演出家は王様ではない――『わが星』から『あたらしい憲法のはなし』へ

ラップなどのポップな音楽性を取り入れた手法が特徴的な、劇団「ままごと」。今年再々演の『わが星』(岸田國士戯曲賞)も、再々演にしてなお大きな反響を呼びました。その「ままごと」が9月に取り組む公演のタイトルは『あたらしい憲法のはなし』。一見大きくテーマを変えてきたように見えますが、果たしてどうなのでしょうか。早稲田大学文化構想学部の水谷八也先生が、「ままごと」主宰の柴幸男さんと制作の宮永琢生さんに聞きました。(構成/住本麻子)

 

 

「あたらしい憲法のはなし」とは

 

水谷 今回は『わが星』の再々演が終わったばかりの、「ままごと」の主宰・柴幸男さんと制作・宮永琢生さんに来ていただきました。よろしくお願いいたします。

 

それにしても9月の新しい公演は、『あたらしい憲法のはなし』なんですよね。それを聞いたとき、「お、来た!」と思うと同時に、単純に「どうして?」と、これまでの作品とどうつながるのか、知りたいと思いました。『わが星』などの今までのテーマとは、全然ちがいますよね。『あたらしい憲法のはなし』をやろうと思ったきっかけは、なんですか?

 

柴 もともと『あたらしい憲法のはなし』という文章を青空文庫で読んでいて、興味を持っていました。

 

水谷 『あたらしい憲法のはなし』というのは、今の日本国憲法が施行されるにあたって、1947年から1952年の5年間に中学校で使われていた教科書ですよね。

 

天皇をすべての中心として、国民(当時は臣民ですが)は天皇に仕えることを明記した大日本帝国憲法から、それとはほとんど正反対の、主権が国民にあり、その国民に個人としての基本的人権を認めている新しい日本国憲法にスムーズに移行できるように書かれた一種のガイド・ブックですね。

 

 

DSC_4345

 

 

柴 そうです。それを読んでいたのは数年前で、以前からこれは演劇になるんじゃないかと思っていました。その頃は劇場新作を立て続けにつくっていたころです。でも、やりたかったことは『わが星』でだいたい全部やれてしまったんですよ。だから、もう自分から出てくるものでつくりたいと思うものはなくなってきてて、単純にネタ切れでした(笑)

 

そこでなにか原作になるものはないかと探していて、特に青空文庫はよく見ていました。なぜ青空文庫かというと、著作権が切れているからなんですけど(笑)。でもぼく自身は、憲法とかまったく興味がなくて。

 

水谷 えっ、そうなんですか?

 

柴 政治的な活動には正直、興味がないんです。『あたらしい憲法のはなし』は一見して、なんかうさん臭いなと思って(笑)、タイトルだけ見て選んで読みました。

 

最初はプロパガンダの本なのかな、と思って読んだんですが、おもしろかった。これは一人称の語り口調で、長ぜりふで、読者に語りかけてくるかたちなんですよね。憲法とはなんぞや、法律とはなんぞやということを噛みくだいて説明しながら、理念にふれるところもあって、すごくおもしろかった。

 

それで前々からやりたいなと思っていたのですが、今回パルテノン多摩の方からなにかやらないか、という打診がありました。

 

パルテノン多摩は野外だから、劇場でやるよりも堅苦しくなく、市民劇のようなかたちで気持ちよくやれるんじゃないかと思ったんです。ワイルダーが持っているような抜けるような空気感を、憲法で語れるかもしれない、と。

 

ぼく個人は社会的なことを作中に取り入れることがあんまりできないタイプなんですけど、題材だけでも取り入れておけば、少しは考えているふりはできるかなって(笑)。

 

 

物語がなくても演劇はできる

 

水谷 柴さんは方法に特化してやってきた方でしょう。物語よりも、「演劇」という方法の試行錯誤をやってきて、演劇にまつわる固定観念を崩してきたと思うんですが……。

 

柴 ぼく自身は、崩そうと思ってやってきたわけではないですけどね。演劇以外の方法論をパクってきただけです(笑)。演劇からすれば新しいように見えるかもしれないけど。映像の編集や、音楽のサンプリングの方法論など、前々からあるものを使っているだけです。

 

水谷 たしかに、映像の編集などそれ自体は20世紀からあるものですよね。しかしそれを演劇の方法論に援用しようという考え方は少なかったように思います。それに、音楽や絵画が進んでいった速度と演劇の進む速度には差があった。それは演劇が、生身の身体が関わるものだからだと思うんですけど……。

 

柴 演劇の可能性という意味で、ぼくが本当に揺さぶられたのは、チェルフィッチュの岡田利規さんの『三月の5日間』の戯曲を読んだときです。

 

「男優1」「男優2」っていう役名の書き方や、演じるなかで役が入れ替わっていくやり方、要領を得ない冗漫な会話や、同じことをくり返しながら展開していくことなど、ぼくの固定概念をくつがえしてくれるものはあそこにすべてありました。それをぼくは、利用させてもらって発展させてもらった、ということだと思います。

 

岡田さんの戯曲に出会うまでは、三谷幸喜さんやケラさんの演劇のような、オーソドックスで物語性のある演劇が好きでした。でも岡田さんのおかげで、演出方法に特化して、物語をいっさい無価値なものにしたらどうなるか、ということに挑むようになったんです。

 

水谷 『ハイパーリンくん』というラップの劇がありますけど、そこに物語はまったくないですよね。人間が発見したり発明したりしたもの、つまり人間の科学史がラップのリズムに乗って順番に叫ばれるだけ。一人ひとりの役名もなければ、個人の物語もない。でも物語を持ち込まず音楽の方法を持ちこむことで、大きな視野を持って歴史的な流れを追うことができる。

 

『ハイパーリンくん』で、バラバラだった役者が縄跳びのようにジャンプしながら一列に並んで、「わたしたちはどこから来て、どうつながったんですか?」とか、「いつまでいますか? なぜいますか? どこまで行けますか?」という質問を口にしています。

 

自分たちはいま現在、歴史のどこにいて、どこに向かおうとしているのか。こういう質問が出てくるのは、この劇が人間という存在を俯瞰できている証拠だろうと思います。つまり物語では、人間を俯瞰した視点を持って人類史は語ることはできないだろうと思うんです。

 

柴 これは逆転した発想だと思うのですが、ぼくはひとりの人間にはあまり興味がないんですよ。ほかの作品を見てもらうとわかると思うんですけど、役名がついている戯曲は、ぼくの作品にはほとんどないんです。苦手なんですよね。

 

たとえば田中一郎という役名をつけると、田中一郎がどういう人間か――どういう生活をしてて、どういう仕事をしてて、どういう生い立ちで――ということに、いっさい興味を持てないんです。それが劇作をするうえで、だんだんわかってきたんです。

 

 

「ままごと」主宰の柴さん

「ままごと」主宰の柴さん

 

 

そうではなく男なら男、子どもなら子ども、先生なら先生という機能だけを取り出して語ることによって出てくる、抽象的な概念のようなものを演劇にしたい。そういうことの方が、ぼくはやっていて楽しいし、インスピレーションやイマジネーションが湧くんだと思います。

 

でもそれはジレンマもあって、個別の名前がある戯曲に憧れは抱きます。そういうものが書きたくてこういうところに来たはずなのにって(笑)

 

水谷 個別性には興味はないけれど、人間自体には興味はあるということですよね。

 

柴 そうですね。「人間がどう生きるか」には興味はあるけれど、「『水谷先生』がどう生きるか」には興味がない、みたいな(笑)。

 

ぼくは高野文子さんという漫画家が好きで、高野さんが同じようなことをおっしゃっていました。高野さんは「人間を描く物語じゃない漫画を描けないか」と言うんですね。

 

「おりがみでツルを折ろう」という、ツルを折るだけの漫画があるんですが、あとがきで高野さんはただただ折り紙を折る美しさや、それを漫画にするという行為を完遂したいのに、女の子が語りかけてくる――女の子はなんでツルを折ってるのかとか、その女の子は誰なのかということを、女の子が訴えかけてくるんでしょうね。

 

わたしはそれに抵抗するのに苦労したということをおっしゃるんです。それはすごく、腑に落ちる感じがしました。

 

水谷 よくわかるような気がします。『わが星』も、究極的には存在しているということだけを語っている芝居だと思いますよ。

 

最近よく思うんですが、人間はどうしても「おのれの姿を見たい」という強い欲求を抱えている動物だと。でも、絶対に人はおのれを見ることはできない。だから鏡と演劇を発明したのではないかと。

 

つまり演劇の第一の意義って、人間存在を見せることじゃないかと思うんです。だとすれば、物語って二義的なものになるし、捨てることも可能だと。物語を捨てても、見ている方はさまざまな物語をつくってしまうけれど。

 

柴 そうですね。これが小説だったら、ぼくも「人間描かなきゃいけないかな」と思ったかもしれないですけど、演劇は人間が演じてくれているんですよね。むしろそこに、どうしても役者の固有性が生まれてくるということを最近は意識するようになりました。

 

水谷先生がおっしゃったように、演劇は「人間がただそこにいる」ということを確認するような表現なんだと思います。もし演劇が物語を消費するものだとしたら、ぼくらは数百年も昔の劇を、人間を変えて演じつづける理由がないと思います。物語が新しくなければ観る必要がないとは、誰も思っていない。

 

むしろ物語を知っているものを観ることは、王道になっている。ただ、人間そのものを一時間半観ていても飽きてしまうし、かえって人間というものがわからなくなるので、物語の力を借りているんだと思うんですよね。

 

今まで物語の因果関係によってしか時間をもたせられなかったところを、音楽や漫画が持っていた時間表現を持ちこんできたんです。その意味では、テン年代というのはダンスに接近しているような気がします。

 

ぼくはダンスでいつも人間を観ています。自分も含め、ある意味では言語が幼稚化してきているのかもしれない(笑)。現代口語が演劇に出てきて、文学的、詩的な言葉によって表現しようとしていた部分がなくなったいま、起点にする部分をとらえなおしているんだと思います。それが映像や音楽やダンスといった、いろんなかたちで見えるようになっているのかもしれない。

 

水谷 『わが星』もそうですよね。『わが星』は誰もが感情を動かされるような舞台だったと思います。その理由を無理に説明しようとすると、「ちーちゃんがどうだったから」と物語として説明しようとしがち。

 

でもぼくはもっと深い、観ている人が意識していないところに触れているような気がします。人間が存在していることへの不安だとか。そしてこれは、『あたらしい憲法のはなし』にどこかでつながっていくんじゃないかと期待もしてるんです。

 

 

日常にまぎれる、演劇の「作者」たち

 

水谷 今回の講演「演劇をめぐる大雑談会」のタイトルをどうしようかと考えているなかで、「『わが星』から『あたらしい憲法のはなし』へ」のほかにも候補があって、そのなかには「すれ違う演劇」というのもあったのですが、それに関連してお話を聞きたいのは横浜港の象の鼻テラスでやった催しです。

 

「ままごと」は、ほかの劇団がやらなかったようなことをやってきた劇団だと思うのですが、象の鼻テラスでやった『Theater ZOU-NO-HANA』は「これは演劇なのか?」という驚きのあるものでした。なんと言ったらいいのか、ちょっと説明が難しいですよね……宮永さん説明していただけますか?

 

宮永 あれ難しいですよね(笑)。チラシをつくるときも迷ったんですよ、説明が難しくて……。当初はあの空間を劇場空間にして演劇作品をつくってください、という象の鼻テラスからの依頼だったんです。

 

でもあの場所はいつもは無料の休憩所で、お昼時にはサラリーマンの方やOLの方たちがお弁当を食べてるような場所なんですよ。カフェも併設されているので、みんなそこでお茶したり。海のすぐ近くでロケーションも良いので、週末にはカップルがデートしてたり、家族連れがたくさんいて、子どもは外の芝生で遊んでたり、お父さんはテラスの中でビールを飲んでたりする(笑)。

 

そういった象の鼻テラスの環境や特性を踏まえて劇団でミーティングをしたときに、普段ひらかれた場として自由にこの空間を使える人がたくさんいて、それぞれ自分にとって居心地の良い場所として利用しているのに、いきなり来た我々がその人たちを閉め出して、入れる人を限定してしまうのはナンセンスなんじゃないかという話になったんです。

 

DSC_4296

「ままごと」制作の宮永さん

 

 

『Theater ZOU-NO-HANA』

『Theater ZOU-NO-HANA』

 

 

『Theater ZOU-NO-HANA』

『Theater ZOU-NO-HANA』

 

 

そこで柴がコンセプトとして打ち出したのが、《演劇とすれ違う》という言葉でした。普段その場にいる人たちに演劇に触れてもらおう、演劇的な体験をしてもらおう、ということでいろいろ試行錯誤してみたのが『Theater ZOU-NO-HANA』のスタートですね。

 

具体的にやったことを簡単に説明すると、たとえば靴と「靴紐をほどいてください」という指示が書かれたプレートをテラス内に置いておいて、誰かがその靴紐をほどくとその背後で、一般人にまぎれていたパフォーマーが「あっ!靴紐ほどけてる」と言って靴紐を結びなおす、といったようなものです。

 

わたしたちはこの演劇装置のことを、「スイッチ」と呼んでいます。(詳しくはこちら→http://synodos.jp/culture/12101

 

柴 これは誰かが言っていて、ぼくもそうだなと思ったことですが、芸術がなにかの問題提起をするものだとすれば、デザインが問題解決をするものにあたるんです。

 

象の鼻テラスを見ていて思ったのは、ここで二日続けてうるさいことをやれば、毎日来ていた人が来なくなるだろうということでした。すると大きな声は出せない。そういうことを突きつめれば、やってるかやってないかわからない、無に近づいていくんですね(笑)。でもそれもどうなんだ、ということになる。

 

だからある人にはこれが作品に見えて、ある人にとっては作品かどうかわからないような身体表現ができないかと考えました。象の鼻テラスにある象のオブジェみたいに、ある人にとっては強烈な作品性を持つかもしれないけれど、ある人にとっては無視してもいい、背景にさえなりうるものがつくりたかったんです。

 

そういうことを念頭において、俳優たちといっしょに場所を観察しながらひとつずつ作品をつくっていきました。というかこれはぼくが発案のものはほとんどなくて、俳優たちそのものが作品の作者になっていった――そういう意味で、民主主義なんですよ。絶対王政じゃないんです(笑)。いかにして個々が、ほかに迷惑をかけない範囲で自由を謳歌できるかということを、追求しました。

 

ほかの作品の台本に関してはぼくが絶対権力者だし、民主主義ではないんだけど、象の鼻テラスでのスイッチ演劇に関しては、最終決定権は作者に委ねたし、誰が作者かといえば、「わたしが作者だ」と言った者が、つまり俳優が作者です。もちろんアドバイスやディレクションは、しますけどね。【次ページにつづく】

 

 

 

■■■ 「シノドス」へのご寄付のお願い ■■■

 

 

1 2
300_250_5g 困ってるズ300×250 α-synodos03-2

vol.196 特集:当事者と非当事者

・小峰公子氏インタビュー「福島の美しさを歌いたい——福島に「半当事者」としてかかわって」

・山本智子「知的障害がある当事者の「思い」を支えるために――「当事者性」に関与する「私たち」のあり方」

・李洪章「『研究者の言葉』から『当事者の言葉』へ」

・熊谷智博「他人同士の争いに参加する非当事者の心理」