2016.03.09

使えない貨幣を使う――2008年、ジンバブエのハイパー・インフレ

早川真悠 文化人類学

国際 #等身大のアフリカ/最前線のアフリカ#ジンバブエ#ハイパー・インフレ

シリーズ「等身大のアフリカ/最前線のアフリカ」では、マスメディアが伝えてこなかったアフリカ、とくに等身大の日常生活や最前線の現地情報を気鋭の研究者、 熟練のフィールドワーカーがお伝えします。今月は「最前線のアフリカ」です。

1.ジンバブエのハイパー・インフレ

あんた、知ってる? 今は本当にモノが高いのよ。食器用洗剤750ミリリットルが、2兆ジンバブエ・ドル(以下、ZD)もするのよ。何でもかんでも「トリリオン(兆)」、「トリリオン(兆)」って、もう何も買えないわよ! (2008年7月18日、筆者友人の言葉)

南部アフリカの内陸部にあるジンバブエ共和国は、2007年から2009年のはじめにかけて、記録的なハイパー・インフレに見舞われた。もう7年以上も前の話になるが、当時このニュースは、アフリカの話題としては珍しく日本でも新聞やテレビなどでさかんに伝えられた。インターネット上にはインフレ率やモノの値段、紙幣に並ぶゼロの数、歴代紙幣の種類など、さまざまな情報が飛び交った。今でも「ジンバブエ、ハイパー・インフレ」とネットで検索すれば、当時のようすを伝える画像に簡単にアクセスできる。ブロックのような札束をいくつも抱えてどこかへ急ぐ人。1,000億ZD札がタマゴ3個と交換されるようす。ゼロが14個も並ぶ100兆ZD札……。

お金がまるで「紙くず」のよう――。そんな光景を目にすれば、大半の人が驚愕し、騒ぎ立てるのも当然かもしれない。じっさい、わたしが現地で暮らしていたときも、理解しがたい状況や不可解な出来事に、たびたび言葉を失った。それは外国人であるわたしだけでなく、周囲にいた現地の人びとも同様で、彼らも未曾有の経済状況に多かれ少なかれ当惑しながら暮らしていた。とはいえ、現地の人びとは、そんな状況をただひたすら呆然と他人事のように眺めているわけにはいかない。彼らにとってその状況は自分が暮らす日常の一部であり、カメラのシャッターを押すように、ほんの一瞬のこととして切り取れるものではないのだ。

当時のジンバブエのようすを一度でもテレビや写真で目にしたことのある人は、もう一度、思い返してみてほしい。もしそのときに、紙幣や札束、ゼロの数などに焦点を当てていたのなら、視線を少しずらして、その背後や傍らにいる(であろう)人びとに意識を向けてみてほしい。彼らの視界や手の中にあるお金は、はたして本当に「紙くず(のようなもの)」なのだろうか。

本稿の目的は、ジンバブエのハイパー・インフレの状況下で、首都ハラレに暮らす人びとがどんな経験をしていたのかを具体的に伝えることにある。とくに、いくつものゼロが並び、数か月あるいは数週間もすればほとんど価値がなくなってしまう現地通貨ZDを、彼らはどのように見つめ、使っていたのだろうか。ジンバブエやアフリカ現代社会の問題を、現地の人びとの語りや視点をとおして理解していきたい。

2.背景と概況

1980年にイギリスから独立したジンバブエは、当初アフリカのなかでは比較的良好な経済条件に恵まれていた。独立以前に白人政権下で整備された経済インフラを基盤に、農業、鉱業、製造業をバランスよく発達させ、課題だった黒人の社会福祉も順調に向上した。巨大な石造建造物グレート・ジンバブエ遺跡や世界三大瀑布のひとつであるヴィクトリアの滝などが、貴重な観光資源として国の外貨収入を支えた。また首都ハラレは、80年代半ばには、「サンシャイン・シティ」と称され、清潔で美しい街並みが評判の都市だった。

ハラレ東部、コピの丘から眺める町の中心部
ハラレ東部、コピの丘から眺める町の中心部

 

しかし、80年代末から国の財政は急速に傾きはじめた。90年代前半にはIMFと世界銀行の融資を受け、構造調整計画による財政再建が図られた。

さらに2000年前後からは、ジンバブエは深刻な政治・経済危機に陥った。その発端や経緯は、研究者たちのあいだでも大きく見解が分かれるが(Jacobs and Mundy 2009)、ここでは2000年に実施された急進的土地改革を中心に、ごく簡単に説明する(cf. 吉國 2008)。

ジンバブエの土地問題は、独立時から棚上げにされてきた課題だった。国内の肥沃な土地の大半を人口1%に満たない白人が所有するという人種間で不平等な土地構造は、独立以来ほとんど変わることなく温存されてきた。2000年から2002年にかけて、ジンバブエ政府は、白人が所有する大農場の土地を強制的に接収し、黒人小農らに分配した。これを受け、元宗主国イギリスはEU諸国やアメリカと連帯し、この土地改革が人権や所有権を無視した非民主的政策だとして批判した。

その後イギリス連邦は、2002年の大統領選挙における不正行為を理由に、ジンバブエの連邦参加資格を1年間停止した。また、イギリスその他の欧米諸国は、ジンバブエに対し経済制裁を課した。いっぽう、ジンバブエ政府は、欧米諸国のこうした対応が植民地主義、帝国主義であると批判し、イギリス連邦から脱退するなどして対立姿勢を貫いた。国内では政府の方針をめぐって与野党の対立が深まり、政治暴力や弾圧も横行した。

2000年頃から始まった「危機」の影響は、大局的な政治・経済問題の範囲を超えて人びとの生活にまで及んだ。公務員はストライキをし、医師などの専門家らが国外へ移住する頭脳流出がすすんだ。与野党の対立が激化し、一般市民は選挙のたびに政治暴力に巻き込まれることを恐れた。断水や停電が頻繁におき、教育や医療など社会福祉の質も低下した。

なかでも極度のインフレは、当時の経済低迷と混乱を大きく特徴づけていた。2006年に公式インフレ率は年間1,000%を超え、2007年3月には月率50%を超えるハイパー・インフレ(cf. Cagan 1956)に突入した。2008年7月には月率2,600%、年率2億3,100万%に達した。その後、中央統計局は公式インフレ率の発表をやめてしまうが、物価上昇はさらに加速した。2008年12月には、パンを買うための行列に並んでいるあいだに価格が2倍になる、商品価格をつけ替えるため店のシャッターが一日に三度閉められるなど、極度の混乱があった。

ハイパー・インフレは、2007年3月から2009年1月までの1年11か月間つづいた(公式インフレ率非公表の期間を含む)。2009年1月30日からは、米ドルや南アフリカランドなどの外国通貨を法定通貨に加える「複数通貨制(multiple-currency system)」が施行され、外貨を用いた取引が国内全域で合法化された。複数の法定通貨のなかには、現地通貨ZDも含まれてはいたが、事実上は使用停止になり、ハイパー・インフレは終息した。

2006年8月のデノミネーションを告示するポスター。当時もかなりの高インフレで、旧通貨単位が1,000分の1に切り下げられたが、まだハイパー・インフレとはいえない段階だった。デノミネーションはその後、2008年8月と2009年2月にもおこなわれ、旧通貨単位がそれぞれ100億分の1、1兆分の1に切り下げられた。
2006年8月のデノミネーションを告示するポスター。当時もかなりの高インフレで、旧通貨単位が1,000分の1に切り下げられたが、まだハイパー・インフレとはいえない段階だった。デノミネーションはその後、2008年8月と2009年2月にもおこなわれ、旧通貨単位がそれぞれ100億分の1、1兆分の1に切り下げられた。


 

3.使えない貨幣?

インフレ率などの数字を示すだけでは、ハイパー・インフレの状況を具体的に伝えるのは難しい。ここからは、じっさいに当時ハラレでハイパー・インフレを経験した、現地の人びとの語りを紹介していきたい。

ある日、わたしが現地の国立大学図書館で調べものをしていると、カウンターにいた司書の男性が、とうとうと語りはじめた。

トウモロコシ粉10キロが3兆ZD(注1)。それを、夕方6時に見つける。家に帰って、次の日に3兆ZDをもって店へ行く。そしたら、値段が4兆ZDになっている。それでまた、足りなかった1兆ZDを用意して店へ行くと、今度は5兆ZDになっている。もうこんなの、僕が思うのは、物々交換したほうがいいよ。貨幣システムが機能しないんだから。(2008年8月17日)

(注1)2008年8月にデノミネーションがおこなわれたため(写真2キャプション参照)、語りの中のZD建て価格は正確には100億分の1になるが、ここでは語られたとおり旧通貨単位で表記した。

司書のこの説明はやや戯画化されてはいるが、彼の口にする不満は、ハイパー・インフレの本質的な問題を表している。現地通貨ZDは価値が急速に下落するため、この通貨で取引をすると、同じ商品の価格が、明日、明後日、明々後日、いつ上昇してもおかしくないのだ。

こんな通貨を使うのはもう止めて、物々交換にした方がいい。司書のぼやきは、経済学者の岩井克人がいう「貨幣からの遁走」そのものだ(岩井 1998:204)。司書の話をとなりで聞きながら、わたしも同じようなことを考えていた。こんな不便な通貨は、きっと人びとから受け取りを拒否され、物々交換とまでは言わずとも、米ドルのような価値の安定した外貨にすぐ取って代わられるのだろう。

しかし、この司書の語りから逆にわかるのは、2008年8月時点の月間インフレ率2,600%を超える状況下でも、ハラレの人びとがなおZDを使いつづけていたということだ。さらには、結局その後も約5か月間、インフレが加速し混乱が増すなかでさえも、ZDはハラレの町を流通しつづけたのだった。

「貨幣からの遁走」とは矛盾するようだが、この一見不可解な状況も、ハイパー・インフレの特徴だ。価値が急速に下落する不便で非合理的な通貨を受け取る人が必ずどこかにいる。もし、この通貨を受け取る人がまったくいなくなれば、その時点でハイパー・インフレは終わっていることになるだろう。

経済学者のジョヴァンニーニとトゥルテルボームは、この問題を「超インフレ通貨の非消滅性」と呼んでいる。つまり、ハイパー・インフレ下では、(1)価値が急落する現地通貨とともに、自然発生的に外貨(通常は米ドル)が流通するようになる。(2)しかし、外貨が流通しているにもかかわらず、現地通貨は完全には消滅しない(Giovannini and Turtelboom 1994: 409;酒井 1995:247)。

4.使われつづける現地通貨

では、ジンバブエのハラレの人びとは、なぜ、どのように、価値の急落する現地通貨ZDを使っていたのだろうか。ハイパー・インフレの約2年のあいだ、ハラレにおける通貨やその価値をめぐる状況は非常に複雑で不安定だったが、ここでは2008年6月から8月ごろ、人びとが現地通貨ZDの減価にどのように対応していたのかを見ていきたい。

1)お金とモノを素早く回転させる

生活は心配ない。だってオレは(路上で)タマゴを売ってるから。(2008年6月13日)

家の近所でタマゴを売る露天商は、わたしの心配をよそに得意げにこうに語った。当時ハラレの町中や住宅地の通りには、野菜や果物、駄菓子、携帯電話のプリペイドカードなど、個々の単価が1米ドルにも満たないような細々とした商品を売る、零細の露天商たちが増えていた。前述した司書のような給料生活者たちが困窮し途方に暮れていたのに対し、道端で見かける露天商たちは、たしかに比較的平然としているように見えた。

零細の露天商が売る商品の例(ビスケット、スナック菓子、アメ、たばこ)
零細の露天商が売る商品の例(ビスケット、スナック菓子、アメ、たばこ)

 

彼らの商法はこちらが驚くほどシンプルだった。市場(いちば)や卸売店へ行き、現地通貨ZDで商品を仕入れる。その商品に利益を上乗せした価格をZD建てでつけ、町中や家の近所で売る。そして、商品が売れてZDを入手すると、その日に必要な分はわきに置き、それ以外はなるべく早くあらたな在庫の仕入れに使う。こうして露天商たちは、ただひたすらZDと商品を素早く回転させながら、日々こまめに利益を上げ、商売を維持していた(注2)。

(注2)本稿では説明を省略したが、2008年半ば、露天商たちが比較的容易に商売を維持できていた理由として、当時の深刻な現金不足の影響も挙げられる。

経済人類学者のカール・ポランニーは、経済が近代化される以前の社会では、限定的な機能(交換手段、支払い手段、貯蔵手段、価値尺度)をもった複数の貨幣が併用されていたとしている(ポランニー 1980)。この議論に従えば、露天商たちはZDを交換・支払い手段、商品を貯蔵手段として使い、ZDを限定目的貨幣化して商売を合理化していたのだ。

ただし、この商法が有効だったのは、2008年11月ごろまでだった。その後は、さらなるインフレの激化で混乱が増し、同年12月には多くの露天商が商売に失敗してしまった。

2)減価を気にしない

ただ、このように人びとの合理的な反応を強調すると、彼らがつねに減価を気にしながらZDを所持し、そわそわと落ち着きなく生活しているように思えるかもしれない。しかし、わたしが現地で受けた印象はむしろ反対だった。

ZDの減価を意識しすぎると、やりとりの調子がくるい、スムーズにいかなくなる。「生じてしまった減価」、あるいは「減価が生じるかもしれないというリスク」を度外視することは、減価に対するもうひとつの重要な対応だった。

ある日、夕食用の青菜を買いに、家の近所の露天商のところへ行ったときのことだ。青菜は一束5億ZDだと告げられた。

「え? 5億ZD?」

「そうだよ」

「いつから?」

「んー、土曜日から」

「そんな大金、持って来なかったわ」

「ああ、いいよ。お金は明日にでも持っておいで」

「いやいや、取ってくるよ」

「いいよ、明日で」

「ほんとに? ありがとう」(2008年6月16日、月曜日)

そんなやりとりをして、わたしは青菜を露天商から「つけ」で買い、家へ帰った。しかし、家に帰ると、返さなくてはいけないお金のことが気になって仕方がない。もし明日、ZDが大幅に下落でもしたら申し訳ない。幸い、お金は家にあったので、わたしはその日のうちにもう一度、お金を持って露天商のもとを訪ねた。

ところが、わたしがお金を渡すと、露天商は次のように言い放った。

明日でいいって言ってるのに、なんでお金を持ってくるんだ。え?

わたしが急いでお金を返しに来たことが、どうやら彼には心外だったようだ。おそらく、わたしは、彼の厚意を素直に受け入れ、言われたとおり次の日にお金を返せばよかったのだ。

手持ちのお金がないときやお金に困っているようなとき、近くに居合わせた友人や知人に小額のZDを貸してもらうことは、ハイパー・インフレ当時もよくあることだった。しかし、そのときに、貸し手と借り手のあいだでZDの減価が問題になることはほとんどない。借り手はZDの減価について気にするようすもなく、しばらくしてからただ「額面通り」にお金を返す。そして貸し手も、「減価分を調整しよう」などと言うこともなく、「額面通り」に返されたお金をただ受け取るだけなのだ。

5.外貨の使いづらさ

価値が急落するにもかかわらず、ハイパー・インフレ下でも現地通貨ZDが使われていたことはわかった。しかし、それではなぜ、人びとは価値の安定した外貨を使わないのだろうか。

たしかに、米ドルなどの外貨はハラレの人びとの生活に確実に浸透しつつあった。当時ジンバブエの法定通貨はZDのみで、他国通貨での取引は基本的には違法だった。しかし、2008年には、商品価格の急変動や現金不足が影響し、生活必需品の闇市などでは外貨が少しずつ、以前よりも堂々と使われはじめていた。さらに、2008年10月からは、大手スーパーマーケットや一部の商店で、外貨による商品販売が正式に認可された。

ただ、それでも現地通貨ZDが外貨に全面的に取って代わられることはなかった。ひとつの問題は、外貨の供給が絶対的に不足していたことだ。とくに1米ドル札などの小額紙幣や10米セント、50米セント(相当)の硬貨が不足し、外貨で支払われてもお釣りを渡せないという不都合があった。

ほかにも問題がある。それは、現地の人にとって外貨が日常的に用いるような通貨ではなく、「特別な」通貨だったということだ。

ハラレにある国立病院を訪ねたときのことだ。あるスタッフが、南アフリカで買ってきたジュースを売っていた。価格は2リットルが2米ドルだった。その場に居合わせたわたしは、その価格をスーパーマーケットのものと比較しようと、頭の中で2米ドルをZDに換算しようとした。そのとき、となりにいたわたしの友人が怒鳴った。

なんで、ジュースを外貨で買わなきゃいけないのよ! (2008年6月)

ここでわたしの友人は、「2米ドル」という価格が高いか安いかを問題にしていない。問題は「外貨で支払うこと」そのものだ。ジュースという日常的な消費財を、外貨という非日常的なものであるはずの通貨で購入しないといけないという状況が、彼女には許せなかったのだ。

当時、外貨の売買は厳しく規制され、銀行などのフォーマルな金融機関で個人が外貨を購入することはほぼ不可能だった。通常、人びとが外貨を入手するときは闇両替商を探してこっそり買い求め、所持するときは警察に見つからぬよう慎重にポケットや靴下の中などに隠した。

そして、彼らが外貨を使うのは、隣国の南アフリカやボツワナなどへ買い出しに行くときなどの特別な機会に限られていた。現地の人にとって外貨を使うことは、それ自体があまり馴染みのないことで、とくに国内での日常的な買物に外貨を使うということは、彼らの一般的な感覚から言えば、少し逸脱した行為なのだ。

もうひとつ例を挙げよう。外貨の流入をテーマにした、当時の風刺画だ(The Standard, 6 July 2008)。

(出典:The Standard, 6 July 2008)
(出典:The Standard, 6 July 2008)

 

風刺画のタイトルは「Signs of the Time(時代の兆し)」で、露天商が道端で駄菓子や果物などを「2ランド」、「3ランド」と南アフリカの通貨で売るようすが描かれている。インフレの加速とともに外貨は容赦なく日常の領域に流入しつつある。しかし、だからといって、何でも外貨で取引すればよい、と簡単に割り切れるものではない。当時はまだ「特別な」存在の外貨が、露天商の売る細々とした商品の売り買いに使われるのは、なんとなく不釣り合いに見えるのだ。風刺画には、人びとにとって受け入れがたいそんな状況が現実になる日も近いという皮肉が込められている。

なお、この風刺画が発表されてから6か月後の2009年1月には、露天商たちもZDを使うことをやめ自主的に外貨で商品を売りはじめた。この風刺画に描かれた光景は、もはや「ふつうの現実」になってしまい、今となってはこの絵の何が皮肉でおかしいのかがよく分からなくなっている。

6.おわりに

本稿では、ジンバブエのハイパー・インフレについて、ハラレに住む人びとの経験に焦点を当て、具体的に理解することを目指した。彼らの視点や語りをとおして見えるお金(現地通貨ZD)は、「紙くず(のようなもの)」だっただろうか。

内容を簡単にまとめておこう。現地通貨ZDにはインフレによる価値の急落という、減価の問題があった。ところが、年率2億%を超える状況でも、人びとはZDを使いつづけていた。そのひとつの方法は、ZDを交換・支払い手段(のみ)として合理的に使うことだった。しかし、だからといって、彼らがつねにZDの減価を意識しリスクを回避するような態度をとっていたわけではない。減価を過度に気にすることは、むしろ日常の中のスムーズなやりとりを阻害する。減価を度外視し、ZDの非合理さを受け入れることも、またひとつの重要な対処法だった。

いっぽう、米ドルなどの外貨は、わたしたちが想像するほど当然のようには、人びとのあいだに浸透しなかった。それには、法的制約や小額通貨の供給不足という問題に加え、外貨が人びとにとってやや特別な存在で、日常の取引には使われにくいという理由もあった。

ジンバブエの人びとのこのようなお金の使い方は、日本に住むわたしたちが日ごろしていることと、それほどかけ離れたものだろうか。普段わたしたちがお金をどう使っているか、あらためて考えてみてほしい。食事代を割り勘するときに1円や10円単位まで厳密に計算しないおおらかさ。財布を忘れてバスに乗ったとき、運転手にただ「次回、払ってください」と告げられることの有難さ。100円程度のガムを買うために1万円札を支払うときに感じる少しの後ろめたさ。お年玉やご祝儀のために、わざわざ新札を用意するときの気遣いや手間。

ハイパー・インフレがジンバブエの人びとにとって、それほど深刻な問題ではなかったと言いたいのではない。彼らは間違いなく、多くの損害を被り、厳しい生活を余儀なくされ、言葉にできないほどの理不尽な経験をした。

それでも、あえて本稿が注目したのは、「危機」の渦中にいた人びとが、何に価値をおき、拠りどころにしていたのかということだ。もちろん、彼らは、危機感やリスクへの意識を高め、創意工夫して、損失をなるべく回避した。しかし、それと同時に彼らが大切にしていたことは、自分たちが日ごろから持ち合わせるごく平凡な良識から大きく逸脱することなく、淡々と生活をつづけていくことだったのではないか。そしてそれは、遠い異国の珍しい制度や慣習というわけではなく、日本に住むわたしたちも普段、何気なくしているような、ごくささやかな日常のルールを忘れずにいることだったのではないだろうか。

さいごに、ハイパー・インフレ終息後から現在までのジンバブエの通貨事情について少しだけ触れておきたい。先にも書いたように、2009年1月30日から「複数通貨制」が施行され、現地通貨ZDはもう使われていない。現在は、露天商の取引や公務員の給料の支払いなど、あらゆる場面で外貨が法定通貨として使われている。

流通する外貨の種類は地域によって偏りがあり、ハラレ周辺では米ドル、その他の都市周辺では南アフリカのランド、ボツワナのプラなどが多く使われている。複数通貨制導入後は硬貨不足が問題で、スーパーマーケットではアメ玉やマッチ、塩の小袋などがお釣り代わりに使われた。また乗り合いタクシーでは、古い500億ZD札を60枚束ねた「3兆ZD」が1回分の運賃50米セントの代わりとして、しばらくのあいだ使われていた。

2014年12月、中央銀行は外貨の硬貨供給不足を解消するため、「ボンド・コイン(bond coin)」と呼ばれる硬貨を発行した(The Herald, 8 December 2014)。ボンド・コインには1セント、10セント、20セント、25セント、50セントの種類があり、米ドルとの交換レートが固定されている。当初、このコインは人びとから十分な信用を得られず、なかなか流通しなかった。しかし、2015年の南アフリカランドの価値下落などが影響し(Chronicle, 23 November 2015)、今では意外にも外貨の硬貨よりもこのボンド・コインのほうが支持を得ているそうである。

2009年3月、複数通貨制導入後に訪れた、ハラレ中心部のスーパーマーケット。パン1斤は80米セント。ただし、当時は外貨の硬貨が不足していたため、お釣りはアメ玉やマッチなどで返された。
2009年3月、複数通貨制導入後に訪れた、ハラレ中心部のスーパーマーケット。パン1斤は80米セント。ただし、当時は外貨の硬貨が不足していたため、お釣りはアメ玉やマッチなどで返された。

 

付記)本稿の内容は、拙著『ハイパー・インフレの人類学――ジンバブエ「危機」下の多元的貨幣経済』(2015年、人文書院)での議論の一部を要約し、適宜加筆・修正したものである。

参考文献

・岩井克人(1998)『貨幣論』(ちくま学芸文庫)筑摩書房。

・酒井良清(1995)「なぜロシア経済においてルーブルが消滅しないか?――超インフレ通貨の非消滅性」『三田学会誌』88(2): 246-262。

・ポランニー、カール(1980)『人間の経済I 市場交換の虚構性』(岩波現代選書)玉野井芳郎・栗本信一郎(訳)、岩波書店。

・吉國恒雄(2008)『燃えるジンバブウェ――南部アフリカにおける「コロニアル」・「ポストコロニアル」経験』晃洋書房。

・Cagan, P. (1956) ‘The monetary dynamics of hyperinflation’, in M. Friedman (ed.) Studies in the Quantity Theory of Money, Chicago: The University of Chicago Press, pp. 25-117.

・Giovannini, A., and Turtelboom, B. (1994) ‘Currency substitution’, in F. van der Ploeg (ed.) The Handbook of International Macroeconomics, Oxford: Blackwell, pp. 390-436.

・Jacobs, S., and Mundy, J. (eds) (2009) Reflections on Mahmood Mamdani’s ‘Lessons of Zimbabwe’, ACAS Bulletins 82. London: Association of Concerned Africa Scholars.

プロフィール

早川真悠文化人類学

久米田看護専門学校非常勤講師。人間科学博士(大阪大学)。専門は文化人類学。2007年2月から2009年3月までジンバブエの首都ハラレに滞在し、長期現地調査をおこなった。おもな著作に『ハイパー・インフレの人類学――ジンバブエ「危機」下の多元的貨幣経済』(2015年、人文書院)がある。

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