ハイエクは何を目指したのか ―― 一般的ルールかさじ加減の判断か

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前もって決まっている形式的ルール

 

これらの法的枠組みと政府の介入は、いったいどんな理由で必要とされているのでしょうか。戦後の西側資本主義国であたりまえになったような各種経済政策に対して、不当な介入だと敢然と反対し続けたハイエクなのですから、ではどんな基準で必要な政府介入を判断しているのか、はっきりさせてくれなければ困ります。

 

その理由は、『隷属への道』第6章を読むと、わかりやすく説明されています。ここでハイエクが必要とみなしている国家は、「抽象的ルール」とか「形式的ルール」と表現されているものです。まずは、章の出だしの文章がよくまとまっているので、引用しておきましょう。

 

 

自由な国家と恣意的な政府の支配下にある国家とを最もはっきりと区別するものは、自由な国家では、「法の支配」(Rule of Law)として知られているあの偉大な原則が守られているということである。専門的な表現を一切省いてしまえば、この「法の支配」とは、政府が行うすべての活動は、明確に決定され前もって公表されているルールに規制される、ということを意味する。つまり、しかじかの状況において政府当局がどのような形で強制権力を行使するか、ということがはっきりと予測でき、個人はそれをもとにそれぞれの活動を計画できるようなルールが存在しているということである。もちろん、立法者も法の運用者も、誤りやすい生身の人間である以上、この理想が完璧に実現されることはまず無理だとしても、本質的なことは、強制権力を行使する行政組織に許される自由裁量権は、できるだけ最小限におさえなければならない、ということである。(92ページ、強調は引用者)

 

 

つまり、ハイエクが必要と認めているのは、前もって明確に決まっていて、そのときそのときの状況で勝手に動かせないルールです。一方で彼が批判したのは、「自由裁量」、すなわち、そのときそのときの状況に合わせて、担当官のさじ加減で判断される政策なのです。

 

このルールというのも、誤解を受けがちなのですが、ハイエクは「形式的」ということを強調していて、「実体的」ルールのことではないと言っています(*13)。法律で決めて実施されるなら何でも「法の支配」だというような見方は、「『法の支配』の意味を完全に誤解している」(*14)と言います。政府の活動は、完全に合法的だけど「法の支配」に背くということはあり得ます(*15)。

 

彼が批判する「実体的」ルールとはどういうことか。国家があれこれ特定の目的を実現するためのルールのことです。このような法律は、「立法者が人々に彼の目的を押しつける道具になってしまう。そのとき国家は、個人がその人格の十全な発展を進めるのを助けるような功利的組織であることをやめ、一つの『道徳的』制度となってしまうのだ」(*16)と言います。

 

ここで「道徳的」と言っているのは、善悪の判断を国民に押しつける制度という意味で、「ナチス・ドイツや他の集産主義国家は『道徳的』であり、自由主義国家はそうではない」(*17)とされます。何が善で何が悪かは、個人の良心の自由に任されるのであり、公権力はその内容には口を出さない「功利的組織」でなければならないということは、自由な社会の「イロハのイ」であり、ここでのハイエクの主張は当然そのことをふまえているわけです。

 

「君が代」を歌うことを、政治家が「ルールを守れ」という理屈で強制してくるときの「ルール」というのは、まさにこの「実体的」ルールですね。立法者が特定の価値観を個人に押し付ける道具にほかなりませんから。

 

 

自生的秩序のルール=ノモスとしての法

 

後年1973年出版の『法と立法と自由』では、この二種類のルールにほぼ対応するものは、「自生的秩序のルール」と「組織のルール」と呼ばれています。後者は、組織内で各自に割り当てられた仕事を遂行するためのルールで、「命令に従属的にならざるをえず、命令によって残されたギャップを埋めるのが仕事になる」(*18)、「その組織の命令者が目指す特定の結果に資する」(*19)ものです。それに対して前者は、「誰もその特定のまたは具体的な内容を知りもしないし予見もしない、一つの抽象的な秩序を目指すことを意味する」(*20)とされます。

 

もちろん、「自生的秩序のルール」は「形式的ルール」で、「組織のルール」は「実体的ルール」です。組織がある限りその内部では後者が必要なのですが、前者の「形式的ルール」の方がそれに優越しなければならないし、世の中全体を一つの組織にしてしまうことは、全面的に「組織のルール」が支配する世の中を作ってしまうがゆえに避けなければならないということになるわけです。

 

そして同書では、世の中の「自生的秩序のルール」の体系が「ノモスとしての法」と呼ばれて、分析のテーマになっています。それは人々が取引を繰り返しているうちに、意図せず自然に形成されるもので、典型的には、長い年月を重ねて裁判所の判決が積み上げられている内にできあがってくる慣習法です。かつての古典的自由主義の時代のイギリスでは、こうやって自然発生的にできた「コモン・ロー」が支配していて、国王も政府も議会もそれを勝手に変えることはできませんでした。

 

しかし、それは本来抽象的で目に見えるものではないので、現実に適用するときには、それぞれの状況に合わせて具体的な人々を動かす具体的な文章に書かれた法令の形をとらないわけにはいきません。それをハイエクは、「テシスとしての法」と呼んでいます。こっちは「組織のルール」になるわけです。ハイエクは、あくまで「ノモスとしての法」が「テシスとしての法」よりも優位に立たなければならないとみなしているのです。

 

この主張も、「古くからの伝統は守らなければなりません」的な保守主義的な解釈をされがちなのですが、それは違います。この本のいたるところで、アダム・スミスの「偉大な社会」という言葉が出てきますが、これは、スミスが「見えざる手」のメカニズムを見出した、近代的な市場社会のことです。大昔の部族社会や封建社会にあてはまることを言っているわけではありません。民間人の間の自由な商取引が無数に行われるうちに形成されるルールのことを指しているのです。

 

だから、取引のあり方や範囲が変わっていくのに合わせて、それを司るルールも変わっていかなければなりません。ハイエクも、裁判所の判例の積み重ねでは進化の行き詰まりにおちいってしまい、まったく新しい事情に適応することが難しくなってしまうことから、立法によってルールを変える必要を認めています(*21)。私見では、EUにおける、民法的ルールの共通化の動きなどは、市場取引の範囲がヨーロッパ規模で一体化している以上、当然起こるべきことと見るのがハイエク的見方だと思います。

 

(*13)同上書94-95ページ

 

(*14)同上書104ページ

 

(*15)同上書105ページ

 

(*16)同上書98ページ

 

(*17)同上

 

(*18)ハイエク『法と立法と自由』(『ハイエク全集』第8巻、春秋社、1987年)、66ページ

 

(*19)同上書67ページ

 

(*20)同上

 

(*21)同上書116-117ページ

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.265 

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