2015.01.09

進撃する「イスラーム国」はイラク政治をどこへ連れて行くのか

山尾大 イラク政治

国際 #イラク#イスラーム国

2014年に世界を騒がせた事件は、なんと言ってもエボラ出血熱の大流行と「イスラーム国」の台頭であっただろう。我が国でも、エボラ出血熱と「イスラーム国」はいずれも流行語大賞にノミネートされた。残念ながら大賞受賞は逃したが、大賞へのノミネートはインパクトの大きさを如実に物語っている――もっとも、仮に受賞したとしても、誰が授賞式に来るのかという問題はあったのだが。

エボラ出血熱は収束に向かいつつあるという報道も出始めているが、「イスラーム国」は依然として大きな勢力を誇り、その勢いはとどまることを知らないかのようだ。

初めて「イスラーム国」が世界政治の表舞台に躍り出たのは、イラク第2の都市モスルを陥落させた2014年6月10日のことであった。「イスラーム国」は、モスルの空港や市庁舎、銀行や刑務所といった公共施設を占拠し、「アッラーの他に神なし」と書かれた黒旗を掲げた。モスルに駐留していたイラク正規軍は、「イスラーム国」の急襲になすすべもなく崩れ去り、軍服を脱ぎ捨てて離散した。モスル陥落後、「イスラーム国」はイラクの首都バグダードを目指して南下を開始し、首都へと続く主要都市のいくつかを支配下においた。

この事件は世界を震撼させた。そのため、モスル陥落直後から、「イスラーム国」をめぐる極めて膨大な情報が論壇にあふれた。当初は情報が錯綜し、混乱した言説も出回った。そして半年が過ぎ、ようやく冷静な分析が可能になったように思われる。

とはいえ、「イスラーム国」の実態については、依然として正確なことはほとんどわかっていない。おまけに、「イスラーム国」が欧米やアジアから多くの戦闘員をリクルートしていることが明らかになると、そのグローバルな繋がりに注目が集まり、反対に「イスラーム国」が拠点とするシリアやイラクの現状については、ほとんど議論の俎上に挙がることはなくなった。「イスラーム国」に参加する目的で、イラクとシリアに流入する人々の移動を阻止することを加盟国に義務付ける安保理決議2187号が9月24日に採択されると、我が国でも「イスラーム国」に参加しようとした者とその協力者が「私戦予備および陰謀」の疑いで家宅捜索を受けたことは記憶に新しい。

こうした現状に鑑み、以下ではもう少し「イスラーム国」の実態と、それが拠点をおくイラクとの関係について考えてみたい。別の言い方をすると、イラクからみた場合、「イスラーム国」の進撃はどのような意味を持っているのか、そして「イスラーム国」がイラク政治にどのような影響を与えたのか、という問題を解きほぐすことが本稿の目的である。

舞い戻った「イスラーム国」

まずは、「イスラーム国」がイラクで勢力を拡大するようになった背景を、ごく簡単にみてみよう。「イスラーム国」はシリア紛争で生まれた。「イスラーム国」の前身組織は、戦後イラクで活動を開始し、もともとはアルカイダと繋がりを持っていた。だが、米軍やイラクの部族による掃討作戦で、勢力を縮小させることになった。ちょうどその時、隣国シリアで紛争が勃発したため、「イスラーム国」は活動の拠点を求めてシリアに逃げ延びた。ところが、そこでアルカイダ本体や他の反体制武装勢力と敵対関係に陥った。そして2014年初頭、「イスラーム国」はアルカイダ本部から「破門」される。こうして、「イスラーム国」は、再びイラクに舞い戻ることを余儀なくされたのだ。

同時に、イラク国内にも、「イスラーム国」の流入を受け入れる素地ができあがりつつあった。というのも、2012年末頃からシリアと隣接する西部のアンバール県を中心に、マーリキー政権の打倒を目指す反体制デモが広がっていたからである。「イスラーム国」は、この反体制デモに紛れ込んで、イラクに活動拠点を作ろうとしたのだ。

そして6月、「イスラーム国」は徐々に北上し、9日にはモスルに総攻撃をかけて24時間足らずのうちに陥落させた。当初、モスルが陥落したのは、マーリキー政権がシーア派を優遇してスンナ派を排除してきたからだ、としきりに論じられた。排除されたスンナ派住民が、シーア派に敵意を向けるスンナ派の「イスラーム国」を受け入れたのだ、というわけである。たしかに、この議論が完全に間違っているとは言えない。モスルの住民のなかには、マーリキー政権下で周縁化され、社会上昇の機会を失った者たちが、「イスラーム国」を歓迎したというケースもあったかもしれない。

だが、それもごく初期のごく限定的な事例だったと考えられる。というのも、「イスラーム国」は次第に彼らが考えるイスラーム的な生活様式を住民に強要し、従わない者を処刑するなど恐怖による統治を始めたからである。さらに、言うまでもないことだが、「イスラーム国」がイラクのスンナ派を代表しているわけではまったくない。

だとすれば、「イスラーム国」がモスルを短時間で陥落させることができたのは、なぜなのだろうか。それにはもちろん理由があった。

旧体制派の「クーデタ」

ひとつ目の理由は、イラク軍や警察機構が脆弱であったという点である。当時モスルには数万人規模のイラク正規軍が治安維持のために駐留していた。これに対して、モスル陥落にかかわった「イスラーム国」はせいぜい数千人規模だったと言われている。なぜ数万人の正規軍が、数千人の武装勢力に敗北したのか。

理由は簡単である。正規軍が脆弱だったのだ。イラク戦争後、イラクの統治を開始した米国を中心とする連合国暫定当局(CPA)は、まず旧体制を支えたバアス党を非合法化し、バアス党幹部を公職から追放するとともに、イラク軍と警察機構を解体した。その後、CPAはゼロから軍と警察を再建するために大規模なリクルートを行った。こうしてCPAと米軍は、イラクの軍隊と警察機構を戦前の規模に回復させた。

ところが、これで問題が解決したわけではなかった。というのも、あまりにも早急に兵士や警察官を集めたため、彼らの訓練は不十分なままであったからだ。おまけに、将校や警察幹部を解任したために、新しい指揮系統も十分に確立することはできなかった。だからこそ、2006年に内戦が発生しても、軍や警察はそれに対応できなかったのである。今回のモスル陥落事件でも、同じことが起きた。「イスラーム国」の急襲に、プロフェッショナルとは言いがたい軍や警察は、立ち向かうことができなかったのである。

ふたつ目の理由は、「イスラーム国」のモスル陥落を、旧体制派が手招きしたという点である。あまり指摘されることはないが、モスル陥落作戦は、「イスラーム国」が単体で実施したものではない。そこには、CPAによってパージされた旧体制派、すなわち旧バアス党幹部や旧国軍将校が大きく関与していたのだ。

中心的な役割を果たしたのが、サッダーム・フセイン政権のナンバー・ツーであったイッザト・ドーリー元革命指導評議会副議長(兼バアス党イラク地域指導部副書記長、副大統領)と、彼が率いる「ナクシュバンディー教団軍」である。他にも、旧国軍将校がムハンマド軍などの組織を結成して陥落作戦に関与した。言うまでもなく、これらの旧体制派は、イラク国内の地理や戦略的拠点を熟知しており、彼らこそが「イスラーム国」を扇動してモスルに侵攻したのである。旧体制派は、CPAにパージされて以降、虎視眈々と復権の機会を狙っていた。比喩的な言い方が許されるのであれば、シリア紛争とイラク国内での反体制デモの拡大を好機ととらえた旧体制派が、「イスラーム国」を「用心棒」として雇い、モスル陥落という「クーデタ」をやってのけたのだ。

胡散臭い話に聞こえるかもしれない。だが、旧体制派がモスル陥落に加担したことは紛れもない事実であり、イラク政治の文脈では、モスル陥落事件は第一義的には「旧体制派のクーデタ」という意味を持っているのである。

つまり、「イスラーム国」の台頭とモスル陥落は、いずれもCPAの戦後イラク政策の失敗がもたらしたものであったのだ。

宗派主義化するイラク

このように、モスル陥落事件は旧体制派の「クーデタ」であった。だが、シーア派を異端視し、「シーア派の殺害」を主張する「イスラーム国」に対して、シーア派政党が民兵を結成したり、義勇兵を募ったりしてシーア派の聖地やコミュニティを保護する動きを進めると、次第に宗派対立が露呈していくことになった。

とくに、サドル派やイラク・イスラーム最高評議会(ISCI)などのシーア派イスラーム主義政党は、自らの民兵組織に義勇軍として動員した多くの支持者を加え、「イスラーム国」との戦いの前線に派遣した。そしてシーア派の保護を声高に叫ぶようになったのである。

さらに、陥落したモスルがあるニーナワー県の知事は、この危機を打開するためには、スンナ派の地域政府を形成し、スンナ派の問題はスンナ派に任せるという政策を採用する他ない、と発言するようになったことも、宗派対立を促進させる一因となった。これに拍車をかけたのは、クルディスタン地域政府(KRG)の軍隊ペシュメルガが、モスル陥落の混乱に乗じて、係争地であったキルクークを実効支配したことである。KRGはキルクークの上質な油田を支配したのだ。言うまでもなく、これは自民族の利益を優先した身勝手な行為である。

イラクでは、宗派や民族ごとの利益を主張することは、これまである種のタブーであった。それが、「イスラーム国」によるモスル陥落事件後に、昂然と主張されるようになったのである。これは、イラク政治史上かなり大きな変化であった。

分裂する「イスラーム国」と旧体制派

とはいえ、一時的に顕在化した宗派対立も、次第にその姿をひそめるようになった。今から思えば、6月当初は「イラクはすでに3つに分裂したようなものだ」と主張する論者がイラク内外で幅を利かせていた。だが、ほどなくして宗派対立という現状を覆すような事件が発生した。

それは、手を組んでモスルを陥落させたはずの旧体制派と「イスラーム国」が、対立を始めたことであった。モスルを支配下においた「イスラーム国」は、次第に厳格な統治を敷くようになり、従わない住民を虐殺した。多くの教会や修道院、聖廟を破壊し、代わりに「イスラーム国」の黒旗を掲げた。こうした活動には、地元の住民はもちろんのこと、スンナ派過激派や手を組んでいた旧体制派からも、強い批判があがった。さら、6月29日に「イスラーム国」の指導者アブー・バクル・バグダーディーがイスラーム世界全体の指導者であるとする「カリフ宣言」を行うと、このような批判がさらに拡大することになった。

そしてついに、7月1日、「イスラーム国」とナクシュバンディー教団軍が一戦を交えた。東部の激戦地ディヤーラー県で両者が衝突し、多くの死傷者を出した。それを受けて、マーリキー首相が旧体制派のなかでも旧国軍将校に懐柔姿勢を示すと、旧国軍派のイスラーム軍は、7月6日に「イスラーム国」との同盟を解消し、イラク中央政府との交渉を始めることを宣言した。これに対して、「イスラーム国」は、支配下のモスルでバアス党に加盟する者はカーフィル(不信仰者)だとして、拘束・処刑を始めた。

こうして、旧体制派と「イスラーム国」の戦略的同盟は決裂した。

この事態に対して、地元の住民や部族は、旧体制派への支持を表明するようになった。部族は旧体制派と連携して「モスル解放軍」を結成し、「イスラーム国」との戦いを始めたのだ。ここに、南部からやってきたシーア派の義勇軍も加わった。かくして、宗派対立の構造は瓦解し、スンナ派を中心とする旧体制派と地元部族が、同じくスンナ派の「イスラーム国」の掃討作戦を始めるようになったのである。

次第に孤立を深めていった「イスラーム国」は、部族や旧体制派に対して、守勢に立たされるようになった。7月上旬のことである。ナクシュバンディー教団軍は、モスルの「イスラーム国」の支配地を侵食し始め、「イスラーム国」は徐々に支配地を喪失していった。

ある意味では、旧体制派と「イスラーム国」の決裂は、当初より想定できたことであった。というのも、旧体制派は職業軍人やバアス党幹部で構成されており、彼らはもっぱら世俗派である。対する「イスラーム国」は、筋金入りのイスラーム主義者だ。また、イラク国家の枠組みで復権を目指す旧体制派に対して、「イスラーム国」はサイクス・ピコ協定で規定された既存の国家を破壊するカリフ制国家の樹立を目指している。両者が相いれないのは、火をみるよりも明らかであった。

こうして守勢に立たされた「イスラーム国」は、次第にモスル郊外に拠点を移し、北西部のモスル・ダムやヤズィード派の拠点であるスィンジャール、ズンマールを襲撃した。さらに、東部にも勢力を伸ばし、クルディスタン地域政府の主都エルビールに迫る勢いをみせた。

このような少数派の人道的危機とエルビールの陥落の危機にさいして、ようやくオバマ米国大統領が重い腰を上げ、8月8日に空爆に踏み切ったのである。

「イスラーム国」がもたらした「クーデタ」と政変

さて、「イスラーム国」の台頭とモスル陥落がイラク政治に与えた影響は、以上のような治安問題や宗派対立の一時的な激化だけではなかった。それは「クーデタ」による政変をも、もたらしたのである。

当時のイラクでは、2期首相を務めたマーリキーが、3期目を目指して様々な工作を進めていた。2006年5月に成立した第1次マーリキー政権下では、内戦の克服と治安の安定化という功績があったが、2010年12月に発足した第2次マーリキー政権下では、司法を用いた政敵の排除によって、自らの権力を盤石にしようとするマーリキー首相への反発が強まっていった。

そして、2014年4月に実施された第3回国会選挙前後には、首相三選を目指すマーリキーと、それをなんとかして阻止しようとする他の政治エリートのあいだで、激しい対立が生じた。ほとんどの勢力が、マーリキー首相の三選を阻止しようと奔走していたが、選挙の結果は、マーリキー首相率いる勢力の大勝に終わった。

それにはもちろん理由があった。マーリキー首相の退陣という一点では合意できた勢力が、他の争点をめぐって分裂し、票割れを起こしたからであった。また、マーリキー首相が、土地や住宅などの国家の資源をばら撒き、集票マシーンとして利用したことも、選挙での勝利を担保する要因となった(選挙については、SYNODOSの山尾大「分裂とばら撒きがもたらした勝利」(https://synodos.jp/international/9032)を参照のこと)。選挙に勝利したマーリキー首相は、首相三選を実現することは民主的な正当性を持っていると高らかに宣言した。

だが、選挙結果が発表されてからほどなくしてモスルが陥落すると、マーリキーの首相三選には一気に暗雲が立ち込めることになった。モスル陥落の責任はマーリキー首相にあるとの見解が次第に正当性を獲得するようになり、一連の「マーリキー下ろし」が開始されたからである。

戦後イラクの政党は、マトリョーシカ人形のように、小さな政党が複数で政党連合を形成し、いくつかの政党連合が集まって大連合を結成する、という構造を持っている。たとえば、マーリキー首相は「ダアワ党」の党首であり、ダアワ党といくつかの政党が連合して「法治国家同盟」という政党連合を結成している。さらにそれにいくつかの連合が組み合わさり、「国民同盟」という大連合が作られた。国民同盟は、マーリキー政権のいわば「与党」の役割を果たしてきた。

その国民同盟の議長が、モスル陥落後にマーリキー首相の三選に明確に反対し始めたのだ。つまり、マーリキー首相は、自らの政権基盤から引導を渡されたことになる。

さらに、イラク国内でとくにシーア派の住民とイスラーム主義政党に大きな影響力を持つシーア派宗教界も、マーリキーの首相三選に反対姿勢を示し始めた。シーア派宗教界は、選挙で勝利した者ではなく、「国民に広く受け入れられる首班指名候補者」を要求し、暗に首相三選に反対したのだ。

これを受けて、ダアワ党が、マーリキー首相の首班指名を取り下げると発表した。シーア派宗教界の要請には反対できない、というのがその理由であった。マーリキー首相は、自らが党首を務める党に見限られたことになる。いわば、ダアワ党が自らの党首の首を切るという「クーデタ」を起こしたのである。

ここで潮目が完全に変わった。マーリキー首相の側近からも、マーリキーの首相三選に反対する「裏切り者」が続出した。追い詰められたマーリキー首相は、一時的に軍を動かして大統領府を包囲した。誰もが軍事クーデタを予期した。だが、マーリキー首相は最終的に軍を数時間で引き上げた。その隙に、マーリキー首相と同じダアワ党から、アバーディーが新たに首班指名されたのである。

アバーディーは、同じダアワ党でもマーリキーとは別の派閥に属する人物である。サッダーム・フセイン時代、ダアワ党は亡命反体制活動を展開していたが、マーリキーはダアワ党のダマスカス支部(シリア)の代表を務めていた。一方で、アバーディーはダアワ党ロンドン支部(英国)の幹部であった。

いずれにしても、重要なことは、「イスラーム国」によるモスル陥落のインパクトは、民主的な選挙の結果よりも大きく、「マーリキー下ろし」という「クーデタ」を引き起こしたのである。モスルが陥落しなければ、「マーリキー下ろし」も、アバーディーの登用もなかったかもしれない。そう考えると、この政変はいわば「イスラーム国」がもたらしたものであった。

外部介入と古くて新しい対立

もうひとつ、「イスラーム国」がイラク政治にもたらした厄介な問題がある。それは、外部介入と旧体制派をどう取り込むか、というふたつの古くて新しい問題である。

上で述べたとおり、モスル郊外で少数派の人権を侵害し始めた「イスラーム国」に対して、米国を中心とする有志連合による空爆が始まった。ところが、空爆が規模を拡大するにつれ、外部の介入に反対する声も大きくなっていった。典型的なのは、イラク戦争後に一貫して反米姿勢をとっているサドル派であった。サドル派は、かつての占領軍であった米軍と、「イスラーム国」掃討作戦で協力することを拒否し、米軍地上部隊の派遣に強く反対した。空爆だけで「イスラーム国」を駆逐できないことは百も承知であるが、こうした国内世論に鑑みると、イラク政府も公式には地上軍の派遣に反対する他なかった。

このように、「イスラーム国」の排除には米軍をはじめとする国際社会の協力は不可欠であるが、それに対しては国内から主権侵害や介入との批判が百出する。これは、イラク戦争直後から続いてきた対立構造であり、深刻な政治対立を惹起している。

さらに、旧体制派をどのように取り込むかという問題もある。CPAが旧体制派をパージしてから、マーリキー政権も真剣に問題解決に取り組んでこなかったため、不満をため込んだ旧体制派が「イスラーム国」と手を組んでモスルを陥落させたのだ。旧体制派が「イスラーム国」と分裂した現在、旧体制派を取り込んで、「イスラーム国」掃討作戦に活用することは、実に理にかなっている。「イスラーム国」を孤立させるためにも、現地の部族の支持を獲得するためにも、旧体制派の取り込みが極めて重要なのである。

だが、これには根強い反対がある。とくに、旧バアス党政権から弾圧を受けた人々の反対は大きい。サドル派はその典型である。サッダーム政権から苛烈な弾圧を受け続けた勢力は、旧国軍ならまだしも、旧バアス党幹部の復権については、決して首を縦に振らない。ここにも、一筋縄ではいかない事情があるのだ。

対米関係と旧体制派の問題は、戦後の政治対立を惹起してきた最も深刻な争点で、「イスラーム国」の台頭は、まさにこの古くて新しい問題を再び顕在化させたのだと言えよう。

ふたつの「クーデタ」と激動のイラク政治

このように、第一義的には旧体制派による「クーデタ」であったモスル陥落事件は、その後イラクに宗派対立の嵐をもたらした。とはいえ、一時的に吹き荒れた嵐も、ほどなくして「イスラーム国」と旧体制派の対立という事態の勃発を前に、次第におさまり始めた。そして、「イスラーム国」がもたらした混乱は、膠着状態になっていた政治対立を打開し、「マーリキー下ろし」の「クーデタ」を引き起こした。こうして、民主的な選挙の結果を排した「クーデタ」による政変が生じたのである。それに加え、旧体制派や地元部族との戦いで守勢に立たされた「イスラーム国」が少数派の人権侵害に走ったことは、外部介入を呼び起こし、それがイラク国内の米軍に依存した治安政策/反米と、旧体制派の包摂/排除という、イラク戦争後一貫して存在する古くて新しい問題を、先鋭化させることに繋がったのである。この間生じたふたつの「クーデタ」は、はたしてイラクをどこに連れて行くのだろうか。

本稿で展開した議論に加えて、「イスラーム国」そのものやクルド問題、シリア紛争、「イスラーム国」が国際政治に与えた影響については、吉岡明子・山尾大編『「イスラーム国」の脅威とイラク』(岩波書店、2014年12月26日刊行)のなかで詳細に分析されている。同書は現時点で「イスラーム国」とイラクをめぐる最も包括的で多角的、かつ学術的な書物となっているので、ぜひ手に取っていただければ僥倖である。

サムネイル「Islam」Firas

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プロフィール

山尾大イラク政治

1981年、滋賀県生まれ。九州大学准教授。博士(京都大学)。専門はイラク政治、比較政治学、国際関係論。主要著書に、『現代イラクのイスラーム主義運動――革命運動から政権党への軌跡』(有斐閣、2011年)『紛争と国家建設――戦後イラクの再建をめぐるポリティクス』(明石書店、2013年)、酒井啓子・吉岡明子・山尾大編著『現代イラクを知る60章』(明石書店、2013年)などがある。

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