2016.04.25

ヘイトスピーチ対策法「与党案」について考える――「適法居住」要件はなぜおかしいのか

明戸隆浩 多文化社会論

政治 #ヘイトスピーチ対策法#適法居住

マスメディアで「ヘイトスピーチ」という言葉が広く使われるようになってから、およそ3年。今国会では、ヘイトスピーチ対策法「与党案」が、審議の佳境を迎えている。

と言っても、とくに今年3月以降の展開はあまりにも急だったので、この間ヘイトスピーチについて関心をもって見てきた人の中でも、今何がどのように議論されているのか正確に把握できている人は必ずしも多くないかもしれない。また、そもそも自民・公明両党が出してきた「与党案」であるという時点で、「何の期待もできない」「むしろ政権に都合のいいように利用されるのでは」という見方をする人もいるのではないかと思う。

そして実際、この後具体的に示すように、今回の与党案には問題が多い。しかし同時に言えることは、自民・公明が現在国会で占める議席数を考えれば、この与党案はほぼ確実に成立し、効力をもった法律になるということだ。その一方で、少なくとも現時点ではまだ与党案は「案」であり、与野党の修正協議の余地を残している。つまりこの段階で考えるべきことは、問題の多い与党案の中でもとくにどこを問題にし、それをいかにして修正協議に反映させるかということである。

ヘイトスピーチにかかわるこれまでの国会の動き(1)

具体的に与党案の検討に入る前に、ヘイトスピーチにかかわるこれまでの国会での動きを簡単に振り返っておこう。ヘイトスピーチにかかわる初めての国会集会が開かれたのは、2013年3月のこと。主催したのは後に議員立法で野党案を提出する際に中心となる民主党(当時)の有田芳生参議院議員らだが、この段階では法制化に対する慎重論もまだ根強かった。

しかし、2013年10月に京都朝鮮学校襲撃事件に対する京都地裁の判決(被告である在特会らに約1200万円の賠償請求ほか)が出され(翌2014年7月の大阪高裁の判決を経て12月に最高裁で確定)、また2014年夏に国連自由権規約委員会からの勧告(7月)同人種差別撤廃委員会からの勧告(8月)、と立て続けにヘイトスピーチ対策の不在を指摘される中で、ヘイトスピーチへの法的対策の必要性は、政治家やメディアの間でも次第に共有されるようになっていく。

そうした中で、(やや時間は前後するが)2014年4月に有田議員、同じく民主党の小川敏夫参議院議員らにより「人種差別撤廃基本法を求める議員連盟」が結成される。また与党側でも、まず自民党が2014年8月にヘイトスピーチに関するプロジェクトチームを設置(座長・平沢勝栄衆議院議員)、10月には公明党のプロジェクトチーム(座長・遠山清彦衆議院議員)も初会合を開いた。そして翌2015年5月、有田・小川両議員などを中心に超党派の議員が「人種差別撤廃施策推進法案」(以下、「野党案」)を提出。8月には参議院法務委員会での審議にかけられたが、これは日本で初めて人種差別にかかわる法案が審議された重要な場面となった。

ヘイトスピーチにかかわるこれまでの国会の動き(2)

しかし、2015年の第189回国会は安保法案強行採決の混乱の中で閉会、その中で「野党案」は何とか廃案を回避し継続審議となった。年が改まって今年(2016年)3月22日には「野党案」の参考人質疑が行われ、さらに3月31日には参議院法務委員会の委員ら10人の与野党議員が、ヘイトスピーチを唱道するデモが頻発している川崎市の在日コリアン集住地区を視察した。こうした過程を通して、ヘイトスピーチへの法的対策が必要だという認識は、与野党の枠を超えて共有されていった。

さて、冒頭で言及したヘイトスピーチ対策法「与党案」提出の動きが出てきたのは、ちょうどこの「野党案」審議再開の前後である。まず3月25日に、自民・公明両党が法案作成のための作業部会設置を発表。29日には作業部会初会合、31日に第2回会合と急ピッチで作業が進められ、その後両党の党内手続きを経て4月8日に提出の運びとなった。

先に触れたように自民・公明両党とも2014年からプロジェクトチームを設置して準備を進めてきたとはいえ、発表から提出までわずか2週間。この間4月5日には「野党案」の2回目の審議も行われているが、4月19日には1回目の「与党案」審議が参議院法務委員会で行われ、26日午後に第2回の審議の開催が決定している

ヘイトスピーチ対策法「与党案」の問題点(1)

その「与党案」の内容であるが、たった3年前の状況を想起するだけでも、ヘイトスピーチにかかわる法案が実際に成立する前提で審議されるということは、それ自体としては一つの前進だと言える。またこの法案の前文末尾には「このような不当な差別的言動は許されない」とはっきり書かれており、少なくとも冒頭に書いた「何の期待もできない」「むしろ政権に都合のいいように利用されるのでは」というような疑念については、ある程度払拭できるものになっていると思う。

しかし冒頭でも述べたように、「与党案」には問題も多い。実際もっとも早くに声明を出した外国人人権法連絡会をはじめ、当事者団体や弁護士団体、NGOなどすでに10以上の団体から批判的な声明が発表されている(リンク先文末)。これらの声明で広く共有されているのは、(1)明確な禁止規定がないことにより実効性が弱いこと、(2)法律が対象とする言動の範囲が狭いこと、の2点である。

とくに(2)については、「本邦外出身者」という限定によってアイヌや沖縄、被差別部落出身者などが除外されるおそれがあること、さらに「適法に居住するもの」という要件によって超過滞在者などが除外されるおそれがあること、が繰り返し指摘されている。

なおこれら2つは、いずれも先に提出された野党案にはなかった問題である。まず(1)実効性についてだが、野党案では罰則こそ設けなかったものの「何人も~してはならない」という形で禁止規定を盛り込んでいた。また(2)対象とする言動の範囲についても、「人種等を理由とする差別」という形で先に触れた国連人種差別撤廃条約に則った定義がなされている。つまり与党案は、(1)実効性を弱めただけでなく、(2)対象とする範囲も狭めることで、野党案に比べて「弱く、狭い」法案となっている。

ヘイトスピーチ対策法「与党案」の問題点(2)

とはいえ「与党案」がもつ問題は、「弱く、狭い」点だけにあるわけではない。問題がそれだけであれば、「ゼロよりはまし」ということで、とりあえず今の段階でことさらに何か強い修正要求をしなくてもよいという判断はありうるだろう。しかし、とくに(2)法律が対象とする言動の範囲については、そうしたことを超えた問題がある。

その一つは、すでに触れたように「本邦外出身者」という限定によってアイヌや沖縄、被差別部落出身者などが除外されるおそれがある点だ。とくにアイヌについては、この間全国各地で行われてきたヘイトスピーチ・デモの中で少なくない数のものがアイヌを標的としており、これが与党案の対象に含まれないということは、「アイヌに対するヘイトスピーチについて国は問題視していない」という誤ったメッセージを送ることになりうる(ただしこれについては、4月19日の審議の中で与党案の発議者から付帯決議含めきちんと対応する旨の答弁があり、最低限の改善が見込まれる状況にある)。

また範囲にかかわるもう一つの点、「適法に居住するもの」という要件によって超過滞在者などが除外されるおそれがあるということについても、同様の問題がある。先に挙げた多くの声明でも指摘されているように、ある言動が差別に当たるかどうかということと、そこで標的とされている人(々)が法的にどういう状態にあるかということは、本来何の関係もない。このことは、2004年の人種差別撤廃委員会一般的勧告30でも「人種差別に対する立法上の保障が、出入国管理法令上の地位にかかわりなく市民でない者に適用されることを確保すること」という形で確認されているとおりである。

「適法居住」要件はなぜおかしいのか(1)

しかし、このうち2つ目の「適法居住」要件には、たんに対象となる言動の範囲を狭めるということにとどまらない、ヘイトスピーチの核心にかかわるきわめて重大な難点が含まれている。少し込み入った議論になるが、順に検討していこう。

ヘイトスピーチにおいては、「○○人を叩き出せ」のように個人を特定しない形で人種や民族にかかわる集団について言及されることが多い。特定個人を対象としたヘイトスピーチというのはもちろんありうるが、そうしたものについては現行法の侮辱や名誉毀損の適用が可能である一方、同じことを一般的な「○○人」に対して行った場合には現行法では対処できない。したがって、こうした特定個人を対象としないヘイトスピーチをどうするかということは、ヘイトスピーチ対策法を考える場合の基本的な前提の一つになる。

さて、与党案ではこの「○○人」に当たる部分を「本邦外出身者」という言葉で定義しているのだが、「適法居住」要件が付されているのはまさにこの部分である。しかし、少し冷静に考えてみればわかると思うのだが、「適法に居住しているかどうか」を判断できるのは、あくまでもそれが具体的な特定個人である場合に限られる。実際、ある言動の中で言及される一般的な意味での「○○人」について適法か否かを問うなどということは、常識的に考えて不可能だろう。

法律における定義規定というのはあるものが法律の適用対象かどうかを判断するために置かれるものだが、問題となる言動のほとんどが不特定の集団に言及するものである以上、何がこの法案の対象であるかを判断する上でこの規定はほぼ役に立たない。

「適法居住」要件はなぜおかしいのか(2)

しかしたんに役に立たないだけならば、「別にあってもいいではないか」という応答をすることも可能だろう(意味のある応答だとは思わないが)。より大きな問題は、それが役に立たないだけでなく有害だということである。たとえば与党案では、本来対象になるべき言動が頭に「不法滞在の」を付けるだけで(理屈の上では)すべて除外されてしまう。「不法滞在の○○人を叩き出せ」、これは言葉通りにとれば「適法に居住していない」○○人に向けられたものであり、与党案の対象とはならない(このことは、「不法滞在」を「不法入国」に変えても、「叩き出せ」の部分を「殺せ」に変えても変わらない)。

そしてこうした言動で示される「○○人」が一般的なそれである以上、たとえ「適法に居住する」○○人がいくら反論しても何の効果もない。レイシストはこう言うだろう。「あなたが適法に居住しているかどうかなど知ったことではない。私は「不法入国の○○人」を叩き出せと言っただけだ」。この点で与党案は、こうした一見論理的に筋の通った言い訳を最初から用意してしまう。

しかもこうした言い回しは、街頭で叫んだ場合の一般的な効果としてはむしろ(「限定」ではなく)「○○人全体が不法入国である」であるというイメージを拡散するから、レイシストからすれば「一石二鳥」だとさえ言える(実際この法案を「適法居住」要件を理由に「歓迎」する意見はすでに出ている)。

なおこの間の国会での審議では、こうした指摘に対しては「定義に明示的に含まれないからと言って許されるわけではない」と答えるのが通例となっているようだ。確かに、どんな法律であっても定義を行えば必ずそこに含まれない部分が生じるから、そうしたものについては運用で柔軟に対応する、といったことはもちろんありうる。しかし「適法居住」要件は、定義に伴って必然的にそこに含まれないものが出てくるという話ではなく、「意図的に」対象を限定するものだ。自分で「適法居住」要件を付けておいて「実際には適法居住でない場合も含まれうる」とかいうのでは、何のための条文なのか本当にわからない。

このように与党案の「適法居住」要件は、ヘイトスピーチという問題の核心、つまりその多くが特定個人に還元できない集団全体に対してなされる、という「基本」がわかっていれば、そもそも発想として出てこないはずのものである。ヘイトスピーチにかかわる法律の制定に際して抜け穴抜け道を探すことで対応するというのは古今東西レイシストの常套手段だが、最初からこんなふうに使い勝手のいい抜け道を用意するような法案が、レイシストに対抗できるとは思えない。与党案作成者もまさかそんなことのために「適法居住」要件を付けたわけではないだろうから、少なくともこの点については、今後の審議の中できちんと修正する必要があるだろう。

「人種差別禁止法」への展開に向けて

以上、ヘイトスピーチ対策「与党案」の問題点について、とくに「適法居住」要件に重点を置いて見てきた。すでに述べたように、今回の与党案の問題点は「実効性の弱さ」と「対象とする範囲の狭さ」の2点に集約される。ただしそれはあくまでも与党案に即して見た場合の話であり、先に提出された野党案と比較した場合には、より重要な変更がもう一つあることを最後に言い添えておきたい。それは、「人種差別禁止法」から「ヘイトスピーチ対策法」への「縮小」である。

もちろん、ヘイトスピーチの問題に対する法的対策が急務であることは多くの関係者の一致した見解であり、今回の法案の対象をヘイトスピーチに絞るということそれ自体は、十分ありうる選択肢である。しかし同時に確認しておく必要があるのは、ヘイトスピーチの核心は「差別煽動」であり、不特定の「○○人」に対する侮辱や脅迫を行うことは、結果として「○○人」に属する特定個人への差別を引き起こすという点だ。そしてこの「特定個人への差別」――住居差別や就職差別、あるいは学校での差別など――に対応できる法律(「人種差別禁止法」)は、今の日本には存在しない。

いずれにしても、法律の制定はゴールではない。これはヘイトスピーチ関連の法制度の歴史について一般的によく言われることではあるが、今回の与党案については、この点はさらに何倍増しかで強調しておく必要があるだろう。その一方で、一つの法律の制定は、とはいえ一つの区切りである。その点で言えば、与党案が「案」であるあいだにできる限りの議論を尽くすことの重要性もまた、強調しすぎてもしすぎることはない。法律の制定をゴールにしないことと、法律の制定に際して議論を尽くすこと。この2つは、決して矛盾する態度ではないはずである。

プロフィール

明戸隆浩多文化社会論

1976年愛知県生まれ。関東学院大学・東京工業大学ほか非常勤講師。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。専攻は社会学・社会思想、専門は多文化社会論。著書に『ナショナリズムとトランスナショナリズム』(法政大学出版局、2009年、共著)など。

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