2015.01.16

「空虚な幻想」から目を覚ますために――オウム真理教事件の根底にあるもの

大田俊寛氏インタビュー

社会 #オウム真理教#オウム裁判

思想というのは本来的に、一般の人が理解しているよりも、はるかに危険なものです。――思想はどのように裁けるだろうか。オウム真理教の根底にあるものを探る。(聞き手・構成/山本菜々子)

※本記事は「αシノドス」2014年5月号からの転載となります。

危険思想と弾圧

――今回は、ご寄稿いただいた『オウム真理教事件の真の犯人は「思想」だった』をもとに、お話を伺いたいと思います。拝読すると、思想の罪を問うことのむずかしさを感じてしまいました。

記事のなかでも触れたように、日本の現在の司法制度では、思想に対する罪を問うことができません。しかし歴史を振り返ってみると、「危険思想」と見なされたものには、制裁や弾圧を加えられるのが、むしろ常態でした。

私はもともと、「グノーシス主義」という初期キリスト教の異端思想を研究していました。またその過程で、キリスト教の歴史における正統と異端の関係全般についても学んでいきました。私は当初、どちらかと言えば、批判や弾圧を受けていた異端の側に共感を抱いていたのですが、勉強を進めるにつれ、問題はそれほど単純ではないと感じるようになった。異端の思想は、一見したところでは理に適っていたり魅力的であったりするのですが、長い目で見ると、社会を安定的に統治するための要素が欠如していることが多いのです。アウグスティヌスが著した異端論駁書などには、深く納得させられるところがあり、頭の固い「正統派」が、リベラルでラディカルな「異端派」を攻撃しているというような簡単な話ではないのだな、と思わせられました。

また、戦前の日本でも、国家権力による新興宗教への弾圧が行われていました。「大本」という宗教への弾圧は特に激しく、教団の施設をダイナマイトで爆破することまで行われた。その経緯については、早瀬圭一『大本襲撃』(毎日新聞社)や、村上重良他『宗教弾圧を語る』(岩波新書)という本が参考になると思います。大本事件をモデルとして中国文学者の高橋和巳氏が書いた小説『邪宗門』も、一時期は良く読まれていましたね。

思想というのは本来的に、一般の人が理解しているよりも、はるかに危険なものです。人類の歴史において生じた大きな悲劇的事件の背景には、大抵の場合、思想の違いや対立があります。人間の生死を根本的に規定する力、「この理念のために命を捧げなければならない」と人を駆り立てる力が、思想には備わっているのです。

繰り返しになりますが、どんな思想を社会に流布させても、それだけで罪に問われることがないというのは、歴史的に見てかなり例外的な状況です。しかし、こうした特異な状況に対して、社会の側では、それに対処するための知見や自覚がまだまだ十分整っていないのではないか、と私は思います。

――思想の罪を問わないのは当然のことで、むしろ今までは、「治安維持法」や「異端審問」などは、かなり前時代的で野蛮なもののようにさえ感じていたので、ご指摘の点は興味深く思いました。

中国や北朝鮮のような共産主義国、あるいはイランのようなイスラム教国は別として、現在の多くの国家では、「信教の自由」や「思想・表現の自由」が基本的に容認されています。しかし、「セクト」や「カルト」と呼ばれるような団体に対して、公権力がどのように対峙していくのかということについては、国によって態度がバラバラな状態です。

先進国のなかで、この問題にもっとも踏み込んだ姿勢を示しているのは、やはりフランスでしょうか。2001年には、いわゆる「反セクト法」(正式名称:「人権及び基本的自由の侵害をもたらすセクト的運動の防止及び取締りを強化するための2001年6月12日法律2001-504号」)が制定されました。セクト的団体やその指導者が、精神的自由の侵害や虚偽広告などで繰り返し違法行為を犯した場合、国家がその団体の解散を宣告できる、という内容です。しかし、この法律が制定される際にも、果たして「信教の自由」の原則に反することにならないのかと、大きな議論が巻き起こりました。

私は時折、一般向けのセミナーや講演で話をさせていただく機会があるのですが、そこに出席された方から、「おっしゃるような難しい話は私には分からないので、あなた方専門家がどの宗教が危ないのかを判断して、国と話し合い、われわれ一般市民に害が及ばないように対処してほしい」と言われることがあります。そのような意見が出てくる気持ちはとても良く分かるのですが、そうなると、宗教学者がかつての「異端審問官」の役割を代行するということにもなりかねませんよね。宗教団体が違法行為を犯していた場合に、国家権力が介入するのは当然として、宗教学者に許されるのは、各宗教がどのような来歴と性質を備えているのか、可能な限り客観的に説明することだけです。後は、個々人の良識と判断に委ねるより他にない。

思想的・宗教的問題についてどのように対処するか、社会の共通理解が確立されていないために、それへの対応が度を超えて過激になってしまうこともあります。カルト問題に関しては一時期、「洗脳」や「マインドコントロール」といった考え方が不用意に濫用され、精神的呪縛を解くためには、「脱洗脳」や「ディプログラミング」といった手続きが不可欠だと言われていたことがありました。そしてそのために、「カルト」に入ってしまった信者を拉致し、マンションの一室に長期間監禁するという事件が頻発していたのです。

――とても暴力的な方法ですね。

そうなると、中世の異端審問どころか、リンチ(私的制裁)と変わらなくなってしまいます。日本におけるこの種の事件については、米本和広『我らの不快な隣人──統一教会から「救出」されたある女性信者の悲劇』(情報センター出版局)や、室生忠『大学の宗教迫害』(日新報道)といった著作に詳しく論じられています。「カルト」対「反カルト」という狭隘な構図に組み込まれてしまう前に、宗教や思想に関してわれわれがどのような状況に置かれているのかについてもっと視野を広げ、全体を俯瞰しておく必要があると思うのですが・・・。現状を変えてゆくのは、なかなか難しいでしょうね。

グルイズムとは

――「麻原の意思に背けば殺される」という感覚が共有されていたというのは、恐ろしい話ですね。ご著書の『オウム真理教の精神史』を読むと、グルイズムについて考えさせられます。師弟関係など、日本にはグルイズム的なものがたくさんありますよね。

人生における大切なことを知ったり、人間として大きく成長したりするためには、心から尊敬できる「師」に出会い、直伝のような形で教えを受ける必要があるという考えは、よく聞かれますよね。今の日本社会では、そのような機会が失われていることが問題だ、と嘆く人もいます。しかし、安易にそう思い込むと、オウム事件も含め、「グルイズム」に潜む数々の落とし穴が見過ごされることになってしまう。

私は自分のことを、とても平凡な人間だと思っているのですが、幼少時に父を亡くして母子家庭で育ったせいか、「グルイズム」的な感覚に対して、人一倍鈍いところがあるようです。「師」に対する畏敬の感覚というのは、父親との関係がベースとなっているところがありますから。どんなに頑張ってもかなわない強くて大きい人間として父親がいて、その人に頼ることによって自分も成長できる、という感覚ですね。私には、そういう人間関係を学ばずにスキップしてしまったところがあるのかもしれません。

しかしそもそも、自分自身も含め、一人の人間が知っていることや経験していることなどわずかなものですし、その日の気分や体調次第で、明らかに間違ったことを発言してしまうこともあります。だから、たとえ相手が尊敬する先生であろうと、おかしいことにはおかしいと言うのが本当だろうと思います。学問や思想の世界では、特にそうあるべきではないでしょうか。

――宗教というのは「畏れ」の表れであるように思います。グルイズムも一種の「畏れ」の抱き方だとしたら、グルイズムは宗教の中で自然なものだと思うのですが。

グルイズム的な「師への敬意」の感覚は、私にはあまりピンと来ませんが、何らかのものに対する「畏敬」や「畏れ」の気持ちは、私の中にも存在しています。しかしそれは、何らかの種類の「学」や「理念」や「伝統」に対する畏れであり、一時的にそれを担っているにすぎない、生身の人間に対する畏れではありません。

宗教の歴史について考えてみると、古代の原始的な宗教では、部族の長や民族の王など、特定の生身の人間に対する崇拝が行われていました。彼らの存在そのものが神聖と見なされ、他の成員たちはみな、その意志や発言に服従しなければならない、という観念が強固に存在したわけです。

しかし、社会の仕組みが進展するにつれ、特定の個人に対する崇拝や従属は、徐々に影を潜めるようになっていきました。その理由は、身分差別に対する異議申し立てが行われた他、個人の判断には誤りや偏りが多いという弊害があったからでしょう。それに代えて、個々人を超越した人格や原理が重んじられるようになっていった。一神教的な超越神や、法治の原理などですね。

神聖性のオーラを帯びた特別な人間に身を委ねたい、生の指針を示してほしい、というのは、とてもプリミティブな感覚で、だからこそ根強く、なかなか消えないものなのでしょう。しかし、徐々にそこから脱却していったというのが、これまでの人類の歴史における進展のプロセスであり、いつまでもその感覚に拘泥し続けるというのは、文化的・精神的後退と見なさざるを得ないのではないかと思います。

オウム思想の根源

――ご寄稿では「事件のすべては麻原の独断によるものであり、また同時に、その「真相」のすべてを麻原が了解していたかといえば、とてもそうは考えられない」とおっしゃっていますが、これはどのような意味なのでしょうか。

実は、オウム事件の「真相」というのは、ある意味で非常に単純なのです。オウムの目的は、新人類によるユートピア社会を建設することにあり、そしてそのために、物欲に塗れた現在の日本社会の人々を、可能な限り大量に粛清しなければならないと考えた──あたかも、部屋にバルサンを焚いて、害虫を駆除するような仕方で。オウムでは、70トンのサリンの製造計画が進められており、95年11月から、本格的な「最終戦争」に突入することが予言されていました。記事でも触れたように、旧人類と新人類の「入れ替え」が、オウムの最終目標だったのです。

ただ、ここで問題となるのは、どうしてこのような荒唐無稽な幻想を「真理」と信じ込むことができたのか、なぜこのような動機で実際に人を殺すことができたのかということが、一般の人々にはとても理解しづらいということです。これに対して、麻原やオウムの信者を含め、ニューエイジ的な精神革命論に深く呪縛されている人々は、この種の世界観のリアリティをよく分かっている。しかし、であるからこそなおさら、それを客観的に理解したり、説明したりすることができない。思想の魅力を心身で感得し、それに呪縛されている人と、その種のリアリティが分からない人のあいだで、大きな意識のギャップが生じているのだと思います。

本来であれば、そうした「意識のギャップ」を埋めるために、客観的・第三者的立場から説明を行うというのが、宗教学者の役割のはずなのですが・・・。ニューエイジの影響というのは、アカデミズムの内部にまで深く及んでおり、そうした過去の反省と清算を未だに行えていないというのが、現在の宗教学の偽らざる内情です。

――ニューエイジの思想というのは、今も受け継がれているように感じました。いまの若者論の中には、「ゆとり世代」や「さとり世代」と呼ばれている世代は、すでに物欲には執着しておらず、むしろそれ以上のものを求めている、という話が出てきますよね。それとすごく似ているなと思います。

オウム事件の経験から、空虚な精神論が暴走すると危険だということを、社会全体で身に沁みて実感したところがあって、それ以降、過激なものは目立たなくなったと思います。ですが、例えばamazonでベストセラーになっている本を見てみると、その多くが、「新しい自分に目覚める」「思考が現実を作る」といった自己啓発本ですよね。コアなニューエイジ思想が希釈されて流通し、未だに麻薬的効果を及ぼしているという現状があります。

早くも忘れ去られてきたところがありますが、2012年にはマヤの予言が話題となり、その際には「アセンション」が起こると囁かれました。アセンションというのは、「次元上昇」という意味です。3次元の物質性にとらわれてきた人類の意識が、4次元レベル、5次元レベルに上昇し、目に見える世界は消滅していくという終末論が唱えられていました。

――なんだかすごい話ですね。

80年代から90年代にかけては、テレビで毎月のように「ノストラダムス特番」が放映されていました。かつてオウムの信者だったある人物から、「ああいった番組を子どものころからテレビで見せられ続け、1999年になったら何かが起こるという強迫観念を刷り込まれていた。しかし、それらの番組を放送し続けた大人たちは何の罪も問われず、真に受けたオウムだけが悪いというのは、どう考えても納得できない」という意見を伺ったことがあります。若い人にはあまり実感が沸かないかもしれませんが、ある世代以上の日本人にとっては、とても共感できる話だと思います。

責任の取り方

――「ニューエイジ」や「ノストラダムス」「マヤの予言」など、非常に胡散臭いなぁ、信じる人がいるのかなぁと、思ってしまうのですが。オウムの事件が起こった後の現在も、こういった思想が受け継がれていることがわかりました。今回の寄稿では、宗教団体・アカデミズム・マスメディアの責任についても問うていますね。

オウム事件の総括が難しい理由として、事件の本質が「思想」にあること、そしてその思想の影響が及んでいる範囲を探っていくと、日本全体がスッポリと覆われてしまうほど広い領域に及ぶということがあります。「思想的責任」と一言で言えば簡単ですが、実際にはその輪郭がきわめて広大となり、そうした責任を問われるべき人々も、膨大な数にのぼるということになってしまう。

自分がかつて入れ込んでいた思想や宗教も、どこかしら「オウム的」であったのではないか、と感じている人は多いでしょうが、自分からそういうことを言い出す機会もメリットもないため、自然と口をつぐまざるを得なくなる。また、ニューエイジ的な幻想を売り捌くことで生計を立てている人間もまだまだ沢山いますから、そういう人は、自分のやっていることのいかがわしさ、怪しさを自覚しながらも、今さら手を引けないということがあるでしょう。一昔前のレポートですが、斎藤貴男氏がお書きになった『カルト資本主義』(文春文庫)という本を一読すれば、ビジネスの世界にも、ニューエイジ的・オカルト的幻想が根深く浸透しているということをお分かりいただけるかと思います。

──困難であるにもかかわらず、総括が必要とお考えになる理由は何でしょうか。オウムのような事件が再び起こるからでしょうか。

あれほどの事件がまた起こってしまう可能性は、過度に心配しなければならないほど高くはないでしょうね。しかしそれ以上に、霊性進化論やニューエイジといった思想に今後も関わり続けるのは、端的に言って「時間の無駄」だと思います。

今の日本社会は、地に足のついた現実的な話をすればするほど、気の滅入るようなことばかりです。それらを直視するよりは、スピリチュアルな革命が起こって一気に世の中がバラ色になるのではないかという話の方が、確かに夢があるし、元気が出てきます。しかしそれは、現実から目を背けて妄想に逃げているだけです。現実が厳しいからこそ、それを冷静かつ理論的に捉えることができるような思考態度を身に付ける必要がある。宗教学にも、あるいは学問全体にも、ニューエイジ的な幻想に浸る余裕があるくらいなら、もっと時間やエネルギーを割かなければならない課題は沢山あります。

また、個人的にとても気掛かりに感じているのは、オウム事件の被害者やその遺族の方々が、なぜ自分たちはあのような災難に見舞われたのかが分からない、と今でも仰っていることです。被害者やその関係者の方々に対して、少しでも腑に落ちる説明をするためには、何らかの方法で、思想的な問題を議論の土俵に上げる必要があります。

その際には、こちらから個別に「思想的責任」を追及していくというよりも、そういった問題に関して心当たりのある人が、自主的に発言できるような場を設けるのが良いと思うのですが……。具体的にどのような形が可能なのか、今の私には、それを実現するアイディアも力もありません。記事でも申し上げたように、われわれはそろそろ、オウム事件を総括するための最後の時期を迎えることになります。今の状況を変えることはとても難しいでしょうが、一人の宗教学者として何か責任を果たせるような機会があれば、積極的に協力していきたいと思っています。

サムネイル「Distribution Religion」The Art Gallery of Knoxville

http://urx2.nu/gfh9

プロフィール

大田俊寛宗教学

1974年生まれ。一橋大学社会学部卒業、東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻宗教学宗教史学専門分野博士課程修了、博士(文学)。現在、埼玉大学非常勤講師。専攻は宗教学。著書に『グノーシス主義の思想――〈父〉というフィクション』(春秋社)、主な論文に「鏡像段階論とグノーシス主義」(『グノーシス 異端と近代』所収)、「コルブスとは何か」(『大航海』No.62)、「ユングとグノーシス主義 その共鳴と齟齬」(『宗教研究』三五四号)、「超人的ユートピアへの抵抗――『鋼の錬金術師』とナチズム」(『ユリイカ』No.589)など。

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