特集:表現の自由とポリティカル・コレクトネス

ポリコレのジレンマ――政治・芸術・憲法から見た、政治的ただしさとその葛藤

 

今回の特集は「表現の自由とポリティカル・コレクトネス」。ブロガーのテラケイさんによる対談企画<ポリコレのジレンマ――政治・芸術・憲法から見た、政治的ただしさとその葛藤>を中心にお届けいたします。

 

ポリティカル・コレクトネス――略して、ポリコレ。

 

「政治的ただしさ」とも訳されるこのことばを、近頃はよく見聞きするようになった。「政治的に」ただしいとは、どういうことなのだろうか。翻って、「ただしい」とは、そもそも何なのだろうか。いったい誰が、そのただしさを「決める」のだろうか。あらためて、「ポリコレ」の意義と、その現状を整理しておく必要があるのではないだろうか。

 

これは、ポリティカル・コレクトネスに隣接した領域で活躍する3人の識者との対談から、ポリティカル・コレクトネスがもたらした功罪、個人の自由・権利との衝突、徐々に吹きつつある逆風について、政治・文化・社会それぞれの観点で考察した記録である。

 

 

第一部 テラケイ×荻野稔(大田区議会議員)

 

 

テラケイ:さっそくですが荻野さん、今回は「ポリティカル・コレクトネス」についてお話をうかがいたいと思います。よろしくお願いします。

 

自治体の政治に携わる人間として、恐らくこのポリティカル・コレクトネス、通称「ポリコレ」というワードを耳にする機会は多くなったと思います。荻野さんは、大田区で「オタク議員」として、地域振興策にオタク文化――アニメ・マンガ・コスプレなど――を積極的に取りいれる異色の議員として注目されていますね。昨今、オタク文化を活用した地域振興は、町おこしとして奏功することもあれば、ポリコレ的なコードに抵触しいわゆる「炎上」状態におちいってしまうものもあります。よくもわるくもポリコレとの向き合い方、またそれと折り合いをどのようにつけるかが問われる時代になってきていると思います。荻野さんが政治家として活動するうえではいかがでしょうか。

 

荻野:たしかに、オタク文化を地域振興に取りいれるにあたっては、デリケートな側面があることは事実です。たとえば、地元の商店街の振興策として、コスプレイベントの開催のお手伝いをしたりするのですが、その際には「異質なものがやってきた」という雰囲気をいかに払拭できるかという点が重要になっているのを見ています。

 

区民の皆さんに説明する際には、具体的にどのような経済効果が見込まれるのかといった実数的なデータはもちろん、コスプレという文化そのものに馴染みのない方に対しては「これは昔でいう“仮装”のお祭りのようなものですよ」という風に、パッケージング自体を分かりやすくしたりしていますね。

 

テラケイさんはいま、私をご紹介いただく際に「異色の」という風に仰いましたが、現場では異色なエッジの強さをいかに落として、区民の皆さんの理解を得られるかというのが、まずは何よりも大事なことだと考えています。ポリコレ的な整合性はもちろん重要なのですが、地域住民との合意形成もそれと同じくらい優先度の高い課題です。

 

テラケイ:オタク文化の地域振興では、その自治体の外側の人々からの批判が殺到した結果「炎上」となってしまうこともありました。「碧志摩メグ公認撤回事件」などはまさしくその事例ですね。荻野さんの得意分野である「コスプレイベント」では、メグ事件のときにあったようなことは起きているんですか?

 

荻野:結論から申しあげますと、あります。

 

最近の話ですが、大田区の70周年記念事業があり、区民の方々がオタクイベントを区からの補助金をもらって開催したときも、ネットメディアに取り上げられて軽く炎上しました。そのときは区に対して、外部から抗議電話がかなりの数来て、私も一部対応していました。もっとも、地域住民の方からの理解はすでに得ていましたし、苦情があったからといって企画を取り下げるようなことはありませんでした。「碧志摩メグ」の一件は私も知っていましたし、オタクコンテンツで地域活性という文脈では同じことをやろうとしているので、説明責任をより一層強化しました。経緯や過去の実績についても、対外的に見える形でそれを提示しました。

 

あと、大事なことは、こういった苦情は多くの場合区役所の担当部署のわずかな人がほとんどを受けることになってしまうということです。つまり、役所の担当者を守ってあげる人を用意してあげないといけない。役所は電話攻勢をうけたらパンクするし、電話をひたすら受けつづける担当者は疲弊してしまう。彼らだけで全責任を負うのは酷なことだから、クッションになってあげる人がいないと、オタクコンテンツの振興事業は大変な試みになってしまうと思います。……つづきはα-Synodos vol.218+219で!

 

 

第二部 テラケイ×柴田英里(アーティスト/フェミニスト)

 

テラケイ:最近では、アーティストの表現作品がポリティカル・コレクトネスの厳しい審議にさらされることもめずらしくなくなったように感じています。エロ・グロ・ナンセンス的な表現がなくても(ポリコレに整合的とされる表現を多く取りいれることによっても)決してつまらないものにはならず、むしろひろく支持を集められることを証明した作品も見られるようになりました。

 

柴田:最近の映画作品でいえば、ベイマックスやズートピアがそうですね。映画に限らず、大きな資本がかかわる作品やプロジェクトではとくにそうですが、近年はポリコレ的なコードに対して厳密なコンプライアンスチェックがなされることが多くなりました。配役の人種的なバランス、多様な価値観など――とくに社会的弱者に対して――の配慮がなされているかどうかなどは、とくにデリケートな問題として取り扱われています。

 

テラケイ:そうですね。柴田さんは、そうした時代の潮流ともいうような「配慮」については、どのようなご意見をお持ちですか。

 

柴田:そもそも、アーティストあるいはアートは、過去には宗教や国家と協力関係を結び発展しましたが、パトロンが宗教や国家から資本家にかわり、アーティストが自らテーマやモチーフを設定するようになった近代以降、世界大戦中のプロパガンダ芸術など一部の例外を除き、ジェンダーやマイノリティ問題を含めた社会運動・政治運動とは別個に存在するものでした。

 

たとえば、アーティスト側がその作品性にジェンダー的な文脈を込めることはありましたが、それはアートの中にジェンダー的な要素が包摂されていることを意味するのであって、いまのように、社会運動や政治運動とニアイコールで結び付けられるようなことに対しては注意がはらわれていました。ましてや、社会的・政治的に望ましいことではじめてアート作品として社会に発表するに値しうるという価値観は、形成されていませんでしたし、過去のプロパガンダ芸術などの反省からも、アートの独立性が求められました。

 

テラケイ:しかしながら、いまのアーティストやその作品をみると、「ただしいジェンダー、ただしいポリコレありきのアート」という、柴田さんのご意見からすれば、まさに本末転倒の現状があるように感じています。

 

柴田:そうですね。いまの作り手側の雰囲気は、テラケイさんがいうように、ポリコレ的に整合的な作品かどうかがまず重要視され、そこから作品の評価が行われる傾向が、作品の規模や社会的なプレゼンスに比例して大きくなりつつあります。余談ですが、活動規模の小さい個人アーティストや若手アーティストなどには、現状、コンプライアンスチェックをうける資金もありませんので、こうした傾向が強まれば、自ずと不利になってくるでしょう。ただし、ここで付言しておきたいのは、ポリコレ的なコンプライアンスチェックをクリアしたからといって、当然ながらその作品の面白さが担保されるわけではないということです。一方で、ポリコレ的なコンプライアンスチェックにクリアした作品の方を「優先的に」賞賛しようという雰囲気が醸成されつつあることは否定できません。

 

テラケイ:ある表象物について、それの作り手がAという内容を込めたとしても、その表象物を鑑賞した人がAという内容をそっくりそのまま解読するとは限りませんよね。アーティストがエンコードしたものとは全く異なるデコードが生じうる。それこそが芸術の醍醐味でもあり、表現がなぜ自由でなければならないのかを示す重要な根拠にもなっていますね。

 

柴田:そのとおりだと思います。原理的には、アーティストがある作品に込めたメッセージがAであったとしても、観賞者の数だけ解釈はB・C・D……などと異なります。作品は現実と虚構の媒介性を孕むものであり、アーティストを媒介にしてつくられるものであり、そして、鑑賞行為はその二重の媒介性を超えてなされうるものです。ある人は作者のもともとのメッセージと似たようなものを受けとるかもしれませんが、それでもAそのままではない。せいぜいA’くらいのものでしょう。作品が持つ内容性は、鑑賞する人によっても異なるし、国や文化、地域、時代によっても変容します。……つづきはα-Synodos vol.218+219で!

 

 

第三部 テラケイ×志田陽子(憲法学者)

 

テラケイ:当初この企画は、「表現の自由」を取りまく問題をメインテーマとし、政治・文化・学問のそれぞれのレベルで検討する対談3部作の予定でした。しかしながら、これまでのお話からは、「ポリティカル・コレクトネス」をより深掘りしていく必要性を感じています。志田先生には、荻野さんと柴田さんのお話を踏まえて、「表現の自由」と「ポリティカル・コレクトネス」の折衝が見られる現状について、法学・憲法学的な知見から俯瞰していただきたいと思います。

 

志田:ポリティカル・コレクトネス――政治的正しさ、ということばを見たり聞いたりする機会は、ここ最近とくに増えたと思います。しかし、「これはポリティカル・コレクトである/でない」という議論が生じたさい、いったいいつ・誰が・どのようにそれを発言したかについては、注意する必要があるでしょう。なぜなら、こうした議論が政府主導でなされていた場合、歴史をかえりみればそれが言論統制につながっていくことが危惧されるからです。

 

テラケイ:たしかにポリティカル・コレクトネスを支持的に援用するひとのなかには、政府による何らかのガイドラインの策定を期待するような呼びかけを行うひとも見られます。個人的には、リスクの大きな申し立てのように見えて懸念を覚えます。目を覆いたくなるような表現に対して、何らかの社会的制裁を加えたくなるような心情は理解できますが、もし自分の表現が誰かにとって社会的制裁を加えたくなる表現として映ってしまったとき、それに抵抗する論理を失ってしまうことになりかねないからです。

 

志田:「ポリティカル・コレクトネス」ということばは、1980年代アメリカのマイノリティの権利獲得運動の中で用いられたもので、考え方のもとを辿れば50年代・60年代の公民権運動にルーツがあります。

 

マイノリティ擁護の基本的文脈に照らして、マジョリティ側の無自覚な差別的表現――アメリカ先住民族を「インディアン」といったり、代表者をチェア「マン」といったり――に対して、マイノリティが異議を申し立てる、そのさいにその異議のほうに「理」があるのだということを強調するために用いられてきました。いわば「マイノリティ側にも対等な言論の自由・表現の自由を保障する」という意図が込められているわけです。マジョリティの無自覚な差別に対して気づきを迫る対抗言論を積極的に承認するものが、本来的な意味としてのポリティカル・コレクトネスです。

 

文化の中で無自覚に共有されてしまっている差別感覚に対しては、それを取り上げて批判したり克服を呼びかけたりすることは困難なことです。まじめに受けとってもらえないという困難があるからです。その困難を克服するための足場となる概念が「ポリティカル・コレクトネス」なのだ、といっていいと思います。

 

しかし日本では、ポリティカル・コレクトネスは、それに反する表現を社会から退場させるための「切り札」として用いようとする傾向が少なからずあるように思います。ポリティカル・コレクトネスは、それによって批判された対象の社会的存在や価値を無化するものではなく、マイノリティ側の困難を解消して、その批判的言論を対等のものとして認めるものですので、その出発点を確認する必要があるように思います。……つづきはα-Synodos vol.218+219で!

 

 

上間陽子×岸政彦「裸足で、いっしょに逃げる――『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版)刊行記念トーク」

 

沖縄の夜の街に生きる若い女性たちへの聞き取りをまとめた、『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版)が話題となっている。家族や恋人からの暴力、見知らぬ男性からの性暴力から逃げ、自分で居場所を作り上げていくまでの記録である。ひとの語りを聞くこと、沖縄を語ることとはどういうことなのか。2017年03月28日ジュンク堂池袋本店で開催された、著者の上間陽子氏、社会学者の岸政彦氏による刊行記念トークイベントより抄録する。(構成/大谷佳名)

 

◇「何が食べたい?」「なんでもいい」

 

 彼女たちへの調査は、いつごろから始められたのですか。

 

上間 2012年からです。それまでは東京で調査を行っていました。地元である沖縄に帰った後、大学の教員を勤めながらスーパーバイザーの依頼を受け始めます。暴力、虐待、少女買春など、複雑な問題を抱える未成年の子どもたちへの対応について学校の教師やNPO団体の方々から相談を受け、その子たちにどう介入していくか、本人の持っているネットワークの中でどう支援していくかという見立てをする仕事です。

 

その中で、相談にあがっていない、まだ誰にも話を聞いてもらえない子どもはたくさんいるはずだ、その子たちの現実を明らかにするためには、やはり調査しかないなと思うようになりました。

 

 調査を始めたきっかけなどはありましたか。

 

上間 2010年に起きた集団暴行事件です。14歳の女の子が集団レイプを受け、自死したという事件で、大きなニュースにもなりました。

 

2013年にも、中高生13人を含む19人の未成年者が県外で管理的な売春をさせられていたという事件が起きました。この事件も大きく取り上げられ、沖縄県教育委員会と県警の主催で県民集会が開かれました。そこで、沖縄の中高生の女の子がスピーチを行ったのですが、それは「(売春をさせられていた)被害者の子の気持ちが、私には理解できない」、「被害防止のために、おうちの人と相談して、携帯電話のフィルタリングをするべきだ」といった内容だったのです。

 

少し考えれば分かると思いますが、中高生で援助交際や風俗店で働く方は、かなりしんどい育ち方をされているケースが多いんですね。だから、「子どもが危険なサイトにアクセスしないように」とか、「子どもがどんな学校生活を送っているか」とか、親が心配してくれるような家庭ではないんです。それなのに、集会では事件の背景には一切触れず、むしろ被害者の子を責めるような言葉が飛び交っていた。悔しくて、その日は泣きながら帰ったのを覚えています。同時に、これはきちんと事実を伝えていくために、調査を続行しなければいけないなと思いました。……つづきはα-Synodos vol.218+219で!

 

 

齋藤直子×岸政彦「Yeah! めっちゃ平日」第四回:切る場所が違うと

 

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美容院に行くことがどうしても恥ずかしい。苦手だ。だいたい美容院という名前も恥ずかしくて嫌いだ。どう言えばいいのだ。ヘアサロンか。50手前のおっさんが、何が悲しくて美容院とかヘアサロンとか行かなければならないのだろうか。それは、そのへんのおっさんが行く床屋さんだと、やっぱりちゃんと満足のいくように切ってくれないからだ。このあたり、自分のなかにも「きれいに髪を切ってほしい」という願望があり、そういう願望があって美容院に行ってるくせに、おっさんには美容院は行きづらいと文句ばかり言う。自分というものが本当にめんどくさい。

 

私は社会学というものを仕事にしていて、特に沖縄のことを長年勉強しているので、だいたい月に一度くらいの頻度で那覇にいく。時には一か月ぐらい滞在することもあり、地元の友だちに紹介してもらって、那覇で行きつけの美容院ができた。……つづきはα-Synodos vol.218+219で!

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

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シノドス国際社会動向研究所

vol.220 特集:スティグマと支援

・稲葉剛氏インタビュー「全ての人の『生』を肯定する――生活保護はなぜ必要なのか」

・内田良「児童虐待におけるスティグマ――『2分の1成人式』を手がかりに考える」

・金泰泳(井沢泰樹)「在日コリアンと精神障害」

・加藤武士「アディクション(依存)は孤独の病」

・齋藤直子(絵)×岸政彦(文)「Yeah! めっちゃ平日」第五回