2012.12.04
ゆるやかに、しかし着実に、自立へと歩みつつ ―― ある生活保護当事者の半生と思い
2012年11月17日、行政刷新会議「新仕分け」において、仕分け対象事業として生活保護(生活扶助・住居扶助・医療扶助)が取り上げられた。結論から一部を抜粋する。
「生活扶助基準については、自立の助長の観点から、就労インセンティブを削がない水準とすべきであり、一般の低所得者の消費実態などとの均衡を図る」
「生活保護受給者の就労を促進するため、就労収入積立制度などの実現に向けて対応する」
「『医療供給側の受診抑制させるための取組』について、今年の見直しの中で直ちに取り組むべき」
曰く、生活保護当事者の自立とは、就労自立である。曰く、生活保護基準の切り下げ、すなわち生活保護では暮らして行けないようにすることが、就労へのインセンティブとして機能する。曰く、生活保護当事者の就労(*1)を促進すれば、生活保護に関する問題は解決する。曰く、医療扶助の増大に関しては、医療機関側に生活保護当事者の受診抑制をさせればよい。問題は、不適切な受診を希望する生活保護当事者にある……。
「新仕分け」の結論は、概ねこのような、日本の「世間」に一般的な見方に基づいているようである。
(*1)限定的にでも何らかの就労(障害者作業所等での就労を含む)が可能と考えられる人々は、生活保護当事者の20%前後である。
本稿において筆者は、ただ、精神障害を持つ生活保護当事者一人の半生と思いを紹介する。
「食事を作っている時が一番楽しい」
柳沢剛さん(仮名・40歳)は、精神障害者である。精神障害者福祉手帳の等級は、2級となっている。「福祉的就労なら可能なこともある」と考えられる等級だ。現在の精神科主治医から告知されている病名は「うつ病・アルコール依存症」だ。28歳の時、当時の精神科主治医の勧めにより、生活保護を申請して単身生活をはじめた。「就労して生活保護から脱却したい」とは切実に願っているけれども、少なくとも、数年単位で叶えられる希望ではなさそうだ。
柳沢さんは、毎朝9時ごろ起床する。まずは、ゆっくりする。朝食は摂らない。
昼頃に、一日最初の食事を摂る。食事には気を使っている。ほぼ100%、食事は自炊である。おかずは、季節ごとの産物を安く買って料理する。秋なら、脂の乗ったサンマが安い。ご飯は、2~3合ずつ炊いて冷凍しておくようにしている。
昼間は週2回、居住する東京23区内の「地域生活支援センター(*2)」に通う。居場所であり、顔なじみの友人たちと会う場であり、SST(Social Skills Training)プログラムなどを通じた社会訓練の場だ。そこでは、料理教室にも参加している。自炊するときに、料理教室で習い覚えたメニューを再現したりすることもある。
2週間に1回は、精神科クリニックに通院する。診察を受け、2週間の間の出来事や状態について医師に話す。そして、処方された向精神薬を受け取って帰る。
(*2)主に、地域で生活する障害者を対象とした通所施設。旧・精神保健福祉法を根拠に、「精神障害者地域生活支援センター」として各地に設置された。現在は精神障害者だけではなく、多様な障害者・高齢者などを対象とする「地域生活支援センター」として存続していることが多い。
柳沢さんは、
「食が充実すると、内面的に余裕が出てきますね」
という。
夜7時ごろ、夕食を食べる。就寝までの時間に、趣味のイラストを描くこともある。地域生活支援センターのスタッフに、「好きなことは捨てないほうがいいよ」と言われたので、描き続けている。柳沢さんは、
「そういう人が周りにいてくれるから今があるんですよね、俺」
と、実感をこめてつぶやく。
柳沢さんの現在に、何ともいえない「じれったさ」を感じる方は多いだろう。強引な就労指導をしない地域生活支援センターに「仕事しろ!」と言いたくなる方も多いだろう。柳沢さん本人の将来設計は、どのようなものだろうか?
現在の夢は、作業所での革細工
柳沢さんは、近々、障害者作業所に通い始めたいと考えている。近辺の作業所の見学は、すでにはじめている。2012年夏ごろから、見学をするような気力が出てきたそうだ。
住んでいるアパートの近くに、魅力的な作業所がある。菓子工房と革工房を持っている。革工房では、カバン工場の裁ち落としの革を集めて、専用ミシンで縫い合わせ、カバンを作って販売したりしている。柳沢さんは「面白そう」という。
向こう1年くらいの間に、たぶん柳沢さんは作業所に通い始めるだろう。長期的な計画は、どのようなものだろう? 柳沢さんは、
「流れ的に、一般就労できればいいと思います」
という。しかし、
「焦りすぎるとドツボにはまるので」
と、焦ることを自分に戒めてもいる。一般的に、焦ることには何のメリットもない。経済的自立を果たしている健常者にとって当てはまることは、精神障害者や生活保護当事者には、もっと当てはまる。
しかし、柳沢さんの生活保護利用は、もう12年にもなる。現在も続く精神科での治療は、12年もかけて「そろそろ作業所に通えるかも」をやっと達成しているのが現状だ。柳沢さんは、いったい、どのような治療を受けてきたのだろうか?
「保険適用のカウンセリング」から生活保護へ
原家族で「気分次第で子どもをひっぱたく」両親に虐待されて育った柳沢さんは、学校ではイジメに遭うことが多かった。成績は下位。家庭では、親の顔色を読むことに神経をすり減らす毎日。勉強をする余裕は、肉体的にも精神的にも、ほとんどなかった。
「偏差値の低い高校」を卒業し、親の強い意向で入学させられた専門学校を中退した後は、内装・事務などの仕事に就いていた。雇用形態は、あまりよく覚えていないという。少なくとも、安定や自己評価につながる業務内容や雇用形態ではなかったようだ。人間関係でも悩むことが多かった。原家族から離れて一人暮らしを始めてみたが、何かがはかばかしく改善されることはなかった。
24歳の時、状況を打開するために「カウンセリングを受けよう」と思った。ところが、カウンセリングを自費で受けると、最低でも一時間あたり3000円~4000円が必要だ。当時の柳沢さんに、それだけの経済的余裕はなかった。その時、東京都内のある精神科デイケアセンターで、カウンセリングに保険が適用されることを知った。柳沢さんは、そのデイケアセンターに通うことにした。平日は事務の仕事を続けながらの精神科デイケアセンター通いが始まった。
当時の職場環境は、事務スタッフ一人に上司が一人ずつ。上司に命じられる雑用やデータ入力をこなす。人間関係は「ややこしかった」。上司たちは「きつい」人物で、周囲にいた3~4人ほどのスタッフは全員、柳沢さんより前に退職してしまったそうだ。朝も昼も食事は摂らず、夜、おにぎりかインスタントラーメンを食べるような生活だった。柳沢さんの身長は170cm以上あるが、この時期の体重は54kgだったという。その毎日を「生活のためだ」と自分に思い込ませていた。
精神科デイケアセンターには土曜日に通うつもりだったが、土曜日はぐったりしてしまっており、通うことが難しかった。
やがて、柳沢さんは仕事を続けられなくなった。休職と復職の繰り返しの後、退職。収入の途をなくした柳沢さんは、虐待する両親のいる東京都郊外の実家に戻るしかなかった。
「実家は最悪だったのに、帰らなきゃいけなくなっちゃって」
と、柳沢さんはいう。両親は、精神疾患に対して、理解しようという気が全くない。
柳沢さんは、酒浸りになった。家族となるべく顔を合わせないように、昼ごろ起きる。そのまま、二階の自室で酒を飲む。誰も家にいない夕方、階下に降り、どんぶり飯と卵と納豆を食べる。このころの自分については、
「やることがないので、無理やり飲んでた。酒に逃げていたんです」
という。
このころ、月に一回くらいは、精神科デイケアセンターに通うことができていた。当時の主治医・N医師は、親・柳沢さん・自分の三者面談の場を設け、
「こんな状態だから、家を出て生活保護を取って治療しなさい」
と、生活保護申請を柳沢さんに勧めた。柳沢さんは、そうすることにした。
生活保護当事者を狙い撃ちにした医師のハラスメント
生活保護を受給することになった柳沢さんは、治療のためにデイケアに熱心に通いはじめた。すると、状況は悪化した。生活保護を勧めたN医師は、柳沢さんに対して
「なんでもかんでも親のせいにしやがって」
と攻撃を開始した。患者のミーティングでは、参加している他の患者の前で、
「みんな、こいつなあ、どうしようもないやつなんだよ」
などと、柳沢さんのことを紹介する。
さらに、冤罪めいたことまで起こった。
「柳沢さんに嫌がらせをされた女性がいる」
ということが、そのデイケアセンターで問題になった。相手は、顔も名前も知らない人だった。しかし、女性の看護師3人が「証人」だという。結局、柳沢さんは謝罪させられた。
医師にターゲットにされている患者を、精神科デイケアセンターの他のスタッフが丁重に扱うことはない。柳沢さんは、そのデイケアセンターのソーシャルワーカーなどにもターゲットにされた。ソーシャルワーカーのH氏は、柳沢さんの行動を逐一チェックした。ふつうに歩いているだけなのに「足音が大きい」と注意したり、女性と話していると「N先生に、女の人と話しちゃダメって言われませんでしたか?」と割り込んできたりする。
診察は、N医師が一方的に30分ほど話し、柳沢さんは相槌を打つだけの内容だった。毎回、ドグマチールという向精神薬の筋肉注射をされた。認可されたばかりのSSRIが処方され、すぐに処方中止となった。柳沢さんは離脱症状に苦しんだ。N医師の診察では、「毎回」といってよいほど処方が変わった。柳沢さんは「なんで、そんなに薬を変えるんだろう?」と思いながら、処方された薬を素直に飲んでいた。
やがて、柳沢さんは、希死念慮に襲われるようになった。ハラスメントに遭うデイケアに週4回通うことを、N医師はノルマとして課し、「従わなければ生活保護を切る」と脅す。しかし柳沢さんは、デイケアに行くことを考えただけで、死にたくなる。この時期について、現在の柳沢さんは
「死にたくなるのは、当然ですよね。めちゃくちゃだし、自分でものを考えて行動するというのを全部潰されていたし」
と語る。
幸い、障害者運動家との出会いがあった。その人の勧めで、問題のデイケアセンターから離れることにした。2007年末のことであった。転院の希望を告げると、N医師は「やめろ、いなくなれ、二度と来るな」と捨て台詞を吐いたという。
この精神科デイケアセンターに通っていた別の数名から、筆者は、類似の体験談を聞いている。医師が生活保護受給と単身生活を勧め、デイケアセンターのソーシャルワーカーの付き添いのもとで申請をさせる。生活保護当事者としての生活が始まったら、デイケアへと囲いこむ。ほどなく、医師などによるハラスメントが始まる。
それは、一般的な「ドクター・ハラスメント」というよりは、カルト宗教の洗脳の手段の一つに近い感じである。主治医も処方もしばしば変わる。当然、治療効果など期待できない。危険性に定評のある向精神薬、販売されたばかりで定評のまったくない向精神薬が多く処方されることも、特徴の一つだ。処方の量も、一般的に適切とされる量の数倍に及んでいることが珍しくない。
自分の足での歩みが始まるまで
N医師のいる精神科デイケアセンターから離れた柳沢さんは、一年近く「やる気がしなくて寝ていた」そうだ。「追い出された」という思いが強く、大きなショックを受けていた。しかし、精神科の治療が必要なことは自認しているので、2008年秋、現在の精神科クリニックに通院し始めた。友人・知人・障害者運動家などの意見を聞いての選択だった。
そのクリニックは、特別な治療を売り物にしているわけではない。デイケアセンターもない。ただ、良識的な診察が行われ、常識的な処方がなされているだけだ。患者の日常生活が治療に際して重要であるという考えのもとに、小規模クリニックながら、2人のソーシャルワーカーが常駐している。それだけが、やや特別なことであるかもしれない。
柳沢さんは、2週間に1回、精神科で診察を受けるようになった。適切な処方を受け、服薬する。ハラスメントを受けることはない。そのような落ち着いた暮らしをしているうちに、「自分にも余裕が出てきた」と柳沢さんはいう。
2009年、柳沢さんは、自分の意志で保健所を訪れ、保健師に
「これからどうしたらいいか、生活をどうやって改善したらいいか」
と相談をした。そして、現在通っている地域生活支援センターの存在を教えてもらった。また、太りすぎていたので、栄養士も紹介してもらった。食べるものや食事回数についてのアドバイスを受けた。相談出来る人が近くにいることを知った柳沢さんは、さらに安心して日々を送れるようになった。
「できれば就労を」と強く望んでいた柳沢さんは、精神障害者向けの就労支援プログラムを見つけて参加してみたりもした。半年間の訓練は、
「辛かった。自分のためにはなったかもしれないけど、合わなかった」
という。ソーシャルワーカーの一人が「ねちっこい」人物で、攻撃されて苦しい思いをしたそうだ。
柳沢さんの地域生活支援センターへの通所が始まったのは、2011年秋のことだった。気構えずに通所し、ストレス少なく過ごすことができる。10人ほどの参加者に対し、スタッフは3人。スタッフは、ときどき「参加者がよりよい時間を過ごせるように」と会議をするなど、熱心だ。
以前通っていた精神科デイケアセンターについて、現在の柳沢さんは
「なんか、おかしい。はまったら、もうダメ」
という。
「的にされている」生活保護当事者
穏やかな現在の日々を穏やかな口調で語る柳沢さんだが、昨今のメディア報道や政治の動きに対しては、
「生活保護の当事者って、的にされていますよね。ネタにされていますよね。生活保護がらみのことを悪くいえばいいというか」
と、声に怒りをにじませる。
「テレビ、おかしなところばかり映すじゃないですか。パチンコとか。そうじゃない人も多いのに。生活保護を受けている人がどういう人なのかも分かってないのに、とりあえず叩いとこう、みたいな」
そうでもないメディア関係者も少なくはないのだが、柳沢さんは
「放っといてほしいです」
という(それなのに、筆者のインタビューに応じていただけたことに、心から感謝を申し上げる)。
一連の報道は、着実に自立の幅を広げていこうとしていた柳沢さんにとって、辛いものであったようだ。
「自分の場合、真面目に、自分なりのやり方で作業所に行こうとしているところに、あんなふうに言われると、『ラクしている』『甘えている』と思われている気がするんです」
精神疾患を「甘え」と片付ける人は少なくない。でも、柳沢さんは
「もとの病気をなんとかしないと、まともに働けないですよ。俺、無理に働いて身体壊したし」
という。生活保護を「甘え」と言う人に対しては、
「これから働くために生活保護のお世話になってるんですから。それに、決してラクな生活じゃないですよ」
と言いたい。
柳沢さんの生活保護当事者としての生活は、すでに12年にも達している。これは、「税金で長い間養われて、トクをした」という性格のものだろうか? 柳沢さんは
「そんなことはないです。生活保護のお世話になりはじめた時点で、生活できるからといって、何の保障もないんです。生活保護で長い時間を費やしたら、無駄です」
という。
筆者も「そうだろうな」と思う。履歴書には、大きな職歴の空白期間ができる。労働による社会参加という機会を得ることが困難な、辛い時間が流れる。そして再度の就労は非常に困難だ。生活保護を経験したことをスティグマ視する経営者は少なくない。
「世論とか圧倒的多数に責められること、遊び半分でネタにされるのが一番イヤ」
という柳沢さんは、最後に
「生活保護のお世話にならざるを得なくなった人たちに、耳を傾けてほしい、好きでお世話になったわけじゃないです」
と話を結んだ。
「新仕分け」に際し、また衆議院選挙・都知事選に際し、生活保護基準引き下げに賛成する意見を述べた方々に、私は直接確認したいことがある。
その意見、その選択は、現在すでに苦しんでいる人々を、さらに苦しめる。場合によっては、息の根を止める。本人なりの自立への小さな歩みに、大きな打撃を与える。
苦しめる側の人々に、苦しめられる人々の姿は、どれだけ見えているのだろうか。苦しめる可能性は、どれほど具体的に見えているのだろうか。見えたとして、それでもなお、その意見を表明し、その選択をしなくてはならないと考えることができるのだろうか。直接質問し、その答えを直接聞きたい。
プロフィール
みわよしこ
1963年、福岡県生まれ。ICT技術者、半導体分野の企業研究者などを経験した後、2000年より著述業に転身。ノンフィクション全般を守備範囲とする。技術者・研究者としての経験を生かしたインタビュー、その分野を専門としない人に対する解説・入門記事に、特に定評がある。2013年3月、丸善より書籍「ソフト・エッジ ソフトウェア開発の科学を求めて」(中島震氏と共著)、2013年7月、日本評論社より書籍「生活保護リアル」を刊行。2015年3月、丸善出版より『おしゃべりなコンピュータ 音声合成技術の現在と未来』(山岸順一氏・徳田恵一氏・戸田智基氏との共著)を刊行、人と科学と技術と社会について、幅広く執筆活動を行っている。2014年、貧困ジャーナリズム大賞を受賞。また2014年4月より、大学院博士課程で生活保護制度の研究も行っている。