2015.02.02

流動的人間関係原理からみた課税の正当化原理――左翼リバタリアンの理屈

松尾匡:連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

経済 #リスク・責任・決定、そして自由!#リバタリアン

前回は、固定的人間関係から流動的人間関係にメジャーなシステムが転換した際に、それにのっとる役回りを果たしたはずの路線が、かえって固定的人間関係の方にフィットした思想を、自分の正当化のための原理として取入れてしまった矛盾について確認しました。

流動的人間関係がメジャーなシステムへの転換にのっとる役割を果たした路線というのは、新自由主義と「第三の道」のことですが、それぞれ、新自由主義はナショナリズム、「第三の道」はコミュニタリアニズムという、いずれも個人より集団を優先させる思想を取入れたわけです。

前回大事な論点なのに書くのを忘れてしまったのですが、私見では、「第三の道」が「小さな政府」路線を志向してしまった大きな原因のひとつに、コミュニタリアン原理があると思います。つまり、「市場でもなく国家でもなくコミュニティを」という打ち出し方をする[*1]ことで、民間営利企業のパワーと並べて政府のパワーにも反対して、地域共同体の「自立」を目指すという方向性を持ってしまったということです。

[*1] 前世紀末から今世紀冒頭のころ、私も同様の言い回しで非営利・協同組合セクター論を提唱していた。もちろん、閉鎖的共同体の危険を警告して、目指すべき開放的なものと区別していた点では間違った図式ではなかったのだが、小さな政府と基準政府を混同させる点ではミスリーディングであった。

しかし、政府の財政支援も公共事業も削られて、大企業からも見放された田舎は、全国津々浦々どうなったでしょうか。若者に職がなくなり、商店は続々潰れていき、高齢者は毎日の買物も食事もままならなくなって、コミュニティどころではなくなります。職のない人や、都会の身内に頼れる人が、いよいよ逃げつくし、少数者の影響力が届く規模にまで人口が縮小したところに、たまたまヨソ者かUターン組の優秀で情熱ある人材を得る幸運にめぐまれた町だけが、コミュニティ経済を維持して、調査にきた都会の小金持ちコミュニタリアンに成功事例のネタを提供することができるのです。逃げ出した人々がみな戻ってきてもとてもやっていけるわけではないし、全国の田舎が同様に成功できるわけでもありません。

しかももともと衰退する前の地域コミュニティがそんな美しいものだったかと言えば、相互監視でがんじがらめで、ヨソ者に冷たく、ちょっとでも異質な者は排除し、一部の名士が万年取り仕切って千年一日の行事に有無を言わせず貢献させ、女は裏方、政治も宗教も中立なんてありはしない……都会の気ままな夢想コミュニタリアンが実際に暮らしたら一年ともちはしないような、そんなところが多かったです。

こうした抑圧は、地域コミュニティにかぎらず、協同組合にも社会福祉法人にも見られたことですが、結局このかん、こうした実情がなんとか改革されてきたのは、かなりの部分、深刻な人権侵害の被害者が裁判に訴えて国家の力を借りたおかげだということは否定できません。

つまり、「第三の道」のコミュニタリアンは、「国家かコミュニティか」と問題を立て、「国家よりもコミュニティを」と答えたのですが、もともとこの問題の立て方が間違っていたのです。国家にもコミュニティにも、固定的人間関係にフィットしたものと流動的人間関係にフィットしたものがあります。本来この「固定的人間関係」と「流動的人間関係」の分け方で、「あれかこれか」の問題を立てるべきだったのです。

固定的人間関係にフィットしたシステムでは、偉大な家父長が集団のメンバーのことをあれこれおもんぱかって強い力で後見し、一般メンバーはその恩に応えて忠誠を尽くすという理想モデルが成り立ちます。国家にこれを適用すると、政治家や官僚による恣意的な支配・拘束がもたらされます。「第三の道」のコミュニタリアンがこれに反対したのは正当でしたけど、替わって求めたコミュニティにも、同様に恣意的な支配・拘束があったというわけです。

しかし、この連載で見てきたように、流動的人間関係のシステムにフィットした国家のあり方もあります。連載をまとめた拙著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』(PHP新書)では、それを「基準政府」と呼びました。これは、資本側に有利なものも労働側に有利なものもあり得ますが、どちらにせよ世界的な擦り合わせが必要となるという点で、特定の民族性を持つものではありません。コミュニティが個人を埋没させることなく発展するためには、このような国家の助けが必要だったわけで、しかもそのときのコミュニティは、これもまた流動的人間関係のシステムがメジャーなものでなければならない。すなわち、出入り自由な開放的ネットワークでなければならず、そうなってこそ「アソシエーション」と呼ばれるにふさわしいと思います。

前回の最後で述べたように、国家とコミュニティ双方の固定的人間関係の側面を総合するのが、これからの極右勢力のナショナル・コミュニタリアン的解決だと思います。それに対してこの連載で提唱してきたことは、逆に、双方の流動的人間関係の側面を発展させることです。それはどのような思想原理によって正当化されるのかを考えていきたいと思います。

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

リバタリアンと言えば普通は「小さな政府」派だろ?

リベラル派も駄目、ナショナリズムもコミュニタリアンも駄目となったら、現在の主要な思想で残るのはリバタリアン思想しかありません。「自由至上主義」とか「完全自由主義」とか訳される、個人の自由を徹底的に追求する思想ですね。

たしかに、いま探ろうとしているのは、流動的人間関係のシステムにふさわしい思想です。本連載で見てきたように、そこでは、個人の自由な決定とそれに基づく責任が重視されます。たいていのリバタリアンは、たとえ麻薬であれ売春であれ賭博であれ安楽死であれ、できるかぎりの物事を自由化して、万事個人の自己責任に任せることを主張します。人間関係を固定的に縛ることは反対しますから、共通の価値観に忠誠を求めることはしません。だから避妊も中絶も同性愛も個人の自由だとみなします。まさに、リバタリアンこそがいま求めている思想にぴったりに思われます。

しかし、リバタリアンには、困った人を助けるために政府が税金を取ることに反対する人たちというイメージがあります。不況脱却のための政策介入にも反対ですよね。コミュニタリアンであるサンデルさんの「白熱教室」では、「弱者を突き放す冷たい人たち」というような扱いをされていましたので、ますますそんなイメージが広がっていることと思います。

この連載では私は、これからのあるべき経済政策として、手厚いベーシック・インカムや福祉事業の公財政保障を唱えてきました。当然その裏には、負担能力に応じて税金を取ることを想定しています。とくに好況期では、それなりに高い税率になってもやむを得ないと思っています。また、不況時には景気を好くするための積極的な政府介入を提唱しています。

こんなことは、世の中の普通のリバタリアンが受け入れるとは思えません。リバタリアンと言えば一番有名なのは、第12回で触れたノージックだと思いますが、その主著『アナーキー・国家・ユートピア』は、リベラル派全盛期の1970年代に大御所ロールズに敢然と挑み、彼の所得再分配正当化論を徹底的に批判した本です。国家の役割は、暴力や詐欺から心身の自由と私有財産を守り、自由な市場秩序を維持するための最小限のものにとどめるべきだ。困った人を助けることは、各自が自由意志で慈善としてなすべきだ──とされています。

従来は、困った人のために税金を取ることは、固定的人間関係で成り立つ「同胞を助ける責務」から根拠づけられてきたわけですから、最初からその理屈に立たない流動的人間関係の側だけにマッチした思想では、そのようなことが根拠づけられないように見えるのも自然なことです。

 

所得再分配を主張する「左翼リバタリアン」

それに対して、実は世の中には「左翼リバタリアン」[*2]と自称する人たちがいて、税金をかけて所得再分配することを積極的に主張しています。この議論がリベラル派と違うのは、ロールズの「天使の契約」のような仮想の同意でもって、本当は同意などしていない国中の個々人をみな縛ってしまう理屈はとらない[*3]ことです。その意味で、戦後すぐの日本の左派にもあったような公民的愛国主義に陥らないで、もっと個人の自由を尊重する考えになっていると思います。

[*2] 森村進(2001)『自由はどこまで可能か』講談社、31ページでは、ヒレル・スタイナーとピーター・ヴァレンタインがその論者にあげられている。森村進編著(2005)『リバタリアニズム読本』勁草書房、168-169ページで森村は、彼自身リバタリアンと認めていない、マイケル・オーツカも紹介している。有賀誠、伊藤恭彦、松井暁編(2007)『ポスト・リベラリズムの対抗軸』ナカニシヤ出版でも、松井が第2章で比較的詳しく紹介している。以下の説明はこれらの文献による。

[*3] 森村編(2005)169ページ。

私は、左翼リバタリアンが再分配のために税金をとることを正当化している理屈は、とりあえず承認しています。今回は以降でそれを見ていくのですが、しかし、それはあくまで、税金を取ることがリバタリアンの基本価値に反しないという正当化であって、なぜそれでもって福祉などに使わなければならないかという理屈にはなっていません。それは、リバタリアンの基本価値とは別のところから、例えば「平等主義」のようなものを持ち込むことによってはじめて正当化されています。

もっとも、多くのリバタリアンは、左翼リバタリアンをリバタリアンとして認めません。それは、税金を取っていく正当化が認められないというよりは、やはり、異質な価値観を持ち込んでその使い道を正当化するところにあるのだと思います。「所得の平等」という価値観があってもかまわないが、それはその価値観を持つ人だけで実現していればいいだけで、それを共有しない人にまで国家権力を通じて強制するのはまったくリバタリアン的ではないということになるのだろうと思います。

これは私の観点からも大きな問題です。なぜなら、例えば「所得の平等」というような価値観は、一国のようなグループを限って、その中でだけ意味のある考え方です。要は「同胞の間での格差はよくない」という理屈です。だとするとそれは、固定的人間関係にフィットした価値観を入れ込むことになります。そのことは流動的人間関係に適応するための思想の中で矛盾を起こすことが危惧されます。もともと、そんなふうに固定的人間関係で成り立つ価値観が目的になるのなら、最初からそれに合わせて「同胞を助ける責務」という理屈で税金を取ればいいだけで、あえてリバタリアン論理の道具立てを使ってあれこれ税金をとる理屈付けを考える必要もないことになります。

それゆえ、流動的人間関係にフィットしたリバタリアン的価値観そのものから、内在的に、福祉に公金を使うことや景気対策を行うことが正当化できないかということが課題になります。

ロック由来の「自己所有権命題」

さてでは、左翼リバタリアンが税金を取っていくことをどういう理屈で許したのかを見てみましょう。

その前にはまず、普通のリバタリアンが、税金を取られることに反対している理屈がどうなっているのか確認する必要があります。それは、「自己所有権命題」[*4]と呼ばれる考え方によります。とくに、なぜ個人は自由であるべきかという一番根本の根拠付けを「自然権」に求めているタイプのリバタリアンにとっては、このことはゆるがせにできないコアの議論です。

[*4] 「自己所有権命題」という言葉自体は、それを批判する目的でG. A. コーエンが使い出したものであるが、すぐにリバタリアン側が肯定的に自称するようになったという。松井編(2007)24ページの松井の解説、森村進(2001)34ページ。

これは、さかのぼれば、17世紀イギリスの啓蒙思想家のジョン・ロックに行き着きます。ロックは、主著『統治二論』の中で、万人が自分の身体の所有権を持っていて、本人以外の誰もそれへの権利を持っていない[*5]と論じています。これが今日「自己所有権命題」と呼ばれるもので、個人が奴隷ではなく自由であるための大前提とされています。中世の農奴は、週に数日領主直営地で働くことを強制されましたが、このような強制労働は許されないということです。日本国憲法でも第18条で、人身の自由が規定されていて、目下、犯罪による刑罰や、容疑者の逮捕、精神病や感染症の入院の強制などが例外となっていますが、リバタリアンならば、徴兵制にも裁判員制度にも選挙の投票義務化にも反対するでしょう。

[*5] ジョン・ロック『統治二論』後編27節、(加藤節訳2010)岩波文庫326ページ。

そうした上でロックは、自分の所有する身体の働き(=自分の労働)と自分の所有物で生み出したものは、自分の所有物であり他人は権利を持たないと言います[*6]。これが私有財産権の根拠づけになります。そこで使われた自分の所有物がどうやって作られたかをさかのぼると、一番初めは無主の物から始まりますが、無主の物は最初に占有して労働を加えた者のものになるとされます[*7]。

[*6] 同上。

[*7] 同上書後編27-30節、326-329ページ。

ただしここには、「ロックの但し書き」と通称される条件がついていて、「少なくとも、共有物として他人にも十分な善きものが残されている場合には」[*8]労働を加えた人の所有権が認められるとされています。わかりやすくイメージすれば、これは、万人の前に未墾の荒野が茫漠と広がる「大草原の小さな家」の世界です。各自は自分の望むだけそれを耕して自分の土地にして、得られた収穫を自分のものにするということです[*9]。

[*8] 同上書後編27節、326ページ。

[*9] 同上書後編33節、331-332ページ。

そしてこの財産権は、最高権力と言えども本人の同意なしに勝手に取り上げることはできない[*10]と言います。たしかに、以上の議論にのっとれば、自己労働の産物である私有財産を勝手に取り上げることは、それを作るためにやった労働を政府から強制させたことと同じことになります。つまり、自己所有権の侵害になるというわけです。

[*10] 同上書後編138節、460ページ。

ノージックは、ロックのこの議論を取り上げ、さらに、自由な意思決定によって交換して手に入れたり譲ってもらったりしたものは自分のものだという原理[*11]を加えて、私有財産権の根拠にしています[*12]。そうすると、互いに合意した売買の結果得られた所得に対して課税することは、何であれ自己所有権の侵害ということになります[*13]。

[*11] ノージックはこれを「移転の正義の原理」と称する。ロバート・ノージック(嶋津格訳2014)木鐸社、256ページ。

[*12] 「獲得の正義の原理」と「移転の正義の原理」を合わせて、保有物への権原を定め、これを「権原原理」と称している。ノージック同上。

[*13] 「勤労収入への課税は、強制労働と変わりがない。」ノージック(2014)284ページ。

マルクスも自己所有権命題同様のことを言っていた

平等主義的な左翼思想の中には、自己所有権命題を批判するものも多いです[*14]。もちろんコミュニタリアンはこのような、個人が先立つ発想は認めません。しかし、左翼リバタリアンは、自己所有権命題そのものは認める立場にある点で、これらの普通の左派思想とは区別されます。

[*14] 有賀、伊藤、松井編(2007)34-36ページ。

実は、共産主義の教祖と扱われてきたマルクスその人からして、国民の間の所得の平等を求めて資本主義批判をしていたわけではありません[*15]。彼の資本主義批判のいくつかの主要な論拠と、少なくとも第一段階の共産社会の構想とは、自分の労働の産物は自分の自由にできるべきだという、自己所有権命題同様の理屈でできているのです[*16]。

[*15] 松井暁(2012)『自由主義と社会主義の規範理論──価値理念のマルクス的分析』206-208ページでは、マルクスが平等主義的でないことを指摘する諸論者の議論が紹介されている。

[*16] これは、「自己所有権命題」という言葉を最初に使ったコーエンによって指摘された。コーエンは自己所有権命題を批判している社会主義者なので、ここでマルクスは批判されているのである。松井(2012)第4章を見よ。松井自身は、マルクス批判の意図はないが、この議論を認めている。ただし私は、「自己所有権命題」という表現自体は、物象のイメージが強いので最適ではないと思う。

有名な労働搾取論自体がそうです。労働者が賃金から入手するものを再生産するために投入するべき労働量は、その労働者がその賃金を得るために働いた労働量よりも少ない──これが「搾取」という意味です。私の師匠の置塩信雄はこれを数学的に定式化し、これが、経済全体に正の利潤が発生するための必要十分条件であることを証明しました[*17]。これは言い換えれば、労働者が自分の入手できないものを生産するために労働しているということであり、それがケシカランという価値判断は、自己所有権命題と同じです。

[*17] 森嶋道夫によって「マルクスの基本定理」と名付けられて世界に知られている。詳しくは拙サイトの次のページを参照のこと。http://matsuo-tadasu.ptu.jp/yougo_fmt.html

「領有法則の転回」と呼ばれる資本主義批判の理屈[*18]も同様です。資本主義経済が始まる前の、小農民が独立手工業者を兼ねて、自分の労働で自営して暮らしていた時代には、生産手段は「自分の労働に基づく所有」だったけど、資本主義経済が始まって労働者を雇って働かせるようになると、資本家の生産手段は「他人の労働に基づく所有」になる。たとえ資本家の最初の生産手段が自分の労働で用意したものだったとしても、労働者の作った剰余生産物がそこに付け加わって拡大再生産していくうちに、圧倒的割合は、「他人の労働に基づく所有」になっていくのだ──こんなふうに言います。やはり、自己所有権命題同様の理屈による批判になっています。

[*18] マルクス『資本論』第1巻第22章、MEW, Bd.23, s.609-610.

『資本論』第1巻の最後を飾る「個人的所有の再建」論[*19]も似たようなものです。資本主義以前の独立小生産者には「個人的所有」があったけど、資本主義段階になるとそれは否定された。けれども資本主義体制打倒のあかつきには、「個人的所有」は再建されるのだというストーリーです。昔のソ連共産党公認解釈では、「個人的所有」とは「消費財のこと」というトンデモな説明がされていましたけど、消費財の個人的所有は資本主義のもとでも否定されていないので、もちろん違います。文脈上明らかに生産手段のことです。

[*19] 同上書第24章、s.791.

今日の解釈では、「個人的所有」とは、働く個々人が、生産手段に対して自分に属するものとしてかかわることとされています[*20]。要は、働く個々人が働き方を自由にコントロールすることです。昔の小生産者は個々ばらばらに自分の意思で労働できた。資本主義のもとの労働者は自分の意思で労働できず、資本家の命令で働かされた。それが将来社会になると、労働者は共同の合意のもと、再び自分の意思で労働するようになるのだということです(もちろん、ソ連ではそんなものが「再建」されたことなどありませんでした)。この論点にも、自分の身体は自分の自由意思にのみ服すべきだとする、自己所有権命題と同じ志向が見られます。

[*20] 大谷禎之介(2011)『マルクスのアソシエーション論──未来社会は資本主義のなかに見えている』桜井書店、119ページ。

そして共産社会の第一段階では、「労働に応じて受けとる」という分配原則が実現される[*21]と言います。等しい労働どうしが交換されるという「価値規定の内実」が、商品どうしの交換という形で歪むことなく、直接透明に現われる[*22]とされます。つまり自己所有権命題が、並のリバタリアンが望む以上に、もっと厳密に実現されることを展望していると言えます。左翼リバタリアンはここまで厳密な自己所有権命題の実現を求めているわけではないので、左翼リバタリアンの方がマルクスよりもリベラル派に近い、マルクスの方がノージックに近いという逆説的言い方もできるかもしれません。

[*21] マルクス『ゴータ綱領批判』、MEW, Bd.19, s.20.

[*22] マルクス『資本論』第1巻、前掲書s.93.

自己所有権の及ぶ範囲を限定していった左翼リバタリアンの流れ

左翼リバタリアンが、ノージックらの普通のリバタリアンの主張について問題にしたのは、象徴的に言えば、交換をたどっていった一番初めの占有は、はたして正当なものかということです。「ロックの但し書き」が満たされていたのかということだとも言えます。たとえ話で言えば、「大草原の小さな家」の世界で各自の前に茫漠と広がる荒野は、実は無主の物ではなくてアメリカ原住民から無法に奪った物ではなかったのかということを問題にしているとも言えるでしょう。

そこで彼らは、各自の心身については自己所有権命題を認めますが、各自の心身の外にある「物」についてはそれを認めず、再分配の対象にしていいのだと言いました[*23]。

[*23] スタイナーは外的資産の平等分配を主張する。森村編著(2005)157ページ。オーツカは、内的資源の不平等を補って厚生の機会を平等にするように、外的資源を再分配すべきことを主張している。有賀、伊藤、松井編(2007)30-31ページ。

この対象をどこまで認めるかについても、いろいろバージョンがあるようです。土地そのものや天然資源は、人間の労働で作られたものではないのだから、社会の共有物にすべきだというのが、一番狭いとらえかただろうと思います。その次に、労働の産物である機械や工場とか、その代理物たるおカネや証券類とかも再分配の対象にしていいという考えがあり得ます。ここまでのバージョンでは、極端には利潤全額課税という主張だってあり得るわけですが、労働所得には手をつけられません。

しかし今度は、各自の内的な能力だって、必ずしも各自の努力だけで作られたものではないはずだという考えが出てきます。そうすると、労働所得に課税することも正当化されます。ベーシック・インカム論を最初に本格的に提唱したP. ヴァン・パリースさんは、自分のことを「リアル・リバタリアン」と称しているのですが、最終的には各自の運やコネも含めて「ギフト」と呼び、その結実たる所得への課税を正当化しました[*24]。ここまでくると、「リバタリアン」と称しながら、並のリベラル派よりも課税対象が広いかもしれません。

[*24] この論点は、パリースの1995年の主著『ベーシック・インカムの哲学──すべての人にリアルな自由を』(後藤玲子、齊藤拓訳2009、勁草書房)ではまだはっきりしておらず、後年明確化された。詳しくは、立岩真也、齊藤拓(2010)『ベーシック・インカム──分配する最小国家の可能性』青土社、196ページ以降の齊藤による説明を参照のこと。

地代への全課税を主張するリバタリアンの一派

私はまずとりあえず、人の手の加わらない「土地そのもの」「鉱脈そのもの」等については、左翼リバタリアンの理屈は認められていいと思います。このような見解は、ずいぶん昔の古典的自由主義の時代から見られたようで、19世紀アメリカの経済学者ヘンリー・ジョージが、土地を全人類の共有財産と位置づけて、地代に対する全課税を唯一の税として、その収入を国民に再分配することを唱えました[*25]。主流派経済学の一般均衡論の始祖とされるレオン・ワルラスも、終生自分では社会主義者を名乗っていたのですが、そのビジョンの特徴は土地を国有化して、競争均衡で決まる地代を国庫収入にして、賃金課税はなくしてしまうところにあります[*26]。

[*25] ヘンリー・ジョージ(山㟢義三郎訳1991)『進歩と貧困』日本経済評論社。特に第八編第二章。この本では、労働の産物の財産には自然の基礎があるが、土地財産にはそれがなく、その私有の承認は労働の産物の財産権を否定すると述べている(viページ)。第八編第四章で彼は、リカードや、J.S.ミルのような自由主義の経済学者が自分の提案の先駆であることを主張する。この本のかなりの部分は、労働者階級を貧困に陥れる社会体制への弾劾に割かれているが、この本の本編の最後の章(第十編第五章)が、合衆国憲法の人格の平等宣言から始まる自由讃歌の文章であるように、著者は古典的自由主義の精神に立って主張している。なお、ミルトン・フリードマンも、ジョージの課税制度が最も悪影響の少ない税制であると認めているという。F. E. Foldvary(2005), “Geo-Rent: A Plea to Public Economists”, Econ Journal Watch, vol. 2, No. 1の冒頭にフリードマンからの引用がある。

[*26] 御崎加代子(1998)『ワルラスの経済思想──一般均衡理論の社会ヴィジョン』名古屋大学出版会、32ページ、129-130ページ。

私は、このレベルの考えは、比較的素直にリバタリアンの立場から出てくると思います。「ロックの但し書き」が直接に指していることだからです。

「ロックの但し書き」がまったく不要な世界を考えてみて下さい。それは各自の労働によって無から富が作り出される世界です。「100%ウィン・ウィン」で、前と比べて損をする人はいません。「ウィン・ウィン」の発想と言えば、この連載の去年の9月の回で書いたように、流動的人間関係にフィットした発想でしたね(「経済学的発想」)。みんながとことん自由であることが何の問題もなくできるリバタリアンの理想は、これを前提しているわけです。

そもそもこんな世界では、力づくで他人から何か奪おうとしても、どこかに逃げられてしまいます。だから、自己所有権を侵そうとしても、もともと侵すことはできないことになります。

逆に「ロックの但し書き」がまったく満たされない世界を考えてみれば、それは、「100%ゼロサム」の世界と言うことになります。キッチリ「トクの裏にはソンがある」という世界です。それはどんな状態かと言えば、すでに存在している物だけが富で、新たに作り出される物がない世界です。端的にイメージすれば、一定の土地を各自の間で縄張り争いしているような状態だということになるわけです。

「ゼロサム」の発想は固定的人間関係にフィットした発想です(「反経済学的発想」)。前近代社会みたいに、農産物にしろ狩り場にしろ、生産物がもっぱら土地ばかりに依存して決まっている世の中では、共同体の内部ではメンバーが土地を各自の好き勝手に利用しないよう、利己に限界をつけ、共同体の外とは、土地を取るか取られるか争うという、「ゼロサム」を前提した仕組みがふさわしくなるわけです。

このような世界では、力の強い人が弱い人の自己所有権を侵しても逃げ場はありませんから、リバタリアンの生きる余地なんてありません。多くの土地を所有した人(例えば「領主」)と、そうでない人(例えば「農奴」)とにいったん分かれると、前者は後者に、意に添わぬ強制労働でも思いのままに課すことが永遠にできることになってしまいます。

だから、リバタリアンの理想が実現できるためには、土地は一部の私意に任されない公共物にすべきだという結論が出てきます。その場合、その土地であることにかかわらずどこでも得られる人間の活動の成果を除いて、ただその土地そのもののために得られる分の特別の収益は、社会のみんなのものということになります。

このような、人の力で増やしたりできないものを独占することで、特別に得られる収益のことを、経済学では「レント」と言います。規制などの政治権力を使って物事を勝手に増やせない状況を作って、それを押さえることから「レント」を得ることを、リバタリアンは普通大変嫌います。日本の代表的なリバタリアン提唱者の森村進さんは、著作権や商標権や特許権についても、「リバタリアニズムが認めにくいもの」と批判しています[*27]。もちろん、土地などのように自然にそうした性質を持っているものにまで同じことを適用して言うかどうかは意見が分かれますが、レントが発生してしまう場合には、それは課税して公共のものにするという発想は、リバタリアンに自然にマッチしたものだと言えると思います。

[*27] 森村(2001)前掲書44ページ。

利潤に課税することを主張するリバタリアンの一派

それでは、一歩進んで、機械や工場などの人間が作った生産手段とか、その代理物であるおカネや証券類をも再分配の対象にする議論はどう評価すべきでしょうか。

土地などと違って、この場合、必要な生産手段は作り出すことができます。土地に依存しない近代的生産では、労働する時に利用する生産手段も労働と生産手段の産物で、その生産手段も労働と生産手段の産物で、以下同様の連鎖が続いて収束するので、結局は世の中でのさまざまな部門での労働の連鎖に還元されます。各自が年々、本当に世の中に必要なものを作っているとしましょう。もしそうならば、各自は必要な生産手段を、自分の労働の産物との交換で手に入れることができるはずですから、結局あたかも一からすべて自分の労働で作っているのと同じようにみなすことができます。

全員がつじつまが合って同じようにみなせますので、経済全体として見れば、各自が自分の好きなだけ働いて、それに応じた成果を自分の好む組み合わせで受け取っている状態を、各自の個性のいかんにあわせて、いかようにも編成することができるわけです。つまり、「ロックの但し書き」が満たされた、「大草原の小さな家」の世界が成り立つわけです[*28]。

[*28] ローマーとシルベスターの「収穫一定等価解」である。吉原直毅(2006)「分配的正義の経済哲学」、薮下史郎監修、須賀晃一、若田部昌澄編著『再分配とデモクラシーの政治経済学』東洋経済新報社、第6章、137-138ページ。

しかしこれは、長い目で見た、つじつまの合った年々の繰り返しの状態で言えることです。それに対して、いままで働いたことのなかった人が、突然裸一貫で何かの生産を始めようとしても、生産手段があらかじめなければ始めることはできません。短期的には、すでに存在している生産手段が、あたかも土地と同じように制約として人々の前に立ち現われるのです。だから、そのどれだけを誰が持つかが「ゼロサム」になっている状況が成り立ちます。

このような制約は長い目で見たらなくなる力が働きます。しかし、必要な生産手段を生産できるまで、何段階も生産手段の生産をさかのぼらなければならないとき、あるいは実は数学的に同じことに還元できるのですが、巨大な設備が償却されるまで何年もかかるとき[*29]、それよりも短いタイムスパンの間は、「ロックの但し書き」が成り立たない状況が出現すると言えます。

[*29] 19世紀末から20世紀初めにかけてのオーストリア学派の経済学者ベーム・バベルクの「平均生産期間」概念である。私はこれを、循環的投入構造において成り立つように定式化を拡張し、これが、価格情報に直接依存しない優れた資本集約度概念として、マルクスの有機的構成概念や、投入係数のフロベニウス根と密接に関連していることを示した。Matsuo, T. (2010) “Average Period of Production in Circulating Input-output Structure”, Applied Mathematical Sciences, Vol. 4, no. 46, pp. 2293-2313, Hikari Ltd.

そうすると、いったんこういう状況で生産手段の各自への配分が不平等になったとしましょう。例えば、昔ながらのマルクス主義者が描く資本主義経済のように、一部の人だけが生産手段を所有して、他の人々はみな生産手段を持たないとします。当然この場合、生産手段を持たない人は、賃金労働者として、生産手段を持つ人に雇われて働いて暮らすことになります。さもなくば失業者です。

このとき、最初から労働者たちがみんな平等に生産手段を持って働いた方が、労働者みんなにとって幸せだったかもしれません。しかし、いったん賃金労働者になると、必要な生産手段が蓄積できるまで消費を抑えようとしても、飢えてしまうので耐えられないかもしれません。それよりは、賃金労働者を続けた方がマシということで、この状況が選ばれ続けます。すなわち、「ロックの但し書き」が成り立たない状況が、解消される前に再生産され続けるわけです。

そうすると、先ほどの議論での土地と同様に、人が作った生産手段も社会の共有物にするという考えが提唱されてもおかしくないことになります。この議論の場合、利潤は「レント」扱いされて社会のものになることになります。すなわち、このレベルに至った左翼リバタリアンは、労働所得には手をつけないのですが、利潤には課税して人々に再分配することになります。

そのもっとも極端なケースは、全利潤を課税するものですが、これは──「リバタリアン」とは名乗っていないのですが──アナリティカル・マルクス主義の代表的論客、ジョン・ローマーさんの「市場社会主義」モデルと同じです。そこでは、すべての生産手段は社会の全成員に平等に持ち分権が分配されるために、利潤もすべて全成員に平等に分配されます[*30]。

[*30] もう少し具体的には、株を買うためだけに使えるクーポンを全国民に平等分配するモデルを描いている。ジョン・E・ローマー(伊藤誠訳1997)『これからの社会主義──市場社会主義の可能性』青木書店、第8章。なお、個人間の労働スキルに差がない場合、このような生産手段の初期均等配分下の競争均衡解である利潤の均等分配のもとでは、無羨望基準とパレート効率性基準の双方が満たされることが知られている。後藤玲子、吉原直毅(2004)「「基本所得」政策の規範的経済理論──「福祉国家」政策の厚生経済学序説」『経済研究』第55巻第3号。

利潤への課税は秩序インフラへの投資の回収と見たらどうか

しかし、私からコメントすれば、短期的な生産手段存在量の制約のために発生する「レント」は、それが高ければ高いほど、生産手段の蓄積が足りないことの指標になっているものです。資本主義経済では、その「レント」が高ければ、その部門はもうかるぞということで、生産手段の蓄積をひきつける誘因が働くわけです。十分蓄積が進めば、この「レント」は消えていく力が働く[*31]わけですから、これは、土地などで発生する「レント」とは厳密には区別するべきで、「準レント」と呼ばれたりします。

[*31] もちろん、この方向への力が常に働くというだけで、現実には生産手段の制約は再生産され続けるので、「レント」はなくならない。

だとすると、さすがに全利潤を課税してしまうと、生産手段蓄積の誘因が働かなくなってしまうのではないか、あるいは、どこにたくさん蓄積すればいいのかを示す指標がなくなってしまうのではないかということが、私には懸念されます[*32]。

[*32] ローマー(伊藤訳1997)第12章は、政府が公衆の貯蓄を集中し、それが企業の借入と総計で一致するように利子率が決まるメカニズムのもとで、政府が各分野の利子率の引上げ引き下げを調整することで、政府が望む投資パターンを実現する仕組みを提案している。

生産手段の存在量が経済にとって「ゼロサム」の制約になっている事態は、タイムスパンを短くとって見たときだけの話ですので、私はそれにあわせて、利潤に対する課税も部分的なものであっていいと思います(リバタリアンの価値観に照らした正当化の理屈を考えているときに、次元の違う、経済的にひきおこされる都合、不都合の議論を持ち出しているように思われるかもしれませんが、そうではなくて、「ロックの但し書き」を満たせない制約が時間を経て解消に向かうことへの対応という点で、同じ理屈になっているということです)。

このことをふまえて、私なりの、利潤に部分的にしろ課税することの正当化の理屈を提案してみたいと思います。

人造の生産手段が、短期的視点ではあたかも土地のように経済への制約になって準レントを生むのは、生産手段の生産をさかのぼる段階が長くて、必要な各段階の生産手段をひとそろい生産できるまでに時間がかかったり、設備が巨大で元手を回収するのに時間がかかるからですが、こんな気の長いものを既存の資本側が用意できたのは、安定した取引秩序がそのような長期にわたって続くという予想が成り立っていたからこそだと思います。

詐欺や強盗が頻発する世の中だったり、経済変動が激しくていつ商売続けられなくなるかわからなかったりしたら、みんなもっと元手の回収がすぐできる事業ばかりしていたはずです。そのような事態では、簡単に参入や生産手段の蓄積が済んでしまうので、準レントは発生しなくなります。

だから準レントが得られるのは、安定した秩序や安定した景気という一種のインフラを社会全体が提供したおかげだと言えます。

もちろん、道路や港湾などの物的なインフラも、利潤が得られることに貢献しているでしょうから、それを用意した政府が利潤から税金を取ることはそれだけでも正当化されると思いますが、それだけのことでしたら、インフラを作るのにかかる費用を、抜け駆けする資本家が出ないように、資本側みんなで相互拘束的に出し合ったものにすぎず、その費用を超える目的外支出を正当化するものではないでしょう。

秩序インフラなどは、単に税という料金の見返りに政府が作っているものではなくて、政府の政策によるものも人々の日常的な行動によるものも含めて、何かの特定の効果を得る具体的な目的のためではない、きわめて一般的な便益が得られることを予想して作られているものだと思います。とくに、ハイエクが提唱したような基準政府はそうでしたよね。すなわちこれは、個々具体的な事業の「成果」に関しては必然的な結びつきを持たないという点で、一種の「投資」なのだと思います(ここで「投資」と言ったのは、金銭的でない人々の日常行動──誠実にふるまう等々[*33]──も含めてのことです)。したがって、この結果得られる「レント」には、社会全体が一種の「残余請求権」を持つはずであって、それが「税金を取る」ということではないかと思います。それゆえ、その収益は、社会全体が何らかの形で合意する、いろいろな目的のために使っていいということになるのだと思います。

[*33] あるいは、暮らしの苦しい人々が、暴力的に階級闘争して生産手段の私有財産権を脅かしてもおかしくないところを、自重しているということも含まれると考えるとわかりやすいかもしれない。

ただし、大急ぎで付け加えなければなりませんが、さきほど触れたヴァン・パリースが、「リアル・リバタリアン」を自称しながら税金を取っていくことを正当化している根拠づけにもうひとつあります。事後的に勝手に取っていったりしたら自己所有権の侵害だけど、権利というものは、事前的に確定されているところに本質があるのだということです。つまり、税金を取っていくことも含めて、事前に権利の中に含めて定義しておけば、それは権利の侵害にはならない[*34]ということです。これを、権利制限の正当化の理屈として使うならば、事前に定めておくなら何をやっても構わないのかということになって、事実上権利なんかなくなってしまう恐れがありますが、そうではなくて、何らかの公的な強制をするときに満たされるべき必要条件の指摘だとすると、それは大事なことを言っていると思います。

[*34] 「弱意の権原原理」と称している。パリース(後藤、齊藤訳2009)21ページ。

つまり、連載第三回でハイエクの言ったことを見て以来ずっと確認してきましたように、政府のやることは、人々の予想を確定するような、事前的なルールでなければならないということです。

それゆえ、「残余請求権」という比喩を使いましたけど、この意味は、所得に関係ない定額の料金ではない[*35]というだけのことで、あとになって政府が勝手に税金を請求していいという意味ではありません。所得と税金との関係が事前に明確に予想できるルールとして確定されていることが、自己所有権の侵害と言われないための最低限必要な条件だと思います。

[*35] 定額の場合には、景気が好いときの税負担は少なくなり、景気が悪いときの税負担は重くなるので、景気変動を増幅させてしまうという不都合もあるだろう。

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紙幅が長くなりすぎましたので、労働所得に対する課税の正当化については詳しく述べる余裕がありませんが、やはり上で述べたことと同様の理屈が成り立つと思います。すなわち、教育などに時間をかけてじっくり人的投資できたのは、直接の政府の教育支出は言うまでもなく、秩序インフラなどに社会全体で「投資」がなされた成果なのだから、その結果得られる一種の「準レント」としての労働所得には、社会が残余請求権を持つ部分があるだろうということです。

このように、自己所有権命題を前提しながら、それが成り立つ前提である「ロックの但し書き」をよく考えていけば、地代のような、人の力によらず自然自体の生み出す限りでのレントについては全面的に、利潤や労働所得については部分的に、課税することは正当化されると考えられます。地代にしても、人の手が加わって生み出された価値については全課税されるわけではないとすれば、結局今回の考察では、いまどこの国でも見られる普通の所得税や法人税の制度が、リバタリアンの立場に立っても否定されるわけではないということが主張できたにすぎません。

では次回以降は、その使い道の方が福祉や再分配に向けられることが、リバタリアン的な価値観から正当化することができるのか、できるとすればどのように正当化されるのかを検討します。実はこちらの方が、税金を取ってよいかどうかの問題よりもよっぽど重大です。それは突き詰めれば、リスクとは何か、決定とは何か、責任とは何か、そして、自由とは何かという、本連載の根幹となる概念を問いなおすことになります。

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

サムネイル「tax」401(K) 2012

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プロフィール

松尾匡経済学

1964年、石川県生まれ。1992年、神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。1992年から久留米大学に奉職。2008年から立命館大学経済学部教授。

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