2011.08.22

「存在しない」サバイバーたち ―― セックス・労働・暴力のボーダーで(1/3)

大野更紗 医療社会学

福祉 #婦人保護施設#売春防止法

(本稿では、現在「差別用語」とされている表現を、当時の記録の記述に即して、そのまま使用しています)

8月、日傘越しでも皮膚に刺さるような紫外線がふりそそぐ猛暑の某日。インターフォンのボタンを押す緊張感に、思わず手が震えた。インビジブルな不可侵の地、「婦人保護施設」を前にして、躊躇を感じぬ人などいないだろう。

この門の内側に、一般の人が許可なく踏み入ることはできない。外見からは何の建物かもわからず、入口は重い鉄製の格子で厳重に閉ざされている。所在地や連絡先は、基本的に一切非公開である。とめどない暴力の連鎖から逃れ、最後の砦に辿り着いた女性たちにとって死活問題となるからだ。

「戦後」の売春防止法と婦人保護施設

このM寮の施設長であるYさんは、ガチガチに恐縮し構えていたわたしが拍子抜けするような、満面の笑顔で玄関先へ迎え入れてくれた。

「よく、いらっしゃいました」

婦人保護施設の法的根拠は、「売春防止法」である(以下、「売防法」と省略)。1956年の成立後、ゆうに55年間の歳月が経過している。今回訪問したM寮は、その制定から2年後の1958年に設立された。

売防法について、簡単な解説をしておきたい。終戦の混乱期から10年、1950年代に貧困、障害や疾病への措置の一環、または進駐軍慰安施設の解体という政治的意図など、複合的な要因を背景として政府は「売春婦」への対策措置を講じた。

売防法の文言そのものが、当時、売春を行っていた女性たちへ社会が向けていた眼差しを露わにしている。たとえば、第5条を抜粋してみる。

第五条  売春をする目的で、次の各号の一に該当する行為をした者は、六月以下の懲役又は一万円以下の罰金に処する。

一  公衆の目にふれるような方法で、人を売春の相手方となるように勧誘すること。

二  売春の相手方となるように勧誘するため、道路その他公共の場所で、人の身辺に立ちふさがり、又はつきまとうこと。

三  公衆の目にふれるような方法で客待ちをし、又は広告その他これに類似する方法により人を売春の相手方となるように誘引すること。

第5条違反、すなわち売春を目的として女性が「客」へ声をかける行為だけでも、刑事処罰の対象となる。

売防法第5条を根拠とした「補導」がかつてどのような形態をとっていたのかを、Yさんに伺った。

「『おにいさん、遊んでいかない?』と街角で声をかけただけで、手錠と縄をかけられて『補導院』へ収容されるケースもありました」

「今現在は実質的に使用されなくなりましたが、建物の『補導院』は残っています。少年院に隣接していて、内部のつくりは刑務所と同じです」

「買う側への問いはそこにはない。売春をする女なんて『さんざん悪いことをしてきた犯罪者』という一方向の目線しかない」

当初の婦人保護施設は、建前としては、売防法で「補導」された後、行き場のない「要保護女子」を収容保護するための施設であった。

昭和30年代の「売春婦」たちの素描

では実際は、どのような女性たちがここに辿り着き、暮らしていたのだろうか。

昭和30年代の、設立初期のM寮への入所者の状況記録を、一部、何件か抜粋して記載する。

昭和33年(1958年)

・ケース1:入所時年齢- 38歳

      生活状況- 貧困 街娼

      補導院歴- 3回

      障害・疾病症状など- 精神分裂病 刑務所

・ケース2:入所時年齢- 17歳

      生活状況- 子守 女中 街娼

      補導院歴- なし

      障害・疾病症状など- 知的障害 17歳で強姦被害

・ケース3:入所時年齢- 26歳 退所後42歳で再保護

      生活状況- 貧困 街娼

      補導院歴- なし

      障害・疾病症状など- 中絶 精神科入院歴あり

昭和35年(1960年)

・ケース4:入所時年齢- 20歳 退所後38歳で再保護

      生活状況- 売春 少年鑑別所 中絶 医療少年院 H女子学園

      補導院歴- 1回

      障害・疾病症状など- 知的障害(小学校4年中退) 言語障害 精神科入院

データとしての記録から、個々のケースの文脈を読みとくことは容易なことではない。ほんの数行の記録をみたくらいで、〈彼女〉がどんな人物で、どんな顔をしていてどんな人生を歩んだのか。その死の間際になにを思ったか。会ったことも話したこともないのに、そんなことを慮ることこそ厚かましい行為だと思う。だがそれを承知で、数行の記録から、わたしが最低限推測できることを記しておきたい。

まず〈彼女〉たちは、ほぼ全員が貧困層の家庭に生まれている。また、精神疾患や障害への偏見が一般的に非常に強かった時代背景のなか、精神科病棟や援護寮に「収容」される重度とまではいかない、しかし適切なケアと支援なしに社会生活を営むことには困難を伴う程度の知的障害や、精神疾患を複合的に併発していることがわかる。

女性という立場、貧困、知的障害、そしてレイプや中絶。精神疾患の発症は、その人生の最中の傷によるものなのか、そうではないのか、個々のケースによって定かではない。だが、当時の日本社会のなかで、〈彼女〉たちが子どもとしてこの世に生まれてきた時点から、売春行為に行きつくまでのプロセスを想像したとき、「さんざん悪いことをしてきた犯罪者」だとは、わたしには到底思えなかった。

2011年の「サバイバー」

「大野さん、疲れたでしょう。何か飲みましょう」

施設長のYさんが席を立って、ふと我にかえる。この門に足を踏み入れてから、あっという間に1時間が経過していることに気がつく。自分の身体の痛みや熱も忘れて、夢中で一気にノートテイクをしていた。Yさんに冷たいアイスティーを出して頂き、一息入れる。

M寮は、2つの棟に分かれている。DV被害者を一時保護するためのシェルターと、「サバイバー」の利用者のための棟。それぞれ機能が分化しており、内部の構造や規則も違う。

2011年6月時点での、M寮に入所している「サバイバー」たちのデータとしての像は、どのようなものだろうか。

利用者の約70%が、軽度の知的障害と、精神疾患を併発している。愛の手帳を申請しても、最軽度の4度を約30%が取得できているのみだ。

彼女たちは、知的障害者としては、既存の障害者制度の枠組みや医療では支援を受けることが難しい「ボーダーライン」に属しているともいえる。普通に会話やコミュニケーションを交わすことはできるが、実際は周囲の適切なサポートなしに社会生活を送ったり、就労したりすることには困難を伴う。だか、医学的にはADL(日常生活動作)は良好と判断され、公的な支援制度を利用するための入口にも入れない。

そして50%がホームレス状態、30%強が売買春行為を経験している。また、保護されるに至った理由でもっとも多いのは、以下の2点である。

(1)知的障害等により生活困難、破綻、居所なし

(2)暴力からの逃避

しかも、その「暴力」の様相は、簡単には描写できない。何らかの暴力を受けた経験があると回答しているのは、全利用者のうち70%をこえている。うち、家族内やパートナーからの暴力経験のカウント数と同じ数値で、性暴力が並ぶ。いくつもの暴力体験が、重複している人もいる。

20代の若年層利用者に限定して、データを絞り込むと、性産業に従事した経験があるとの回答は50%に増加する。児童養護施設出身者が約30%。子どもがいる人は約60%。

たとえ子どもがいても、彼女たちは自分の子どもとは一緒にはいられない。子どもたちも、児童養護施設に入所していたり、特別養子縁組に出されている。

彼女たちの子どもに対する思いの回答欄には、たとえ、それが性暴力を介在したうえの妊娠であっても、そして自分には養育できないと判断し互いが分離されても、「母」として持っている複雑な心情が連ねられる。「もう会えないんだね」「これで良かったんだよね」「こどもが大きくなったら探すのかな」。

他者からの暴力に加え、自傷行為の傾向も強い。リストカットや自殺未遂を繰り返し、「自分は汚い」「自分はいなくていい」との回答が並ぶ。彼女たちは、自らが人格的に尊重され、社会に受容される経験を、保護されるに至るまでほとんどもっていないのだ。

貧困とボーダーラインの障害。幼少期から家族内で暴力にさらされ、さらに性暴力や性産業が介在し、数多の暴力のはざまの「サバイバー」となってゆく女性たち。

わたしはデータ上の〈彼女〉たちに、面と向かって会って話を聞きたかった。だが、ただの外部者であるわたしが、易々と「なかをみせてほしい」などといい出していいはずもない。どう切り出せばいいのか、言葉を選ぶことすらできず迷っていると、Yさんがおもむろに時計をみていった。

「まあこんな時間。ああ、作業所が終わっちゃう。ささ、早くなかにいきましょう」

Yさんはあっけらかんと、10も20もジャラジャラと鍵がついた束を取り出し、「不可侵の地」のドアを開けてくれたのだった。

推薦図書

タイトルはいかにもお堅いうえ、刊行は91年だ。だが中身は刺激的、今日の雇用やケアにまつわる論点の多くをすでに提示していることに驚く。あまねく言説の前提にある「労働する身体」と「性的な身体」の乖離を論ずる。フェミニズムが日本の女性の貧困や売買春の問題をとらえようとした痕跡。問いは断片的に途切れる。

プロフィール

大野更紗医療社会学

専攻は医療社会学。難病の医療政策、難治性疾患のジェネティック・シティズンシップ(遺伝学的市民権)、患者の社会経済的負担に関する研究等が専門。日本学術振興会特別研究員DC1。Website: https://sites.google.com/site/saori1984watanabe/

この執筆者の記事