2014.02.24

乗数効果と公共事業の短期的効果への疑問――藤井聡先生へのリプライ

飯田泰之 マクロ経済学、経済政策

経済 #財政政策#公共事業

月刊誌『Voice』3月号での連載「ニッポン新潮流」に関し、藤井聡先生(内閣参与・京都大学大学院教授)よりコメントをいただきました。

飯田泰之氏のVoice(2014年3月号)への寄稿論説について

一昨年末以来の経済の好循環を本格的な回復に導くにあたって、消費増税が看過できないリスクであるという点を内閣参与である藤井氏が深刻に憂慮されていることは、不安の中での光明とも言えるでしょう。

拙稿に関する批判的なコメントをいただきましたので、ここで批判に答えると共に、私の財政政策に関する考え方を整理してお伝えしたいと思います。リプライは(https://synodos.jp/ or http://www.mitsuhashitakaaki.net/)にも掲載いたしました。

まずは、いただきました質問への返答から。政府支出が国民経済計算(SNA)体系の泣きどころであるというのは、経済統計を扱う者として「そういうモノなのです」と答えるしかありません。SNA、そしてその主要勘定である国民所得勘定(通称GDP統計)のなかで政府支出は例外的な手続きで計上されています。

SNAの原則の一つが市場取引原則です。これは市場である商品が1万円で取引されたことが「少なくともその商品に1万円の価値があると思った人がいた」ことの証明になるという考え方に由来します。家計や民間企業が事前に価値がないと思っているものに支出すると言うことはないでしょう。このような論理の前提となる主観価値説とその正当性については飯田(2012)または一般的な経済学のテキストを参照ください。そして、事後的にも市場価格が主観的な価値とおおむね一致するという点については、以下のように説明されます。「いつでも思ったほどの意味がない支出を行っている」という企業は、いつも投資・調達に失敗しているということです。このような企業が長く市場にとどまることは出来ません。一方で、「いつでも思ったより有用な支出が出来る」ような優秀な企業もまたそう多くはない。ここから、民間経済主体の支出は平均的には払っただけの価値のあるモノを購入していると想定することが出来ます。

一方、市場取引を経ていない財・サービスは「いったいそれがどれだけの価値があるのか」を客観的に評価することが出来ません。しかし、市場で取引されることはないが、国民の経済厚生にとって重要なものは確かに存在します。そのため、市場で取引されない付加価値生産についてはその価値を擬制して数値化する必要があるのです。その代表が、家賃・自家消費の帰属計算と政府支出です。政府支出はその支出額(真水部分)だけの価値があるということにして付加価値生産額に計上されます。すると、

A.10億円を使って非常に重要な道路整備を行った

B.10億円分の自宅警備事業(または穴を掘って埋める工事)を発注した

C.定額給付金10億円を支給した

という3つの支出において、A・Bでは10億円のGDPの増加が生じ、Cでは(所得移転にあたるため)GDPは変化しないということになります。Aでは確かに新たな付加価値が生まれているため、10億円がGDPに計上されるのは自然な統計・会計処理ですが、Bはどうでしょう? 実質的にBとCでは同じ事が行われているにもかかわらず、両者がGDPに与える影響が異なるというのは、どう考えても統計ルールの不備でしょう。だから、政府支出はSNAの泣き所なのです。

「政府の投資は無駄」かどうかは事業次第です。私の議論はマクロ経済学での論争を前提にしているため、ちょっと分かりにくいかもしれませんが、議論の焦点は給付金・減税と財政支出ではどちらの経済効果が大きいかにあります。ここでは「1兆円増税して1兆円政府支出を行った」ときにGDPはいくら増えるかという均衡予算乗数の問題から説明しましょう。

分配の問題を無視すると「1兆円増税して1兆円の給付金を支給した」ならば経済効果はゼロ(乗数は0である)と考えられます。分配の変化が消費にもたらす影響については飯田・雨宮(2009)などを参照いただければと思います。一方、教科書的には「1兆円増税して1兆円政府支出を行った」場合には1兆円の経済効果(乗数は1である)ということになります。これは経済学のテキスト等では財政支出乗数と増税乗数が同時に働いたケースとして説明されます。

ここで先ほどの例を思い出してください。「1兆円増税して失業者に1兆円を払って自宅警備事業を発注」の乗数が1で「1兆円増税して定額給付金1兆円を支給」の乗数が0であるという両者の差は純粋にSNAの性質に依存しています。

ちなみに、このように説明すると増税前提の議論はけしからんと思われるかもしれません。しかし、増税を財源にした場合から考えるのは両者の差が(一方が0になるので)一番見えやすいという説明の方便です。ここで知りたいのは「給付金と財政支出の経済効果の差」です。

仮に何の意味もない事業であれば、統計上の差は出ても、実際には給付金・減税と同じ経済効果しかもちません。むしろ収容費・資材費が要される分、財政出動の方が非効率的だと言えます。さらに、支出性向の高い低所得者・育児世代への所得移転となる給付金であれば分配自体が景気刺激効果を持つため、財政出動の優位性はさらに失われるでしょう。すると、「給付金と財政支出の経済効果の差」は財政支出の支出先の中身に依存するという結論に達します。数理的な証明はOno(2011)を参照ください。

このように、景気対策としての給付金と財政出動の経済効果の差は「どの程度役立つ事業が行われるか」に依存するという結論になります。「役立つ」の定義については、経済学的には各自のwillingness to pay(以下WTP、虚偽申告なしに支払っても良いと思える額)の総計によって定義されます。このWTPの調査は容易ではありません。アンケート調査によってWTPを調べようとしても、どうせ自身が実際に負担するわけではないのであれば――たとえば自身の負担分がその建設費の1億分の1を負担すれば良いだけなのであれば、誰もが道路や橋を欲しいと答えるでしょう。

そのため、公共事業へのWTP総額はあくまで推計によることになります。その恩恵を直接・間接に享受する人の頭数が多い事業は厚生の観点から給付金以上の実体的な経済効果を生みうるでしょうし、それが少ない事業であれば給付金と同じかそれ以下の効果しかもたないと言うことになります。厚生の観点から導かれる望ましい土木・建設事業は幹線や都市部を中心にしたものになると考えられます。

ここまでの議論はあくまで、ケインズ的な前提――供給能力に対して有効需要が不足している場合を想定しています。日本経済全体にこのような需要不足が存在していることについて藤井氏と私の見解は一致していると思われます。日本経済はまだその本来の供給能力を発揮できているとはいえないでしょう。しかし、問題は業界ごとの需給能力です。

昨年来の入札不調や震災以来の土木建設業界の人手不足を見ると、土木・建設業界が短期的に供給制約状態(需要に対して供給が追いつかない状態)にあると考えられます。このような供給制約下では、そもそも上記の乗数過程そのものが機能しません。公共事業が100人を雇うために、民間事業に従事する100人を引っ張らなければならない状態では、景気対策の効果は大幅に低下せざるをえない。この問題に関しては、岩田・浜田・原田(2013)の時系列分析を用いた検証が行われていますが、そのエッセンスは2012年に書いた私のエントリ、

マンデル・フレミング効果ではないかもしれない 

にまとめられています。財政政策の効果の低下については、中立命題、マンデル・フレミング効果などさまざまな仮説が提示されてきましたが、これらが現在の日本経済に強く作用しているとは考えづらい状況です。すると、現在の財政政策のボトルネックはむしろその産業レベルの制約にあると考えられるのです。

ごく平易な時系列分析では真水1兆円の公共土木建設事業の増加は、0.7兆円の民間事業の減少を招くと推計されています(ただし他の変数でコントロールすると減少幅は0.5程度になるという推計結果もあります)。公共土木・建設事業の増加は当該産業での人・資材の不足と価格の高騰を招くことになります。このような生産要素・素材の不足と価格高騰は民間土木・建設事業の活動水準を低下させることでしょう。その結果、公共事業の経済効果の一部が土木・建設産業内で吸収されてしまうのです。ここから、景気対策を土木・建設業で行う場合、土地収容費や資材費がかかり、その上に民間事業の生産抑制効果もあるという点に留意して行う必要があるのです。

このような懸念から導かれる一つの提言は、消費増税という目前に迫った問題に対処するには、供給能力に対してより多く需要が足りていない産業への財政支出、またはこれらの選択を個人に任せる給付金方式などが望ましいというものになるでしょう。その意味で、供給能力に余力のある製造業への支出により直接的に結びつく財政支出やサービス業への支出に結びつきやすい低所得者・子育て世代への給付金が緊急避難的な景気対策としては優先度が高いというのが私の見解です。

では、土木・建設業への財政出動はどうやっても効かないのでしょうか? また、今後の日本に公共事業は不要なのでしょうか? この疑問に関しての私の答えは「そんなことはない」です。日本全体はまだまだ深刻な雇用問題を抱えています。これを土木・建設業が吸収できる体勢を整えることが出来たならば、その景気への効果は大きいでしょう。さらに、老朽化するインフラを維持すること、防災・減災のための社会基盤を整備することには大きな意義があります。

これらの問題を考えるために、なぜ日本全体で人が余り、土木・建設業で人が足りないのかから考えてみましょう。

現在の土木・建設業は安全施策面でも技術面でも、バブル以前とは別の産業であると言っても良いほどに高度化しています。さらに、保守・メンテナンスではよりいっそう、単純労働の占める割合は低くなっている。そのため、いまちょっと失業しているから一時的に従事する――という業界ではなくなってしまったのです。現在、土木・建設業に就くためには教育訓練と経験が必要です。

2000年代以降日本では公共事業の規模の縮小が続きました。また現在の財政状況を見る限り、今後これらの事業が増大するという見込みも薄い(少なくとも一昨年までは薄かった)。そのような業界に貴重な時間を使って教育を受け、就業しようという労働者は少ないでしょうし、そのような人材育成を行おうという企業も少ない。東日本大震災に起因する一時的な資材不足だけではなく、このような人材の問題が土木・建設業の供給制約の原因ではないかと私は考えています(ちなみに先ほどの公共事業の民間事業抑制効果の推計は震災前までのデータを使っています)。

このような状況に対して必要なのは土木・建設業界の先行きを明示することだと考えられます。社会インフラ整備計画が立案され、一定の規模の事業が十年以上にわたって継続的に行われることが示されたならば、企業による人材育成と設備投資や個人の技能習得が行われやすくなる。自身の意見としては、2020年までの都道府県毎の社会基盤整備計画を示し、一定の拘束力のある財源確保の方法を講じるだけでも供給制約状況はずいぶん改善されると考えられます。そして、望むべきは今後30年にわたる整備の大方針だけでも決定されるなら、その効果はさらに大きいでしょう。

もちろん、現在の日本の財政状況で、公共事業を相似拡大的に増加させ続けるというのは現実的な計画ではありません。地域毎に十分な取捨選択を行って、継続的に利用するインフラについては補修スケジュールを策定し、その一方でどうしても必要な新設は地域内で時間的な集中が起きないように順を追っての新設を行っていく必要があります。このような将来に向けての拘束力ある計画をもって社会インフラの整備を行うことで、不確実性が減じ、当該産業の企業は人を雇う・育てることができるようになる。金融政策の肝がコミットメントにあったように、公共事業が日本全体の雇用状況にプラスに寄与するためにもコミットメントが必要なのです。

日本全体の社会基盤、防災・減災インフラを整備するためには、それが重要であるからこそ景気対策を主眼にした集中的な支出ではなく、少なくとも10年、そして30年にわたる支出計画が必要である、そしてその方が結果的には景気への好影響も大きいのではないでしょうか。

【参考】

飯田泰之・雨宮処凜(2009)『脱貧困の経済学――日本はまだ変えられる』、自由国民社

飯田泰之(2012)『飯田のミクロ』、光文社

岩田規久男・浜田宏一・原田泰(2013)『リフレが日本経済を復活させる』、中央経済社

Ono, Yoshiyasu (2011) “The Keynesian mulitplier effect reconsidered,” Journal of Money, Credit and Banking, 43, Iss.4, 797-794

サムネイル「Construction」Devar

http://www.flickr.com/photos/devar/26524601/

プロフィール

飯田泰之マクロ経済学、経済政策

1975年東京生まれ。エコノミスト、明治大学准教授。東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。著書は『経済は損得で理解しろ!』(エンターブレイン)、『ゼミナール 経済政策入門』(共著、日本経済新聞社)、『歴史が教えるマネーの理論』(ダイヤモンド社)、『ダメな議論』(ちくま新書)、『ゼロから学ぶ経済政策』(角川Oneテーマ21)、『脱貧困の経済学』(共著、ちくま文庫)など多数。

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