震災直後の首都圏で何が起きたのか?――国家・メディア・民衆

はじめに――問題の提示

 

この報告は関東大震災の朝鮮人虐殺事件に関わる諸問題中、下記の3点に焦点を置く。(9月5日、東京大学駒場キャンパス学際交流ホールで開催された、「ジエノサイド研究の展開」公開シンポジウム「関東大震災から81年――朝鮮人・中国人虐殺を再考する」での基調報告)

 

 

(1)二重の国家責任

 

日本国家は一九二三年九月一日に起こった関東大震災に際して朝鮮人が暴動を起こしたという誤認情報を流して朝鮮人虐殺事件を引き起こした。これが第一の国家責任である。その責任を認めたことはないのみならず、その責任の隠蔽をあらゆる手段を使って行なった。これが第二の国家責任である。つまり日本国民は罪を犯した上にその犯罪を隠すという二重の罪を犯した。

 

一九二三年一二月一五日、衆議院本会議で永井龍太郎は内務省警保局長の電文や埼玉県内務部長の指令など、官憲が朝鮮人暴動のデマを流した証拠を突きつけて政府に謝罪を迫ったが、首相山本権兵衛は「政府は起こりました事柄に就いて目下取調進行中でござります」と誤魔化し答弁をして、永井の質問をはぐらかした。

 

実際は、朝鮮人虐殺の国家責任を隠蔽する政策をほぼ実行し終わっていた。以来、日本政府は山本内閣の政策を踏襲してきた。在日朝鮮人から人権救済申し立てを受けた日本弁護士連合会は、二〇〇三年八月二五日、小泉首相に対してこの事件に関する謝罪の勧告書を提出したが、首相から回答はない。やはり山本内閣の政策を踏襲するのであろう。

 

 

(2)民衆責任

 

戦前、日本人が作った朝鮮人被虐殺者の墓碑は8つあるが、いずれも「鮮人之碑」(埼玉県本庄)とか、「法界無縁塔」(千葉県の船橋仏経連合会建立)とか、あるいは「鮮覚悟道信士」と戒名を書くだけで(埼玉県児玉郡児玉町浄眼寺)、日本人が殺したことを記した碑文は全くない。

 

戦後日本人が建立した朝鮮人被虐殺者の墓碑は6つ、日本人が朝鮮人から健碑の提案を受けて共同で追悼碑を建立したが、碑文を日本人が書いた碑は3つある。戦後の碑にこうしたことは繰り返してはならないという反省が書かれるようになるが、しかし日本人が殺したことを記した碑文は未だに1つもない(史料1、2。詳しくは拙著「関東大震災時の朝鮮人虐殺――その国家責任と民衆責任――」創史社、二〇〇三年、二一九―二四九頁参照)。

 

■史料1 埼玉県児玉郡上里町神保原安盛寺境内の「関東震災朝鮮人犠牲者慰霊碑」碑文、一九五二年建立。

大正12年関東大震災に際し、朝鮮人が動乱を起こしたとの流言により東京方面から送られて来た数十名の人々がこの地に於て悲惨な最後を遂げた。……我々は痛恨の中にもこの碑の建立によって過去の過ちを再びくりかえすことなく、今后互にアジアの同胞として相親しみ、深き反省と自重とをもって相たずさえて永遠に平和な東洋の建設に邁進したい。……(柳田謙十郎撰文)。

 

■史料2 埼玉県本庄市東台五丁目長峰墓地内「関東震災朝鮮人犠牲者慰霊碑」の碑文、一九五九年建立。

一九二三年関東震災に際し朝鮮人が動乱を起こそうとしたとの流言により東京方面から送られてきた八十六名の朝鮮人がこの地において悲惨な最期を遂げた。我々は暗い過去への厳粛な反省と明るい未来への希望をこめてこの碑を建立し日朝友好と世界平和のために献身することを地下に眠る犠牲者に誓うものである。(安井郁撰文)。

 

日本人が虐殺主体であることを明記したのは、朝連千葉県本部が建立した史料3の碑の碑文しかない。その後、朝鮮人・韓国人により建立された追悼碑では、日本人への気兼ねか、虐殺主体への明確な言及はない。

 

■史料3 千葉県船橋市馬込霊園内在日本朝鮮人連盟千葉県本部建立。「西紀一千九百四十七年三・一革命記念日竣成関東大震災犠牲同胞慰霊碑」

……当時、山本軍閥内閣は戒厳令を施行し、社会主義者と朝鮮人らが共謀して暴動を計画中という無根の言辞で在郷軍人と愚民を扇動・教唆し、社会主義者とわが同胞を虐殺させた(原文は朝鮮語)。

 

柳田謙十郎も安井郁も、朝鮮人を虐殺した地元の民衆に気兼ねして、碑文から虐殺主体を省いたのであろう。しかし日本の民衆が朝鮮人虐殺の自己の責任を曖昧にしていたのでは、日本国家が虐殺責任を認めて謝罪するはずもない。

 

ここに今日も清算されていない朝鮮人虐殺責任が民衆の側にもある。日本民衆は朝鮮人虐殺に加担した原因を自ら解明し反省すると同時に、国家責任を解明することが、その責任であろう。

 

 

(3)新聞の責任

 

「報知新聞」は報道によって官憲が流言を流したことを報じ続けた新聞であった。しかも最底辺の被害者である朝鮮人に目を向けた。前者の点は『東京日日新聞』もなしたが、後者は『報知新聞』のみがなしえたことだった(注1)。

 

(注1)この点に関しては、山田編『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料Ⅴ朝鮮人虐殺関連報道史料』別巻(緑蔭書房、二〇〇四年)中の解説論文「関東大震災時朝鮮人虐殺事件に関する新聞報道と論説の諸傾向」を参照されたい。

 

『報知新聞』は事件一周年に近い一九二四年八月二九日付夕刊で「流言の火元は官憲だと証拠だてる事はいくらでもあるが、お役人で責を負ったものは一人もいない。結局永遠の暗に葬られじまいである。」と、事を慨嘆した。

 

しかし新聞は全般的にはこの事件以前から朝鮮人の解放・独立運動に偏見をもたせる報道しかしなかったし、事件当時も政府の政策に追随するだけだった。この新聞の責任も視野に入れたい。

 

 

関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の歴史的前提――在日朝鮮人の増大や朝鮮人の独立解放運動の発展と日本の国家・新聞・民衆

 

(1)在日朝鮮人の増大とその生活

 

在日朝鮮人労働者の起源は古く、すでに一八九〇年代に福岡県の筑豊炭田や佐賀県の炭鉱で彼らは働いていた。

 

在日朝鮮人が急速に増大したのは第一次世界大戦中の一九一七年頃からである(表1)。関東では京浜工業地帯に朝鮮人は集中した(表2)。一九二三年の関東在住朝鮮人は一四、一四四人、東京府・神奈川在住朝鮮人は一二、二一二人であった。

 

 

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表1 在日朝鮮人人口(推計)と渡航数・帰国数

 

 

表2 関東地方の府県別朝鮮人人口

表2 関東地方の府県別朝鮮人人口

 

 

戦争のために欧州諸国の輸出がとだえたので、日本の工業製品に対する海外からの需要が増大し、日本資本主義は急速に発展したために労働力不足が生じた。日本の企業は低賃金の朝鮮人労働者を求めた。

 

他方、朝鮮では農民が没落して、農業だけでは生活できなくなり、出稼ぎせざるをえなくなっていた。その最初のきっかけとなったのは一九一〇年から一九一八年にかけて行なわれた土地調査事業で、その結果、自作農や自小作農が分解し、一方の極に地主が、他方の極に小作農が増大した(表3)。

 

 

表3 朝鮮地主・自作・自小作・小作戸数とその比率

表3 朝鮮地主・自作・自小作・小作戸数とその比率

 

 

原因は色々あった。それまで事実上農民の所有だった駅屯土や帝室財産の土地が国有地に編入されて、農民は小作農に転落した。地主が共有地を自己の私有地に編入して農民が使用できなくなることもあった。また土地を申告しないで没収された農民もいた。当時、文字を知らない農民も多く、書類をつくり、煩瑣な手続きを限られた期間にすることが困難な農民も多かった。

 

日本側の吸引要因と植民地朝鮮の排出要因が重なって、在日朝鮮人が急速に増大した。彼らは日本人の五〇%から八〇%の資金で、炭鉱や土建など危険な職場で働いた。

 

第一次世界大戦終了後の不況期になると、企業は日本人労働者よりも低賃金の朝鮮人を使って不況を乗り越えようとする傾向を示したので、失業におびえた日本人下級労働者の朝鮮人労働者に対する態度は蔑視から労働市場での競争相手としての敵視へと変わった(前掲拙著、五五―五七頁)。

 

■史料4 在日朝鮮人の労働条件

1、一般に内地人のそれよりも賃金の低廉なること

2、労働時間の他より長きこと

3、危険の伴う仕事、汚い仕事、労苦の多き仕事

(東京府学務部社会課『在京朝鮮人労働者の現状』一九二九年。朴慶植編『在日朝鮮人関係史料集成』第二巻、三一書房、一九七五年、九七一頁)。

 

 

(2)朝鮮人の独立解放運動の発展と日本の治安当局の在日朝鮮人、特に在京朝鮮人に対する警戒心の増大

 

一九一九年三月一日に起こった三・一独立運動は巨大な運動だった。三月一日から四月二十九日にかけて二一二府群で一二一四回のデモに延べ一一〇万人以上が参加した(金鎮鳳「三・一運動と民衆」、高在目編『三・一運動50周年記念論文集』東亜日報社、一九六九年、三六五頁)。

 

それ以後も義烈団のテロ闘争や中国東北部(満州)に拠点を置いた独立軍の武装闘争が高揚して、日本の支配者の心胆を一層寒からしめた。三・一運動に対する武力鎮圧がこのような形の独立運動を呼び起こした。

 

在日朝鮮人の運動も、三・一運動に励まされて高揚した。一九二〇年六月に刊行された内務省警保局保安課『朝鮮人概況』第三も、このことを認めて、在日の「不逞鮮人の排日思想が大正八年の独立騒擾以来益々硬化の跡あるは注目すべきところなり」と述べた。

 

同書によると、要視察朝鮮人、つまりブラックリストに登録された朝鮮人は二一二人、このうち東京にいるそれは一五五人で、全員の七三%を占めた。その原因は同書が言うに東京には朝鮮人留学生が集中していたからである。

 

同書によると、一九二〇年六月末現在、日本全国の朝鮮人学生数は八二八人、東京にいる朝鮮人学生は六八二人で全国のそれの八二%だった(朴慶植編『在日朝鮮人関係史料集成』第一巻、三一書房、一九七三年、八三頁、一一七―一一八頁)。

 

三・一運動直後に東京に留学した金山(キム・サン)こと張志楽(チャン・ジラク)の回想によると、当時東京にいた朝鮮人学生の「三分の一が貧乏な『働きながら学ぶ』学生」で、彼らは金持ちの別の一派の朝鮮人学生より知的に進んでいて「みんなマルキシズムを勉強していた」(ニム・ウェールズ著、松平いを子訳『アリランの歌――ある朝鮮革命家の手記――』岩波文庫、一九八七年、八九―九〇頁)。

 

三・一運動以前から治安当局は「東京は庁府県中要視察人最多の地」として警戒していた(内務省警保局保安課『大正七年五月三十一日調 朝鮮人概況』第二。朴慶植編、前掲書、六二―六三頁)。三・一運動後ともなれば、治安当局の警戒が在京朝鮮人に一層集中するゆえんであった。一九二一年七月二八日、警視庁に内鮮高等係が置かれた(警視庁史編さん委員会『警視庁史』大正編、一九六〇年、一〇七頁)。

 

一九二一年一一月には在京の朝鮮人社会主義者・無政府主義者が黒涛会を組織した。この会は分裂し、一九二二年一一月には社会主義者は北星会を、無政府主義者は黒友会を結成した。この月には東京朝鮮労働同盟会が結成された。

 

内務省警保局長はこの動きを警戒し、一九二三年五月一四日付けの通牒で在日朝鮮人労働者が「往々にして社会運動及労働運動に参加し、団体的行動に出でんとする傾向の特に著しきものあり」と各地方長官に注意を促した(朴慶植編『在日朝鮮人関係史料集成』第一巻、三一書房、一九七五年、三八頁)。

 

一九二三年の春には朝鮮人に対する日本の治安当局の警戒心と弾圧は極度に達した。この年の三月一日、警視庁は京浜在住の朝鮮人が上海フランス租界の上海高麗共産党やハワイの朝鮮人団体と連絡を取って何事か策しているというデマ情報を入手して、東京市とその周辺の群の朝鮮人居住地帯一帯を厳戒した(『東京朝日新聞』一九二三年三月一日)。

 

この年の五月一日のメーデーに際しては、警視庁は社会主義者、その他思想団体の参加を禁じた(『読売新聞』一九二三年五月一日)。思想団体として重視されたのは朝鮮人団体だった。参加禁止にもかかわらず、メーデーに参加した朝鮮人に対しては警官隊は殴る、蹴るの暴行をして検束した。翌日の『東京日日新聞』はその状況を「見る人の目にも残忍そのものを思わせた」と報じた。

 

 

(3)新聞と「不逞鮮人」像の流布

 

この頃には「不逞鮮人」という言葉がよく使われた。「不逞」とは、岩波書店刊行の『広辞苑』によると「①不平をいだき、従順でないこと。②勝手な振る舞いをしてけしからぬこと。ずうずうしいこと。」という意味である。

 

しかしこの当時は「不逞鮮人」とは朝鮮の独立解放を目指す朝鮮人を指した。民族自決は当然の権利であって、不正なことではない。それを「不逞」というには、日本の植民地支配を批判も抵抗も許されない日本国家の聖域と考えるところから発生した。

 

例えば朝鮮人の独立運動に関する当時の新聞の見出しを紹介すると史料5のようで、たいがい「陰謀」とか「不逞」というレッテルが貼られた。しかも「不逞鮮人」とは殺人鬼のように報じられた(史料6)。

 

■史料5 朝鮮人の独立運動に関する新聞記事の見出し

朝鮮独立の陰謀暴露して李鋼公以下関係者取押らる(『読売新聞』一九一九年一一月二八月)

耶蘇教徒より成る朝鮮婦人陰謀団 青年外交団の検挙より内情暴露し十四名逮捕(『東京朝日新聞』一九一九年一二月一九日)

不逞鮮人が独立陰謀の顛末 暗殺放火強盗を恣にす(『読売新聞』一九二〇年八月一八日)

鮮人釜山署に爆弾を投ず 署長は軽症を負い 兇漢鮮血に塗れて人事不省に陥る(『東京朝日新聞』一九二〇年一〇月四日)

市内各所に出没して陰謀を図る不逞鮮人団 何れも上海仮政府の巨頭 連密談のわが警部を絞殺す 警視庁の大活動(『東京朝日新聞』一九二一年三月二日夕刊)

日比谷の密儀俄然大発展 不逞鮮人や過激派の巨頭連が入京して社会主義者と連絡の形跡 警視庁活動す(『東京朝日新聞』一九二一年一〇月二八日)

 

■史料6 新聞の朝鮮人報道に対する中西伊之助の批判

私は寡聞にして、未だ朝鮮国土の秀麗、芸術の善美、民情の優雅を紹介報道した記事を見たことは、殆どないと云っていいのであります。そして爆弾、短刀、襲撃、殺傷、――あらゆる戦慄すべき文字を羅列して、所謂不逞鮮人――近頃は不平鮮人と云う名称にとりかえられた新聞もあります――の不逞行動を報道しています。それも、新聞記者の事あれかしの誇張的筆法をもって。

若し、未だ古来の朝鮮について、また現在の朝鮮及朝鮮人の知識と理解のない人々や、殊に感情の繊細な婦人などがこの日常の記事を読んだならば、朝鮮とは山賊の住む国であって、朝鮮人とは、猛虎のたぐいの如く考えられるだろうと思われます。朝鮮人は、何等考慮のないジァナリズムの犠牲となって、日本人の日常の意識の中に、黒き恐怖の幻影となって刻みつけられているのであります。……私は敢えて問う、今回の朝鮮人暴動の流言蜚語は、この日本人の潜在意識の自然の爆発ではなかったか。この黒き幻影に対する理由なき恐怖ではなかったか。(中西伊之助「朝鮮人のために弁ず」『婦人公論』一九二三年一一・一二月合併号。琴秉洞編(関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料 Ⅲ  『朝鮮人虐殺に関する知識人の反応』1、緑蔭書房、一九九六年、二六七頁)

 

一九二二年一一月に朴烈・金子文子が東京で創刊した『太い鮮人』創刊号は、「不逞鮮人」像を抱く日本人労働者に対して次のように訴えた。

 

「日本社会で酷く誤解されて居る『不逞鮮人』が果たして無暗に暗殺、破壊、陰謀を謀むものであるか、それとも飽くまで自由の念に燃えて居る生きた人間であるかを、我々と相類似せる境遇に在る多くの日本の労働者に告げる……」

 

日本の新聞は中西が指摘したように、日本人に朝鮮人の運動に恐怖感をも抱かせた。しかし問題はそれだけではない。朝鮮人の運動に「不逞」、「陰謀」というレッテルを貼って民族自決という倫理的正当性を奪った。その結果、日本民衆の多くは朝鮮人に対する民族的偏見を一層強め、いたずらにこれに対する恐怖や敵意、蔑視を持つようになったと思われる。【次ページにつづく】

 

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