2019.11.15
原発事故と「食」――市場、コミュニケーション、差別
1.なぜ原発事故後7年経って、この本を書いたのか
都市社会学・地域社会学を専門領域とする私は、放射能の「ホットスポット」となった千葉県柏市で、地域の生産者・消費者らによる協働的な放射能測定と情報発信プロジェクトに携わったことを皮切りに、東日本大震災以降、おもに地域づくりと農漁業復興の観点から、放射能災害被災地の食品をめぐるコミュニケーションに実践的に取り組んできた。そんな自身の経験を踏まえて上梓した『原発事故と「食」――市場、コミュニケーション、差別』(中公新書、2018年2月)を、自著紹介したい。
震災後6年以上も経った時期になってこうしたテーマの本をあえて書いたのは、twitterなどを舞台に、原発事故後の放射線リスクをめぐる「罵りあい」が一部の人たちの間で延々と続く一方で、大多数の人々は、終わりが見えない論争を横目に被災地への関心を失ってゆく、そういう状況が私にはどうにも不健全に思えたからだ。そしてこの構図は、その後さらに2年近く経過しても基本的には変わらず、最近では深刻化する日韓関係をめぐる議論をも巻き込んで、ますます政治的な色彩が濃くなってしまった感がある。
いわば、いまだ「風評」被害が根深いとされる一方で、風化が進行していく。それは、事故直後にも増して、ターゲットによって異なる複雑なコミュニケーションが必要とされる状況である。そこにおいて、「デマ」を批判して科学的な説明を繰り返すことだけで、福島県をはじめとした放射能災害の影響を受けた産地の食品の需要回復という、いわば実利的な目的が達成できるのか。
すべての消費者が科学的な事実に納得して福島県産品への偏見を解除し、結果としてその売上が拡大すると想定するのは、あまりにも楽観的なように思われるが、それは同時に、この災害の社会的な悪影響を払拭するうえで(自然)科学に対して過度の期待をし、いたずらに「勝利条件」を厳しく設定しすぎているとも言えないだろうか。
本書で横断的な課題に取り組むにあたって、農業・漁業経済学、社会心理学、リスク研究など隣接諸分野に越境するという、社会学者である自分としてはかなりの「蛮勇」を振るったが、社会科学者(「社会学」者との相違がややこしいが)としての役割は一貫して強く意識していた。
原発事故後の(自然)科学的な放射線リスクの評価は、おおむね決着してきている。社会科学者もその科学的な知見をできる限り理解し、尊重すべきなのは当然だ。しかし、原発事故の社会的影響は巨大で、まだ先が見えないことがたくさんある。そのとき社会科学者に求められるのは、「科学的な正しさ」を社会に伝えるコミュニケーター役、というだけではないだろう。ましてや、借り物の「科学の言葉」を盾に、社会的なハレーションを強引に押し切る役どころではないはずだ。
なぜ「科学的な正しさ」が社会に受け入れられないのかを検討しつつ、「科学的な正しさ」が限定的にしか機能しない社会状況を前提に、その状況下でなおいかに地域の復興をなし遂げるか、そして、リスク判断の異なる人々が決定的に分断しないような社会的な規範をいかに構築しうるか。そうしたトピックを、広い地域の人々が福島県に関わるチャンネルとして最も一般的な「食」をテーマに、社会科学者としてあくまで「社会の言葉」で考え切ろうとしたのが、この『原発事故と「食」』である。
2.市場で起こっていたこと
前記のような状況認識と問題意識のもと書かれた本書では、震災後7年となる福島県産品をめぐる課題を4つのレイヤーに分けて論じ、それぞれの消費者層に対して異なってくる、有効なマーケティングやコミュニケーションを4つの各章で検討している。
すなわち、1)大多数と想定される福島県産品を避けることのない消費者でも、スーパーの棚にそれらが「置かれていなければ買いようがない」問題、2)普段は放射能問題を意識していないが、福島県産品の現状に関する情報アップデートがなされていない「悪い風化」という問題、3)情報発信主体に対する不信感の強い層に対する信頼構築の課題、4)いかにコミュニケーションを尽くしてなお一定割合残ると想定される、強固な忌避感を持つ消費者層との社会的共生の課題、である。以下、それぞれについて、駆け足になるがみていこう。
2013年から継続的に「風評被害に関する消費者意識の実態調査」を行ってきた消費者庁の最新の調査結果(2019年3月)では、放射性物質を理由に福島県産品の購入をためらう消費者は12.5%となっている。この調査は設計上、小さめの数字が出がちではあるが、ほかの近年の調査でもこの比率は10%台から20%前後の数字となっており、「売っていれば福島県産を避けることなく買う」消費者が大多数であることは間違いない。そうなると、福島県産品の売上が回復しない問題の大半は、消費者の選択が発生する以前の流通段階で起こっているということになる。
ただ、品目によって経験してきた道筋は相当に異なる。たとえば、福島産野菜の代表格であるキュウリでは、全国的な豊作で市場がだぶついていた2012年を除けば価格下落の影響は限定的で、2013年には全国平均単価より高値に回復している。
それに対して、県の農業産出額全体の3割程度を占めるコメでは、浜通り・中通り産のコシヒカリが、2011~15年にかけて全国の産地の中でも最下位とブービーを争ってしまったように、「風評」被害の影響が長引いた。コメは、生産段階でのセシウム移行低減対策が早期に研究されてそれが県内農家に浸透し、出口にあたる出荷段階では全量全袋検査という空前絶後の綿密な検査体制が敷かれていた――すなわち、懸念の余地がない最も高度な安全性が確保されていたにもかかわらず、である。
また、漁期には全国の巻き網・一本釣り漁船がほぼ同じ沖合の海域で操業をすることから、2011年当初から完全な「風評」被害であったと言い切りやすいカツオの水揚げが、いわき市の小名浜港や中之作港にほとんどなくなってしまったのはなぜか。こうした状況を理解し、今後の適切な戦略を展望するために、いくつかの代表的な福島県産品の品目ごとに市場特性や流通構造を検討したのが、本書の第1章である。
そして、原発事故当初の「風評」をきっかけに福島県産の代替となった産地が、それぞれに努力を重ねて小売りの棚に食い込み、原発事故後数年経つと、変化した市場構造が固定化していく。そこであらためて小売りや卸が福島県産を再び取り扱うためには、一定のスイッチングコストがかかるうえに、福島県産に懸念を持つ「声の大きい消費者」のクレームに対して、流通の各段階で過剰に忖度する傾向もあるからだ。
本書出版後に筆者も関わった農林水産省の平成30年度福島県産農産物等流通実態調査では、流通の川下(たとえば、卸売業者にとっての小売・加工・外食、小売業者にとっての消費者)の福島県産品取扱・購入意欲を、実際よりも低く見積もる傾向が顕著にみられた。これは、「風評」被害がいまだに存在する、と流通各段階が過剰に想定することで、結果として福島県産品が「売られていない」「買いたくても買えない」状況の発生を示唆しているとも考えられる。「消費者の知識不足による忌避、売上低迷」という従来の「風評」被害スキームそのものも、そろそろ更新すべき時に差しかかっているのかもしれない。
3.「悪い風化」に対処するには
風化というのは、復興にとって必ずしも悪いことではない。災害や事故があったことをすっかり忘れ去って、元のような消費者意識に戻るとしたら、生産者の立場としては歓迎しない理由はない。
ただ、原発事故当時の強烈な映像の記憶からくる何となく悪い印象を心に残したままの人に、ふとした時に出会うことは、首都圏でもしばしばある。普段はこの問題を全く意識しなくなっているので、アンケート調査でそう答えるほど首尾一貫して福島県産品を避けているわけではないが、売場に選択肢があればなんとなく避ける――そんな計量的に把握することは難しいが確実に存在する状況を、本書では「悪い風化」と呼び、それへの対処を考えるのが第2章である。
先に引用した消費者庁の調査では、放射線リスクが気にかかる地元産が日常的に周囲にある福島県の消費者こそが、当初は最も福島県産品を避ける傾向にあったのが、食品検査状況などを他県民とは比べものにいならないほどしっかり把握することで、他県以上に福島県産品を忌避しないようになっていく経過が、はっきりと示されている。
では、全国的に、いや世界的に、県内並に福島県産品の検査状況を報道し、放射線リスクに対する「正しい知識」を持ってもらうことが解決の道なのだろうか。素直に考えればそうなるが、この方針はどうやら、原発事故から年月が経過すればするほど、あまり分がよいものではなさそうだ。他都府県はもちろん、当の福島県内においてさえ、検査状況の把握や放射線知識が、年を追ってあやふやになる傾向もまた顕著だからだ。
人は、何かの事象に対して関心が高く、急迫性を感じている場面でこそ、その情報をしっかり考えて摂取しようとする。逆に、関心が低下して、報道があっても「聞き流す」ような状況になってしまうと、いったん抱いた判断を再考したり、認識の誤りを正したりすることは非常に難しい。こうした人間の意思決定のあり方は、社会心理学でいう二重過程理論で説明できるが、風化の問題を考える際に重要な視点であろう。
では、どうするか。まずは「福島の野菜や魚のことが知りたい!」という消費者の強い興味を惹くところから始めないと、福島県やその産品の現状をアップデートすることも起こりえないわけであるが、そこには福島県産品全体に適用可能な絶対の「王道」はない。それはもはや、放射線・原発不安や「風評」の払拭という課題を大きく超えたところで、多数の商品から消費者の好奇心、ひいては購買意欲を喚起するという、普通のマーケティングの領分になるからだ。
そのため、ある程度の成果を上げた事例の戦略を共有し、さまざまな品目・
4.信頼を構築し、話せる場を作る
対して、本書の後半の第3章・4章では、強固な信念のもと福島県産品を避けている人たちとのコミュニケーションについて、リスクの存在する状況下にある個人への意思決定支援という、リスクコミュニケーションの原則を確認したうえで論じている。リスクコミュニケーションの考えかたには、「専門家が一般人に科学知識を与えれば合理的なリスク受容に至る」という欠如モデルや、その前提となっている一面的な人間観を、批判的に乗り越える民主主義的な価値観が根底にあるが、福島原発事故後の状況も、欠如モデルで押し切るにはやはり限界がある。
たとえば、再度消費者庁の調査を、元データにさかのぼってクロス分析してみると、そこで「福島県産品の購買をためらう」と回答した、一貫した忌避感を持っている人たちのほうが、2017年段階では、放射線に関する正しい知識も検査体制についても、福島県産品に抵抗がない人たちよりもよく把握している。この頭を抱えるようなデータの因果関係の解釈は慎重にしなければならないが、少なくとも言えるのは、福島県産品を避ける一部の消費者こそ、いまやこの問題に関心が高いのは明白であり、彼らを安易に勉強不足と批判すれば事足りるわけではないということだ。
では何が特に問題になっているのか。特に放射線リスク判断が厳しいと想定される自主避難者やその支援者を取材すると、必ず話題に出てくるのが、政府・地方自治体などの情報発信者への信頼の低さと、原発事故後の不安を話す場所がない、自分の気持ちを地域で誰にも話せずに暮らしてきたという抑圧感だ。
いったん情報発信者への信頼が毀損されてしまうと、どんなに正しいことを発信したとしても、「聞く耳」をもってもらうのは容易なことではない。信頼の再構築には、コミュニケーション相手と顔の見える形で継続的に関わったうえで、情報の受け手が発信者に自分と同じ価値観を共有していることを感じられるかどうか(社会心理学でいう主要価値類似性モデルにあたる)が鍵となる。こうした関係性の構築には非常に時間がかかるうえに、政府・自治体や専門機関などからの一方向的でマスな情報伝達が有効ではなくなるので、コミュニケーションコストは膨大にかかる。
ただそれでも、非常に厳しい目で福島県産品を判断していた消費者であっても、個別の生産者との交流がきっかけとなって、少しずつ県産品全般への信頼を取り戻していった場合があることを、第3章では紹介している。それは、放射線リスク判断をめぐって生じた社会の分断を少しずつ解消していくための、地道で長い道のりの可能性を示唆しているだろう。
一方で、放射線に関する話が日常生活の中でタブー視され、「こんな不安な気持ちを言ってもどうせ馬鹿にされる」と思ってしまうと、かえってネットで見かけた真偽のあやふやな情報に共感を覚え、そうした情報が流通するコミュニティの中に帰属感を感じて、時期を追うごとにますます極端なリスク判断に偏っていくというようなことがある。
そうした意味でも、こうした目に見えない長期的リスクが降りかかった災害に際しては、地域に「何でも話せる場」を作ることもまた非常に重要なポイントなのだが、残念ながら日本社会でそういう場を作ることは非常に難しい。第4章では、“open public debate”を基盤として、チェルノブイリ事故後に極めて合理的な食品規制の基準値を設定してきたノルウェーの事例を紹介し、それが可能になっている社会的な条件を検討している。
ただし、原発事故後に抑圧感を感じてきたのは、自主避難者をはじめとしたいわゆる「危険派」だけではないことも、忘れてはならない。「危険派」の人たちの一部には、福島県内に住み、そこで生業を続けると決断した人たちに対して、「人殺し」「毒を売るな」などという心ない言葉を浴びせることは実際にあった。
福島県をはじめとした放射能災害を被った地域では、ほとんどの場合「危険派」の人たちがマイノリティであったが、福島県内の現実的なリスク(の小ささ)にさほど関心がなく、情報がアップデートされていかない全国的なメディア状況の中では、抑圧感を感じてきた福島県民が多かったのも当然のことだ。
それでも私たちは、考えかたや判断の違う人たちと、この社会で共に暮らしていかなければならない。であるならば、放射線リスク判断の違いが、深刻な差別と社会的分断につながることを防ぐために、私たちはどんな規範を社会的に共有している必要があったのか。そうしたことを社会学的に考察するのが本書の最後の課題であるが、それは、否応なく社会の多様性が増していく日本社会において、原発事故後の諸問題にとどまらず、私たちが向き合っていかなければならないことでもある。
5.おわりに
『原発事故と「食」』は、発刊以降1年半のあいだに、ありがたいことにいくつもの書評に恵まれたが、そのなかに「科学抜きには語れない、でも科学だけでは足りない」と題されたものがあった。このタイトルは、本書のスタンスをまさに端的に表してくれた非常に嬉しい書評だったが、さらにこう付け加えることもできたかもしれない。「自然科学抜きには語れない、でも自然科学だけでは足りない。社会科学もまた、その足りない部分を補いうる科学である」と。
確かに、原発事故後のコミュニケーションにはうまくいかなかったところも多い。しかしそれを、放射線にかかわる専門家の属人的な問題に帰してしまうことは、まったくもって生産的ではない。属人的なコミュニケーションスキルの問題以前に、この短い原稿でも紹介した二重過程理論や主要価値類似性モデルを含め、踏まえておくべき一定程度確立している社会科学的な知見もある。
原発事故後の諸課題は、掛け声だけはあふれている「文理協働」しての情報共有や戦略立案が、間違いなく実践的に不可欠な領域だ。圧倒的に自然科学者が存在感を示していた領域に、「社会の言葉」で踏み込むことを試みた本書刊行後、私自身もそうした場面に参画する機会が増えていることには手ごたえを感じている。
一方で、福島第一原発事故に端を発する諸問題は、あまりに膨大に絡み合いながら広がっていて、ずっと仔細に経緯を追っていた人でもないと全体像を見通すことは非常に困難だ。そのあまりの難しさが逆説的に多くの人々に理解をあきらめさせ、原発事故の風化をもたらしているところがあるのではないだろうか。しかし、まだまだ時間のかかる廃炉や被災地のコミュニティ再建を、決して福島県民や双葉郡の人々だけの問題にしてはいけないし、狭い専門家だけの世界にとどめて置いていい問題でもない。
そんな中で、私の知人たちも含めた福島県外の読者からは、本書で東日本大震災後7年間の自分の行動や経験を振り返った、というような感想も数多くいただいた。もともと首都圏の胃袋を支え続けてきた福島県の「食」は、県外の多くの人々にとって、福島と関わる最も一般的なチャンネルである。原発事故後の経験は地域によって著しい濃淡があるが、首都圏や西日本でも、スーパーマーケットで被災地の食品を前に、これを買うべきか避けるべきか、それぞれに悩んだり葛藤したりした経験のある人も多いだろう。
福島県内の人たちにとどまらない幅広い読者が、「食」をテーマとしたこの本を手に取ることで、自らの行動や判断をあらためて思い返し、周囲の人たちとシェアすることで、原発事故後の多様な経験を、もう一度開きなおすきっかけにしていただければと切に願っている。
プロフィール
五十嵐泰正
筑波大学大学院人文社会科学研究科准教授。都市社会学/地域社会学。地元の柏や、学生時代からフィールドワークを進めてきた上野で、まちづくりに実践的に取り組むほか、原発事故後の福島県の農水産業をめぐるコミュニケーションにも関わる。他の編著に、『常磐線中心主義』(共編著、河出書房新社、2015)、『みんなで決めた「安心」のかたち―ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年』(共著、亜紀書房、2012)ほか、近刊に『上野新論』(せりか書房)。