2015.07.31

新観念創造者としての自由と責任――突然変異と交配、そして淘汰

松尾匡:連載『リスク・責任・決定、そして自由!』最終回

経済 #自己責任#リスク・責任・決定、そして自由!

大塚久雄思想の復権を意図した本

2013年10月から続けてきました連載もとうとう最終回になります。長らくご愛読下さったみなさまには本当に感謝もうしあげます。ここまでのお話は、下記のリンク先でまとめておきましたので、ご参照下さい。最終回である今回は、前回提唱したようなアプローチにおいて、「リスク・決定・責任」の一致はどのように展望できるのか。個人の自由な決定とその裏の責任はどのように位置づけられるのかについて、私見を展開します。

「最終回を読む前に――これまでのまとめ」

これを考えるために、まず唐突ですが、戦後日本でしばらく経済史学のカリスマだった大塚久雄が何を言っていたかということと、それとのからみで、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下、『プロ倫』)の所論を検討したいと思います。

大塚久雄(1907-1996)は、今日ではすっかり忘れ去られてしまったような印象がありますが、私の世代までは多少とも経済の歴史をかじろうものなら、必ず「大塚史学」と呼ばれる歴史観の洗礼をくぐったものです。当時はすでに大塚史学に対するカリスマバッシングが始まって久しくて、大塚史学をクサす方が知的にかっこいいという雰囲気がありましたけど、今となってはかっこいいも何も、存在自体が知られていないという時代になってしまったと思います。

そんな中でおととし、一冊のセンセーショナルな本が出ました。新進気鋭の若手研究者、恒木健太郎さんによる『「思想」としての大塚史学──戦後啓蒙と日本現代史』(新泉社)です。

この本は、大方の人から大塚批判の本ととらえられているようです。ネット上ではこの本の内容を肯定的に取り上げて大塚をこき下ろす書評が見られますし、学術雑誌ではベテラン大塚シンパが真っ赤に怒って反発の書評を書いています。たしかにこの本は、大塚のマジの戦争協力を言い逃れようのないまでに暴いています。ユダヤ人へのステレオタイプの見方も、差別と言うほかなく、ナチスを合理化する言い方さえ見つかっています。

しかし、この本を単純な大塚批判の本と読んでしまうことは、著者恒木さんの真意からはずれています。恒木さん自身から直接言われましたけど、この本は実は大塚思想の復権のために書かれているのです。本人がギャグ半分でおっしゃっているとおり、「思想」というよりは「宗教」と言った方がいいかもしれません。歴史事実をめぐる理論としての大塚史学は否定されても、今こそ思想(宗教!)としての大塚史学は復権されるべきだというのです。

この本で、有名な『プロ倫』誤訳問題が取り上げられています。『プロ倫』最後の締めの見せ場の文章で、大塚が明らかな誤訳をしているという問題ですが、恒木さんはこれが誤訳どころか、重々承知の上での確信犯的「改ざん」だったことを暴いてみせています。そしてこの「改ざん」は、いわば、大塚の頭の中の理想のウェーバーによる、現実のウェーバー批判であったと解釈しています(注)。これに則して言えば、この本は、恒木さんの頭の中の理想の大塚による、現実の大塚批判だと言えると思います。

(注)同書354-355ページ。

善玉ヨーマン農民vs悪玉国王・領主・大商人・高利貸し

まずとりあえず、大塚の描くイギリス経済史をごく簡単にご紹介しておきましょう。恒木さんの本でも201ページの図5-1あたりでまとめられていますので、詳しくはそちらをご覧下さい。

問題は、近代資本主義というものが、どうやって生まれたかということです。資本主義以前の中世封建制度の時代には、領主が農奴を働かせてあがりをとりあげる経済の仕組みがとられていました。この中から、しだいにこれとは異なる初期的な資本主義経済が育っていって、その担い手であるブルジョワジー(商工業の実業家階級)がだんだん実力をつけていきます。やがてそれが十分に育ちきったところで、王侯がいばっている支配体制がますます商売の邪魔になって、市民革命が起こってブルジョワジーが権力を握り、邪魔者がなくなって工業化が進展して資本主義経済が確立する──これがマルクスの唯物史観の示す図式でした。

ではその初期的な資本主義が育ってくるプロセスはどんなものだったのか。大塚の経済史はこれを描くものです。それはさながら、ベタな勧善懲悪のカタルシス映画を見るようなものです。

善玉は、額に汗して働くけなげな農民です。中世も終わりになると、領主の支配はだいぶ緩んで、農民たちは事実上の自営農民になっていた。彼らは「ヨーマン」と呼ばれ、毛織物などの手工業を始め、半農半工の独立自営中産者になる。そして、地域の「局地的市場圏」でビジネスを始め、才覚のあるやつはのし上がっていく…。

それに対する悪玉が、国王と領主、そしてそれと結託する大商人や高利貸しです。役の顔が浮かびますよね。「で、奴隷を売りつけたその足で、海賊を働こうと言うのか…これドレーク、そちもなかなかのワルよのぉ」「いえいえ、女王様ほどでは、カッカッカッ…」

こいつらがよってたかって、けなげな農民をいじめてくるんで…。領主は重税をかける。大商人は安く買いたたいて高く売りつける。高利貸しは高利で膨らんだ借金を身ぐるみはがしてとりたてる。やりたいほうだい。

自立したプロテスタントの勝利物語

ところで、半農半工の独立中産者ヨーマンが、得られた所得を浪費してしまわずに、どうして事業の拡大にまわしたのでしょう。まだ本格的資本主義みたいな淘汰競争や株式市場の圧力などにさらされてもいないのに。

ここで大塚が持ち出したのが、ウェーバーの『プロ倫』話(注)なのです。プロテスタントでは、死んでから天国に行けるかどうかは神のみぞ知ることで、ちんけな人間ふぜいに口出しの資格などありません。善行をしようが祈ろうが、神と取引しようというような、そんな不遜な心がけの行いで神の意志は曲げられません。だから信者は、自分が天国に行けない存在であることに怯え、一生懸命働いて事業が成功したのを見て、とりあえず、「自分は今のところ、天国に行けない側とは証明されなかった」と言って安心することを繰り返すほかなくなります。

(注)授業で紹介するときには、安藤英治『マックス・ウェーバー』講談社文庫(2003)の276-292ページの抄録を使うのが便利である。

だからプロテスタント信者は、自分のもうけのためではなくて、神の栄光を讃えるために一生懸命働き、神のために節約に励んで、余った分を事業の拡大にまわしていったのだ──これが『プロ倫』の説明になります。

大塚のカタルシス映画の善玉ヨーマンたちは、敬虔なプロテスタント信者ということになっていますから、けなげさにも磨きがかかるというものです。贅沢したいとか楽をしたいとか思わず、懸命に働いてつつましやかに暮らして、自己目的的に事業拡大に邁進するのです。その過程で、事業に失敗して土地を失った人々は、事業拡張に成功した者のところに雇われて働くようになり、かくしてブルジョワジーとプロレタリアートとへの分解が起こっていきます。

こうして大地を踏みしめて自分で立って、坊主の説教によらず一人で聖書と向き合って神と対話して、誰にも従属せずに自分の意思でビジネスを営んで「民富」を蓄積したブルジョワジー。彼らはやがて力を蓄えてのし上がっていくのですが、その行く手を阻むのが絶対強者の悪役たち!…こいつらは特権商人の独占の利益を守るなどのよこしまな目的で、ヨーマン・ブルジョワジーたちの活動を規制し、けなげに蓄積した民富を収奪していきます。

この非道に何度も泣かされたあげくのはてで、ついにブルジョワジーたちは、絶対権力を誇る国王や領主の支配に対して果敢に立ち上がり、これを打ち倒して自分たちの国を作るのです。なんと血湧き肉踊る痛快なカタルシス映画ではないですか!

さらに、この勧善懲悪劇が戦後日本でウケた理由には、やはり戦争体験があったと思います。軍部の言うなりに、周囲に流され、「お国のために」と平気で個人を犠牲にした結果、大変な悲惨な結末をもたらしてしまった。この反省の中で、自立した個人が資本主義を生み出した欧米こそが近代化のあるべき道だ、お上が主導して近代化した日本では個人の自立が足りなかったという大塚の含意は、痛烈に人々の心に響いたのだと思います。

大塚批判の時代

ところが70年代ぐらいから、この大塚の歴史観に対する批判がわきおこってきます。この背景には、ブローデルらアナール派の歴史観の広まりや、ウォーラーステインさんの「世界システム論」の考え方の流行があります。

こうした中で出てきた批判は、近代資本主義を作ったのは、善玉のけなげな農民ではなくて、むしろ悪玉の方だったんじゃないかという指摘です。地域に根ざした「局地的市場圏」ではなくて、世界市場の方がインパクトをもたらしたのだ。「大航海時代」以来、略奪商人が奴隷貿易を筆頭に、アジア、アフリカ、南北アメリカ大陸で悪事のかぎりをつくして、おびただしい富をヨーロッパに持ち込んだことが、近代の資本主義につながったのだ──というわけです。ウェーバーの『プロ倫』の同時代のライバルで、「資本主義は王侯貴族の贅沢な消費が作った」と正反対なことを言ったゾンバルトも再評価されていきます。

さらに、善玉の方も再検討にさらされます。独立自営のヨーマンはもうかったら土地を買って地主になったのではないか。ヨーマンより下層の庶民にもっと目を向けるべきではないか。こうした庶民の民衆史への着目は、ヨーロッパ以外の地域にも広がっていきます。日本でもそうです。すると、欧米を理想化した「上から目線」で日本の民衆を「自立していない」と裁断するのではなく、あるがままの民衆の生活を受け入れなければならないとする言い方が説得力を持つようになります。

大塚批判がネトウヨにつながった

 

そんなこんなで大塚は「過去の人」にされてしまったわけですが、さてそれでいいのでしょうかというのが恒木さんの本が本当に言いたいことです。恒木さんの本の最後の方に、こうした大塚批判のハシリだった団塊世代の急進派学生に対して、大塚が呼びかけている文章が載っています(注)。「世代の違う教授方にも理解してもらえるようなワク組みを作ることをやってほしいのです…」「やにわにゲバ棒をもつことには、私は絶対に反対なんです。これは、一見前進のように思われても、真の解決をもたらさないばかりか、さまざまな悪い副作用をもたらし、とくに長期にわたって、とり返しのつかないモラルの荒廃を残すことになるのです。大学がこうした自殺行為をやって、どこから希望が生れてくるのですか。心から学生諸君に望みます…」と。

(注)前掲書372ページ。

今読むと全くまっとうな批判に見えるのですが、当時の急進派学生には届かなかったのだろうと思います。こうやって大塚のヘタレな「プチブル」性を乗り越えたつもりだったのであろう世代から、上記のような大塚批判がなされていったわけです。こうした批判者たちは、自分たちは左翼的で反資本主義、反帝国主義のつもりで言っていたはずです──資本主義とは大塚の勧善懲悪劇のように最初は美しかったのではなくて、もとから極悪非道なのだ。今日世界を牛耳る欧米は、「人権」「民主主義」などときれいごとをいいながら、昔アジア、アフリカ、アメリカ原住民を殺戮・搾取して先進国の地位についたひどい奴らなのだ。欧米目線で見下すのではなく、現実の被抑圧民衆をありのまま受け入れて連帯しなければならない──等々。

しかしそんな言説が左翼的なものとして通用したのは、批判した当人が、一回大塚の痛快活劇に酔ったからだと思います。批判が功を奏した結果、一度も大塚活劇を目にしたことのない世代が現れ、こうした言説を聞くとどう聞こえるか。悪逆非道な欧米資本主義に抗った近代日本は正義だ。人権や個人主義など欧米の概念だ。そんなもので日本人を裁断してはならず、伝統の価値観で生きてきた現実の日本人を受け入れなければならない。等々──こうしてネトウヨ史観誕生とあいなるわけです。

自民党の憲法改正草案が、国民に規範や価値観を押しつけたり、個人の尊重を否定したりしているのを見て、ほとんどの法律家が「近代立憲主義の否定だ」と言って目をまわしたのですが、ネトウヨ世論の中で育ってきた自民党の政治家たちは、そんな批判を一向に意に介しません。憲法は権力者をしばるためにあるという考えとか、個人主義だとかは、欧米の歴史の中で形成された欧米の価値観であって、日本にはそぐわないと本気で思っているのです。こんな世論状況を一定程度作った原因は、もちろん本質的には経済状況に帰すべきものですけど、左翼的なつもりで大塚を葬った人たちも責任の一端は免れないと思います。

ブルジョワ経済のシステムは、多くのメリットとともに多くの犠牲をもたらすものです。西欧は、最初にこれを本格的に孕んだのですが、それ以来、何世代もかけて、おびただしい愚行や失敗を重ねるとともに、それとのうまいつきあい方、飼いならし方も覚えていったわけです。立憲主義、人権、個人の尊重原理などもその一環です。あとから近代化した国民がこれを取入れることは、欧米でいろいろな機械が発明されてさんざんひどい事故を重ねて安全になってから、日本など後発国がそれを取入れたのと同じことです。

しかも日本の場合、江戸時代にすでにブルジョワ経済はかなり発達しており、「商人道」の中では、西欧同様の個人の尊重原理は育ってきていました。そこにはほとんど大塚流ウェーバーが描くプロテスタントのような、勤勉で合理的で倹約家で、一人で阿弥陀様の恩に感謝して生きることを善しとする倫理観が見られました(注)。

(注)詳しくは、拙著『商人道ノスヽメ』藤原書店(2009)、第2部。

だから大塚の勧善懲悪映画のカタルシスには、誰でも一回酔っておくべきなのです。歴史事実として大塚が言ったことがどの程度まで否定されているのかは専門外なのでわかりませんが、たとえ否定されたとしても、フィクションとして楽しめばいいのだと思います。どこの国でもないが、どこの国でもある程度あてはまり、起こり得たかもしれないお話として。

「培地」の上に「ウィルス」が乗っている人間モデル

以上の大塚史学の話を伏線として覚えておいていただいた上で、本題に戻りたいと思います。以下で、前回までに出てきた様々な解決のキーワード、「生身の個人にとっての自由」「具体的現場に則するアプローチ」「統整的理念としての普遍的理想」「獲得による普遍化」を一本に貫き、「リスク・決定・責任」の一致命題につなげる論理を示したいと思います。

このとき、さしあたってみなさん疑問に思われるのは、「リスク・決定・責任」の一致というためには、「自己決定の裏の責任」がとれる主体が前提されているわけですが、自由であることの主人公を、本能的な「生身の個人」にしてしまったら、はたしてそんな主体に責任などとれるのかということだと思います。

ここで私は、一人の人間には二種類の主体があるという見方を提唱したいと思います。一方は本能や肉体などの「生身の個人」です。「感じる私」と言っていい。他方は理性や習慣的思考や思い込みなどとしての主体。「考える私」と言ってもいいでしょう。

このことをわかりやすく考えるため、人間を単純なモデルで「たとえ話」させて下さい。「培地」のうえに「ウィルス」が乗っているというモデルです。「培地」が、「生身の個人」にあたります。「ウィルス」が人間の考え方にあたります。これは、各自が十分に合理的計算できると考えれば、もっぱら「他者の行動の予想」を指すものと考えていただいていいのですが、慣習的な行動なども視野に入れるならば、各自の行動を決める「行動原理」や他者の行動への「評価原理」と考えていただいてもいいです。あるいは、「イデオロギー」「信念」のようなものとお考えになっても結構です(注)。

(注)以下のモデルを、富山大学の大坂洋さんが、マルチエージェントシミュレーション用に数式で定式化して下さっています。言いたいことをほぼ正確に定式化していただいていると思いますが、多少改良の余地は感じます。なお、大坂さんはここで、この「ウィルス」のことを「役割」とおっしゃっています。

「松尾匡氏の「方法論的個人主義」について : 社会的役割とマルチエージェントの観点から」『富大経済論集』第60巻第3号(2015)、pp. 603-632。

http://utomir.lib.u-toyama.ac.jp/dspace/handle/10110/13661

この「ウィルス」は、「培地」たる各自の頭のなかに、例えば「6割がAウィルス、4割がBウィルス」というように分布しています。そして、この確率に何らかの意味で基づいて、各自の行動を決めます。それに従って各自が行動すると、他者との相互作用が起こって、「培地」の厚生に影響がでます。つまり、「失業して腹ぺこ」だとか「殴られて痛い」だとか「異性にモテてうれしい」だとかということです。

すると「培地」は、自分の厚生を高めた「ウィルス」の分布を増やし、自分の厚生を低めた「ウィルス」の分布を減らしていきます。

また「ウィルス」は、周囲の人に「感染」します。その「ウィルス」が周囲の多くの人の厚生を首尾よく高めていたり、信頼のおける人の「ウィルス」だったりしたら、自分の「培地」に「感染」しやすいわけです。

「培地」の目的と「ウィルス」の目的

さてそうすると、この「培地」である「私」と「ウィルス」である「私」とは、必ずしも目的が同じではないことになります。「培地」が自分の厚生を増やす方向に「ウィルス」を増減させた結果は、とどのつまり、ミクロ経済学で出てくる経済人同様、効用極大化行動をとることと同じになります。(ただし、各自に合理的計算の余地が少なく、「ウィルス」自体がかなり具体的な行動原理である場合には、「ウィルス」増減の行き着いたところは、効用の部分的なピークではあっても、あらゆる取り得る行動を全部検討した場合の効用最大状態よりは低いかもしれません。)

他方、「ウィルスA」とか「ウィルスB」とかの各「ウィルス」にとっての目的は、これも結果として見れば、なるべくたくさん自分の分身を増やすことです。

「培地」の厚生を高めるほど、「ウィルス」は頭中で増加させてもらえ、他にも「感染」しやすくなるのですから、両者の目的はたいていの場合は一致します。しかしズレる場合も起こり得ます。ある特定の人だけの「培地」の厚生はすばらしく高めることができても、別の人の「培地」の厚生をずいぶん低めてしまうような「ウィルス」は広まっていけないでしょう。例えば「ジャイアンだけは他人の漫画を取り上げていい」というような行動原理です。

逆の極端を言えば、「失敗が目に見えている反乱にあえて乗り出して、暴政の打倒を世に訴える」というような「ウィルス」は、「培地」の厚生は完全に犠牲にする(死んじゃう)のですが、そのことを通じて世の多くの人の頭に「感染」することで「ウィルス」としての目的は達成できるかもしれないわけです。こんな極端な行動原理を推奨する気は全くありませんけど、現実問題としては、このような「ウィルス」も存在してきたわけです。

「培地/ウィルス」モデルで解説する唯物史観

さて、「培地」たちとそれを取り巻く状況は、マルクスの唯物史観で言う「土台」にあたります。社会全体での「ウィルス」の分布状態は、同じく唯物史観で言う「上部構造」にあたります。そうすると、マルクスの唯物史観が示すような社会変遷が、生物進化を記述するときの手法で表せることになります。

これはよく見られがちな、社会のことへの生物進化論の生存競争論的応用(いわゆる「社会ダーウィニズム」)と違いますからご注意下さい。社会ダーウィニズム的な見方では、生身の人間やその集団が、競争で淘汰を受けちゃう側です。しかしこの見方では生身の人間やその集団は、淘汰をほどこす側、生物進化で言うと「環境」の側です。淘汰を受けるのは「考え方」であって、それが淘汰で消えても、生身の人間が消えるわけではありません。

進化論では、環境(生物たちの営みを含む)への適合の度合いにあわせて、いろいろな遺伝子が増減する結果、つりあいのとれた遺伝子の分布に落ち着くと見ます。これを「進化的に安定な戦略(ESS)」均衡と言います。与えられた外的環境のもとで、ESSは唯一の場合もあれば、複数あり得る場合もあります。複数あり得る場合は、たまたま歴史的に近い状態にあった方のESSに落ち着きます。(これは、本連載第5回での、ゲーム理論の均衡に複数あるとき、たまたま歴史的にとられていた均衡が実現し続けるという話と同じです。それと言うのも、ESSというのは、あたかも生物が知性を持って、自己の適応度を最大化するよう合理的に最適決定した場合のゲーム理論のナッシュ均衡にほぼあたるのです。)

しろうとの生半可な知識で間違っているかもしれませんが、あくまで例としてお許しいただきますと、中生代の、二酸化炭素濃度が高くて高温の気候では、恐竜がメジャーに分布して、ほ乳類や鳥類の分布がマイナーなのが唯一のESSだったかもしれませんが、中生代も終わりになって、二酸化炭素濃度や気温が低下していくと、「恐竜がメジャーな均衡」と、「ほ乳類や鳥類がメジャーな均衡」の二種類のESSがあり得たのだと思います。

その場合、後者の均衡の方が前者の均衡よりも、全体としての環境への適合度が上回っていたかもしれませんが、最初に「恐竜がメジャーな均衡」の上にあった以上、簡単には「ほ乳類や鳥類がメジャーな均衡」に移ることはできないわけです。ところが、二酸化炭素濃度や気温の低下がさらに引き続くと、どこかで、隕石の衝突による一時的な個体数激減のようなハプニングがありさえすれば、ほ乳類や鳥類がメジャーなESSへのジャンプが起こります。

「制度」とか、マルクスの「上部構造」と言われるものは、「他者の行動についての予想」とか「行動原理」「評価原理」「信念」等々の「考え方」の束が、繰り返し再生産されている状態です。さきの比喩で言うと、さまざまな「ウィルス」の分布が、個々の「培地」の厚生を多少でも上げる「ウィルス」ほど広がり、そうでない「ウィルス」ほど淘汰される運動の結果、落ち着いて均衡している状態にあたります。そうするとそれはESSととらえることができます。だから、同じ「培地」の状況に対して複数のESSがあり得る場合もあるし、「培地」の状況が変化していくと、ESSがどこかの時点でジャンプする場合もあるわけです。例えば、唯物史観が最もクリアにあてはまる西欧封建制から近代ブルジョワ体制への転換は次のように説明できます。

中生代の「二酸化炭素濃度が高くて高温の気候」が、中世の「三圃式農耕中心の暮らしのあり方(「土台」=「培地」の状況)」にあたるとしましょう。するとその条件のもとでの「恐竜がメジャーに分布するESS」は、「身分制度の法慣習や忠誠倫理などの「ウィルス」がメジャーに分布するESS」にあたることになります。つまり、封建的上部構造ということです。

そうするとその後、「二酸化炭素濃度や気温の低下」が進行することは、「手工業の進展や市場取引の広がり」にあたることになります。するとそれが進むと、「恐竜がメジャーな均衡」と、「ほ乳類や鳥類がメジャーな均衡」の二種類のESSがあり得るようになり、後者の均衡の方が前者の均衡よりも、全体としての環境への適合度が上回りながら、当初の前者の均衡が持続することと同じように、「身分制や忠誠倫理の観念がメジャーな均衡」と、「個人対等や立憲主義や誠実倫理の観念がメジャーな均衡」の二種類のESSがあり得るようになり、後者の均衡の方が前者の均衡よりも、全体としての「土台」への適合度が上回りながら、当初の前者の均衡が持続するわけです。

しかしその変化がさらに続くと、隕石の落下のようなハプニングで、「恐竜がメジャーなESS」から「ほ乳類や鳥類がメジャーなESS」への「均衡のジャンプ」が起こるように、何かのハプニングで、「身分制や忠誠倫理の観念がメジャーなESS」から「個人対等や立憲主義や誠実倫理の観念がメジャーなESS」への「均衡のジャンプ」が起こります。これが市民革命だと言えます。こうして、近代ブルジョワ的上部構造ができたと言えるわけです。

このようにして、「土台」の変化が上部構造の変化をもたらすという、唯物史観の示す社会の移り変わりが、生物進化論の手法を使って表せることになります。

「培地」にとっての自由

さてここまでは、「培地/ウィルス」モデルのたとえ話で、現実の社会の動きを説明したわけですが、私たちが今求めているのは、「あるべき」望ましい社会に向けた判断基準だったはずです。つまり、流動的人間関係がメジャーになった時代にふさわしい自由な連帯社会を支える思想は何か、個人の自由を求めながら福祉や景気対策への公的介入を正当化し、しかも自己決定の裏に責任が伴えるような自由概念はどのようなものかということでした。これは、今のたとえ話でどのように答えが出せるのでしょうか。

人間の中に「培地」と「ウィルス」という二つの主体があり、それぞれ目的が異なるならば、「自由」概念にも、「培地」にとっての自由と、「ウィルス」にとっての自由の二つがあるはずです。

これまでこの連載で私は、「生身の個人」(=「培地」)にとっての自由が第一義的と言ってきました。これは「生身の個人」(=「培地」)の厚生が少しでも高まることが社会の目的であることから当然です。

「培地」にとっての自由とは何かを考えてみれば、それは、いろいろな「ウィルス」を頭中で増減させるのを、支障なく自由にできること、できるだけたくさんの「ウィルス」を選択肢にして、それを自由に取入れ、あるいは自由に拒否できることだと言えます。この意味での自由が大きいほど、「培地」の厚生が高まるからです。

「強盗にカネを渡さず殺されること」と「強盗にカネを渡して生き延びること」の二者の選択だけができても自由とは言えないわけですし、「幼にしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う」という伝統的な女の行動原理の「ウィルス」で動くことに、主観的満足を感じている女性にも、そうでない生き様の「ウィルス」を取入れる選択肢があってこそ、自由だと言えるでしょう。その際の、別の選択肢の「ウィルス」は、強盗に「強盗しない」という行動をとらせるものだったり、夫に妻を従属させない行動をとらせるものだったりします。つまり、他者がそれを取入れてこそ自分にとってメリットのある「ウィルス」も、選択肢に含めないといけないわけです。

だからそこには、余裕のある者が福祉のために負担をしたり、不況にならないよう支出したりといった「ウィルス」も含まれます。他者がこの「ウィルス」を取入れないために、自分がこの「ウィルス」に基づいて動くと厚生が低下する場合は、実質的にそれは自己の選択肢に含まれないことになります。その分「自由が制限されている」事態と評価されるべきです(注)。なんらかの「ウィルス」のせいで、「培地」の「ウィルス」選択肢が狭められて、「培地」の厚生がそうでない場合よりも損なわれる事態を、フォイエルバッハ=マルクスは「疎外」と言っていたのだと解釈できます。

(注)自由にとって重要なのは、「達成」や効用そのものではなく、また、それらを達成するための手段でもなく、選択肢の実質的な豊富さであることは、センが何度も強調していることである。例えば、セン『不平等の再検討──潜在能力と自由』岩波書店(1999)、第3章。センがこれを根拠づけているのは、いささかアプリオリに感じられるが、私は、感性的個人を主体におくことで、本質的に選択を試行錯誤としたことで根拠づけている。この方が、「よりよい」方法を目指すセンのアプローチにとって親和的であろう。

選択するかしないかを再び選べること

話が純粋にこのレベルでとどまるかぎり──あとで、このレベルでとどまらない話をしますが、そのときには話が変ってきます──、この自由は、裏に責任がともなう種類のものではありません。ここでの「ウィルス」を取入れたり頭中で増減させたりする主体は「培地」であって、これは理性的主体はおろか、どんな「考える主体」でもないからです。

リバタリアンならば、あくまで個人の自由な選択を尊重する立場に立つべきなのですが、何度も言うように、第一義的にこの選択の主体は、「理性」や「意識」ではなく、本能や身体や情動等々だということが私の主張です。たしかに実際にはその選択は、その人の理性を通じた表明や行動から判断せざるを得ず、他人はまずはそれを尊重するべきだというのは大原則です。その原則を安易にふみはずした外からの介入は、おせっかいな干渉で自由の敵だということは、十分心得ておかなければなりません。

しかし、これも何度も言うように、本人がいいといっているからいいと言うのでは、イジメもDVも北朝鮮体制も、最悪の自由の蹂躙が見逃されてしまい、リバタリアンの存在根拠がなくなります。原則としては、脳をもって個人を代表する「政府」として外からは扱わざるを得ないのですが、それはひょっとしたら「暴君の専制政府」かもしれないし、「外国の傀儡」かもしれません。

私は、脳の言っていることをもって、その人全体の意思表明、つまり「培地」の選択だと近似的にみなしていいのは、その選択を何度も繰り返して吟味することが原理的に可能な場合だと考えています。最も根源的レベルでは、「培地」は「ウィルス」を取入れたり増やしたり減らしたりして、本能や肉体や情動で実感する効用に照らして試行錯誤して選択するものだからです。どんな理性的計算も、結局生身に厚生として実感されるまでは、あくまで仮説にすぎません。選んだが最後、原理的に試行錯誤ができなくなってしまう選択は、事後的に選択肢を狭めるがゆえに当人にとって自由の制限になってしまうのです。

このように考えれば、古くからリバタリアンにとって議論の的になってきた多くの難問を解く指針が見出せます。「自殺」「薬物」「児童売春・児童ポルノ」等々の自由が認められるべきかという問題です。

例えば多くのリバタリアンは、「自殺は自由だ」と言うと思いますが、リバタリアンにとっては一旦「自由」と認定したものは、それを妨げる行為は自由の侵害で「悪」ということになるはずです。そうだとすると、自殺を実力で止める行為は「悪」ということになってしまいます。しかし、普通は自殺を実力で止める行為は、見殺しにするよりは、善行として奨励されることに異存ないと思います。どんなリバタリアンの理想社会でも、自殺を止められた人が止めた人に賠償を求めて訴えても、認めないのが適当でしょう。だとすると自殺はやはり「自由」と認められるべきではないのです(決して治ることのないひどい苦痛にのたうち続ける人が自殺しようとしたケースについてもそう言い切ることは、躊躇するところがありますが)。

それは、死んでしまったら、自殺するかしないかという選択肢を、原理的に二度と検討できないからだ──このように説明できます。

麻薬や覚醒剤のような薬物についても、種類のいかんで程度問題と思いますが、一回経験してしまったら、それを摂取しない選択をもうできなくなってしまう。だから自由を認めないという理屈が成り立つと思います。

児童売春や児童ポルノについては、たとえ当人の合意があっても、多くのリバタリアンも認めないと思いますが、そのときよく聞かれる理屈は、「子どもは理性的に判断できないから」ということです。しかしそれを言い出すと、子どもの自己決定が原理的に否定されてしまいます。私は、子どもの心に回復不可能な傷をつけて、それがない状態を選べなくなるからという理屈で、禁止されるべきだと思います。

そうだとすると、高校生の純愛ベッドシーンよりは、あからさまな性的目的を知らせずに子どもを水着撮影する方が、後年本人の心を傷つける可能性が高い点ではよほど悪質だと思いますし、スポーツにしろ勉強にしろアイドル活動にしろ、長時間のシゴキ的訓練で、子どもの心身の発達に必要な経験を犠牲にして、心身に回復不可能な傷なり枠なりをつけたならば、それがなかった場合の人生の選択肢を狭めてしまう点では同じです。だからこれらもまた、合意の有無にかかわらず、公的制限があるべきだと思います。

大人だって合意があればいいのかと言えば、「相手が骨折するなど重傷を負うまで続けるデスマッチ」のプロレス試合が、当人の合意があるなら認められるのかと言えば、さすがにリバタリアンの多くも認めないのではないでしょうか。以前、出演者の事前同意のない暴行AVを撮影して何人ものモデルに傷害を負わせた作成者が有罪判決を受けましたが、一応出演者の合意があることになっている実録の暴行傷害AVは今でも大手を振って作成され続けています。その一方で宮沢りえ17歳のヌード写真集は持っているだけで逮捕という噂ですけど。なんかおかしいという感覚は異常とは言えないと思います。

やはり、これらの例は、その選択肢を選ばなかった状態を選べなくなる(あるいは選べなくなる可能性が極めて高い)かぎり、自由を無条件に認めるべきではないのだと思います。

逆に言えば、「理性的判断でないなら自由を認めなくてよい」ということにはならないわけです。子どもであろうが、認知症の高齢者であろうが、知的障がい者の人であろうが、それどころか意識のない状態で生きている人であろうが、すべて個人として尊厳が守られ、当人の快・苦痛に基づく選択は尊重しなければならないことになります。

「ウィルス」がコピーを広げる自由は「培地」の自由と対立

さて、以上が「培地」の自由だとして、今度は「ウィルス」にとっての自由を考えてみます。結果として見ると、「ウィルス」の目的は、なるべく広く自分のコピーを行き渡らせることでした。では単にそれが実現できることが「ウィルス」にとっての自由だとしていいでしょうか。

それだけでしたら、言われていることは、バーリンが批判してやまない悪しき「積極的自由」そのものです。個々の種類の「ウィルス」は多くの人々の頭中に共有されているものです。「毛沢東主義の信念」の「ウィルス」とか、「天皇至尊の信念」の「ウィルス」等々です。個々の「培地」の身になってみれば、そんな、今世の中に行き渡ってESSを形作っている「ウィルス」は、周りがみんな取入れているがゆえに、それを取り入れた方が取入れないよりもマシになるから取入れているだけで、本当はできれば別のものに取り替えたいシロモノかもしれません。

このような場合には、社会に共有される「ウィルス」にとっての「積極的自由」と、なるべくそこから逃れて私的な満足を目指したい「培地」にとっての「消極的自由」とは、対立することになります。はなはだしくは、「ウィルス」に基づく行動が、「培地」を破壊するものになるかもしれません。フォイエルバッハ=マルクスの「疎外」の状況ですね。

この対立を解決し、社会に共有される「ウィルス」にとっての自由が、「培地」にとっての自由でもあることを可能にするのは何か?──個人が新しい「ウィルス」を創出することです。生物学にたとえれば、「突然変異」と「交配」です。

 

新観念創造の自由

突然変異は、必然性に縛られて起こるものではありません。ランダムに起こるのです。つまりこれこそが個人の自由だということです。

これは、典型的には経済学者のヨゼフ・シュンペーター(1883-1950)の言う「イノベーション」を思い浮かべていただければいいです。技術革新や新製品の開発などのことですね。しかしこんなことを言うと、新しい「ウィルス」を創出するのは、もっぱらディズニーとか孫正義とかのカリスマ企業家の役割という誤解を生むかもしれません。

そうではなくて、誰もが多かれ少なかれ、自分の頭中で「ウィルス」を変容させているのです。それは、現場のささやかな工夫や心がけの改善かもしれません。社会ルールへの個人的な解釈のズレかもしれません。誰でも、自己の「培地」の欲望に合わせて何かの行動を取るとき、その「培地」の状態に合わせた何らかの解釈が「ウィルス」に多少加えられ、そのごくわずかでも新しい「ウィルス」に従って行動がなされるのです。これこそが「自己決定」という意味です。以下の話は、イノベーションをイメージすればわかりやすいですが、もっとささやかな日常的なことにも当てはまるのだと思って読んで下さい。

人々の「培地」の厚生をみんなできるだけ高めるESSが実現するためには、いろいろな「ウィルス」の変種ができて、その中からいいものがないか試される必要があります。だから、「突然変異」や「交配」が、妨げなくいろいろ起こる方が、世の中にとって望ましいと言えます。

すなわち、いろいろなレベルで新しいアイデアをタブーなく思いつくこと、多様な価値観をわけへだてなく取入れて、その組み合わせから新しいものを生み出すことが、保証、奨励される必要があります。これこそが、真に実現されるべき「ウィルス」にとっての自由です。

淘汰の結果を受け入れるのが「責任」

しかし、生物進化の話には続きがあります。突然変異や交配でできた新しい遺伝子は、自然淘汰を受ける必要があるのです。すなわち、「個体」という「表現型」に発現し、環境への適合性をテストされなければなりません。

新しいアイデアの「ウィルス」にとっての「表現型」は、各自の行動です。その結果、「培地」の厚生が変化して、その「ウィルス」は人々の頭中で増減させられます。だからまずもって新しい「ウィルス」は、創出者本人の行動の結果、本人の「培地」の厚生を損なって本人の頭中から淘汰されるかもしれません。それをくぐり抜けても、その行動の結果他人の厚生を損なって、他人の頭中に「感染」できないで終わるかもしれません。他人の頭中に「感染」できても、それに基づく人々の行動の結果、「培地」たちの厚生を損なって、人々の頭中から結局淘汰されていくかもしれません。

「自己決定の裏の責任」というときの「責任」の本質は、この「淘汰」の結果を受け入れるということだと思います。

さきほど、「培地」にとっての自由には責任が伴わないと言いました。「培地」は、身体の奥のホンネの快・不快、メリット・デメリットに素直に従って、「ウィルス」の頭中での増減・淘汰を行えばいいのです。みんながそうすればするほど、「ウィルス」の淘汰プロセスがうまく働いて、結果として人々の厚生を高めるESSが実現できます。だから、何の心配も気兼ねもなく、この選択を自由にできるようにすることが社会にとって望ましいわけです。「責任」など問われない方がいいわけです。

責任が問われるのは、「培地」の方ではなく、「ウィルス」の方なのです。自由に創造されるということは、裏を返せば、「培地」の厚生向上に合致しているかどうかわからない。かえって「培地」の厚生をそこなうリスクがあるということです。リスクのともなう決定には、責任がついてきてしかるべきです。

ある「ウィルス」に基づく行動の結果、「培地」の厚生が大きく損なわれたならば、それによって「培地」の選択肢が、いろんな意味で以前より狭められてしまう場合が多いでしょう。おカネの損の場合は典型的です。心が傷ついた場合も、そのままでは傷つく前の状態を選ぶ選択肢が失われたかもしれない。その場合には、その「ウィルス」が単に淘汰されるばかりでなく、その「ウィルス」のせいで狭められてしまった選択肢を回復しなければならないことになります。「ごめん」で済まず賠償がなされる必要が発生するのは、こういう場合なのだと思います。

先に述べたとおり、人は誰でも、頭中に受け入れた「ウィルス」に対して多少なりともオリジナルな変容を加えて、その結果に基づいて行動するものです。その限り、すべての人は「培地」としての自己のほかに、「ウィルス」としての自己を持ち、そのもたらす行動の結果に責任をもたなければならないことになります。

ごくわずかな遺伝子の変異が形質の大きな違いをもたらすことがあるのですから、このとき、自分が外から受け入れた「ウィルス」に加えたオリジナルな変容の大小だけで、結果としての自己の責任の大小が決まるわけではないと思います。他方で、自覚的にオリジナルな「ウィルス」を創出する者は、誰かによって勝手な変容を加えられた悪結果のせいで責任を問われ、人々の頭中から、自分の作った「ウィルス」が淘汰されてしまう可能性を想定して、できるだけそうならないようにあらかじめ備えて作らなければならないと思います。

観念はあまねく広がることを目指す

さてこのように考えると、人々みんなの厚生がなるべく高いESSが実現しやすくなるための、「ウィルス」創出側の「あるべき姿」が明らかになります。

何ものにもとらわれない自由な創意(「突然変異」)。さまざまな異質な「考え方」の結節点としての個性の形成(「交配」)。「培地」の側の自発的選択を最大限尊重し、だましたり、力で脅したり、選択肢を狭めて追い込んだりせず、できることもできないことも、メリットもデメリットも正直に示すこと。他人に受け入れられないのは受け入れない側が悪いのではなく、自分の「ウィルス」の側の責任と心得てやり直すこと。結果として他者の厚生を損ねたときには、すみやかに撤回して責任をとること。そして以上を守った上、様々な「培地」に、あくことなく、あまねく広がっていくことを目指すこと。

これは、本連載第11回で見た、ジェイコブズの「市場の倫理」=「商人道」そのものではないですか。大塚史学の痛快活劇に出てきたヨーマン・ブルジヨワジーの姿でもあります。

ここで、様々な「培地」にできるだけあまねく広がることを目指すということは、たしかに、結果的にそういう「ウィルス」が生き残るという、結果からあとづけた理屈であるには違いありません。しかし、人間というものは、主観的にもそれを目指すものだという気がします。

固定的人間関係がメジャーな時代、例えばムラや血縁の共同体の中で人間関係をなるべくすませていた時代には、その共同体のメンバーたちの頭の中に、自分の個性を伴った思い出が、「立派に育った子ども」とか「家屋敷」等々の業績とともに残り、評価され続けることが、自分の「ウィルス」を生き残らせることだったのだと思います。これを称して「成仏する」と言っていたのだと思います。共同体で昔から決まっている道をはずしてしまうと、この「ウィルス」は残せないわけです。それが「地獄に落ちる」ということなのでしょう。

ウェーバーの描くプロテスタントの商人や、日本の江戸時代の近江商人などは、固定的人間関係がメジャーだった時代から、流動的人間関係中心の生き様を始めた人たちです。だから彼らにとっての「魂の救済」は、共同体にかぎらない獏たる人々一般の頭の中に「ウィルス」を残すことになったので、一個人の努力でコントロールできない絶対普遍者の御業とされたわけでしょう。

今日もまた、固定的人間関係がメジャーなシステムが崩れています。固定的関係の人々にだけ、自分のアイデンティティのある「ウィルス」を残すことは望み得なくなっています。獏たる人々の頭中に、あまねく広がっていくことを目指さざるを得ません。

これなしには、特定のできあいの集団(民族、国籍、職業、性別等々)にだけズブズブにあてはまる「ウィルス」を打ち出すことで満足してしまいます。人間のグローバルな依存関係がいやおうなく発展する今日、それにとどまっていては、そうした集団を超える共同は、上からの有無を言わせぬ押しつけとして、「疎外」として、展開されざるを得なくなります。

そうならないためには、「突然変異」と幅広い「交配」の中で、よりあまねく自発的に受け入れられる「ウィルス」が生まれていくようにしないといけないし、結局は、そういう「ウィルス」ほど長い目で見て「勝利」するということだと思います。「獲得による普遍化」で展望されるのはそういうプロセスなのだと思います。

新観念創造者と大塚史学流プロテスタント

今日、グローバル化やIT化で流動的人間関係がメジャーなシステムになるとともに、日本では急速な少子高齢化が進行しています。これからは、介護や医療などが、経済の中で今までより大きな割合を占めるようになります。そこでは、リスクとそれにかかわる情報が偏在する現場の従業者や利用者に主権のある、協同組合やNPOのような事業体が望ましくなるということは、何度も述べたとおりです。

これから述べることは、このような、今後世の中の表舞台で活躍することになる、介護などの協同組合的事業体を担う人々を直接には念頭に置きますが、これからは、普通の物作りでも、飲食業でも、公務員でも、多かれ少なかれ似たような性格を帯びてきますので、基本的には誰にでもあてはまる可能性があるものとして読んで下さい。

これらの、従業者や利用者に主権のある事業(形式的に営利会社形態をとるかどうかはここでの議論レベルではどうでもいいことです)は、従業者や利用者の「培地」の事情から、事業運営のための行動原理「ウィルス」がなるべく乖離しないように目指すものです。その意味で、フォイエルバッハ=マルクスの言う「疎外」を克服しようとする、資本主義的な事業様式を超えた試みだと言うことができます。

しかし実際には、協同組合にしろNPOにしろ、あるいはその他の「非営利」組織(学校法人!)にしろ、資本主義企業以上に現場の従業者や利用者の事情から乖離したトップダウンで暴走し、しかもその結果に誰も責任をとらないというケースがしばしば見られます。あるいは一部の狭い人たちだけの間で閉鎖的になって、メンバーを束縛して外部を食い物にするということもしばしば起こります。ガバナンスの仕組みの上で、このようなことを防ぐための工夫は最大限しなければならないと思いますが、倫理観(エートス)の問題も決して無視できないと思っています。今回説明した「ウィルス」創造者としての自由と責任を自覚することが、悪い変質を避けるための倫理観につながると思います。

その昔の「マルクス=レーニン主義」では、昔の共産党のような、革命を指導する「前衛党」と称する上意下達のピラミッド組織が、「資本主義から社会主義への移行の必然法則を見出した」と称して、末端の労働者党員に進むべき道を指示していました。そして、革命で政治権力を握って、上から社会主義建設することを目指しました。

この過程で、前衛党の指示通りに運動に献身した活動家にとっては、たとえそのために命を落としたとしても、自分のアイデンティティをかけた思想(「ウィルス」)が、来るべき未来社会としてこの世に実現し、人々の頭中に永遠に残り続けることが期待できました。

これはちょうど、中世ヨーロッパのローマ・カトリック教会が、神の意向を見出して信者に指示を垂れていたことに似ています。信者たちは、カトリック教会の言う通りにすれば、死後魂が天国に行くことが期待できました。

それと比較して言えば、今日の協同組合やNPOなどの関係者は、資本主義の疎外社会を克服する変革の方向を、前衛党に指示されることを期待できません。各自個人が現場の経験と格闘する中から、自分で見出していくのです。

これはちょうど、カトリック教会を捨てた宗教改革後の、大塚=ウェーバーの描くプロテスタントが、神の意向を教会から指示してもらうのではなく、各自個人が虚心坦懐に聖書を読んで神と対話して自分で見出したことに似ています。

「培地」のニーズは、本人にさえ「ウィルス」レベルでは自覚できないことがありますし、ましてや他人が直接把握することはできません。「ウィルス」創造者としての自由と責任を自覚した協同組合やNPOなどの関係者は、利用者や従業者の「培地」のニーズを推測して、それを満たすための新「ウィルス」を創造します──画期的新規事業から、日常のささやかな工夫や心がけまで。そしてそれを事業として実演して、人々の「培地」の厚生を実際に上げることで、人々に自発的に受け入れられて広がっていくことを目指します。これは、大塚=ウェーバーの描くプロテスタントにとって、死後魂が救済されて永遠の命を得ることに相当します。

しかし、その新「ウィルス」が本当にうまくいって、人々に受け入れられるかは事前にはわかりません。当面受け入れられても、まだ試されていない新しいタイプの人や新しい状況のもとでは受け入れられなくなるかもしれません。それは、大塚=ウェーバーの描くプロテスタントにとって、死後魂が救済されるかどうか事前にはわからないことと似ています。

それゆえ、大塚=ウェーバーの描くプロテスタントが、死後魂が救済されないことを恐れて、事業の拡大に邁進し、それが成功している間は「自分は救済されない方ではなかった」と安心できたように、「ウィルス」創造者としての自由と責任を自覚した協同組合やNPOなどの関係者は、自分の創造した「ウィルス」が人々の「培地」に淘汰されてしまうことを恐れ、ますます多様な人々の間で事業を試みて、自分の「ウィルス」の普遍妥当性をテストし続けなければならないことになります。

大塚=ウェーバーの描くプロテスタントのブルジョワジーは、こうして封建制度の支配下で、草の根から初期資本主義経済を発展させていき、幾世代にもわたる発展の後に、封建勢力の支配を打ち倒して天下を取ったのでした。

同様に、「ウィルス」創造者としての自由と責任を自覚した協同組合やNPOなどの関係者が、「培地」の自由と「ウィルス」が対立しないよう、なるべく疎外のない事業経済を、資本主義の支配下で、草の根から少しずつ発展させていったあかつきには、幾世代もの時を経たあとで、それが世の中のメジャーな社会システムになった未来を展望できるかもしれません。それこそ、マルクスの展望した開放的でなおかつ疎外のない社会、「アソシエーション」の社会ですが、「土台」の変革が先にあってもたらされるという意味では、政治革命を先行させる昔の「マルクス=レーニン主義」のプログラムよりも、マルクスの唯物史観に合致していると言えるでしょう。

何百年もの未来にこのような理想社会を設定することは、カントの言う「統整的理念」として役立ちます。十年や二十年で実現することをイメージする青写真を掲げるから、「構成的理念」となって、人々を抑圧するのです。何百年も先のことならば、青写真ではなくて、現実の泥にまみれた苦闘を反省し、ただすための「北極星」のような基準として役立ちます。

そうすると何が言えるか。大塚=ウェーバーの描くプロテスタントのブルジョワジーは、自分の生涯をかけた事業が成功裏に拡大し続けたならば、たとえ確証が得られずとも、自分は天国にいけるのだと確信して死んでいくことができました。それと同じように、「ウィルス」創造者としての自由と責任を自覚した今日の協同組合やNPOなどの関係者は、自分の「ウィルス」に基づく事業が、人々の「培地」の厚生を傷つけずに首尾よく高めて受け入れられたなら、そしてそれがいろいろな属性の人々にわけへだてなく受け入れられて広まっていったならば、その自分のアイデンティティをかけた「ウィルス」が、遠い将来に、天下をとったメジャーな社会システムの一環として人々の頭中に生き続けることを確信して死んでいくことができることになるわけです。

長らくご愛読いただきまして、ありがとうございました。本連載の後半、第9回以降は、前半に引き続き、PHP研究所さんから今秋出版の予定です。

※ 今回の内容は、拙著『近代の復権』(晃洋書房)の最終章に詳しく書いています。ご関心がありましたらご検討下さい。また、この議論を今回のような「培地/ウィルス」モデルの形にするにあたっては、6月20日に専修大学で行われたセミナーでの議論が役立っています。報告して下さった大坂洋さんと石塚良次さん、暖かいホスピタリティで会場運営して下さった吉田雅明さんはじめ、参加者のみなさんに深く感謝します。

※本連載の前半に基づいて出版された『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』に重大なミスがありました。240ページ、第8章図8-1の「社会保障支出対GDP比」は、うっかり対障がい者の支出だけを含むデータで作成しましたので撤回します。したがって、グラフの前ページ239ページの後ろから8行目から、

「次ページの図(図8-1)は、社会保障支出の対GDP比のグラフですが、社民党が政権にあった1994年から2006年の間、減っているわけではなくて、他の国よりも高い割合を維持しています。」

も、合わせて撤回します。社会保障支出全体のGDP比で見ると、この時期、スウェーデンが福祉にかける財政規模は他の欧州所得と比べて特に大きいということはなく、傾向的に特に増やしたりもしていないということでした。ただし、スウェーデンが依然「大きな政府」であるとの記述には違いはないです。

これとともに、該当箇所の元記事であった、連載第8回「新スウェーデンモデルに見る協同組合と政府──「転換X」にのっとる政策その3」の1ページ目、図表1およびその上の文「図表1は…維持しています。」を撤回し、修正しておきました。

プロフィール

松尾匡経済学

1964年、石川県生まれ。1992年、神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。1992年から久留米大学に奉職。2008年から立命館大学経済学部教授。

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