2015.05.11

「世界史上最大の悪」ホロコーストはなぜ起きたのか

石田勇治×荻上チキ

国際 #荻上チキ Session-22#ホロコースト

2015年1月、アウシュビッツの解放から70周年を受け、安倍首相はイスラエルのホロコースト記念館を訪問。「ホロコーストを二度と繰り返してはならない」と改めて述べた。この世界史上最大の悪とも呼べる、ユダヤ人の大量虐殺はなぜ生まれたか。その歴史的な背景を知り、そこから私たちがどのようなことを学べるのかを探っていく。TBSラジオ 荻上チキSession-22 2015年01月21日放送「ユダヤ人の大量虐殺はなぜ起きたのか?」より抄録。(構成/若林良)

■ 荻上チキ・Session22とは

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アウシュビッツの歴史的な位置づけ

荻上 今夜のゲストは、ドイツ現代史がご専門、東京大学教授の石田勇治さんです。よろしくお願いします。

石田 よろしくお願いします。

荻上 安倍総理がイスラエルのホロコースト記念館に訪れてスピーチをされましたね。石田さんはどのように捉えましたか。

石田 記念館での発言については立派なことを言われたと思います。やはりホロコースト記念館はユダヤ人にとって象徴的な場所であり、日本の首相が「悲劇を繰り返させない」と発言したことについては、「よく言ってくれた」と感じた人が、たくさんいると思うんです。

荻上 そうですね。他方、一国の首相の発言ともなれば、その捉えられ方について常に議論が起こります。例えばパレスチナや、イスラム教の方々にはどう映るかといった、いろんな政治性が介入してきます。

石田 そうですね、冷戦後のアウシュビッツの位置づけが、それ以前と少し変わってきている面があるんです。人権侵害の象徴であると同時に、当時の国際社会がそれを阻止できなかったことへの反省があって、今では「繰り返さないために何が必要か」を考えるきっかけとしてアウシュビッツがあります。

ホロコーストのようなジェノサイド(大量虐殺)は今も世界各地で起きていて、それを予防する必要性についても議論されています。

ここで気になるのは、「アウシュビッツを繰り返さない」ために、紛争地域に人道介入といいながら軍事的介入が行われることがあり得るということです。それが次の惨事につながることもある。そんなことを少し思ったりしました。

荻上 「歴史の教訓」は様々に解釈できる。それゆえに、「悪の暴力が拡大する前に正義の暴力で制裁する」といった行為自体が、実は虐殺と呼べる行動と似たような結果をもたらすこともあり得ると。

石田 ドイツ連邦軍が1999年にコソヴォをNATOと一緒に攻撃したとき、ドイツは「アウシュビッツを繰り返さない」ことを大義名分にして軍事介入しましたね。これで問題が解決したのかどうか。多くの難民が生まれました。

どのように犠牲者は拡大したか

荻上 今日はホロコーストの経緯などについても伺っていきたいと思います。石田先生は大学で講義をするとき、ホロコーストをどのように教えるのですか。

石田 そうですね。まずこんな質問から始めます。「ヒトラーが政権を握った1933年、ドイツ国内にどれぐらいのユダヤ人が住んでいたと思いますか?」

ナチに虐殺されたユダヤ人は、だいたい550万人から600万人ぐらいと言われています。それを念頭において考えて下さい。ドイツの全人口に占めるユダヤ人の比率はどれぐらいだったでしょう?

荻上 なるほど。殺害された数が多いので、1%とか、3%とかではないだろうと感じますよね。では、人口の15%とか25%くらいかと思ってしまいますが。

石田 ところが、1%未満なんですよ。

荻上 そんなに少ないんですね。

石田 当時の統計では、0.76%でした。だいたい50万人を少し超える程度です。そうすると、先ほど言った、殺されたユダヤ人が550万人以上という数字とだいぶ違いますね。このことからどういうことが考えられますか。

荻上 ドイツが侵攻していく中で、国内だけではなく国外のユダヤ人の方も犠牲になったということでしょうか。

石田 その通りです。ナチ・ドイツは1939年に第二次世界大戦を開始するんですが、最初にポーランドに侵攻して、40年にフランスなど西欧諸国を、41年にソ連を攻撃します。そのように一気に勢力圏を広げるのですが、このとき制圧した場所、特に東欧に多くのユダヤ人が存在したんです。虐殺の犠牲者の大半は、そのユダヤ人でした。だから戦争がなければ、犠牲者はこんな大きな数にはなっていないんです。

ドイツ国外でこんなにユダヤ人が殺されたということは、ドイツだけがホロコーストの実行国であったわけではないことを示しています。ドイツの占領地においては、現地の人もホロコーストに協力しているんです。

荻上 たとえば、通報したりといった仕方でしょうか。

石田 それもありますが、むしろその実動部隊というか、下手人として、現地住民が直接ホロコーストに関わったケースがたくさんありました。必ずしも強制されて行ったというわけではありません。

実は、東ヨーロッパではユダヤ人に対する偏見や差別意識はドイツ以上に根深いものがありました。特にポーランドでは強かったのです。

現在、なぜヨーロッパの各国でホロコーストの問題が議論されているのかというと、要するに、ホロコーストにヨーロッパ全体が関わったからなんです。被害者もそうですが、加害者も欧州各国にいたんです。

また、ホロコーストの犠牲者の大半は1942年と43年に殺されているんですね。ですから、ヒトラーが政権に就いた1933年から少しずつホロコーストが進んでいったのではなくて、第二次世界大戦中、とくに独ソ戦が始まった41年の夏ごろから本格化していくんです。

荻上 もともと差別はあったけれども、ナチスが政策的な方向転換を行ったことによって、ホロコーストという形で一気に拡大したのですね。

石田 そうですね。まずヒトラー政権の成立が始まりです。これがなければホロコーストは起きていません。ナチ党は反ユダヤ政党であることはもちろんですが、民主主義を蔑視し、議会政治や政党政治を根本的に否定する政党でした。

ワイマール憲法の理念から見るととんでもない政党なんですが、当時のドイツ人の苦境、屈辱感をうまく利用して台頭してくるんです。

ヒトラーは首相になって、その後、独裁権力を手に入れます。「全権委任法」を成立させたことが大きいです。これで立法府を経ることなく、政府が自由に法律を制定できるようになってしまったんです。行政の長が立法権まで握っているから、反ユダヤ的な考え方も簡単に政策化されてしまった。ユダヤ人に対する社会的な差別も、ヒトラー政府のもとで一気に顕在化していった。ですから、33年にヒトラー政権を誕生させてしまったことが、決定的なポイントであったと思いますね。

ユダヤ人への差別意識と、ナチスの優生思想

荻上 質問メールが来ています。

「なぜユダヤ人がこれほど悪役にされたのか、私にはよくわかりません。独自の宗教と選民思想、経済的成功による嫉妬があるのでしょうか」

どうしてユダヤ人だけが敵視されていたのでしょうか。

石田 ユダヤ教がヨーロッパ、つまりキリスト教が多数を占める社会の中で、どういう位置づけであったかを知る必要があります。たとえば新約聖書を見れば、ユダヤ人を敵視している記述が非常に多いことに気づきます。キリスト教はユダヤ教から生まれるのですが、ユダヤ人は否定されるべき存在として、キリスト教の教義の中にインプットされているんです。

中世にはこうした宗教、信仰の違いを背景に、ユダヤ人に対する差別、迫害が行われたんですね。でも当時は、改宗すれば許されたんです。ところが、時代が現代に近づいてくると、宗教だけではない要素が加わってくるんです。

大きな転換点は18世紀にありました。ヨーロッパのユダヤ人はたいてい絶対王政のもとで宗教的少数派としてゲットー(特別居住区)に隔離され、その中で一定の自治が許されていたのですが、差別の対象でした。ところがフランス革命が起きて王政が壊され、ヨーロッパ社会のあり方が徐々に変わり始めると、ユダヤ人をこのまま隔離したままでいいのかという議論が起こります。いわゆる啓蒙思想がユダヤ人を解放しようという動きを後押しました。

フランスでは革命直後にユダヤ人に市民権が与えられ、ドイツでも19世紀の後半になって市民権が与えられます。しかし問題はこれからです。

市民権を得たユダヤ人のなかに、一気に社会的上昇を果たして経済のトップにのしあがる者がでてきます。資本主義の先頭にたつユダヤ人が多数出てくるわけです。これがキリスト教徒にはまったく面白くないんです。「やつらに市民権を与えなければよかった」というような声があがります。

「ユダヤ人は改宗してもユダヤ人だ」「ユダヤ人は宗教集団じゃない、もともと特別な人種なんだ」という考え方が広がっていくんです。髪の毛とか頭の形とか、身体的な特徴によって人間を種に分けていく。人種主義つまりレイシズムの考え方です。ヒトラーの反ユダヤ主義は、そういう人種主義的な反ユダヤ主義でした。

荻上 それは優生思想につながる考え方ですよね。

石田 そうですね。優生思想というのは、ホロコーストを考える上でやはり大事なことだと思います。遺伝や生殖活動に公権力が介入することでよりよい人間を作る、よりよい人類を作ろうとした。

「よりよい」と言えば何かいいことのような気がします。ですが、これは「劣った人間には非常に冷たい」ということでもあるんです。劣等と見なされた人間については、排除する力が働くんです。

荻上 優秀な遺伝子を残していこう、一方でそれを阻害するような遺伝子を断種していこう、ということですよね。

石田 そういうことです。ヒトラーは政権をとった直後に、「強制断種法」を制定します。これは俗称で、正式には「遺伝病子孫予防法」。つまり、遺伝病を子孫に引き継がせないための法律で、実態は断種法でした。

統合失調症や知的障害といった特定の病気、また身体障害を持つ人たちに対して、本人の意思とは無関係に、外科的な断種、あるいは不妊化手術をすることを、病院長や施設長に認める法律が、政府の名によって制定されるんです。

荻上 「断種」という政策が政権の誕生後すぐに掲げられることによって、差別主義への方向性がやはり見えてきたわけですね。

石田 さらに言えば、この法律がホロコーストの前提になったんです。このような優生学に関わった人たちが、ホロコーストの現場にまで関わることになるんですよ。

その経緯を簡単に説明したいと思います。まずヒトラー政権が成立する前の、ワイマール共和国の時代、当時は非常にリベラルな憲法のもとで、平等主義の原点から、万人の福祉を目指していました。ところが、世界恐慌になって財政問題が生ずると、それが維持できなくなってしまいます。

そして、そんな時に台頭してきたのがナチ党です。もともとナチ党は万人に公平に福祉を与えることに批判的なんです。強制断種に関することは、ヒトラーが「わが闘争」の中で書いています。「病気とか欠陥のある人は、子どもを産んではならない、そういう人たちに子どもを作らせると、共同体にとっての負担になるのだ。国家は医学的手段を用いて、断種政策を成就させるべきだ」と。ヒトラーが政権をとると、そうした考えに基づいた、さまざまな優生政策が実現されていきます。

断種については、最初はアルコール中毒患者とか、特定の病気に決まっていたんですけど、徐々にその対象が広がっていきました。監獄とか収容所の囚人、また売春婦、有色人種との「混血児」などにも適応されていったんですね。ナチ時代を通じておよそ40万人もの人々が、子どもを作る権利を奪われました。

ナチ時代のドイツは明らかに優生社会でした。優生学的な考え方が根付いた社会です。つまり、健康であることに大きな価値がおかれて、官民挙げて優生思想の普及が図られた。だから学校や職場では、人の価値には生来的に差があるということを事実として教えたんですよ。たとえば重度障害者に対するケアについて、共同体の利益に反するということが公然と言われたんです。

国家自体がある種の生命体の様に捉えられていたから、ナチの人種イデオロギーで下位におかれた人々は、民族体をむしばむ「病原菌」だとか、「癌」だとか言われたんです。彼らに憐憫の情を抱くことでさえ、戒められたんです。

荻上 人権の概念が覆された。

石田 その通りです。もう完全にひっくり返った。そしてもう少し説明させていただくと、戦争がはじまるとこうした考え方はさらにエスカレートして、「安楽死殺害」という政策へ行き着くんです。これは現在で言う安楽死ではありません。自分で自分の死に方を決めるということではなく、こちらの都合、つまり国の都合で殺害するということです。

その引き金となったのが、第二次世界大戦の勃発です。戦争がはじまると、政府は「治る見込みのない患者や障害者は邪魔だ、戦争遂行の妨げになる」と主張を強めていきます。

荻上 ベッドが占領されたままだと、けがをした兵士が入れない。さらに、医療費がかかってしまう。

石田 そうです。戦争に支障が生じるようになると、政府は全国の病院や自治体、また法務省や内務省などと連携しながら、いま申し上げたような人たちの、組織的な集団殺害を行っているんです。

それから、障害を持って生まれた子どもについても、専用の施設での殺害を行っています。こうした安楽死殺害で、およそ7万人以上の人が命を奪われました。【次ページに続く】

荻上 優生思想の元で、人種だけでなく、同性愛者や障害者などが、迫害の対象になっていました。優生思想に基づいた障害者排除は、日本でも長らくありました。ドイツ国民は当時、「おかしい」と言えない状態だったのでしょうか。

石田 「安楽死政策」は極秘裏に始まったのですが、次第に世間に知られるようになり、動揺が広がります。カトリックの司教で有名なガーレンという人がいますけど、彼は自分の説教の中で、この政策を公然と抗議しました。それで、一時的に殺害は止まりました。でも結局は、また復活してしまった。

世論がもっと強く反発すれば、止まるという可能性はあったと思います。

荻上 それができなかったのは、声を出して抵抗すると狙われる危険があったり、暴力にされされたり、そうした恐怖感があったからなのでしょうか。

石田 そうです。ただね、ナチ時代のドイツは、普通の平均的なドイツ人にとって決してそんな不都合な社会じゃないんですよ。普通の平均的な、というのはつまり、キリスト教徒であり、健康な人、ナチにとって危険な思想を持たない穏健な人のことです。9割以上の人がこれに該当しますから、ナチ時代のドイツは大多数のドイツ人にとって生きにくい時代ではなかった。ナチ・ドイツは少数派の犠牲の上に成り立っていた社会なんです。

優生思想は、どのようにホロコーストにつながったか

荻上 さて、この優生思想は、ホロコーストにどのような経緯でつながっていくのでしょうか。やはり、第二次世界大戦の存在が大きかったのですか。

石田 大きいと思います。つまり、ドイツの戦争目的は何かということですね。ドイツは第一次世界大戦で負けて、植民地を含めた多くの領土を失いました。ですから国民の世論としては、失った領土を取り戻したいという思いがあったんですね。

ヒトラーは領土を取り戻しただけではなく、今までにない新たな領土をも獲得して、これを「生存圏」と呼びました。ここに自分たちの新しい帝国を作るのだと。ヒトラーは政権を握った時からこの計画を構想していて、軍部とも連携しながら準備を進めていました。

その具体的な流れとしては、まず、1939年にドイツがポーランドに侵攻します。これが第二次世界大戦の始まりですよね。その1週間前にドイツはソ連との不可侵条約を結んでおり、ポーランドは二国間で分割され、東側はソ連、西側はドイツが占領するんですね。

ドイツは西側のポーランドをさらに半分にして、一方をドイツの領土の中に編入するんですよ。新しいドイツの領土が誕生する。ところがここは、直前までポーランド人が住んでいたんですね。それでここを、当時の言葉で「ゲルマン化」します。

つまり、ドイツの領土にするわけだから、そこをドイツ文化が横溢する地域にしなければならない。そこで、ポーランド人を対象にドイツ人になれるかどうかの選別をするんです。

ポーランドを含め、東ヨーロッパには昔からあちこちにドイツ系の住民がいたんですよ。この人たちは長い歴史のなかでドイツから移り住んで、ドイツ系といってもほとんどドイツ語は忘れています。しかしドイツへの帰属意識が強い人を、ヒトラーはこの時、呼び戻すんです。ドイツの国籍は持っていないんですけどね。彼らを、ポーランドからドイツに編入したところに移住させるんですね。

そして、そこにもともと住んでいたポーランド人やユダヤ人については、ドイツが獲得したもう一方の旧ポーランドの領土(総督府領)に追放し、そこにゲットーをつくってユダヤ人を押し込める。ヒトラーは、このような政策を実行していくんです。

荻上 周縁に追いやっていくやり方だったんですね。

石田 そうです。ところが、ポーランドのユダヤ人は数が多いんですね。それこそ人口の10%以上、200万人以上いるわけです。ナチにとっては「ユダヤなきドイツ」が理想だったので、戦争が始まる前から国内のユダヤ人の追放、強制出国を行っていたのですが、占領地には、さらにたくさんのユダヤ人がいたんです。

ナチのイデオロギーとして、ユダヤ人を自分たちの占領下にずっと置いておくわけにはいかない。ですが、追放する先がないという状況になるんです。

ドイツがフランスを倒した1940年には、フランスの植民地のマダガスカル島にユダヤ人を追放する計画が浮上します。その準備が進められましたが、実行するためにはイギリスの降伏が必要でした。でもイギリスは降伏しなかったため、この計画は流れてしまいます。

するとドイツは次に、独ソ戦に期待するんです。1941年6月にドイツがソ連に侵攻するんですが、ソ連との戦争に勝ったら、広大な領土が手に入ると考えました。そこにユダヤ人を追放すればいいという、非常にあいまいで、楽観的な観測を立てたんですね。ところが、この独ソ戦争が、ナチの思いに反して、袋小路に入ってしまった。その結果、民族移住計画が頓挫してしまったんです。

荻上 追い出しながらも場所を決めて住まわせ続ける政策が、機能しなくなったということですね。

石田 総督府領のゲットーはどこも食糧が不足し、衛生環境も劣悪。疫病が蔓延するという悲惨な状態でした。

しかもその場所は、ドイツがソ連と戦争するうえで軍事的に大事な場所なんです。そこにユダヤ人の塊がいるというのは非常にまずい。「いっそのこと安楽死させた方がいいんじゃないか」と、そういう話が平然と出てくるようになります。

そして、1941年の夏から秋にかけて、ユダヤ人に対する処置として考えられたのが、ガス室をつくって「効果的」に虐殺するという方法でした。

荻上 政策が徐々に拡大していったのではなく、ある地点で虐殺という方向に踏み切ったと。

石田 そうです。移住政策から絶滅政策への転換が起りました。その転換が起きたのが41年の秋から42年の冬にかけてです。42年1月20日に行われた、有名なヴァンゼー会議では、すでに行われた政策転換を、ナチ党と政府・関係省庁のトップが確認し、これからの詳細を検討しました。ホロコーストは、この後、いろいろな形をとって本格化していく。

ドイツは戦争末期まで、ホロコーストをやり続けました。なぜ、戦争の役に立たないのに、こんなことをしたのか、という疑問が当然湧いてくるでしょう。ですが、戦争末期になると、戦争に負けても「ホロコーストだけはやり遂げる」と言われていたんです。

荻上 こちらの方が題目になっていった。

石田 非合理なことでおかしいという人がいますけど、ナチはそう考えていました。それ自体が目的になってしまうんですね。ヒトラーは戦争に負けても、ユダヤ人を絶滅に導いたことが、自分の誇りだと考えていました。

荻上 ユダヤ記念館がイスラエルにありますよね。過去のいろんな経緯もそこでは触れられたりしているのでしょうか。

石田 そうです。ユダヤ博物館はドイツにもありますよ。ベルリンのユダヤ博物館が特に有名です。イスラエルの記念館と同様、ユダヤ人がコンセプトを作り運営していますが、そこではホロコーストはそんなに大きく扱ってない。

今日はホロコーストの話をしてきましたが、ドイツにはユダヤ人とドイツ人、ユダヤ教徒とキリスト教徒の共存の歴史があるんです。ベルリン・ユダヤ博物館はむしろそこにスポットを当てて、過去から未来に生かす知恵を得ようとしています。

ドイツ人とユダヤ人の関係を語るとき、ホロコーストを避けることはできませんが、ドイツ人とユダヤ人が互いに学びあい、支え合った歴史を忘れてはいけないというのが、ベルリン・ユダヤ博物館のメッセージなんですね。

荻上 共存の歴史を忘れたからこそ、ホロコーストのような残虐な事態に繋がってしまったのですね。だからこそ現在に生きる私たちは、今後こうした歴史により着目していく必要があるのでしょう。石田さん、本日はありがとうございました。

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プロフィール

石田勇治ドイツ現代史

1957年、京都市生まれ。東京外国語大学、東京大学大学院、マールブルク大学に学ぶ。専門はドイツ近現代史。1989年より東京大学教養学部講師、91年同助教授、2005年より同大学大学院総合文化研究科教授。この間、ベルリン工科大学客員研究員、ハレ大学客員教授を務める。主な著書に『過去の克服―ヒトラー後のドイツ』(白水社)、『20世紀ドイツ史』(同)、『図説ドイツの歴史』(共著、河出書房新社)、『現代世界とジェノサイド』(共著、勉誠出版)、史料集に『資料ドイツ外交家の見た南京事件』(大月書店)がある。

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荻上チキ評論家

「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。

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