「中東のパリ」で何が起きているのか――2015年11月12日のベイルートのテロ事件を考える

もしパリであの凄惨な同時多発テロ事件が起こらなかったら、大きな関心を集めることなく忘れ去られていたかもしれない。いつものように。

 

2015年11月12日の夕方、レバノンの首都ベイルートを襲った爆弾テロは、43人もの一般市民の命を奪った。負傷者は少なくとも239人、大惨事であった。しかし、世界の目は翌日のパリに注がれ、ベイルートの事件は話題から消えていった。

 

意外だったのは、その後である。パリ市民あるいはフランス国民に対して世界中から追悼が寄せられるなか、SNSを中心に「中東では同じようなことが毎日のように起こっている」、「中東の現実にも目を向けよ」といった声が上がるようになった。その結果、前日のベイルートの事件は再び脚光を浴びることとなり、ベイルート市民やレバノン国民への祈りが捧げられるようになった。

 

ベイルートだけではない。同じようにテロに遭ったバグダードやダマスカスに暮らす人びとへの連帯や団結の声も見られた。パリの事件は、暴力の拡大が止まないこの残酷な現代世界において、普遍的な共感を呼び起こすきっかけとなったのかもしれない。

 

パリだけを特別視するのはフェアではない、ベイルートを忘れるな。こうしたメッセージは正しい。しかし、連帯や団結といった心情こそ発散すれども、実際にベイルートの現状に目を向けた人はどれほどいたのだろうか。そうしたメッセージに十分に応えたメディアがどれほどあったか。

 

本小論では、ベイルートという街で何が起きているのか、なぜ狙われたのか、少し詳しく論じてみたい。

 

 

「テロの街」のイメージ

 

ベイルートには、「テロの街」としてのイメージがつきまとう。米国の映画やテレビドラマ、たとえば「スパイゲーム」(2001)、「シリアナ」(2005)、「ミュンヘン」(2005)、最近では「ホームランド」(2012〜)などでも、ベイルートはテロリストが巣くう危険な街として描かれてきた(レバノンの観光大臣が「ホームランド」でのベイルートの描写に抗議するということもあった)。こうしたイメージが、ベイルートのテロ事件への無関心の原因の1つになっているかもしれない。テロが起きても、「やっぱり」「またか」というわけである。

 

ただし、こうしたイメージは無根拠なわけではない。実際にベイルートではテロが繰り返されてきた。レバノン内戦(1975〜90年)中には主に西洋人を狙った誘拐事件や爆弾テロが頻発し、内戦終結後も要人の暗殺がたびたび起こってきた。たとえば、2005年からの10年間で20件以上のテロ事件が発生しており、ラフィーク・ハリーリー元首相を筆頭に10人以上の政治家やジャーナリストが殺害されている。その他、ターゲットが明らかでない無差別な爆弾テロもたびたび発生している。

 

確かに、ベイルートは「テロの街」かもしれない。しかし、ここで強調しておきたいのは、イメージ先行の慣れと思い込みが、無関心だけではなく、思考停止をも引き起こすことがある、ということである。言うまでもなく、テロの原因も結果も決して一様ではない。

 

今回のテロ事件にも個別の背景がある。

 

 

ダーヒヤという場所

 

まず、事件が起こったのは、ベイルートのなかでも「ダーヒヤ」と通称される、南部の郊外に広がる面積約16平方キロメートルの地域であった。狙われたのは、このダーヒヤを構成する12の街区の1つ、ブルジュ・バラージュナ街区であり、ベイルート国際空港のすぐ北隣に位置する。

 

ダーヒヤはいわばスラム街であり、住民の大多数はシーア派のイスラーム教徒、そして、パレスチナ難民である。近年では、イラクやシリアからの難民も増えている。ダーヒヤの北端から市中心部までの距離は2キロ程度、廃材で建てられた家々が密集するパレスチナ難民キャンプから20分も歩けば、欧米高級ブランドのブティックが軒を連ねる市中心部のきらびやかな繁華街ダウンタウンに出る。そして、高層リゾートマンションが立ち並ぶ先には、美しい地中海の水平線が広がっている。ベイルートは、表と裏、明と暗、富と貧、新と旧といった大都市特有のグロテスクなコントラストに満ちた街である。

 

ベイルートは、20世紀半ばには金融業と観光業を二本柱とする独自のレッセフェール経済によって空前の繁栄を謳歌し、「中東のパリ」と称えられた(実際にレバノンはフランスの植民地の1つであった(1920〜43年))。しかし、1975年に始まった内戦によってベイルートは徹底的に破壊され、隣国のイスラエルやシリアによる軍事侵攻・占領を受けることでレバノンの国土も荒廃した。1990年に内戦が終息した後は、中東における金融・サービスの集積地としての地位を取り戻すべく、ダウンタウンを中心にめざましい復興を遂げてきた。

 

ダーヒヤは、このようなベイルートの輝かしい歴史に置き去りにされてきたような場所である。ダーヒヤはもともとアラビア語で「郊外」を意味する一般名詞であるが、レバノンではスティグマ化(烙印を押されること)された事実上の固有名詞となっている。ダーヒヤは、その外に住む者たちにとっては「シーア派」、「貧困」、「無法」、「低開発」などの言葉によってネガティブなイメージを想起させる場所である。

 

だが、今日のダーヒヤの特徴を最も表わしている言葉は「ヒズブッラー」であろう。ヒズブッラー(ヒズボラ)とは、レバノンのシーア派住民に巨大な支持基盤を持つイスラーム主義組織・政党のことである(注)。ダーヒヤは、現在、彼らの実効支配地域となっており、欧米のメディアでも「ヒズブッラーの牙城(stronghold)」と称されることが多い。

 

(注)ヒズブッラーについては、末近浩太「ヒズブッラーとは何か:抵抗と革命の30年」SYNODOS, 2014年2月14日を参照されたい。)

 

ダーヒヤに一歩踏み入れると、いたるところに掲げられているヒズブッラーの党旗や指導者ハサン・ナスルッラー書記長の写真が目に入ってくる。ここには、ヒズブッラーの本部があり、林立するアパート群には幹部たちの住処が点在している。路上では黒色の軍服を着たヒズブッラーの治安要員が人びとの往来に目を光らせる。ダーヒヤは「よそ者」が気軽に入れる場所ではない。

 

ヒズブッラーは、ベイルートの繁栄の陰で、低開発と行政の麻痺に苦しんできたダーヒヤの住民に対して過去30年以上にわたって様々な社会サービスを提供してきた。そのサービスは、医療、福祉、教育、社会開発、雇用対策、環境保護、治安維持、交通整理、戦災復興、報道・出版などありとあらゆる分野におよぶ。ヒズブッラーがしばしば「国家内国家」と呼ばれるゆえんである。ダーヒヤは、まさにその「国家」の中心地であった。(注)【次ページにつづく】

 

(注)ダーヒヤにおけるヒズブッラーの社会サービスの詳細については、末近浩太『イスラーム主義と中東政治 レバノン・ヒズブッラーの抵抗と革命』(名古屋大学出版会, 2013年)の第7章を参照されたい。

 

 

 

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