逃げることさえ許されなかった――ハンセン病患者の沖縄戦

1945年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍は南北に分かれて島を制圧していきます。愛楽園には4月21日に米軍が進攻し、園は占領され終戦を迎えました。それまでに計8回の空襲がありましたが、入所者は自ら掘った防空壕に避難できたため被弾死は一人に留まりました。

 

しかし不衛生な壕生活や栄養失調状態が長く続いたため、次々と入所者が死亡します。本病を悪化させ死んでいく者、アメーバ赤痢やマラリアにかかり衰弱死する者、食糧不足からくる餓死や中毒死。入所者自治会の調査によると、愛楽園では1944年10月から終戦翌年の1946年末までに315人が死亡しています。

 

その多くは前年の軍収容で入所した人々で、壕の壁にもたれて座ったまま死んでいても、名前さえ知らない病友だったといいます。

 

 

写真2

愛楽園内に残る防空壕。園長の名をとって「早田壕」と呼ばれている(2015年1月沖縄愛楽園自治会撮影)

 

 

入所者の証言に次のようなものがあります。

 

「(園長が言うには)ぼくは救ライに大きな功績を残した、なぜかというと、救ライということはライを撲滅させることだから、患者を一人でも多く殺すことは救ライにつながっているんだと。(中略)ぼくは任期中に百何名か殺したと。だからこれが戦後、金鵄勲章もんだといってですね、いばるんですよね。それを聞いた時には、われわれには人権はないのか、ということですよね」

「ここは病院だといって赤十字のマークをつけたら爆弾が落ちないんですよ。で、それ(園長に)進言したわけですよ。赤い赤十字をたてるといったらですね、ここに爆弾を集中させておけば、軍人のほうは軽くすむんじゃないか、だからあんた方はこれで耐えておけと。爆弾をたくさん落とさせておけば、それで儲けものだと、それだけ軍隊のほうに落ちないからいいんじゃないかと」

(『沖縄県史』10巻、1974年)

 

沖縄戦において、避難民を壕から追い出したり住民の食糧を奪ったり、捕虜になるのを許さず住民を殺害する者がいたりと、日本軍の残虐な行為について言及されることがあります。それは追い詰められ、極限状態に陥った中での行為だったかもしれません。

 

しかし、ハンセン病患者について考えたとき、軍や政府・園当局は極限状態に陥るずっと前から、患者を守るつもりはなかったし、患者が飢えて死ぬことも構わなかった。自分たちが手をかけずに死んでくれればむしろ幸い、くらいの感覚でいたとしか思えないのです。

 

入所者たちは、自ら体を傷めて掘った壕の土の上で、湿りきった、カビの生えたムシロの冷たさを背中に負いながら、虫けらのようにひっそりと死んでいきました。

 

 

砲弾の下で――「死ねばいい」と言わせる極限

 

「戦争はひどくなり、もうあっちにもこっちにも逃げ場がなくて、どこにいけばいいのかって半年以上山に隠れていたよ。そのとき、別の場所にいた親戚のおばさんが「Sの上に爆弾が落ちればいい」と言っていたと人づてに聞いて。この病気だから私を憎んでいたらしい。私はこれだけはいつまでも忘れられない。だから戦争中、どこで死んでもいいという気持ちが私はあったわけ、この病気で。」

(Sさん(女性)証言 2006年12月 筆者聞き取り)

 

日本軍による強制収容を免れた離島の患者たちは、戦火に追われるだけでなく地域住民の剥き出しの差別にも対峙していました。地上戦の恐怖にさらされる極限状態の中で、人々のハンセン病者に向けられた憎悪感情は鋭さを増し、砲爆撃以上の威力で患者を傷つけたのです。Sさんは戦後、自分の病気が原因で息子にも差別が及ぶことを懸念し、病気ではない息子も連れて自ら愛楽園に入所しています。

 

当時18歳だった山城清子さんは、一緒に山中に避難しようと言う祖母に「私は行かない。死んでもいい」と答えました。「自分が病気しているから人にも嫌われるし、一緒に行こうって言われても行けないさ」と、一人、壕に身を隠したのです。

 

ときには、迫り来る米軍機に向かって「殺してくれ」と道の真ん中で大の字に寝転がってみたりしましたが、「やっぱり怖くて。近くに落ちていた枝切れを持って『偽装』したんだよ」と笑います。

 

一方で、沖縄戦被害の甚大さは、却って自分の存在を消すのに好都合だったと振り返る方もいます。自身の病気のために家族みんながいじめられ、学校も仕事も行けず、本土や南洋に逃げた。

 

「私たちにすればね、戦争があったほうがよかった。(皆、自分のことに精一杯で)なんにも音沙汰がなくなるさね、私のことも。それで終戦後はいじめられないようになって。戦争して負けたんだけど、自分たちの幸せは戦争があった方がいいって」

(『沖縄県ハンセン病証言集 沖縄愛楽園編』2007年、吉田順子さん(女性)証言)

 

沖縄戦の惨劇を二度と繰り返してはならない、と体験の継承に取り組む者にとってあまりに衝撃的な証言です。しかし、想像を絶する差別社会がそこに確かにありました。「戦争があったほうがいい」と言わせるほどの差別社会を営んでいたのは、まぎれもなく一人一人の市民だった(それは沖縄戦の被害者でもある)ことに、無自覚ではいられません。

 

幾重にも複雑に交差する被害の諸相と、また別の角度から見えてくる加害の実態を、単純化せずに伝える努力が私たちには求められます。

 

 

おわりに

 

最近、「THINK NOW ハンセン病」というプロジェクトに寄せられたマツコ・デラックスさんの言葉にはっとさせられました。

 

「もし、本当の意味でハンセン病への差別や偏見がなくなったら、この先本当に、差別や偏見をゼロにするきっかけになるんじゃないかと思っています。(中略)いまネットを開けば、本当は胸に秘めていなければいけない人に対する憎悪を、簡単に書きこめて世の中に見せることができてしまうことができる状況がある。これからそれが助長していくと、ますます差別や偏見が生まれやすい状況ができてしまう気がしていて。そんな中で今一度、ハンセン病について振り返る・知るという行為が、何か、光明になるんじゃないかっていう思いがしています。」

(マツコ・デラックス「THINK NOW ハンセン病Part2」

 

「ハンセン病問題を学ぶ」のではなく、ハンセン病問題に普遍性を見出し、日々の暮らしにどう活かしていけるのか。自分と社会と歴史とが常につながっていることを意識しながら、私たちが五感を研ぎ澄ませて想像しなければならない過去とはなにか。単純ではない今の社会のありようを思いながら、だからこそ、彼女の言葉に多くの可能性を感じます。

 

翻って、ハンセン病患者が辿らされた沖縄戦の実相を、私たちはどう受け止めることができるでしょうか。

 

今回紹介した多くの入所者証言は、「なぜ今さら、思い出したくもないことを語らせるのか。語っても差別はなくならんよ」と証言を拒む方たちに、「みなさんの語りがきっと社会を動かす。どうか記録させてください」と説得し、血を流すような思いで語っていただいたものばかりです。あとは、それを受け取る私たちの感性と責任にかかっています。

 

今年6月、沖縄県名護市にある国立療養所沖縄愛楽園に「交流会館」が開館しました。沖縄のハンセン病問題をめぐる資料・証言にぜひ一度ふれていただき、何か心がざわざわしたらきっとそこがスタートだと思います。

 

交流会館のすぐそばには、美しい屋我地島の海も広がっています。同じ景色を何百人何千人の入所者が見つめ、生きて、死んでいったか、思い描いてみて下さい。この土地に刻まれた歴史を、多くの方々と共有していきたいと、強く願っています。

 

※ 沖縄愛楽園自治会ホームページ

 

 

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vol.272 

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