2011.12.12
歴史の証言者たち ―― 日本の『制度』をささえた人びと(1) 尾上浩二 ~果てなき道筋の、水先案内人~
2011年、10月12日。今日の日本で、「尾上浩二」を5時間も「拘束」するなんて、もしかすると国益を損ねる暴挙だったかもしれない。
東京は神田、神保町の路地の一角で、介助タクシーから降りた。事前にインターネットで検索して、プリントアウトしてきた地図からすると、どうもこの古い平凡なオフィスビルが「そこ」らしい。ビルの入り口の狭さを目視して、「本当に、ここなの?」と何度も周囲を確認するが、建物の看板に記載してある名称もあっている。
ビルの入り口にはスロープ代わりらしき補強材が一応設置されているのだが、わたしの馬力のない簡易型電動車いすでは何度も前輪が突っかかってしまい、段差を越えられない。なんとかなかに入ると、年代もののエレベーターの幅が狭くて、ハンドリム(車輪についている手すり)を思いきり壁にぶつけてしまった。
世界120か国にわたる国際的な障害者運動ネットワークDPI(障害者インターナショナル)の日本窓口、「DPI日本会議」の事務所に来たはずである。DPIの事務所に入るのにすら、段差や障壁に悩まされるとは。日本で、NPOとして政策提言をできる水準にある団体はそもそも少ない。そしてどの分野でも、財政難が最大の頭痛の種だ。
「現場の知」の生き字引
尾上さんの肩書きは、もはや「公人」と言ってもおかしくない。DPI(障害者インターナショナル)の日本窓口、DPI日本会議事務局長としての仕事。そしてなにより、現行の自立支援法にかわる「総合福祉法」の骨子提言をするための内閣府『障害者制度改革推進会議・総合福祉部会』の副部会長である。
厚生労働省の官僚と対等にわたりあう頭脳明晰さ、論文を書かせたら大学の研究者も顔が真っ青になる、「スーパー頭脳派障害者」である。福祉業界の界隈では、尾上さんは名実ともにオピニオンリーダーであり、政策提言者であり、生きる支柱だ。
しかし今日の目的は、難しい肩書がたくさん付いた「公人」たる尾上さんにお会いすることではなかった。多忙をきわめていらっしゃることを重々承知のうえで、身勝手にも、「尾上浩二史」を伺いに来たのである。
DPIの事務所の入り口は、ドアが開きっぱなしだった。
普通のオフィスと違うのは、電動車いすにのっている人がちらほらいることと、介助犬らしき犬がコピー機の隣で寝そべっていることくらいだろうか。そして、パソコンを打つ「カタカタ」という音が、一本指でキーを押しているかのように、非常にゆっくりとしたトーンで聞こえてくる。不自由な手足で打ち込んだり、点字入力用と思われる機械で作業している人もいる。
難聴やろう者の方もいらっしゃるかもしれないと思い、
「こんにちは!」
とおなかに力を入れて大きな声を出して、スタッフの方に声をかけた。
「あっ、大野さんですね?尾上さーん!」
と精神疾患当事者の女性のスタッフの方が、尾上さんを呼んで下さった。
「どうぞどうぞ、昨日仙台からとんぼ返りしてきたもので、そのお土産です」
「なんやこのお菓子、有名らしいですねえ」
電動車いすで颯爽と登場した、伝説と化している「スーパー頭脳派障害者」尾上さんは、仙台銘菓『萩の月』を知らないらしい。やや関西訛りの、言語障害をほとんど感じさせない、なめらかな語り口。
養護学校の「砂袋」
尾上さんは、1960年大阪に生まれた。
生まれながらに脳性まひ(通称CP)の障害をもち、小学校を養護学校、施設で過ごした。
―― ぼくは、大阪の堺にある大阪府立の養護学校に入りました。天王寺に住んでいて、そこからスクールバスで通うので、片道1時間ちょっとかかりました。
今でも母親が思い出話で、話すんですが。小学校に入る時に、「養護学校か普通学校のどちらでも選ぶことができることをひと言教えてほしかった」と。ぼくは小学校に入る前まで、通所訓練に通っていました。それで、就学時に児童相談所のケースワーカーの人に相談をうけたら、
「歩けないですね。独立歩行できないから、設備が整っていて、かつ、訓練もできるので、養護学校のほうがいいでしょう」
という返事が返ってきた。親としては、養護学校しか行ったらあかんと、思ってしまったんですね。なぜかと言うと、障害児の親というのは、小さい時からいろんな病院をめぐり歩き、いろんな相談を受けている。だから、障害児の親にとって専門家と言われる人の一声は、「神の声」に近いものがあるわけです。間違いがないと思っちゃうんですね。
―― 養護学校では、機能訓練が強調されていた毎日でした。ぼくの場合は脳性マヒで膝の後ろや腰が伸びきらないので、それを伸ばすために、たとえば、膝を伸ばすために両足に20kgくらいの砂袋をのせるわけです。でも緊張があるので全然伸びない。すると、さらにその上に、80kgくらいのPT(理学療法士)の先生が乗って100kgくらいの負荷をかけるわけです。ものすごく痛いんですが、そのときはグッとこらえて頑張っておったわけです。
―― でも、脳性マヒという障害は、伸びないものを無理やり伸ばそうとすると、余計に緊張がかかって、伸びないんですね。現代では緊張をどう抑制して、リラックスしていくかということが大事だと、脳性マヒの世界では言われているわけです。でも、ぼくたちが養護学校に通っていた時代では、ともかく健常者は膝が伸ばせるけれど、脳性マヒは伸びないからダメだ。だから伸ばすと、ぐいぐい押していたわけです。
これは医学的に考えても、逆に緊張を高めるだけの効果しかもってなかったんだろうと思います。ともかく、ただひたすら健常者に近づけようという訓練だったと言えるでしょう。
語られない歴史、「肢体不自由児施設」
医学部の教科書に、医学の「負の歴史」はほとんど載らない。当然のことかもしれないが、カリキュラムにある「医療史」は、医学の発展に寄与した研究や人物の羅列に近い。わたしたちも同様に、北里柴三郎や野口英世、「偉大な専門家」のことは学校の教科書で習う。
尾上さんの語りに、わたしは思わず、持参していた記録用のノートパソコンを打つ手を止めた。尾上さんの表情と口調はおだやかで、怨恨や怒りは一切感じられない。
だからこそ、淡々と紡がれる「語られない歴史」に息がつまった。こんな大事なことを、いままで、一切知らなかった。そしてこれは、歴史のほんの一幕でしかないのだ。「肢体不自由児施設」、通称「整肢学園」。
―― その後、小学校5年生から、施設へ行くことになりました。大阪市内の施設で、ある病院の分院というかたちのところです。いまはだいぶ変わりましたが、ぼくの入った頃は、医療漬けの世界でした。「医療専門家が支配する世界は怖い」。それは、偽らざる実感です。
週1回手術日があって、手術台が2台ありましたので、毎週2人は手術されるわけです。子どもですよ。子どもが70名くらいいて、1年に2回くらいは必ず手術の「お鉢」が回ってくる。ぼくも実際、1年半いましたが、3回手術を受けました。仲間もわたしも手術をすればするほど、歩けなくなっていった。
ぼくにとって決定的だったのは、膝の後ろを切られた手術で、伸びるけれど曲がらなくなった。膝は伸びきらないよりも曲がらない方が、日常生活ではよほど不便です。とくに、和室の生活ではものすごく不便です。
ちなみにいまはもう、脳性マヒの手術はかつてほどやられないようです。でもじつは、その結論に至るまでには、ぼくたちの世代が生身をもって、多くの犠牲をはらった上でのことなんです。
トイレくらい、行きたいときに、行ってもいいんじゃないか
―― 「専門家が支配する世界は怖い」と感じた、もうひとつの体験をお話しします。ぼくが入っていた施設では、就寝中も訓練があったんですね。ポジショニングという名の訓練でした。板をベッドの上において、その上にうつぶせになって、腰を伸ばすためにということで、さらしのような物でギュッと縛る。晩の6時半から翌朝の6時まで、ずっと縛られるわけです。おもいっきり縛ってますから、血が止まって、赤いのを通り越して翌朝真っ青になっているんです。
そのとき、一番困ったのはトイレなんですね。ナースコールをすると、看護婦さんが来てくれますが、早くしろと言われると、余計に緊張してトイレも出ない。そういうことが何度かあると、「尾上君、訓練をさぼりたいから、ウソついてるんやろ」とこっぴどく怒られるわけです。
ぼくを縛った看護婦さんも、障害児をいじめようと思って、看護婦さんになったわけではない。でも、そういう施設では、お医者さんが決めたことを、子どもたちが目の前で泣いていようが、ともかくやることがその子らのためなんだと信じて疑わなくなってしまう。先生が言ってるからと疑問に思わない。閉じられた世界の怖さです。
―― なんか、「自立」って言うと、「障害者が、周りの迷惑を省みずにワガママ言うてる」と外から見る人は思うかもしれんね。
「自立」っていうのはね、好き勝手に、ワガママほうだいさせろということじゃないんです。ぼくらがずっと獲得しようとしている「自立」の根源ていうのは、ぼくにとってのはじまりはトイレですわ。人間としてこの世に生まれてきたんだから、誰もがトイレくらい、行きたいときに行ってもいいんじゃないか……。そういうリアリティからはじまっているんです。
「信号って、どんなもんや」
―― それからね、いまでも、忘れられないことがあるんですよ。ある友達に、M君ていう子にね、「尾上君、『信号』って、どんなもんや」て訊かれたんですよ。M君は施設のなかの同級生で、当時ぼくらは11歳やった。
ぼくはねえ、そのときは「アホか、『信号』いうたら信号やろ」て言うて、道路の交差点の絵を描いてやったんですね。でも、違ったんです。そういうことやなかった。
ついこの前、お互いにこんないい歳になってからM君と再開する機会がありまして。
「M君、あんとき君、ぼくにどういうつもりで『信号』のこと訊いたんや」て話してみたんです。そしたらね、
「尾上くんと違ってな、ぼくは5歳の時からあの施設にいたんや」
「『信号』というもんがあるのはわかってたよ。でもな、絵本か、盆と正月だけ家に帰るときに乗る車のなかからしか「見た」ことしかないねん。」
「渡ったこと、ないねん。そやから、どういうもんなんかなと思って、訊いたんよ」
そう、言われた。そうか、そうだったのかと。これが、『施設』です。
今日なお、奔走しつづける人たち
「もうぼくなんか、まだまだ若手ですわ。口がたつ若輩者といつも叱られるんやからね」
「大野さん、これから障害のこと調べはるんやったらこれを、あと、これを……」
「疲れたでしょう、お茶どうぞ、一息入れて」
尾上さんが机の上に、資料やメモを出してくださる。
日本の戦後において、「ほとんど何もない、ゼロの状態」から、ひとつひとつ、この人たちが文字通り「身体ごとの闘い」で獲得してきた、今日の「制度」。
バス、電車、エレベーター、スロープ、介助、バリアフリー、今日わたしたちが当たり前に「合理的なサービス」として消費してしまっている「制度」。このひとつひとつの根拠地をたどってゆけるだろうか。とにかく、「歴史の証人」たちに会いに行かなくてはならない。彼らが、まだ生きているうちに。
大阪生まれの尾上さんが知らなかったという『萩の月』を休憩に頂きながら、無数の散在した文献、会わなければならない「超人」リストのあまりの多さに、頭がクラクラしてきた。
「そういえば、大野さん、シノドスのメールマガジンにノンステップバスの闘いの歴史の話、書いてくれはったね。読みましたよ。どうも、ありがとう」
尾上さんからの「ありがとう」は、重かった。帰り道のタクシーのなか、疲れきって熱が出ていたけれど、心底、来てよかったと思った。
*「歴史の証言者たち」は不定期連載として継続していきます。
推薦図書
イギリスの障害学の原点である一冊。著者であるオリバーは、1962年に頸椎損傷を負い、重度の四肢麻痺の障害者となった。イギリスの障害学は、当事者運動と連動し、政策立案に積極的に関与し、「実際に社会を動かし、変える」プラクティカルな傾向が強いことが特徴的だ。
1990年にイギリスで刊行された本書の影響は大きく、WHO(世界保健機関)も「社会モデル」を採用したICF(国際生活機能分類)を2001年に採択している。オリバーの実践に裏打ちされた筆致は、テキストとしての「医学モデル」への批判と「社会モデル」の理論的提示という役割をこえて、イギリスにおいて「社会の変化」を起こした人が実在するのだという励ましに満ちている。
プロフィール
大野更紗
専攻は医療社会学。難病の医療政策、