3.11以後の世界とSF第一世代の可能性

SF漫画史における内田善美

 

稲葉 80年代は内田善美の影響は強くて、あの山形浩生ですらどこかで『星の時計のLiddell』の話をしていたはず。美しい中二病と言うんですかね。80年代にまんがや小説を読んでいた人にはこの小説の内田善美的なるものがビビッドに響いてくる。内田善美の『空の色に似ている』は、まあありがちな「ありえなかった過去への郷愁」ですよね。だけど、ありえなかった過去への郷愁という感情に支配されながらも、その延長になんとか現実の未来をつかみとろうという苦闘にも見えました。そういう意味では、内田善美さんはそこから出ることに失敗して筆を折ってしまったのではないかと僕は思っています。似たような意味で、筆こそ折らなかったけれども、作家として挫折されたまんが家さんとしては、川原泉さんがおられると思う。

 

新城 内田善美さんが出ようとして出られなかったのか、出ないことを選択したのか分からないですけど。内田善美さんの影響は圧倒的に大きいですし、フィニイを知ったのも内田さん経由なんです。初期の短編で目にしたのが最初だと思います。

 

稲葉 内田善美さんで連想されるのが先ごろ亡くなられた佐藤史生さんです。まさに「地方中核都市の名門高校の優等生」を主人公にした『死せる王女のための孔雀舞』、あれだけが復刊されていないのも暗合といいますか(2012年5月復刊)。

 

新城 佐藤さんの話はどれを読んでもそういった味わいがあって、『ワン・ゼロ』なんかも自分たちが転生したという事実はさておき優等生たちがワサワサやっている、というあたりが非常に面白い。そういう意味では『ワン・ゼロ』にも大いに影響を受けています。

 

稲葉 『ワン・ゼロ』は早い時期における、ネットワークをテーマにした日本版「サイバーパンク」ですね。でも作品を支配している感情は多くの「サイバーパンク」とは少し違う。「ありえなかった過去への郷愁」に対応した「宙に浮いた土着性」とでもいうか。

 

新城 内田善美さんにあるのはノスタルジーでありメランコリーですよね。

 

稲葉 80年代を代表するSF漫画として内田さんの『星の時計のLiddell』は一時期はとても重要な漫画として愛読されていました。僕は全部読めてないんですが。SF漫画史における内田善美というのは1つのテーマだと思います。

 

新城 再評価というか、内田善美さんは今こそちゃんと評価されないといけないと思います。

 

稲葉 すごく愛されているんですけど、おそらくはご自分の意思で再版されてないんですよね。大泉実成さんの『消えたマンガ家』でありましたよね。

 

新城 とにかく現物が手に入りにくいので若い人が読んでいないのが悲しいです。文化的損失ですよ。もちろん、ご本人が意図しておられるのであれば仕方がないですけど。私自身は内田善美さんあり、ジャック・フィニイありの思春期で、そういうのがものすごく好きすぎて、だからこそ過去に戻る話をまだ書いてはいけないと思ったんです。書いてもフィニイのパクリにしかならないだろうという気がしていて。それを下敷きにしつつ、青春SFにするとこうなったわけです。

 

 

『首都消失』の考古学的楽しさ

 

稲葉 『蓬莱学園』の経験とつながっていると思われますか?蓬莱学園の設定ですが、学校という仕掛けは便利なんですよね。自覚的に学校という設定を選んでおられるんでしょうか。

 

新城 直接的にいうと、蓬莱学園的世界で使ったネタをいかに使わずに話を進めるかという縛りとして、学校を選んだ記憶がありますね。読んでいただければ分かるんですが、学生なんだけれど夏休みなので授業だとか学校の話がほとんどなくて、同級生もほとんど出していないんです。こういう街でこういう状況でああいう頭のいい奴がいたら、ほかの頭のいい奴のネットワークや頭のわるい奴のちょっかいとか、休みの間でも絶対にあるはずなんですよ。でもそこを話の都合上すっとばしてしまって。

 

蓬莱学園というのは学校が面白いので休みになってもみんな学校にくるんです。そこで描けなかった夏季休暇の話をしたかったというのもあります。あと、経済学や社会学に興味を持ったのは蓬莱学園のゲームをマネジメントした経験が大きかったです。3000人くらいの人間に個別に1人ひとり会うのと一度に会うのとでは質的に違うんですよ。人間集団というのを感じ続けた経験なんですね。それは文学的興味としての人間とは違った、全体としての人間集団ってなんなんだろうということに興味が湧いたことを覚えています。

 

田中 日本経済という言い方をよくしますけど、それを把握している経済学者はそんなに多くないんです。その方法は2つあって、1つは論理的に把握するという方法があります。もう1つは直観ですよね。意外と経済学者は直観で把握した人間が成功しやすい傾向にあります。ケインズなんかはその代表です。彼はGNPなどという概念以前の人間なのでイギリス経済を直観で捉えているんです。

 

政治家は日本のためにという言い方をしますが、日本をイメージできている政治家はほとんどいないと思うんですよ。政治の中には日本とか世界とかを論理的に構築する手法はないわけです。なので、直観ベースで成功しているかどうかになるので、それができる人間はごく少数だろうと思います。論理的な集合表象が確立される前は、例えば、北村透谷は日本の貧困をどうにかしなければならないと語るんですが、全部直観で詩人の心で捉えていて、それ以外はないんです。あくまで直観なのでうまくいっているときはいいけれど、外れると全然ダメなので悩んじゃうんですね。

 

新城 今の話で『日本沈没』のことを思い出したんですが、田所博士が『科学者にとって一番重要なのは直観とイマジネーション』と答えるんですが、外れたらどうするんだろう?と読む度に気になっちゃって。

 

稲葉 あれは書かれた当時は新鮮に読まれた言葉ですね。小松さん自身は竹内均との交流で生まれた言葉だと思うんですが、今ではそんなことは誰でも言える言葉になってしまっていますね。直観と自分が作った理論とどっちを信じるかといえば、理論が信じられなければダメだと言わなければならない局面になっていますね。あの当時あの言葉は、科学は自動手順を踏んでいけばいいというものではないんだということを啓蒙する言葉として印象的でした。

 

新城 あのころはオペレーション・リサーチが流行って、ゲーム理論が出てくるか来ないかという時代で、巨大な組織をアルゴリズムとして理解するんでいいんじゃね?と盛り上がっていたことに対して、小松先生はそうではないと言う言葉だったのかもしれません。あの中で日本の首相の言葉として、「もっと政治をサイエンスにできないものか』云々というのがありましたが、時代の雰囲気はまさにこんな感じだったのかなと。『首都消失』も、政治の科学化・工学化をニューメディアの視点から書いていて、今読むとかえって面白いです。話自体の面白さというより、当時の時代の空気が凍結して残っているのを今見れる、という考古学的な楽しさですね。

 

田中 政治をサイエンスできないかというのは、総体を捉えるのが直観ベースだからですよね。いま『首都消失』を読むとゲーム理論みたいな話ですよね。合理的に動くいろんなプレイヤーがいて、その中でいかに先の手番を読んでいくかという。

 

新城 サブプロットが結構ちゃんとしているんですよ。ロシアのほうに行った外交官が風邪ひきながら必死にデータを送ろうとしたりとか。本当はもっと膨らませたかったんだろうなという気がします。

 

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.2019.4.15 

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