に計算して政治が動いているようには思えないのである。

むしろこうなっていくのではないかという疑いをもつ。この先このまま帰還政策と一部買い取りという形で議論を進めて、長期避難者を支える制度を整えずにいれば、事故被害者であることを「断ち切る」人と、逃げることのできない弱者とに避難者は分離する。そして逃げることのできない弱者で作る自治体に今の自治体が転換すれば、場合によっては「ふるさとを最終処分場にするな」という論理は容易に転換し、逆に、「危険でもお金になるのなら何でも引き受けたい」という方向になるのではないか。

そしてそうしたプロセスを進めている根幹のところに、国民の不理解があるような気がするのだ。たしかに原発事故は見たいものではないし、放射性物質に関わるのは嫌だ。できれば我々の前からこれを排除したいという感情は誰にだってある。筆者自身にすらある。しかし、そうして排除を進めても、それは消えてなくなるわけではないから、汚いものを排除したつもりが、排除したものがある場所に集まり、凝縮して、原発の最後のパズル=最終処分場の結実になり得るかもしれない。さらには第二原発の再稼働も含めて、ここには原発を新たに誘致することもあり得ないことではない。しかもそれが今の日本の自治のルールがもたらす帰結だとしたら。筆者らは思う。それならばルールを変えてリスク回避を試みるべきだ。リスク回避に失敗して事故は起きた。さらなるリスク回避には慎重であって悪いはずがない。それが本当の政治のやるべき事なのではないか。

「人間なき復興」が進む根幹には、しっかりとした政策立案の過程の不在があるように思う。政策立案過程には本来、十分に練り上げられた専門家集団による総合的な知見の提出と、そうした知見を有効に活用した、適切な政治的決定が不可欠だ。だが日本の政策はいつも縦割りで、場当たりで、断片的だ。そこに活用される科学も専門的知識も、その場その場で都合よく取り上げられた、本当の意味で科学の総意とはいえないものではなかったか。そしてそうした危うい科学の政策への活用こそが、この原発事故を引き起こした根源的原因なのではないか。

今後、こうした事態が二度と起きないようにするためには、政府のうちの限られた情報だけで政策を形成するのではなく、あるいは一部の科学者や専門家の意見だけで政策を整えるのでなく、開かれた場で、当時者の声を積み上げ、理系文系に開かれた総合的な科学の知見をふまえた政策形成のプロセス・場を用意することが必要不可欠だろう。そしてそれこそが今政府の行うべきことなのだと思う。

そもそも、政府と一部の官僚組織、事業者と一部の研究者とで作り上げたものが、十分な情報公開、議論・討論の場もないままに、一方的に政策を推し進め失敗した結果が、この福島第一原発事故だった。今の復興庁で、あるいは経産省でこの問題を解決できるのか。避難者の生活再建、自治体維持を含めた地域再生、被曝者たちの健康不安を本当の意味で解消できるような政策形成主体は、この日本のどこにもないようである。

そしてそれは結局、政府だけでできるのかといえば、そういうことでも決してないだろう。できないはずだ。多くの国民の理解と協力と、専門家の知恵の結集と、各省庁と自治体の十分な連携とが不可欠なはずだ。それが本当の、この事故からのこの国の再建だと思う。

それを今後さらに秘密保護法で隠してしまって、本当に政府だけでこの国が直面している問題に立ち向かえるのか。この国の能力そのものの本質について問いたい。そしてもしかすると、「国民の知る権利」の前に、むしろ「政府の知る権利」を強めた方が­­――より正確には、知る能力、創る能力の向上を求める方が――この国のあり方にとっては筋が通っているはずだ。今後、国民も政府も隠す権利だけ強めてしまえば、背後に何が起きているのか本当に分からず、適切な政策など絶対にできなくなる。

本書の最後には「じゃあどうすればいい」の議論を示している。そこに本書出版後の2013年11月以降の現実をふまえて付け加えるとすれば、このような議論になる。この数ヶ月、ますますこの国の政策形成能力が悪化しつつあるように感じるのは筆者だけだろうか。この国の分岐点を考えるためにも、ぜひ原発避難の現実には多くの人にしっかりと向き合ってもらいたいのである。(2013年12月13日)

サムネイル「DSC_5592」OKAMOTOAtusi

http://www.flickr.com/photos/okamotoatusi/5758250997/ 

プロフィール

山下祐介社会学

1969年生まれ。九州大学助手、弘前大学准教授を経て首都大学東京准教授。著書に、『限界集落の真実』(ちくま新書、生協総研賞)、『東北発の震災論』(ちくま新書)、共編著に『「原発避難」論』(明石書店、地域社会学会特別賞)、『白神学』第1巻~第3巻(ブナの里白神公社)などがある。

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