日本の首相は本当に弱いのか?

「強い首相」を想定する日本国憲法

 

だが、上記のハヤオやアメリカにおける日本政治研究の大家であるB.リチャードソンも指摘するように、日本の首相は、他の国の首相と比較しても、実際には多くの公的な権力資源をそもそもは有している。

 

重要なところを紹介すると、日本の首相は行政権を担う内閣の構成員である閣僚を任意に任命しかつ罷免できる(憲法65条、68条)。さらに憲法72条により、「内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する」こととされている。憲法74条には、「法律及び政令には、……内閣総理大臣が連署することを必要とする」とあり、主任の国務大臣あるいは各省が法律や政令を成立させるうえで首相の同意は不可欠であると明記されている。戦後の日本国憲法は明らかに「強い首相」を想定している。

 

ただし、これを受けて、内閣法では、

 

 

第5条   内閣総理大臣は、内閣を代表して内閣提出の法律案、予算その他の議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告する。

第6条   内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する。

第7条   主任の大臣の間における権限についての疑義は、内閣総理大臣が、閣議にかけて、これを裁定する。

第8条  内閣総理大臣は、行政各部の処分又は命令を中止せしめ、内閣の処置を待つことができる。

 

 

と定められている。問題となったのは、首相の法的権限が内閣を通じて行使されると内閣法が前提しているということであった。これは憲法72条にある「内閣を代表して」という文言や、同73条に示される内閣の「事務」内容[*7]から導き出された前提と言える。

 

[*7] その内容として挙げられているのは以下の7項目である。

1  法律を誠実に執行し、国務を総理すること。

2  外交関係を処理すること。

3  条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。

4  法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。

5  予算を作成して国会に提出すること。

6  この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。

7  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。

 

はたして、この内閣による首相への「しばり」は、どの程度の拘束力をもつと捉えられるのであろうか。もし首相が、閣議決定によって決められた内閣の方針を少しもはみ出すことができず、これを解釈する余地ももたないとすれば、首相は内閣の使い走りであり、独自の判断で行動することはできない。この場合、憲法と内閣法は、「弱い首相」予定していたと言わざるを得ない。

 

しかし、執政権力の最高位に位置し内閣の首長である首相が閣議決定に対して、独自の判断で行動する権限をもたないと考えることはいかにも不自然である。閣議決定にはある程度の抽象度があり、首相が大臣のみならず行政各部すなわち各省を指揮監督することができると捉えるほうが自然であろう。

 

閣僚に対する人事権についても、憲法・行政法の専門家として名高い佐藤功はこれを「抜けない刀」ではなく、「内閣における内閣総理大臣の強力な統制権を担保するためのもの」と位置づけている。首相は内閣に拘束もされるが、同時にその内閣を「指導・統制する強力な地位と権限」を与えられているというのである[*8]。

 

[*8] 佐藤功(1979年)『行政組織法[新版]』有斐閣。

 

1980年代以降の「弱い首相」論には、田中角栄元首相の逮捕に至るロッキード事件があったように思われる。田中に近い政治家や論者は、首相の権限を狭く捉えようとしたのであり、結果的に田中を免責する議論を展開することになった。これに対し、最高裁は、ロッキード事件(丸紅ルート)の判決のなかで、次にように明確に述べている。

 

 

「……閣議にかけて決定した方針が存在しない場合においても、内閣総理大臣の右のような地位及び権限に照らすと、流動的で多様な行政需要に遅滞なく対応するため、内閣総理大臣は、少なくとも、内閣の明示の意思に反しない限り、行政各部に対し、随時、その所掌事務について一定の方向で処理するよう指導、助言等の指示を与える権限を有するものと解するのが相当である。」(最高裁判所大法廷判決平成7・2・22刑集49巻2号1頁)

 

 

最高裁は、首相の職務権限が閣議決定の文言に厳格に制約されるわけではなく、行政各部に対しては随時その所掌事務について指導、助言などの指示を与える権限をもっていることを確認していたのである。

 

日本国憲法はだてに66条1項で首相を内閣の「首長」と明記しているわけではない。1998年の橋本政権下の行政改革は、内閣法の改正、内閣府と特に経済財政諮問会議の新設、内閣官房の強化、首相補佐官制度の整備・拡充を行い、首相官邸の強化を図った。だが、本節の議論からも、政府内における日本の首相が、橋本行革以前からすでに制度的には強力な存在であったことが理解できよう。

 

 

「強い首相」はなぜ弱くなったか?

 

それではなぜ憲法上「強い首相」は「弱い」という評価を得ることになったのか。先の議論にしたがえば、首相は、政府内政策決定では大臣や官僚たちを指揮監督する権限をもっている。むしろ、首相の指導力を制約したのは、首相を議会の側から支える政権党すなわち自民党であった。

 

自民党は、1955年の結党以来今日に至るまで、1993年から1994年までの8ヶ月と2009年から2012年までの3年4ヶ月を除く期間、連立を含め政権を担当してきた政党である。日本政治とはすなわち自民党政治とさえ言われるほどである。その自民党は党内では、派閥のほかにも、事前審査制を担ってきた政調会と総務会さらには族議員といった政策決定に関与する機関とアクターを特徴的に抱えていた。

 

結党当初の自民党の派閥は、誰が構成員なのかについてさえはっきりとしないような緩い構成であった。当然、組織としてまとまって行動することも困難であった。派閥は総裁選をひとつの柱として結成されてはいたが、その総裁選に際しても、自民党議員たちは複数の総裁候補者から資金を得ていたとも言われる。2人の候補者から資金を受け取るニッカ、3人から受け取るサントリー、全ての候補者から受け取るオールドパーといった言葉も生まれたほどである。

 

しかし、その後、派閥は内部のまとまりを強め、たとえば田中角栄を中心に結成された田中派は「軍団」と称されるほどに強固な組織へとなってゆく。

 

他方、自民党による政府の法案などに関する事前審査制は、1960年代末から1970年代前半に本格化し、1970年代の終わり頃には多くの政策領域に行き渡って行われるようになっていた。これに合わせて、特定の政策に関する知識と利益をもつ族議員も台頭することになる。族議員たちは事前審査制を通して関係部門の官僚たちと連携し、政策運営を主導した。日本政治にみられた官僚の強さの背景には、族議員など自民党との連携があったとみるべきであろう。

 

重要であったのは、派閥と事前審査制が連動して自民党内の権力構造を作っていたことである。特に1980年代以降、派閥は総裁選を重視するのと同様に、議員の利権を擁護することを重視する組織へと変質する。派閥にとって事前審査制を通して構成員の利益が守られることは死活的であった。事前審査制は、派閥内部と派閥間の調整能力を抜きにしては成立しえなかった。

 

派閥は総裁選で自派の候補者が敗北したとしても、もはや反主流派になることは望まず、政権運営において首相に協力する姿勢を示すようになっていた。派閥は、首相の政権運営に協力する一方で、公共事業や農業、医療、中小企業対策などの個々の政策領域に関しては族議員と関係省庁が主導することを望み、首相や大臣らに介入されることを嫌った。首相や大臣たちも自らの地位を維持するためには、派閥の協力を必要としたのであり、それゆえに、族議員や自民党内のアクターの意向を尊重しなければならなかった。

 

首相は、党への配慮から、強い指導力を発揮しないことを選択するようになり、中曾根康弘や竹下登の両首相のように、政策運営をリードしようとする場合には党内対策に関する周到な用意を必要とした。また、過度なまでに強い政権党となった自民党は、鈴木善幸や海部俊樹の両首相のように、指導力を発揮できない指導者を首相に就かせてもきたのである。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.269 

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