流動的人間関係原理からみた課税の正当化原理――左翼リバタリアンの理屈

前回は、固定的人間関係から流動的人間関係にメジャーなシステムが転換した際に、それにのっとる役回りを果たしたはずの路線が、かえって固定的人間関係の方にフィットした思想を、自分の正当化のための原理として取入れてしまった矛盾について確認しました。

 

流動的人間関係がメジャーなシステムへの転換にのっとる役割を果たした路線というのは、新自由主義と「第三の道」のことですが、それぞれ、新自由主義はナショナリズム、「第三の道」はコミュニタリアニズムという、いずれも個人より集団を優先させる思想を取入れたわけです。

 

前回大事な論点なのに書くのを忘れてしまったのですが、私見では、「第三の道」が「小さな政府」路線を志向してしまった大きな原因のひとつに、コミュニタリアン原理があると思います。つまり、「市場でもなく国家でもなくコミュニティを」という打ち出し方をする[*1]ことで、民間営利企業のパワーと並べて政府のパワーにも反対して、地域共同体の「自立」を目指すという方向性を持ってしまったということです。

 

[*1] 前世紀末から今世紀冒頭のころ、私も同様の言い回しで非営利・協同組合セクター論を提唱していた。もちろん、閉鎖的共同体の危険を警告して、目指すべき開放的なものと区別していた点では間違った図式ではなかったのだが、小さな政府と基準政府を混同させる点ではミスリーディングであった。

 

しかし、政府の財政支援も公共事業も削られて、大企業からも見放された田舎は、全国津々浦々どうなったでしょうか。若者に職がなくなり、商店は続々潰れていき、高齢者は毎日の買物も食事もままならなくなって、コミュニティどころではなくなります。職のない人や、都会の身内に頼れる人が、いよいよ逃げつくし、少数者の影響力が届く規模にまで人口が縮小したところに、たまたまヨソ者かUターン組の優秀で情熱ある人材を得る幸運にめぐまれた町だけが、コミュニティ経済を維持して、調査にきた都会の小金持ちコミュニタリアンに成功事例のネタを提供することができるのです。逃げ出した人々がみな戻ってきてもとてもやっていけるわけではないし、全国の田舎が同様に成功できるわけでもありません。

 

しかももともと衰退する前の地域コミュニティがそんな美しいものだったかと言えば、相互監視でがんじがらめで、ヨソ者に冷たく、ちょっとでも異質な者は排除し、一部の名士が万年取り仕切って千年一日の行事に有無を言わせず貢献させ、女は裏方、政治も宗教も中立なんてありはしない……都会の気ままな夢想コミュニタリアンが実際に暮らしたら一年ともちはしないような、そんなところが多かったです。

 

こうした抑圧は、地域コミュニティにかぎらず、協同組合にも社会福祉法人にも見られたことですが、結局このかん、こうした実情がなんとか改革されてきたのは、かなりの部分、深刻な人権侵害の被害者が裁判に訴えて国家の力を借りたおかげだということは否定できません。

 

つまり、「第三の道」のコミュニタリアンは、「国家かコミュニティか」と問題を立て、「国家よりもコミュニティを」と答えたのですが、もともとこの問題の立て方が間違っていたのです。国家にもコミュニティにも、固定的人間関係にフィットしたものと流動的人間関係にフィットしたものがあります。本来この「固定的人間関係」と「流動的人間関係」の分け方で、「あれかこれか」の問題を立てるべきだったのです。

 

固定的人間関係にフィットしたシステムでは、偉大な家父長が集団のメンバーのことをあれこれおもんぱかって強い力で後見し、一般メンバーはその恩に応えて忠誠を尽くすという理想モデルが成り立ちます。国家にこれを適用すると、政治家や官僚による恣意的な支配・拘束がもたらされます。「第三の道」のコミュニタリアンがこれに反対したのは正当でしたけど、替わって求めたコミュニティにも、同様に恣意的な支配・拘束があったというわけです。

 

しかし、この連載で見てきたように、流動的人間関係のシステムにフィットした国家のあり方もあります。連載をまとめた拙著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』(PHP新書)では、それを「基準政府」と呼びました。これは、資本側に有利なものも労働側に有利なものもあり得ますが、どちらにせよ世界的な擦り合わせが必要となるという点で、特定の民族性を持つものではありません。コミュニティが個人を埋没させることなく発展するためには、このような国家の助けが必要だったわけで、しかもそのときのコミュニティは、これもまた流動的人間関係のシステムがメジャーなものでなければならない。すなわち、出入り自由な開放的ネットワークでなければならず、そうなってこそ「アソシエーション」と呼ばれるにふさわしいと思います。

 

前回の最後で述べたように、国家とコミュニティ双方の固定的人間関係の側面を総合するのが、これからの極右勢力のナショナル・コミュニタリアン的解決だと思います。それに対してこの連載で提唱してきたことは、逆に、双方の流動的人間関係の側面を発展させることです。それはどのような思想原理によって正当化されるのかを考えていきたいと思います。

 

 

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

 

 

リバタリアンと言えば普通は「小さな政府」派だろ?

 

リベラル派も駄目、ナショナリズムもコミュニタリアンも駄目となったら、現在の主要な思想で残るのはリバタリアン思想しかありません。「自由至上主義」とか「完全自由主義」とか訳される、個人の自由を徹底的に追求する思想ですね。

 

たしかに、いま探ろうとしているのは、流動的人間関係のシステムにふさわしい思想です。本連載で見てきたように、そこでは、個人の自由な決定とそれに基づく責任が重視されます。たいていのリバタリアンは、たとえ麻薬であれ売春であれ賭博であれ安楽死であれ、できるかぎりの物事を自由化して、万事個人の自己責任に任せることを主張します。人間関係を固定的に縛ることは反対しますから、共通の価値観に忠誠を求めることはしません。だから避妊も中絶も同性愛も個人の自由だとみなします。まさに、リバタリアンこそがいま求めている思想にぴったりに思われます。

 

しかし、リバタリアンには、困った人を助けるために政府が税金を取ることに反対する人たちというイメージがあります。不況脱却のための政策介入にも反対ですよね。コミュニタリアンであるサンデルさんの「白熱教室」では、「弱者を突き放す冷たい人たち」というような扱いをされていましたので、ますますそんなイメージが広がっていることと思います。

 

この連載では私は、これからのあるべき経済政策として、手厚いベーシック・インカムや福祉事業の公財政保障を唱えてきました。当然その裏には、負担能力に応じて税金を取ることを想定しています。とくに好況期では、それなりに高い税率になってもやむを得ないと思っています。また、不況時には景気を好くするための積極的な政府介入を提唱しています。

 

こんなことは、世の中の普通のリバタリアンが受け入れるとは思えません。リバタリアンと言えば一番有名なのは、第12回で触れたノージックだと思いますが、その主著『アナーキー・国家・ユートピア』は、リベラル派全盛期の1970年代に大御所ロールズに敢然と挑み、彼の所得再分配正当化論を徹底的に批判した本です。国家の役割は、暴力や詐欺から心身の自由と私有財産を守り、自由な市場秩序を維持するための最小限のものにとどめるべきだ。困った人を助けることは、各自が自由意志で慈善としてなすべきだ──とされています。

 

従来は、困った人のために税金を取ることは、固定的人間関係で成り立つ「同胞を助ける責務」から根拠づけられてきたわけですから、最初からその理屈に立たない流動的人間関係の側だけにマッチした思想では、そのようなことが根拠づけられないように見えるのも自然なことです。

 

 

所得再分配を主張する「左翼リバタリアン」

 

それに対して、実は世の中には「左翼リバタリアン」[*2]と自称する人たちがいて、税金をかけて所得再分配することを積極的に主張しています。この議論がリベラル派と違うのは、ロールズの「天使の契約」のような仮想の同意でもって、本当は同意などしていない国中の個々人をみな縛ってしまう理屈はとらない[*3]ことです。その意味で、戦後すぐの日本の左派にもあったような公民的愛国主義に陥らないで、もっと個人の自由を尊重する考えになっていると思います。

 

[*2] 森村進(2001)『自由はどこまで可能か』講談社、31ページでは、ヒレル・スタイナーとピーター・ヴァレンタインがその論者にあげられている。森村進編著(2005)『リバタリアニズム読本』勁草書房、168-169ページで森村は、彼自身リバタリアンと認めていない、マイケル・オーツカも紹介している。有賀誠、伊藤恭彦、松井暁編(2007)『ポスト・リベラリズムの対抗軸』ナカニシヤ出版でも、松井が第2章で比較的詳しく紹介している。以下の説明はこれらの文献による。

 

[*3] 森村編(2005)169ページ。

 

私は、左翼リバタリアンが再分配のために税金をとることを正当化している理屈は、とりあえず承認しています。今回は以降でそれを見ていくのですが、しかし、それはあくまで、税金を取ることがリバタリアンの基本価値に反しないという正当化であって、なぜそれでもって福祉などに使わなければならないかという理屈にはなっていません。それは、リバタリアンの基本価値とは別のところから、例えば「平等主義」のようなものを持ち込むことによってはじめて正当化されています。

 

もっとも、多くのリバタリアンは、左翼リバタリアンをリバタリアンとして認めません。それは、税金を取っていく正当化が認められないというよりは、やはり、異質な価値観を持ち込んでその使い道を正当化するところにあるのだと思います。「所得の平等」という価値観があってもかまわないが、それはその価値観を持つ人だけで実現していればいいだけで、それを共有しない人にまで国家権力を通じて強制するのはまったくリバタリアン的ではないということになるのだろうと思います。

 

これは私の観点からも大きな問題です。なぜなら、例えば「所得の平等」というような価値観は、一国のようなグループを限って、その中でだけ意味のある考え方です。要は「同胞の間での格差はよくない」という理屈です。だとするとそれは、固定的人間関係にフィットした価値観を入れ込むことになります。そのことは流動的人間関係に適応するための思想の中で矛盾を起こすことが危惧されます。もともと、そんなふうに固定的人間関係で成り立つ価値観が目的になるのなら、最初からそれに合わせて「同胞を助ける責務」という理屈で税金を取ればいいだけで、あえてリバタリアン論理の道具立てを使ってあれこれ税金をとる理屈付けを考える必要もないことになります。

 

それゆえ、流動的人間関係にフィットしたリバタリアン的価値観そのものから、内在的に、福祉に公金を使うことや景気対策を行うことが正当化できないかということが課題になります。【次ページにつづく】

 

 

 

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