うりずんの月桃と賛歌――沖縄戦「慰霊の日」に何を継承するか

はじめに

 

2015年6月20日、那覇市南風原の県立公文書館において、沖縄戦の記録映像「1フィートフィルム」の上映会が行われた。1フィート運動の会は、1983年12月8日の発足以来2013年3月の解散まで、市民からの募金を元に米軍が撮影した記録映像を購入し沖縄戦の実態を伝えてきた。

 

上映後、理事を務めた石原絹子さんはNHKの取材に応え「70年というのは、60年とも80年とも違う。沖縄には三十三年忌があるが、それを2回過ごしたね、と思う」と語った。

 

そして、日本兵が自分たちを守ってくれると信じたけれど、いざ戦争が始まったら、日本兵は直接間接に島の人達を殺した。人間の心というのは教育によって天使にも悪魔にもなる。何とか知恵を出して、英知を出して、同じことを二度と起こさないようにしてほしい、と続けた。

 

石原さんは7歳の時、避難先の壕を日本兵に殺すと脅されて追われ、艦砲射撃や爆撃の中で一緒に逃げていた家族全員を亡くし孤児となった。夏の真昼に遺骨を探してまわり、現在「魂魄の塔」のある糸満市米須の辺りで母と兄を、摩文仁で幼い妹二人を見つけた。辺りは戦争で亡くなった人の骨でいっぱいで、雪が降ったような光景だったという(注1)。

 

(注1)「沖縄戦7歳一人ぼっち:戦災孤児の戦後70年」『沖縄タイムス』2015年5月18日。

 

石原さんにとって1フィート運動のフィルムは沖縄の大事な資産であり、青少年の教育に活用されるよう望んでいる。例えばナチスの残酷さが世界によく知られているのに比べ、「一番醜い戦争」ともいわれる沖縄戦の実態への理解はまだ広がっていない、と結んだ。(注2)

 

(注2)ニューヨークタイムスの従軍記者ハンソン・ボールドウィンの表現が念頭にある。ハンソン・W・ボールドウィン『勝利と敗北:第二次大戦の記録』朝日新聞社、昭和42年、435頁。

 

ナチスの残酷さ――ホロコースト――と比肩される沖縄戦。この認識を重く受け止めなくてはならない。「あらゆる地獄を詰め込んだ」地上戦の実相を、どのようにして、誰の目から伝えていくのか。そして、誰に伝えるべきなのか。

 

1フィート運動は30年間をかけ、この問いに一つの視角から応えるべく多くの記録映像を公にしてきた。ただ、米軍のカメラが入らなかった場所、日本兵や住民しかいなかった場所の映像はない。そこでの出来事、映像に残らなかった一半は牧港篤三・豊平良顕らの『鉄の暴風』(1950年)をはじめとする文章の記録、証言が支えている。「県民総遺族」の沖縄にとって、映像だけでなく文章もまた重要な「記録遺産」だと同会は位置付けてきた。

 

記録映像や証言文書とあわせ、語り部による証言、壕やガマの戦跡、遺品を集めた史料館、慰霊の碑や塔、唄が沖縄戦の記憶を伝えている。しかし70年が経過し、生存者として何が起きたのかを語れる人は少なくなりつつある。戦争中に4-5歳の幼児であった場合、当時の状況を順序立てて話すのは難しい。一定程度の年齢に達していた人でなければ証言することができず、それだけ時間の猶予は失われつつある。

 

かつて牧港は「沖縄戦は敵であるアメリカ軍との闘いであり、日本軍との確執であり、飢えとの闘いであり、老人の戦争であり、幼児にとっての戦争であり、沖縄の土着思想・文化にとっての戦いですらあった」とし、「その姿は一様ではなく、さまざまな形によるひろがりと深さを持つ」とした。

 

そうした「点と線にまたがる膨大な戦争の形態を抱えこんだ人間災厄、つまりはどんなに委曲をつくしても全くの姿がとらえにくい悲惨という事実を軸とする戦争」であるだけに、果たして沖縄戦がなんであったかという問いに日本国民は何らかの方途を探し出し答えなくてはならないと訴えた(注3)。

 

(注3)牧港篤三『沖縄の悲哭』集英社、1982年、110-111頁。

 

あれから三十余年が経過したが、どれほどの認識の深まりがあっただろうか。どのようなアプローチが必要なのか、その先にある何を伝えるべきなのか、ここで改めて考えたい。

 

 

『うりずんの雨』の空白 2015/6/21

 

6月20日から21日にかけ、沖縄は断続的な豪雨に見舞われた。名護は特に降り方が激しく、大雨と雷のために辺野古沖のボーリング調査が一時中断した程であった。

 

この日、那覇の桜坂劇場においてジャン・ユンカーマン監督の映画『沖縄うりずんの雨』が公開された。沖縄の「終わらない戦後」を問う本作の舞台挨拶に立ったユンカーマン監督は、歌人小嶺基子の「うりずんの 雨は血の雨 涙雨 礎の魂 呼び起こす雨」を引いた。

 

うりずんは草木が芽吹く3月頃から梅雨に入る5月くらいまでを指し、4月1日から始まった沖縄陸上戦にこの季節が重なることからタイトルに用いたという。毎年この時期になると戦争の記憶がよみがえり体調を崩す人が多いというが、激しい地上戦は優位に戦闘を進めたはずの米軍からも一万数千人を奪い、精神を病む兵が少なくなかった。

 

『鉄の暴風』に代表される証言記録の多くは、住民や現地召集され軍の指揮下に入った県出身者の証言で構成されている。これに対し『うりずんの雨』は、元学徒隊だけでなく、元日本兵、さらに元米陸軍兵の証言を同じ比重で扱い、そこへ監督の日本語ナレーションを交えて地上戦の様子を再構成する。

 

その上で戦争に続く占領と抵抗(1970年のコザ暴動)、凌辱(95年の米兵3人による12歳の少女暴行レイプ事件)、基地をめぐる現状と今後、と全四部の時系列を構成し、それぞれの出来事の当事者となった人々が語る。音声の背景には記録映像を多く用い、1フィートフィルムの会が収集した映像を元兵士が公文書館を訪れ確認する場面もある。

 

沖縄戦がホロコーストにも匹敵する重みを持つといわれた理由は、局地戦で使用された弾薬の総量の多さ、破壊の凄まじさだけではない。

 

誰にも保護されないばかりか「友軍」にスパイ視され艦砲の下を彷徨した避難民、現地召集された少年兵や高齢者、「本土」出身の日本兵、朝鮮から連行された1万数千人の「軍夫」、「慰安婦」、それに米兵士が入り混じり、攻撃、援護、加害、放棄、救助といったあらゆる関係のベクトルが、時に日照りに乾き、時に梅雨型の豪雨に泥田と化す島の中で多方向に入り乱れ入れ替わった点にある。

 

一口に避難民、日本兵、と分けると細部が見えないが、避難することもできず病院にとどまったハンセン病患者たちや、本土や台湾への疎開の途中で亡くなった人、戦闘終結後に収容所で亡くなった人、マラリアや飢えで亡くなった人を「沖縄戦」の戦没者に含めると、直接の暴力行為、武力行使だけが問題ではなくなる。

 

戦況全体に鑑みるなら、沖縄地上戦は本土防衛の時間を稼ぐための「捨て石」と位置付けられていた(注4)。そして「本土」出身の戦死者の内訳では、最多数は北海道から送られた兵士であり、その中にはアイヌ兵士が含まれる。この戦いは北方における日本の植民地政策とも無縁ではなかった(注5)。

 

(注4)沖縄戦の組織的戦闘が終わったことを受け1945年6月26日付『北海道新聞』の社説は「沖縄の戦いによって稼いだ『時』はわが本土の防衛体制を強化せしめ」たとしており、「本土決戦」までの時間稼ぎに沖縄が使われたことは同時代にも認識されていた。阿部岳「大弦小弦」『沖縄タイムス』2015年6月22日。

 

(注5)橋本進『沖縄戦とアイヌ』草の根出版会、1994年。

 

帝国の支配と差別の構造が凝縮して表れたともいえる沖縄戦の全体像に対し、ユンカーマン監督がとったアプローチは、一見すると多角的だがかなり抑制のきいたものである。「なぜ今基地の問題が起きているのか」、その「歴史的起源としての沖縄戦」という視点から説明することに特化し、慎重に選んだ関係に絞って提示している。

 

例えば第一部で主な語り手となる元日本兵は、住民との関わりについて「異なる文化を持つ人々を差別してしまった」のは誤りであったと告白する。しかし、日本兵が壕から住民を追い出したことはあっただろうと証言するものの、自身の部隊は住民とは行動を別にしていたと述べる。そして彼の証言の大部分は、米軍との戦闘の細部に費やされる。

 

対する元米陸軍兵士の証言で印象的なのは、戦場から救出されようとしているのに「自分の頭部を撃て」と頑なに要求してきたある住民とのやりとりである。元陸軍兵士は「もちろん撃たなかった」が、投降し生きることを禁じる「思想教育の徹底」に戦慄したと回想する。

 

こうして住民と日本軍との関係を語り直す「行為者」の証言は空白のまま、時系列は占領期へと移る。第二部においては、4月1日に米軍の上陸地点となった読谷村における「集団自決」(集団強制死)を知花昌一さんが語る。この出来事は次節で詳述する。

 

読谷では米軍上陸の翌日、140名31世帯の住民が避難していたチビチリガマにおいて集団強制死が起き、85名が亡くなった。チビチリガマに日本兵はおらず女子供と老人だけであった。読谷で起きたことに焦点を合わせると、個々の日本兵の行動は捨象され、加害の構造として沖縄における皇民化教育そのものが強く浮かび上がる。

 

ユンカーマン監督は今回の作品を、沖縄の人はもちろんだが、まず本土の人に見てもらいたいという。それは、普天間基地や辺野古への新たな基地建設をめぐる地元の反応に対し、本土が問題の起源を忘却していることに警鐘を鳴らすのが作品の趣旨であるからだろう。

 

どれほどの負荷を沖縄が強いられてきて今があるのか、知らせる架け橋の役割をこの作品は担おうとしている。また、米軍内部でも性的被害を受けた女性兵士が声を上げ始めた実態を提示し、基地問題を捉えるための視野を広げている。

 

米国出身の監督が日本語によってナレーションし、基地の運命に寄り添いながら時系列を進行させることで、どの立場の語り手ともぎりぎりのところで接点を保つ。彼自身が日米の境界を行き来する人間であり、かつ個々の事件のアクターではないがゆえに証言の聞き手となり得るという、微妙な距離感の上にこのドキュメンタリーは成り立っている。

 

ここで「沖縄戦」に立ち戻るなら、ユンカーマン監督のアプローチが語らずに残した出来事が多いだけ、米軍に撮影されなかった映像が多いだけ、埋めるべき空白の奥行きを感じさせずにはいない。そこに「礎の魂」が呼び起こされるなら、基地の起源としての沖縄戦を伝えるのみで十分といえるだろうか。作中、「沖縄戦」と「占領」期の二つを結ぶ語り手であった知花さんを読谷に訪ねた。

 

 

読谷村 2015/6/22

 

戦前の区画がそのまま残る読谷村波平は所々道路が複雑で、来訪者はGPSがあっても迷う。急カーブに行き止まりと上り下り、対向車が来れば進めない。込み入ってますね、と言うと、運転席の知花さんは「人生とおんなじだ!」と笑った。

 

真宗大谷派僧侶の知花昌一さんは1948年生まれ、波平の出身である。子供時代には米軍のパラシュート降下訓練や演習が日常的に行われ、不発弾もそこここに残っていた。軍のテントから缶詰をさらっては「戦利品」にしガマ(鍾乳洞)で遊んだという。

 

読谷高校を卒業後、技術で身を立てようと溶接工の仕事をし、1969年に沖縄大学へ進学するが大学紛争で校舎がロックアウトされ勉強にならない。当時沖大は自主管理闘争の只中で、学生は学費を納めずに教学維持費を集め、頭割りして教職員に配り大学を運営していた。自治会長に選ばれた知花さんは、沖縄返還の前夜、運動にのめり込んでいった。

 

自主管理闘争は成功したが、今度は1972年4月、沖縄復帰に伴う大学再編構想により沖大の学生募集停止の方針が閣議決定される。学生・教員・職員はこの決定に一体となって反対し、世論の後押しを受けて大学存続を勝ち取った。沖大存続闘争の中心となった知花さんは、この間に3回は拘置されている。

 

少年時代、米軍占領下の祖国復帰運動では日の丸を掲げ、日本国憲法と共に平和主義を実現した日本を本当に素晴らしい国だと思っていた。復帰すれば沖縄もまた軍隊のない基地のない島になるはずと考えた。軍国主義を捨て、日本が生まれ変わったと信じていた。

 

しかし、復帰政策の権力づくのやり方に「復帰とは一方的な本土の尺度で大学まで潰してしまうものなのか」と憤り、日の丸は本土による「裏切り」のシンボルに変わっていく。

 

その後、地域の共同売店を引き継ぐ形で「はんざスーパー」の経営を始め、順調に業績を伸ばしていた1983年、もう一つの転機があった。読谷村のチビチリガマにおける集団強制死の調査活動に関わったのだ。

 

地域の人達は長く、チビチリガマの出来事を隠してきた。自分の子供を死なせてしまったお母さんたちがまだ地域で暮らしている。話に出すのはあまりにも悲しいから触れることはなく、ガマの周辺は年月が経つにつれ草が生い茂り、ハブが出ることもあって近づく人はなかった。知花さんもガマの存在を知らなかったという。

 

そこへ東京から作家の下嶋哲朗氏が訪れる。下嶋氏は移民の足跡を辿っており、事実上「棄民」としてマラリアが蔓延する地域に送られた人々のことを調べていた。その際に読谷出身のおばあと知り合い、断片的な話を手掛かりに、チビチリガマの事件を追ってきたのだった。しかし遺族の口は重く、家を訪ねても誰も何も言わない。公民館に何人かに集まってもらい、ようやく一人が話し出し、それから次々に当時の状況が語られたという。(注6)

 

(注6)調査の経緯は以下に詳しい。下嶋哲朗『南風の吹く日』童心社、1984年。同『生き残る:沖縄・チビチリガマの戦争』晶文社、1991年。読谷村は1980年代になっても村面積の47%がアメリカ軍用地であった。基地建設のため農地を接収された農民は、軍・政府当局の方針で八重山群島の石垣島や西表島、ボリビアへの移民を余儀なくされた。下嶋氏にチビチリガマの話をした当山ウト氏は、読谷から移住した八重山開拓者の一人であった。

 

遺族の証言をもとにガマの内部の調査を行うと、集団強制死の状況が次第に明らかになった。ガマの地面のあちこちに黒い大きな影の様なものがあり、横たわった人間の形になっていた。人型に判別できない影は、幾人もの人が折り重なり亡くなった跡であった。人々の遺体を虫が食べ、やがて羽化して飛び去った後に残った殻が、人影をなしていたのだった。

 

1987年4月、事件から42年が経過して初めて慰霊祭が持たれ、金城実さんの彫刻「世代を結ぶ平和の像」がガマの入口に捧げられた。沈黙を破って話をした遺族は、苦しかった胸の内をあかして「重荷を下ろせた」と言ってくれたが、以降、知花さん自身がチビチリガマの出来事に深くとらわれるようになる。

 

チビチリガマでは、生後3か月の赤ちゃんを含む85名が亡くなった。「自決」という言い方もされるが、ここで亡くなった人の年齢は、0-9歳が27名、10-12歳が15名、13-15歳が6名、つまり乳幼児から中学生までの「子ども」が犠牲者の半数近くを占めた。乳幼児が自ら死のうと決意して「自決」したと考えるのは無理がある。最愛の子を親が死なせたのだ。

 

男性が戦場へ行った後、残ったのは女性と子供、老人だけだった。その中に元兵士の老人が二人、中国へ従軍看護婦として同行した経験のある女性一人がおり、大陸での日本の侵略や南京虐殺の実態を知っていた。そのために「日本軍が中国で捕虜を殺したように、アメリカーの捕虜になればひどい殺されようをする」と考えた。

 

沖縄から従軍した人が中国大陸では日本帝国の侵略の一端を担わされ、日本軍としての「加害」のあり方が、同じ尺度で自らにかえってくると考えたのだった。また、村の人々は普段から、鬼畜米英でヒージャーミー(ヤギの目)の米兵につかまれば、女性は皆強姦され殺される、と教えられていた。

 

 

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シムクガマの入り口部分

 

 

そうした教育を受けていたために、敵に殺されるよりはサイパンでの「玉砕」に倣おうという考えに追い込まれ、母親が娘を手にかけ、狭いガマの中でランプに入っていた石油を撒き、家族同士で殺し合うことになった。なぜそうならざるを得なかったのか。生き残った人達は長く悔やみ苦しんだ。

 

ここからわずか1キロほど離れた場所にはシムクガマというずっと大きな鍾乳洞があり、そちらには約1000人の村人が隠れていた。チビチリガマでは半数以上の人が集団強制死したのと対照的に、シムクガマでは一人の死者も出していない。なぜか。

 

シムクガマにはハワイ帰りの人が2人いた。1000人のうちのたった2人でも、アメリカを自分の目で見たことがあり、英語を話すことのできる人がいた。日本軍の支配下では敵性言語が話せるために「非国民」と罵られたこの人達が、上陸してきた米兵士と話し、竹やりでの抵抗や「自決」をやめさせて人々の命を救ったのだった。

 

皇民化教育とは、日の丸とは何か。チビチリガマは、教育によってなされた強制的な死の現場であった。「日の丸を先頭に、君が代を歌い、天皇の赤子として総動員され死んでいった」。知花さんは調査活動を通じて沖縄戦、とくに集団強制死という出来事を追体験したと言う。沖縄の歴史的体験と戦争の悲惨さが、今日進行している日本の戦争への道に危惧を抱かせた。

 

知花さんの考えには、必ず行動が伴う。行動に裏打ちされずに言葉だけを並べることがない。慰霊祭から半年後の1987年10月、沖縄国体のソフトボール競技開会式においてセンターポールに掲げられた日の丸の旗を引き下ろし、ライターで燃やした。村民や村議会の意向に反して掲げられた旗であった。この事件により「日の丸裁判」の被告となり、全国で初めて「日の丸は国旗なのか」を法廷の場で問うことになった(注7)。

 

(注7)裁判の経緯について、知花昌一『焼きすてられた日の丸:基地の島・沖縄読谷から』社会批評社、1988年。下嶋哲朗『沖縄「旗めいわく」裁判記』社会評論社、1994年。

 

裁判が続く間にスーパーは右翼に放火され、近隣の電柱にビラを貼られ、命を狙うと脅迫された。11月8日にはチビチリガマ慰霊のための「世代を結ぶ平和の像」が完全に破壊された。遺族の気持ちに整理がつき、やっと慰霊祭が行えるようになったばかりである。

 

傍には「国旗燃ヤス村ニ平和ワ早スギル天誅下ス」と書かれたビラがあり、日の丸の付いた二メートル余りのモリが地面につきたてられていた。壊された像は、ガマで亡くなった母親たち、子供たち、兄弟の一人一人を、金城さんが村民の協力を得て再現したものだった。だから像の破壊は、犠牲者が「二度殺された」に等しかった。

 

日の丸裁判は8年がかりで1995年に判決が確定し、知花さんは3500円(旗の代金)の器物損壊で有罪となった。その後は「ゾウのオリ」と呼ばれる米軍のアンテナ基地内の土地使用を巡って大騒ぎになる。

 

これらが一段落し、村議会選挙に出馬。当選した際に、日の丸裁判の時から応援してくれていたある男性が、元ハンセン病患者の人権回復裁判の原告であると知った。それまでにも障害をもつ子供に対する差別や、部落問題、在日外国人への差別に触れてきたが、ハンセン病のことは知らなかった。回復者の支援に携わる中で社会問題に取り組む多くの僧侶がいることを知り、自分の生きる道と定めた。【次ページにつづく】

 

 

 

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