2016.09.24

Jポップで哲学することから見える、若者の問い――『Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲』

戸谷洋志 倫理学

文化 #Jポップ#Jポップで考える哲学

講談社文庫から『Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲』を上梓した。この本は、Jポップを題材にした哲学書である。しかし、なぜJポップを題材にするのだろうか。また、この本はどの点において他の哲学の入門書から一線を画すのだろうか。ここでは、そうしたことについて述べながらも、現代社会のなかで哲学することについて、特に若者が哲学することの意味について、筆者なりの考えを述べたい。(戸谷洋志)

巷では「カジュアル哲学ブーム」という声をよく聴く。硬派な哲学書ではなく平易な入門書、あるいは物語仕立ての哲学読本のようなものが好まれている。おそらく、『Jポップで考える哲学』もその一つに数え入れられるのだろう。この本では、2人の登場人物、「先生」と女子大生の「麻衣」が登場して対話を繰り広げる。2人のやり取りは軽妙でテンポよく進んでいく。そうした意味で平易な文章で書かれていることに違いはない。

しかし、この本の平易さは、一般的な哲学入門書の平易さとは異なる。一般的な哲学入門書は、すでに存在する既成の学問としての哲学を、読者に合わせてハードルを下げ、その内容を簡単なものにすることで平易さを実現している。これに対して、『Jポップで考える哲学』は、Jポップの詞を用いて、若者の言葉で哲学することによって、つまり馴染み深い言語を用いることによって、平易さを実現している。そのため、文章が平易であったとしても、その内容はけっして簡単ではない。

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「若者の言葉」としてのJポップ

いま、Jポップの詞を「若者の言葉」と言い換えた。それはこの本の基本的な前提の一つである。Jポップとは、一般的には、およそ90年代以降に日本で隆盛したポピュラーミュージックの総称であると考えられている。しかし、明らかに、Jポップはそうした音楽ジャンルを超えた言語的機能を担っている。

Jポップの歴史と歩みを共にしているのは、ポータブル音楽プレイヤーの進歩である。Jポップは、それまでの音楽と異なり、ポケットに入れられ、携帯され、絶え間なく聴き続けられる音楽である。そのため、Jポップは圧倒的な深度で若者の日常生活に浸透してくる。通勤通学中、電車のなかやバスのなか、あるいは誰かと待ち合わせをしているとき、休み時間に暇をつぶしているとき、若者は当たり前のように音楽を聴く。そうした仕方で、Jポップは若者の日常世界を染め上げているのだ。

同時に、Jポップはその詞に一定の特徴をもつ音楽である。私たちは、ある種の文章を「Jポップっぽい文章」として解釈することができる。そうした文章は詞だけに限定されない。たとえば、読書感想文や、SNSでの書き込みや、レポートやメールにも、「Jポップっぽい」文章が存在する。それはJポップに、単なる詞であることを超えた、ある一定の言語様式が備わっているということだ。

そしてその言語様式は、前述のようなJポップの日常生活への浸透によって、若者によって広く共有されていると考えられる。たとえば、学校の授業中に時間を持て余し、机の端に詞を落書きしたような経験は誰にでもあると思う。こうした意味において、Jポップは「若者の言葉」なのである。

ただし、この本が試みているのは、既成の哲学の体系をJポップの詞で説明する、ということではない。そうした体系を知りたい人は教科書を買うべきだ。むしろこの本が試みているのは、若者が自らの言葉で、一から哲学的思索を開始したとき、そこにどのような議論が広がっていくかを考えてみることである。若者の言葉で哲学するということは、若者の問いを扱う、ということだ。そこからは、今の若者にとってどんな問題が重要であるかが、克明に示されるはずである。そうした思考実験を行うことが、この本の目的である。

対話によって紡がれる思索

この本のもう一つの特徴は、二人のキャラクターの対話によって議論が進行していく、ということだ。前述の通り、キャラクターは「先生」と「麻衣」である。「先生」は哲学に関する一定の教養をもった教師として登場し、「麻衣」は哲学にはあまり詳しくないがJポップをよく聴く大学生として登場する。原則的に、「先生」が議論をリードしていくが、「麻衣」からの強力な反論に遭い、話の方向性が変わることもある。そうした応酬を繰り返すなかで、議論が深まっていく。

対話は、哲学にとってとても馴染み深い方法論だ。古代ギリシャにおいて、ソクラテスは街の人々と対話をすることによって哲学していたし、その弟子であるプラトンは対話篇として優れた哲学書を執筆した。言うまでもなく、プラトンの著作は西洋哲学の源流をなす最重要な古典である。また近年では、たとえば「哲学カフェ」といった、市民間の対話型ワークショップが注目を集めている。

一人で考えることと、対話によって考えていくことの最大の違いは、次の点にある。すなわち、対話には必ず他者がいて、自分が当たり前だと思っている前提について問われ、それによってすべてを最初から考え直さなければならない状況が起きうる、ということだ。多くの場合、私たちは、自分たちがどんな前提に拠って思考しているかに気づくことができない。しかし、そうした前提を疑うときにこそ、思索は一層の深まりをみせる。その気づきを得られることが、他者と対話することの価値である。

従って、この本は、何かある特定の答えが先に用意されていて、そこへ向けて一本道に議論が進んでいく、という形式は取っていない。むしろ、2人のまったく違った人間が、一つの事柄について対話していくなかで、幾重にも脱線と逸脱を繰り返し、「当たり前」を掘り崩していきながら、議論が深められていく。ここでは、現実に起こりうる哲学的対話を可能な限りリアルに再現するよう努力した。

「自分らしさ」をめぐる問い

具体的な内容については、是非本を手に取って確かめてもらいたい。しかし、ごく大まかにいうなら、Jポップの詞から浮かび上がってくる若者の問いは、「自分らしさ」をめぐるものであると要約できる。それは、この本のなかで一つの中心的な問題として扱われている。

ここでいう「自分らしさ」とは、「私」と他者を区別する本質のようなものであり、生得的で、不変のものである。私たちは、社会や学校や大人たちから、みんな一人一人が個性的で、かけがえのない存在だと教えられる。また、他人に従うのではなく、自分らしい生き方をすることこそが重要であるとも教えられる。自分らしく生きることができるためには、自分らしさが何であるかを知っていなければならない。そのため、若者は「自分らしさ」を模索せざるをえなくなる。

「自分らしさ」を知るための手段として、就活などでよく用いられるのは、自己分析と呼ばれる手法だ。しかし、それは本当に「自分らしさ」を知ることになるのだろうか? 自己分析の結果として得られるのは、自分がもつ潜在的な職業適性であって、労働における市場価値である。しかし、労働の担い手は常に交換可能である。そうである以上、自己分析で得られた「自分らしさ」は、「私」だけがもつ唯一の個性などではない。それは原理的に「私以外の誰か」も持ちうるものであり、「私」はその誰かを交換可能なものになってしまう。それは結果的に、「自分らしさ」の喪失を意味する。

何故、こうした事態が起きるのだろうか? それは、端的に表現するなら、私たちの世界が目的と手段の関係に貫かれ、あらゆるものが別の何かのために役立てられるように存在しているからだ。この、目的と手段に貫かれているという性格を、仮に「効率」と名づけるとしよう。効率に支配された世界において、私たちは市場が求める通りに自分を「規格化」し、自らを代替可能な道具にしてしまう。そうすることでしか、私たちはこの世界で生きていくことができない。しかし、そうであるにも関わらず、社会は私たちに「自分らしさ」を追求することを要求する。ここに、今の若者が置かれている葛藤が示されている。

多くのJポップがこの葛藤を主題化している。アーティストたちは、その息苦しさを様々な角度から表現しようとしている。そうした表現のなかにヒントを見いだし、若者の問いを哲学の水準から理論化し、再構築することが、この本の試みである。

葛藤に対して自由であることを目指して

もっとも、この本は読者に対してそうした葛藤を克服する方法を提示することはない。そうではなく、そもそも「自分らしさ」という概念が何を意味するのか、また、なぜ私たちは「自分らしさ」を求めてしまうのか、あるいは「効率」とは何か、それは私たちの生活をどう支配しているのかを、深く問い直すことに終始している。

市場では、ビジネスで役立つ哲学や、傷ついた心を癒すヒーリングとしての哲学が需要をもっている。しかし、ビジネスと直結する哲学は、そもそも「効率」の支配のもとに置かれているのであって、この「効率」の支配そのものを問い直すことができない。また、ヒーリングを目的とする哲学も、癒された人々を再び「効率」化された社会へと送り変えそうとするものである限りにおいて、同上である。それらは結局、自分が生きている世界について盲目であり続けるのである。

この本が試みているのは、若者が置かれている葛藤を、若者の言葉で語り直し、それをよく知ろうとすることであって、その葛藤を解消することではない。葛藤を解消しないのだから、おそらく、この本は何かの役には立たないだろう。しかし、役に立たないということが、直ちに無意味であるということにはならない。私たちは、自分がどういう葛藤なかに投げ込まれているかを知ることで、その葛藤との関わり方を変えることができるからだ。

では、そうした関わり方の変化は、具体的にはどのようなものなのか。一言で表現するなら、それは、葛藤から自由になる、ということである。自由になるということは、経済的な利益には結びつかないかも知れないし、それによって新しいスキルが身につくわけでもない。しかしそれは私たちの人生にとって決して無意味なことではない。

何の役にも立たないが、意味がある。実はここに、Jポップと哲学が有する最大の共通点がある。私たちは役に立つからJポップを聴くのではない。経済的な利益をもたらしてくれるからJポップを聴くのではない。そうであるにも関わらず、Jポップは私たちの生活を豊かにしてくれる。それは、哲学がもつ魅力に極めて近いものである。

プロフィール

戸谷洋志倫理学

1988年、東京都世田谷区生まれ。専門は哲学、倫理学。大阪大学大学院博士課程満期取得退学。現在、大阪大学大学院医学系研究科 医の倫理と公共政策学教室 特任研究員。現代思想を中心に、科学技術をめぐる倫理のあり方を研究している。第31回暁烏敏賞受賞。近著に『Jポップで考える哲学―自分を問い直すための15曲』(講談社/2016年)がある。

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