韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題――戦争の記憶と和解

かつて韓国軍はベトナム戦争に参戦した。精鋭部隊のべ31万人以上を派兵し、5000人前後の死者を出した。この間に生じた民間人虐殺は、最近の「嫌韓」ブームのなかでしばしば取り上げられている。しかしそれは、従軍慰安婦問題などに対する日本の責任を問う声への反撃材料として利用することに終始した、生産性のないものである。

 

ここで論じたいのは、韓国とベトナム双方での虐殺の語られ方である。そして韓国軍による民間人虐殺に関して韓国世論が二分された背景をさぐり、自国の負の歴史を直視することの困難さに触れたい。

 

さらに負の歴史を記憶し未来の平和に役立てようとする韓国NGOの活動がベトナムで果たした役割について考えたい。

 

一方ベトナムでは、戦争に関する歴史認識が公定記憶に強く支配されているため、公定記憶になりえない記憶がこぼれ落ち、国際関係に影響を与えない範囲でしか歴史を語れない状況にあることを指摘する。

 

 

記憶の語り方――韓国の場合

 

韓国では、全斗煥・盧泰愚両大統領がベトナム戦争の元参戦軍人であったこともあり、武勇伝以外の形でベトナム戦争にふれることはできなかった。1999年になって風穴を開けたのが、民間人虐殺事件を報じたハンギョレ新聞社の週刊誌『ハンギョレ21』であった。

 

「武勇伝」が「虐殺」となり韓国社会に記憶の混乱が生じた。そのなかで事実の解明と謝罪を求めるNGOが活動を開始、『ハンギョレ21』が謝罪のための募金を呼びかけた。反面、「正義の戦争」と主張する元参戦軍人を中心とした保守派の反発を招き、2000年6月27日には、2400人もの元参戦軍人によるハンギョレ新聞社襲撃事件が起きた。

 

 

■ク・スジョンと『ハンギョレ21』の報道

 

『ハンギョレ21』の記事を書いたのは、ホーチミン市在住のハンギョレ新聞社通信員、ク・スジョンだった。1966年生まれの彼女は、韓国民主化運動期は大学生で活動家だったが、1992年末の大統領選で金大中が敗北、学生運動が方向性を見失ったため、社会主義がどのようなものであるか見ようと同年末に国交回復したベトナムに渡る。

 

通信員の一方でベトナム国家大学ホーチミン市校の大学院歴史学科に在籍し「ベトナムにおけるアメリカの戦争への韓国軍の介入」のテーマで修士論文を執筆していた。

 

執筆に際し「ベトナム南部における南朝鮮軍の罪悪」というベトナム共産党政治局の内部資料を入手したが内容の信憑性、韓国や日本の世論に与える影響を考え公表をためらっていた。

 

しかし、NGOナワウリ(「私と私たち」の意)のメンバーと会って考えを変える。かれらは1998年の日本のNGOピースボートの船旅で、後述するハミ村をたまたま訪問、村人の証言に衝撃を受け、独自調査のため1999年4月に訪越した。ク・スジョンは通訳を兼ねてこの資料にもとづく調査に同行した。

 

最初に訪れたのは、ニントゥアン省ファンラン市のリンソン寺で、僧侶4人の虐殺事件(1969年10月)の唯一の生存者の僧から話を聞き、ビンディン省博物館編の「ビンアンの虐殺」(後述)に関する資料もあることを知る。そして聞き取った虐殺の様相を「ああ震撼の韓国軍」として1999年5月6日号の『ハンギョレ21』に発表した。

 

この記事が出た当時通信員を統括する仕事を兼ねていた、ハンギョレ新聞社のコ・ギョンテ記者は、特集として扱いたいと考えた。ク・スジョンはそれに応じ、先の共産党政治局の資料に沿って、数十日かけてベトナム中部5省の9県13行政村をまわり、100人以上の人々にインタビューをし、1999年9月2日号で10頁にわたる特集を組んだ。

 

これが約2ヶ月後に始まる募金活動と合わせて、のちに「ごめんなさいベトナムキャンペーン」と呼ばれる運動のはじまりであった。キャンペーンは1年間続いた。

 

この運動は、ベトナム側で当初何度も虐殺事件について記事を掲載した『トゥイチェー』紙のアドバイスも入れ、民間人虐殺があった地域での学校建設を目標とした。目標金額は最低1億ウォン(約1000万円)で、その後50床の病院をつくる計画に変わったが、金大中政府がベトナム中部5省に病院を建設する計画を発表したことから、最終的に2001年に平和公園をつくることに決まった。

 

このキャンペーンに賛同した人々は、ちょうど同じ時期に表面化したノグンリ問題(朝鮮戦争時の米軍による民間人虐殺事件)に対し、米軍の責任を問うなら、自分たちが起こしたベトナムでの虐殺にも向き合わねばならないと考えた。

 

同じハンギョレ新聞社が、日本軍の慰安婦にされたおばあさんたちの支援のために集めた寄付に比べると、政財界からの寄付がなく低調であったが、地道な運動の結果、2003年に韓越平和公園が建設された。

 

 

■NGOナワウリの活動

 

先述のように、ク・スジョンが韓国軍に関する記事を書くきっかけをつくったのは、ナワウリのメンバーがホーチミン市にやってきたことであった。かれらはク・スジョンと合流して調査の旅に出るが、この数週間の調査は断続的に計4回4年に及び、参加者にはかつての参戦軍人もいた。

 

ナワウリはこの後、2001年にホーチミン市でグッドウィルというNGOを結成した。グッドウィルの当初のメンバーは、ホーチミン市在住の韓国人ばかりで、ベトナム人はこの問題に全く無関心だった。ベトナム人自身に虐殺の問題を考えてもらうため、ホーチミン市の大学の韓国語学科の学生をリクルートし、数人を韓国に留学させた。帰国後にかれらがグッドウィルの中心メンバーとなっていく。

 

2002年からナワウリとグッドウィルは、韓国軍が虐殺を引き起こした地域で、いくつかの活動をはじめた。韓国人青年とベトナム人青年(ホーチミン市と村の若者たち)が二週間、寝食を共にしながら両国の過去を振り返り、真の平和に向けた実践を模索しながら、一緒に労働して汗を流し親睦を深める「韓越平和キャンプ」である。

 

まずは虐殺の犠牲者のための慰霊碑をつくり、舗装道路や橋の建設、生き残りの高齢者たちの家の修理などをした。ベトナム人でも、「過去にフタをして未来へ向かおう」という共産党の方針のために青年世代はベトナム戦争の歴史にあまり詳しくなく、ましてや韓国軍の虐殺事件については知らない。そのため、家族を殺されて苦しい思いをし、今もおきざりの状態にある生存者の人々に手をさしのべることを自覚してもらうことも意図していた。

 

 

記憶の語り方――ベトナムの場合

 

ベトナムでは、各級行政組織(国家、省、県、行政村)、地域、時間の経過によって、韓国軍の虐殺行為の記憶について多様な語り方を示した。

 

たとえば『ハンギョレ21』のキャンペーン開始時は、虐殺の生存者が当時の悲惨な状況を素直に語り、『ハンギョレ21』の報道を追う形でベトナムの全国紙にも同様の記事が掲載された。

 

しかし、韓国の世論が割れていることをベトナム国家が認識し、また『ハンギョレ21』の記事がロイター通信によって全世界に拡散しかけると事態は変化した。国家にとって、虐殺の記憶が県レベルを超えて国民に共有されてはならなかったからだ。

 

反韓感情が強くなり外交・経済交流に悪影響を及ぼすことを懸念して、ベトナム国家は継続的な報道を許さなかった。これは、「過去にフタをして未来へ向かおう」というベトナムの1986年末のドイモイ(刷新政策)後の方針による。

 

これはもともと1990年代初めにアメリカとの関係改善を目指して出したスローガンだったが、その後すべての国に適用し、歴史上ベトナムに被害を及ぼした国に賠償を求めず未来の関係改善を重視する方針となった。

 

一見未来志向だが、戦争被害を掘り起こして真実に沿った歴史を刻むよりも、共産党の公定記憶に貢献するもののみが、ナショナルな「歴史」を構成することになる。その結果、被害国にもかかわらず、国家関係・国家利益を優先して、現政権への貢献がなかった戦争被害者の声を封殺し、多様な記憶の表明を許容せず、弱い立場の自国民を犠牲にするケースさえ見られる。

 

 

■クアンナム省ハミ村の慰霊碑をめぐる騒動――優先された外交関係

 

その一例として中部の大都市ダナンのすぐ南にあるクアンナム省ハミ村の事例を紹介する。1968年2月ハミ村で135人の村人が韓国軍に虐殺された。男性は南ベトナム解放民族戦線に入るか南ベトナム政府軍に徴兵されるかだったので、ほとんどが高齢者、女性と子供だった。

 

筆者に証言してくれた男性は、家にいると政府軍に徴兵されるので毎日早朝から家を空けていたが、その日帰宅すると母や兄弟、親戚が殺されていた。明かりをつけると韓国兵に撃たれるため暗闇のなかで埋葬したが、翌日韓国軍は戦車でそこを整地していった。男性はこれを「二度殺された」と表現した。

 

ドイモイ後の1999年、元参戦軍人が訪問した際に資金不足で慰霊碑が建てられないと聞き25000ドルを寄付した。ハミ村の属するディエンズオン行政村は慰霊碑と集団墓地建設のための土地を提供し村人は労働力を提供した。昼寝休憩をとる習慣の村人たちが慰霊碑建設のために昼寝もせずに働いたという。

 

その甲斐あって2000年11月に立派な慰霊碑が建ち多くの家族が集団墓地に遺骨を移動した。慰霊碑の表に犠牲者の名簿が、裏には虐殺を詠んだ詩が彫られた。その内容は生存者の話を忠実に反映していたが、これが騒動の原因となる。

 

碑を見た元参戦軍人たちはリアルな表現に耐えられず、韓国政府を通じて文章の修正を要求した。韓国大使館はベトナム政府、ベトナム政府はクアンナム省に圧力をかけた。

 

クアンナム省は、当初は人民委員会副主席、日本でいえば副県知事に相当する女性幹部が韓国の助成に頼らずに省とディエンバン県の負担で建設する、と屈しなかったが、韓国からの投資は民間だけでなく、KOICA(JICAの韓国版)を通じた多額の援助も増大しており、ODAによる省中央総合病院の建設計画が進んでいた。

 

そこでベトナム政府は、韓越関係の悪化で病院が建設されないことになると損失であると省を説得、ディエンバン県を通さずに直接ディエンズオン村に職員を派遣した。その結果、上部行政機関と村人との板挟みになっていたディエンズオン村の村長は圧力に屈してしまった。

 

村人たちは、村長に穏健な文言を受け入れるか、すべての文言を消すかという二者択一を迫られ、最後まで抵抗していた生存者も折れるほかなかった。

 

しかし、韓国側は「削除」したと思っているが、実は蓮の絵柄を彫った石版で裏面を覆い、「フタ」をしたのであった。筆者の訪問時には、自嘲めかして「これこそまさに過去にフタをすることだ」と言っていた。

 

一方、先に述べたク・スジョンたちの活動によって生存者や遺族は少しずつ癒されてきている。韓国社会にこの問題を知らせ今後の教訓にしようと奮闘するかれらの姿を目にし「韓国人に対する憎しみが薄れていった」と感じているお年寄りは複数いる。

 

 

ハミ村の追悼碑裏

(写真:ハミ村追悼碑のフタがされた裏側 2008年2月撮影)

 

 

■県主催の「ビンアンの虐殺」慰霊祭――地方レベルを越えさせない「虐殺の記憶」

 

上の事例は、つまりは国家との摩擦を起こさない限りは問題にはならないということでもある。たとえば、省や県独自の慰霊祭の挙行、被害者名簿の作成、事件概要のパンフレット作成などは複数なされている。省や県や行政村はこうした形で住民の不満の緩衝材となっている。

 

一例としてビンディン省テイソン県テイヴィン行政村の事例を紹介したい。ここでは「ビンアンの虐殺」という最大級の虐殺事件が起こった。テイヴィン村のゴーザイという丘ではわずか二時間で380人もの民間人が韓国兵に殺されたという。

 

現在テイヴィン村には、肩に白い猛虎の紋章を付けた韓国兵がベトナム農民に襲いかかる大きな絵がある立派な慰霊碑が建設され、県主催の大規模な慰霊祭も毎年行われている。ハミ村の慰霊碑よりも衝撃的だが、問題となっていない。

 

 

ビンアンの追悼碑のモザイク画2

(写真:ビンアンの虐殺の追悼碑のモザイク画 2008年2月撮影)

 

 

なぜだろうか。ビンディン省はドイモイ開始直後から、証言の収集、遺骨の発掘調査、博物館での遺品展示、慰霊碑の建設など、早くから最も熱心に虐殺問題に取り組んできた省である。2008年には筆者も参加したが、慰霊祭には事前学習をしたテイヴィン村の小学生約100人と中学生約500人を含む1000人以上が集まっていた。虐殺でケガをして生き延び、のちに村の党書記などを務めた人物が証言をし、皆で献花を行った。

 

このビンディン省と先のクアンナム省の違いは、国家間の懸案に拡大したか否かである。つまり、外交問題になる可能性がない限り規制されることはない。

 

ビンアンの虐殺の場合、慰霊碑はベトナム側の経費のみで建設されており、韓国側が口を出す余地はない。つまりベトナム国家は、地方の村、県、省レベルで追悼事業を行っている限りは、「亡くなった肉親や祖先を残された者たちが手厚く供養するのは当然」という地元の論理を黙認しているのである。【次ページにつづく】

 

 

 

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