2014.12.26

演劇そのものである世の中を演劇によって語る――イキウメ「新しい祝日」劇評

水牛健太郎 演劇批評家

文化 #SYNODOS演劇事始#イキウメ#新しい祝日

世の中の写し鏡として

会社で働いたことがある人はたいてい、「なんか芝居みたいだな」と思った経験があるのではないか。「さすが山田さんですね」とか、「一丸となってがんばろう」とか、なかなか日常では耳にする機会がないが、会社ではよく聞く(聞くだけでなく、気づけば自分も口にしている)。会社で使う言葉には独特の「セリフ感」がある。

会社は身分制だ。肩書一つ違えば全然違う。長が付く人には誰も口答えしないし、何かにつけてほめそやす。お役人を前にした江戸時代の町人と同じである。そして身分というのは、演劇そのものだ。同じ人間、大した違いがあるわけもないが、Aさんの方がBさんよりも偉いという。これがお芝居でなくてなんだというのか。役者が王冠をかぶれば王様に、ぼろをまとえば乞食になる。役割の仮面をかぶり、言うべきセリフを言っている。社長だの平社員だのというのも全く同じことだ。

会社は世の中でも特に演劇的な場なのだが、考えてみれば学校にしても、ご近所や親戚づきあいにしても、さらには家庭ですら似たようなことはよくある。つまり世の中は無数の演劇で構成されていると言っていいだろう。というよりもいっそ、世の中全体が一つの巨大な演劇なのだ、と言ってしまってもいいかもしれない。演劇という表現の可能性の一つの根拠がここにある。世の中そのものが演劇なのだとすれば、演劇はいつでも世の真実を鏡のように写しだせる道理だ。今回紹介するイキウメ(という劇団名である)の「新しい祝日」は、そうした演劇の可能性を最大限に発揮した作品だった。

ひっくり返される「演劇のお約束」

舞台の上でスーツ姿の若い男(浜田信也)が仕事をしている。オフィスのようだ。自宅に電話をして、「遅くなるから先に寝てて」などと話している(本稿で引用するセリフはすべて記憶に頼っているため、正確ではない。以下同)。しかし椅子やデスクが並んでいるわけではない。いや、椅子やデスクは確かに並んでいるのだが、それは段ボール箱に椅子やデスクの絵が描いてあるものなのだ。たとえばスチールの事務机は段ボール箱4つを積み重ねて、その表面に描かれている。

小劇場演劇のセットはリアルであるほうがむしろ珍しい。それが段ボール箱であっても、椅子やデスクとして使われていれば、観客はその設定を受け入れて、黙ってみている。これもそういうセットなのだろうと思ってみていると、いきなりひっくり返される。

白いピエロ服を着た道化(安井順平)が突然登場。驚き慌てる男に、「ここは会社か? 違うだろう。ただの段ボールじゃないか」と言いながら、段ボール箱を蹴飛ばし、ばらばらにしてしまう。道化は男の古い友達だと名乗るが、男には全くわからない。鞭のようなものを振るって男を脅かし、服を脱がせてパンツ一丁の姿にさせた上、汎一と名付ける。「どこにでもある(汎)が、唯一の存在」「世界にして個」という意味だという。これは植木等の無責任サラリーマンが平均(たいら・ひとし)と名付けられ、山口瞳のサラリーマン小説の主人公が江分利満(えぶり・まん)という名前だったのとだいたい同じ意味だと考えればいいだろう。どこにでもいる男、我々の代表。寓話の世界にようこそ。

「新しい祝日」の一場面。左から浜田信也、伊勢佳世、安井順平 撮影:田中亜紀(禁無断転載)
「新しい祝日」の一場面。左から浜田信也、伊勢佳世、安井順平 撮影:田中亜紀(禁無断転載)

道化の声を合図に、それまで舞台袖で待機していた俳優たちが殺到してくる。怯える汎一。そのうちの男女1人ずつ(盛隆二と伊勢佳世)が熱心に汎一の世話を焼き始める。彼らは汎一が何をしても喜び、ミルクを与える。しかし言葉はほとんど通じないようで、汎一が何を言っても意に介さない。見ているうちに、汎一は赤ん坊に戻ったようであり、2人はその両親なのだということが分かってくる。汎一は母を愛し、父に敵意を抱くが、飛びかかっても全く相手にされない。

ともかく、汎一は人生を赤ん坊時代から生き直す機会を与えられたのだ。その新しい人生を通じて、道化は汎一の友人兼舞台回しとして側にいる。赤ん坊時代の後、大まかに言って3つの場面が展開する。(1)小学校時代、球技で遊ぶ場面 (2)中学生ないし高校生としての部活の場面 (3)成人として会社で働く場面。この3つの場面を通し、汎一が仮面を身に付けてセリフを言うようになる、つまり「社会化」されていく過程が描かれていく。

日常の設定に潜む不条理的の味わい

小学校時代の球技は一抱えもある大きなピンク色のボールを使う。3対3で味方にパスをし、ゴールにいる人に渡せば得点になる。汎一は、最初はルールが分からずに悩むが、繰り返しているうちにドリブルのないバスケットボールのようなものであることをつかんでいく。観客も汎一と一緒にルールを理解していくのが面白い。そうして最初は遠慮しているが、道化に「それで面白いのか」と言われ、本気を出すと、汎一ばかりが得点する。みんな詰まらなくなって校庭を去っていってしまう。「常に本気を出してはいけない」と汎一は学ぶ。

部活動の場面は、横並びの同級生に上下関係も加わり、より立体的になっている。ともかく延々とジョギングと体操を繰り返す部活なのだが、それを通じて徐々に人間関係が明らかになっていく。汎一は2年生で、先輩(岩本幸子)が引退する直前である。同級のライバル(大窪人衛)もいる。汎一はマネージャー(伊勢佳世)に憧れているが、マネージャーは何と顧問の先生(盛隆二)とできているらしいのだ。

そうした中で、汎一の同級生の一人(澄人)が「そもそも何の部活なのか分からない」という疑問を持ち、繰り返し投げかける。ここらへんは不条理劇的な面白さである。確かに、何の部活なのか、観客にも全然わからない。しかしこの根本的な疑問に、先輩も顧問も言を左右にして答えようとしない。他のメンバーたちも聞くのを恐れている。

同じ疑問は汎一も当然持っていた。しかし汎一は同級生を裏切り、孤立させてしまう。同級生は部活を去り、自殺する。一方汎一はライバルを抑え、次期キャプテンに選ばれる。根本的な疑問に口をつぐみ、「和」を尊重することで集団の中に居場所を見出していく汎一の姿が描かれる。

そして会社の場面。この会社ではみな延々と折り紙をしている。それが仕事のようだ。ちなみに机、椅子は最初の場面と同じ段ボール箱である。汎一は最初、新入社員として会社に加わるが、既に完全に「社会化」されており、場にふさわしい言動をしながら、着々と自らの地位を築いていく。もちろん「折り紙がどうして仕事になるのか」などと疑問を持つこともないのである。それどころか効率的な(しかし質はちょっと落ちる)折り方を提案するなどして周囲や部長(盛隆二)に認められ、ついには直属の上司である主任(岩本幸子)をも追い越して部長に上り詰める。一方、同僚(伊勢佳代)への思いは受け入れられず、取引先の女性(橋本ゆりか)と結婚することになる。

最後の場面では、妻が赤ん坊を連れて会社にやってくる。ベビーカーに乗せられた赤ん坊は大きなクマのぬいぐるみだが、部下たちはこぞってほめそやす。そこに道化がやってきて、ぬいぐるみを放り投げ、自分がベビーカーに座り込んでしまう。それでも部下たちは「かわいい」「お父さんにそっくり」などと言い続け、機嫌を取ろうとする。道化は「こんな中年男が可愛いのか」「汎一、お前には見えてるんだろ」「こいつらはみんな馬鹿だ」と汎一を挑発する。やがて道化と汎一は取っ組み合いのけんかを始め、段ボール箱はばらばらになってしまう。部下たちは舞台から逃げ去っていく。

登場人物が背負っていた「役割」

この作品は、成長を通じて社会化されていく1人の男性の姿を通じて、世の中がいかに演劇であるかを描いたものだと言っていいだろう。割り当てられた役割とそれにふさわしいセリフによって社会生活のさまざまな局面が組み立てられ、個人の社会的な地位が築かれていく。

「新しい祝日」の一場面。左から盛隆二、浜田信也、安井順平 撮影:田中亜紀(禁無断転載)
「新しい祝日」の一場面。左から盛隆二、浜田信也、安井順平 撮影:田中亜紀(禁無断転載)

各場面を通じてのキャスティングには面白い趣向がある。会場で配布された当日パンフレットを劇の鑑賞後に見ると、各俳優に与えられた役柄が象徴的な言葉で書かれている。たとえば、伊勢佳世の役柄は「慈愛」である。最初に汎一の母を演じた伊勢は、その後一貫して汎一の憧れの女性として現れるが、結婚することはない。盛隆二は「権威」。最初に父を演じ、その後部活の顧問(伊勢の演じるマネージャーと「できている」とされる)と会社の部長を演じ、最後には引退して汎一に地位を譲り渡す。ここにはフロイト的な「エディプスの三角形」の物語がはっきりと読み取れる。作/演出の前川知大は、心理学にならい、人(少なくとも男性)の社会化の原点に両親との関係を見ていることになる。

ほかのキャスティングについても、汎一と常にライバル関係にある大窪人衛の役柄は「敵意」であり、先輩にあたる岩本幸子は「公正」とされるなど、いちいち味わい深い。胸を突かれるのが、部活の場面で「そもそも何の部活なのか」という疑問を突き付けた澄人である。彼の役柄は「真実」となっている。彼が自殺を遂げたあと、道化は「もうお前の出番はない」と言い、その後澄人は二度と舞台に現れない。人が成長過程で見殺しにする「真実」、それが澄人の役柄だったことになる。

道化と汎一のけんかで舞台はばらばらになり、世の中の演劇性=虚構性はあらわにされた。これでこの作品は終わりでもいいかもしれない。しかし、それから意外なことが起きる。道化が「これでもう大丈夫だ」と言って舞台を去ると、汎一は散らばった段ボール箱を組み立て直す。すると、その表面に描かれているのは立派な木のデスクの姿である。汎一はそのデスクを眺め、舞台を去り、芝居は終わる。

あえて演じ続けるしかないのか

世の中はすべて演劇であり、私たちは役柄に応じてセリフをしゃべって、毎日を暮している。それは全くの真実なのだが、それに気づいても、私たちは途中で演劇を降りることはできない。途中で降りれば「真実」のような死あるのみなのだ。だが、世の中が演劇であることに気づくこと、そしてそれを知った上であえて役柄を演じ、演劇を続けていくことには意味がある。このラストシーンはおそらく、そういうことを表現している。

役柄だと知りながら、つまりそれが自分の唯一の生き方ではないと知りながら、あえて演じる、そんな態度を身に付けることによって、人生の意味は全く変わるはず。汎一はこの作品の最後に世の中の演劇性=虚構性を知り、生まれ変わった。この日は汎一にとって新しい誕生日とも言える記念すべき日となった。それが「新しい祝日」というタイトルの意味ではないか。

汎一が昭和の大先輩である平均(たいら・ひとし)や江分利満と違うのは、まさにこのメタ感覚だろう。情報があふれかえる現代は、誰しも自分の生き方を唯一絶対のものと見ることなどできない。ドラマや小説、映画やゲームなどのフィクションを大量に消費し、その登場人物たちに自分たちを重ね合わせているうちに、いつの間にか、学校の同級生や会社の同僚を「キャラ」として語ることが普通になっている。現実の人間も「役柄」という意味ではフィクションの登場人物と全く変わりがない。世の中が演劇であることは昔から変わらぬことだが、みんながそれに気付いているのが現代という時代なのである。

演劇そのものである世の中を演劇によって語る、そんな物語として秀逸な「新しい祝日」だが、唯一気にかかるのは、これが基本的に男性の物語であることだ。作/演出が男性なので、これは当たり前である。

会社は、世の中でも特別に演劇的な場であり、その演劇を支えているのは圧倒的に男性である。だから男性にとって「世の中はすべて演劇」だと基本的に言える。だが、女性にとってはどうなのだろう。女性にとっても「世の中はすべて演劇」であるとしても、その演劇とこの演劇はかなり違うのかもしれない。「新しい祝日」が示したように、男性の「演劇」の土台には「エディプスの三角形」があるが、この点も女性はかなり違っている。

それは今後、女性の作り手によって明らかにされるべきテーマだろう。

■上演記録

イキウメ 新しい祝日

[東京公演]

日程 : 11 月 28 日(金)- 12 月 14 日(日)

会場 : 東京芸術劇場シアターイースト

[大阪公演]

日程 : 12 月 19 日(金)- 12 月 21 日(日)

会場 : ABC ホール

プロフィール

水牛健太郎演劇批評家

1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。小劇場レビューマガジン ワンダーランド スタッフ。http://www.wonderlands.jp/ 2014年10月より慶應義塾大学文学部講師。

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