新観念創造者としての自由と責任――突然変異と交配、そして淘汰

大塚久雄思想の復権を意図した本

 

2013年10月から続けてきました連載もとうとう最終回になります。長らくご愛読下さったみなさまには本当に感謝もうしあげます。ここまでのお話は、下記のリンク先でまとめておきましたので、ご参照下さい。最終回である今回は、前回提唱したようなアプローチにおいて、「リスク・決定・責任」の一致はどのように展望できるのか。個人の自由な決定とその裏の責任はどのように位置づけられるのかについて、私見を展開します。

 

「最終回を読む前に――これまでのまとめ」

 

これを考えるために、まず唐突ですが、戦後日本でしばらく経済史学のカリスマだった大塚久雄が何を言っていたかということと、それとのからみで、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下、『プロ倫』)の所論を検討したいと思います。

 

大塚久雄(1907-1996)は、今日ではすっかり忘れ去られてしまったような印象がありますが、私の世代までは多少とも経済の歴史をかじろうものなら、必ず「大塚史学」と呼ばれる歴史観の洗礼をくぐったものです。当時はすでに大塚史学に対するカリスマバッシングが始まって久しくて、大塚史学をクサす方が知的にかっこいいという雰囲気がありましたけど、今となってはかっこいいも何も、存在自体が知られていないという時代になってしまったと思います。

 

そんな中でおととし、一冊のセンセーショナルな本が出ました。新進気鋭の若手研究者、恒木健太郎さんによる『「思想」としての大塚史学──戦後啓蒙と日本現代史』(新泉社)です。

 

この本は、大方の人から大塚批判の本ととらえられているようです。ネット上ではこの本の内容を肯定的に取り上げて大塚をこき下ろす書評が見られますし、学術雑誌ではベテラン大塚シンパが真っ赤に怒って反発の書評を書いています。たしかにこの本は、大塚のマジの戦争協力を言い逃れようのないまでに暴いています。ユダヤ人へのステレオタイプの見方も、差別と言うほかなく、ナチスを合理化する言い方さえ見つかっています。

 

しかし、この本を単純な大塚批判の本と読んでしまうことは、著者恒木さんの真意からはずれています。恒木さん自身から直接言われましたけど、この本は実は大塚思想の復権のために書かれているのです。本人がギャグ半分でおっしゃっているとおり、「思想」というよりは「宗教」と言った方がいいかもしれません。歴史事実をめぐる理論としての大塚史学は否定されても、今こそ思想(宗教!)としての大塚史学は復権されるべきだというのです。

 

この本で、有名な『プロ倫』誤訳問題が取り上げられています。『プロ倫』最後の締めの見せ場の文章で、大塚が明らかな誤訳をしているという問題ですが、恒木さんはこれが誤訳どころか、重々承知の上での確信犯的「改ざん」だったことを暴いてみせています。そしてこの「改ざん」は、いわば、大塚の頭の中の理想のウェーバーによる、現実のウェーバー批判であったと解釈しています(注)。これに則して言えば、この本は、恒木さんの頭の中の理想の大塚による、現実の大塚批判だと言えると思います。

 

(注)同書354-355ページ。

 

 

善玉ヨーマン農民vs悪玉国王・領主・大商人・高利貸し

 

まずとりあえず、大塚の描くイギリス経済史をごく簡単にご紹介しておきましょう。恒木さんの本でも201ページの図5-1あたりでまとめられていますので、詳しくはそちらをご覧下さい。

 

問題は、近代資本主義というものが、どうやって生まれたかということです。資本主義以前の中世封建制度の時代には、領主が農奴を働かせてあがりをとりあげる経済の仕組みがとられていました。この中から、しだいにこれとは異なる初期的な資本主義経済が育っていって、その担い手であるブルジョワジー(商工業の実業家階級)がだんだん実力をつけていきます。やがてそれが十分に育ちきったところで、王侯がいばっている支配体制がますます商売の邪魔になって、市民革命が起こってブルジョワジーが権力を握り、邪魔者がなくなって工業化が進展して資本主義経済が確立する──これがマルクスの唯物史観の示す図式でした。

 

ではその初期的な資本主義が育ってくるプロセスはどんなものだったのか。大塚の経済史はこれを描くものです。それはさながら、ベタな勧善懲悪のカタルシス映画を見るようなものです。

 

善玉は、額に汗して働くけなげな農民です。中世も終わりになると、領主の支配はだいぶ緩んで、農民たちは事実上の自営農民になっていた。彼らは「ヨーマン」と呼ばれ、毛織物などの手工業を始め、半農半工の独立自営中産者になる。そして、地域の「局地的市場圏」でビジネスを始め、才覚のあるやつはのし上がっていく…。

 

それに対する悪玉が、国王と領主、そしてそれと結託する大商人や高利貸しです。役の顔が浮かびますよね。「で、奴隷を売りつけたその足で、海賊を働こうと言うのか…これドレーク、そちもなかなかのワルよのぉ」「いえいえ、女王様ほどでは、カッカッカッ…」

 

こいつらがよってたかって、けなげな農民をいじめてくるんで…。領主は重税をかける。大商人は安く買いたたいて高く売りつける。高利貸しは高利で膨らんだ借金を身ぐるみはがしてとりたてる。やりたいほうだい。

 

 

自立したプロテスタントの勝利物語

 

ところで、半農半工の独立中産者ヨーマンが、得られた所得を浪費してしまわずに、どうして事業の拡大にまわしたのでしょう。まだ本格的資本主義みたいな淘汰競争や株式市場の圧力などにさらされてもいないのに。

 

ここで大塚が持ち出したのが、ウェーバーの『プロ倫』話(注)なのです。プロテスタントでは、死んでから天国に行けるかどうかは神のみぞ知ることで、ちんけな人間ふぜいに口出しの資格などありません。善行をしようが祈ろうが、神と取引しようというような、そんな不遜な心がけの行いで神の意志は曲げられません。だから信者は、自分が天国に行けない存在であることに怯え、一生懸命働いて事業が成功したのを見て、とりあえず、「自分は今のところ、天国に行けない側とは証明されなかった」と言って安心することを繰り返すほかなくなります。

 

(注)授業で紹介するときには、安藤英治『マックス・ウェーバー』講談社文庫(2003)の276-292ページの抄録を使うのが便利である。

 

だからプロテスタント信者は、自分のもうけのためではなくて、神の栄光を讃えるために一生懸命働き、神のために節約に励んで、余った分を事業の拡大にまわしていったのだ──これが『プロ倫』の説明になります。

 

大塚のカタルシス映画の善玉ヨーマンたちは、敬虔なプロテスタント信者ということになっていますから、けなげさにも磨きがかかるというものです。贅沢したいとか楽をしたいとか思わず、懸命に働いてつつましやかに暮らして、自己目的的に事業拡大に邁進するのです。その過程で、事業に失敗して土地を失った人々は、事業拡張に成功した者のところに雇われて働くようになり、かくしてブルジョワジーとプロレタリアートとへの分解が起こっていきます。

 

こうして大地を踏みしめて自分で立って、坊主の説教によらず一人で聖書と向き合って神と対話して、誰にも従属せずに自分の意思でビジネスを営んで「民富」を蓄積したブルジョワジー。彼らはやがて力を蓄えてのし上がっていくのですが、その行く手を阻むのが絶対強者の悪役たち!…こいつらは特権商人の独占の利益を守るなどのよこしまな目的で、ヨーマン・ブルジョワジーたちの活動を規制し、けなげに蓄積した民富を収奪していきます。

 

この非道に何度も泣かされたあげくのはてで、ついにブルジョワジーたちは、絶対権力を誇る国王や領主の支配に対して果敢に立ち上がり、これを打ち倒して自分たちの国を作るのです。なんと血湧き肉踊る痛快なカタルシス映画ではないですか!

 

さらに、この勧善懲悪劇が戦後日本でウケた理由には、やはり戦争体験があったと思います。軍部の言うなりに、周囲に流され、「お国のために」と平気で個人を犠牲にした結果、大変な悲惨な結末をもたらしてしまった。この反省の中で、自立した個人が資本主義を生み出した欧米こそが近代化のあるべき道だ、お上が主導して近代化した日本では個人の自立が足りなかったという大塚の含意は、痛烈に人々の心に響いたのだと思います。

 

 

大塚批判の時代

 

ところが70年代ぐらいから、この大塚の歴史観に対する批判がわきおこってきます。この背景には、ブローデルらアナール派の歴史観の広まりや、ウォーラーステインさんの「世界システム論」の考え方の流行があります。

 

こうした中で出てきた批判は、近代資本主義を作ったのは、善玉のけなげな農民ではなくて、むしろ悪玉の方だったんじゃないかという指摘です。地域に根ざした「局地的市場圏」ではなくて、世界市場の方がインパクトをもたらしたのだ。「大航海時代」以来、略奪商人が奴隷貿易を筆頭に、アジア、アフリカ、南北アメリカ大陸で悪事のかぎりをつくして、おびただしい富をヨーロッパに持ち込んだことが、近代の資本主義につながったのだ──というわけです。ウェーバーの『プロ倫』の同時代のライバルで、「資本主義は王侯貴族の贅沢な消費が作った」と正反対なことを言ったゾンバルトも再評価されていきます。

 

さらに、善玉の方も再検討にさらされます。独立自営のヨーマンはもうかったら土地を買って地主になったのではないか。ヨーマンより下層の庶民にもっと目を向けるべきではないか。こうした庶民の民衆史への着目は、ヨーロッパ以外の地域にも広がっていきます。日本でもそうです。すると、欧米を理想化した「上から目線」で日本の民衆を「自立していない」と裁断するのではなく、あるがままの民衆の生活を受け入れなければならないとする言い方が説得力を持つようになります。

 

 

大塚批判がネトウヨにつながった

 

そんなこんなで大塚は「過去の人」にされてしまったわけですが、さてそれでいいのでしょうかというのが恒木さんの本が本当に言いたいことです。恒木さんの本の最後の方に、こうした大塚批判のハシリだった団塊世代の急進派学生に対して、大塚が呼びかけている文章が載っています(注)。「世代の違う教授方にも理解してもらえるようなワク組みを作ることをやってほしいのです…」「やにわにゲバ棒をもつことには、私は絶対に反対なんです。これは、一見前進のように思われても、真の解決をもたらさないばかりか、さまざまな悪い副作用をもたらし、とくに長期にわたって、とり返しのつかないモラルの荒廃を残すことになるのです。大学がこうした自殺行為をやって、どこから希望が生れてくるのですか。心から学生諸君に望みます…」と。

 

(注)前掲書372ページ。

 

今読むと全くまっとうな批判に見えるのですが、当時の急進派学生には届かなかったのだろうと思います。こうやって大塚のヘタレな「プチブル」性を乗り越えたつもりだったのであろう世代から、上記のような大塚批判がなされていったわけです。こうした批判者たちは、自分たちは左翼的で反資本主義、反帝国主義のつもりで言っていたはずです──資本主義とは大塚の勧善懲悪劇のように最初は美しかったのではなくて、もとから極悪非道なのだ。今日世界を牛耳る欧米は、「人権」「民主主義」などときれいごとをいいながら、昔アジア、アフリカ、アメリカ原住民を殺戮・搾取して先進国の地位についたひどい奴らなのだ。欧米目線で見下すのではなく、現実の被抑圧民衆をありのまま受け入れて連帯しなければならない──等々。

 

しかしそんな言説が左翼的なものとして通用したのは、批判した当人が、一回大塚の痛快活劇に酔ったからだと思います。批判が功を奏した結果、一度も大塚活劇を目にしたことのない世代が現れ、こうした言説を聞くとどう聞こえるか。悪逆非道な欧米資本主義に抗った近代日本は正義だ。人権や個人主義など欧米の概念だ。そんなもので日本人を裁断してはならず、伝統の価値観で生きてきた現実の日本人を受け入れなければならない。等々──こうしてネトウヨ史観誕生とあいなるわけです。

 

自民党の憲法改正草案が、国民に規範や価値観を押しつけたり、個人の尊重を否定したりしているのを見て、ほとんどの法律家が「近代立憲主義の否定だ」と言って目をまわしたのですが、ネトウヨ世論の中で育ってきた自民党の政治家たちは、そんな批判を一向に意に介しません。憲法は権力者をしばるためにあるという考えとか、個人主義だとかは、欧米の歴史の中で形成された欧米の価値観であって、日本にはそぐわないと本気で思っているのです。こんな世論状況を一定程度作った原因は、もちろん本質的には経済状況に帰すべきものですけど、左翼的なつもりで大塚を葬った人たちも責任の一端は免れないと思います。

 

ブルジョワ経済のシステムは、多くのメリットとともに多くの犠牲をもたらすものです。西欧は、最初にこれを本格的に孕んだのですが、それ以来、何世代もかけて、おびただしい愚行や失敗を重ねるとともに、それとのうまいつきあい方、飼いならし方も覚えていったわけです。立憲主義、人権、個人の尊重原理などもその一環です。あとから近代化した国民がこれを取入れることは、欧米でいろいろな機械が発明されてさんざんひどい事故を重ねて安全になってから、日本など後発国がそれを取入れたのと同じことです。

 

しかも日本の場合、江戸時代にすでにブルジョワ経済はかなり発達しており、「商人道」の中では、西欧同様の個人の尊重原理は育ってきていました。そこにはほとんど大塚流ウェーバーが描くプロテスタントのような、勤勉で合理的で倹約家で、一人で阿弥陀様の恩に感謝して生きることを善しとする倫理観が見られました(注)。

 

(注)詳しくは、拙著『商人道ノスヽメ』藤原書店(2009)、第2部。

 

だから大塚の勧善懲悪映画のカタルシスには、誰でも一回酔っておくべきなのです。歴史事実として大塚が言ったことがどの程度まで否定されているのかは専門外なのでわかりませんが、たとえ否定されたとしても、フィクションとして楽しめばいいのだと思います。どこの国でもないが、どこの国でもある程度あてはまり、起こり得たかもしれないお話として。【次ページにつづく】

 

 

 

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